第50話 ラピッドラビット
俺は、ふと重大なことに気付いてしまった。
アオイさんと別れた後、サウスサガヤの町を出たばかりのところだった。再び草原と石畳の風景に再会した時に、はっと気づいたんだ。
「金が、ない!」
反逆者扱いされて自宅を連れ出されたため自分の財産は持って来ていない。ベスさんに裏口から逃がしてもらった時に借りたお金と、アオイさんに薬を買ってくるようにと言われて借りたお金は、すべて『スパイラルホーン』とかいう粉薬アイテムに化けた。
粉薬は、いくらかレヴィの口に入ったけれど、そんなに多くは減っていない。まだ小瓶にたっぷり残っている。
俺が持っている財産はそれだけ。
他に持っている余剰アイテムは全くない。そんでもって、俺が身に着けている服は、高く売れるような代物ではない。買ったばかりの良い服は、ほとんど借金のカタに差し押さえられてしまったからな。
レヴィアの服も、上着のデザインはふわふわした素材であるけれども、くすんだ色であり、基本的には非常に質素であると言わざるを得ないし、そもそも仲間の服を売り払って旅の資金をつくるなんてカッコ悪いにもほどがある。
要するに、金がない。
本当にない。
ジャンプしても金属音はならないし、逆立ちしても落ちてこない。
俺は転生者だから、スキルさえ使わなければ腹は減らないし、飢えて倒れることもない。けれどもレヴィアは違うはずだ。
腹も減るし眠くもなるだろう。もしも、このまま金のないままでいたら、レヴィアにサヨナラされてしまうに違いない。
こいつは由々しき事態である。
草原の真ん中にある石畳で立ち止まり、俺はレヴィアに声をかける。
「ちょっと寄っていっていいか?」
彼女は首を傾げた。
「どこにですか?」
「どうしてもウサギを狩ってみたくなってな」
ラピッドラビット。
この周辺には、祭りが近くなると逃げ足が速くなるというウサギ型モンスターが大量