第86話 動かぬ馬車と動き出す人力車
ネオジュークで馬車を手配して、乗り込む。
向かい合う座席がついた馬車。定員四人の安い馬車だったので、結構狭い。まずはレヴィアが乗り、進行方向から後方側のど真ん中に陣取った。続いてフリースが前方側の席に向かい、奥に詰めて座った。
そこで俺は、比較的広いスペースがあるフリースの隣に座った……のだが、目の前にいるレヴィアが、俺とフリースを交互に見て、ものすごく暗黒な空気を出してきた。
「なんか、怒ってないか、レヴィア」
「別に」
そう言う人に限って、ものすごく怒ってると相場が決まっているし、そっぽを向く態度が明らかに不満そう。
「俺がこっちに座ったからか?」
「ちがいますよ」
投げやりに言って、レヴィアは俺をにらみつけた。
レヴィアの背後にビーストな気配を感じた。これは相当怒ってる。
困った。いまさらレヴィアの隣に行ったところで、機嫌が直るとも思えない。
御者、つまり馬車の運転手のおじさんが、「それでは出発します」と言って、鞭を入れる音がした。
ところが、静まり返った。一向に出発しない。
「…………」
広がる無言の世界。とっても気まずい。
そこで俺は思いついた。出発すると言ったのに出発しないというのは、何か不測の事態が発生したのかもしれず、これは一度馬車を降りて見に行く口実になる。
今がチャンスとばかりに降りて様子を見に行こう。
「ちょっと、見てくるぞ」
俺は運転手のおじさんに「出発するの待ってください」と声をかけた上で、飛び降り、馬の様子をうかがった。そして、首をかしげている御者に話しかける。
「何かありました? なかなか動きませんけど」
「いやぁ、それがねえ、おかしいんだよ。馬が何かに怯えてしまっていて……変だなぁ、今までこんな事はなかったんだが」
見たところ、何かが偽装されているということはなかった。俺にも原因は不明である。
俺は「気にしないでください、もう少し待ちますので」と言い残し、客席の平和を祈りながら戻った。
ステップを昇って扉を開くと、相変わらずの冷たさ漂う狭い部屋だったのだが、さっきと違っていることが一つ。
なんと、前方座席の奥に詰めて座っていたはずのフリースが、ど真ん中に座ってレヴィアと向き合っていたのだ。
悪化してないか、これ。
この状況、俺はどこに座るべきなのだろう。狭い馬車なので、詰めてもらわないと誰の隣にも座れないんだが。
というか、そもそも、なんでこの二人は無言で互いの視線をぶつけ合っているのだろうか。
「あの、ちょっと……座りたいんだけども」
レヴィアは無言を返した。フリースも何も言わなかったが、空中に氷で文字を書いた。
――どっちに?
これは、俺に読める文字だから、レヴィアには読めないはず。
俺は、これを解決する手段を瞬時に思いつく。
フリースが求めているのは、どちらの隣に座るのかという問いに対する答えだろう。素直に考えたらレヴィアの隣に座りたい。さっきはレヴィアが真ん中に座ってしまったから、広い方がいいのかなと思って気を遣ったんだ。
かといって、さっきはフリースの隣に座ったのだから、いまさらレヴィアの隣に座り直すのもフリースを避けてるみたいで抵抗がある。
こんな風に、世の中はすぐに二択を迫ってくる。けれども、人間はそう単純ではない。
ここで俺は、三つ目の選択肢を与えて問題を解決してみせる!
「なあフリース。レヴィア側に移ってくれないか?」
――なんで?
名案だと思ったのだが、だめっぽい。
「なんでって……俺が隣に座ると狭いだろう? 可愛いちっちゃな女の子二人なら、並んで座っても狭くない。な? いいだろ?」
しかしフリースは、ハイともイイエとも言わなかった。文字を返すこともない。冷たく閉ざされた青の静寂。安定の沈黙。安定の無視である。
こうなれば次の策だ。動かざること山のごときフリースを動かすのが難しいとなれば、白い蝶々のようなレヴィアに動いてもらうしかない。
「レヴィア」呼びかけながら、振り返る。「実はレヴィアのいるところに一人で座りたいんだ、移動してくれないか?」
「なんでです?」
「なんでって……さっきも言ったけどさ、俺が隣に座ると狭いだろう? 女の子二人であっちに……」
「それだと、私が狭くなりますけど」
「それはそうなんだけど……じゃあ、フリースの隣に座ろうかな……」
レヴィアは無言を返してきた。白い服とは裏腹に、どす黒い沈黙である。
しかも、フリースが、
――ことわる。
という文字を返してきて、俺はもうどうすればいいんだか。
「こうなれば、力づくで解決する!」
戦闘力でフリースには絶対に勝てない。だから俺はレヴィアを捕まえて、無理矢理フリースの隣に座らせてやろう。
そう思って手を伸ばしたのだが、帽子をガードしたレヴィアは、
「ヤ!」
ものすごく嫌がりながら叫んだ。
刹那、馬のいななき声が響いた。
馬車が急発進したかと思ったら、振動、衝撃、視界がぐるりとめぐり、咄嗟に俺はレヴィアを抱きしめようとした。
ところが轟音を上げながら馬車が横転して中身がかき回され、引きずられ、何かをする暇もなく、止まる頃には、馬車の中には俺しか残っていなかったのだった。
痛みに耐えながら外に出たところ、レヴィアもフリースも無事に脱出していて、二人は御者から土下座されていた。
「申し訳ございませんお客様! 馬が! 馬が突然暴れ出しまして! いつもはこんなこと、決してないのですが!」
女性陣二人が困った顔をしていたので、俺が身体についた土ぼこりを払いながら、御者の前に割り込むとしよう。
「いや、気にしないでください」
そう言った俺は、きっとひきつった笑顔をしていたと思う。
「代わりの馬車を用意いたしますので!」
そういうことならと頷きかけたが、フリースが俺の脇腹を叩き、首を振るジェスチャー。断れというサインを送ってきた。
わけがわからなかったが、フリースの表情が真剣だったので、言うとおりにする。
「いや御者さん、もういいんだ。馬車は使わない。別の方法で目指すから」
「本当に本当に、申し訳ございません!」
偶然とはいえ馬次第で仕事にならないとか、気の毒だなと思った。
★
――あれ乗りたい。
フリースが指さした先にあったのは、人力車であった。
看板に踊る文字は、『転生者・鳥ックの音速人力車』である。
音速とは、大きく出たものである。ものすごく激しく揺れそうだ。フリースはジェットコースターみたいなのが好きなのかな。
いずれにしても、
「音速は、なんかやばそうだから乗りたくない」
俺がそう言うと、フリースは、
――こわいの?
――いくじがない男。
――よわむし。
などと暴言をくれた。さっきから何かと挑発してくるけど、俺を怒らせたいのだろうか。
まったくふざけんなって感じだぜ。怒っても絶対フリースには勝てないんだから、怒るわけないだろうに。
しかし、そうあからさまに不戦敗を認めるというのもプライドが許さないし、レヴィアの前で弱腰すぎる姿勢は見せられないというのもある。
そこで俺は言うのだ。
「俺は耐えられるかもしれないけどな、レヴィアが不快に思うような乗り物はダメだ。レヴィアには快適な旅を楽しんでもらいたいんだ」
ところがレヴィアは平然と、
「私はいいですよ。音速っていっても、お父さんは音速の五倍くらいで速く走れますし、子供の頃、よく肩車で走ってもらってたので、むしろ向かい風をなつかしみたいです」
それはちょっと言い過ぎなんじゃないかな。どんなお父さんだよ。
「レヴィア、落ち着いてよく考えるんだ。音速だぞ、音速。そんなの無理に決まってるだろう。子供の頃のことだから大袈裟に盛られた記憶なんじゃないのか? 思い出補正ってやつでさ」
「何言ってるんです? 音速くらい、みんな出せますけど?」
「いやまさかそんな」
少なくとも俺の父親はそんなスピード出せなかった。車の運転でも法定速度を愚直に守る人間だった。
「いいですか、ラックさん。ふつうのよりも音速のほうが速いんだったら、そこの青い服のヒトの用事もすぐに終わりますよね」
「そりゃそうだけども……」
というわけで、全く気が進まないし、自分の思うようにいかないのが気に入らないけど、その音速人力車とやらを手配する流れになってしまった
俺は看板の下に座っている灰色の服着た若い男を見つけた。人力車を引けるくらいの屈強そうな体つきをしていたので、少々びびりながら声を掛ける。
「あ、あの……」
「お? まさか、お客様ですか?」
「ええ、音速人力車というのを頼むとしたら、料金はいくらくらいになるんでしょう?」
「あ、予約ですね。では希望する日時をお願いします」
見た目よりも優しそうな男であった。無理に敬語を使う必要もないだろう。この世界でこういうのを手配する時、過剰におとなしくしていると、ナメられて、ぼったくられてしまうからな。
「今すぐっていうのは無理ですか?」
「え、今……ですか? 当店は基本予約制ですし、音速人力車を出すには鳥ックさんがいないと……」
「人力車、出せないんですか? 三人乗れるやつなら、遅くても何でもいいんだが」
「いえね、鳥ックさんは今、祭りの準備に忙しくて、ネオジュークにはいないんですよ。だから、普通の人力車しか出せないんです。音速の風を求めて来られた人には申し訳ないんですがね」
「いや、音速じゃなくていい。普通のでいいんだ。三人乗れるなら」
「そうは言っても、スピードだったら馬車の方が速いですし……いや行けと言われれば行きますよ? 行きますけどね?」
どうも人力車を引っ張り出したくない様子だった。この感じだと、事情があるというよりは、単に面倒くさいし疲れるからだろう。だったら運んでもらいたいところだ。
「すまないな。俺の仲間が、どうしても人力車に乗りたいと言ってるんだ。たぶん、ゆっくり景色でも眺めながら行きたいんだろう。……これで頼めないか?」
馬車に払うのと同じだけの銅貨を布に包んで渡した。
思ったより入っていたのだろうか、中身を確認した男は意外そうな顔をした後、俺の後ろで待っていた二人の女の子に目を向ける。
「あの輝く服と帽子は……。まさかシエリー様がお戻りに……」
誰のことだそれは。レヴィアに視線を釘付けにしているから、もしかしたら白い服の前の持ち主のことかもしれない。
「たぶん、人違いだと思うぞ」と俺。
「あぁ、そう……そうですよね。それで、どちらまで行かれるんです?」
「とりあえずネオカナノまで」
「わかりました。それでは、三人乗りのものを用意しますが、かなり遅いので覚悟してくださいね」
なんとか人力車を確保できた。フリースは音速じゃないことに難色を示したが、何とか説得できたし、これで二人の足を疲れさせずに済むし、何よりも俺が楽をできそうで、本当によかったと思う。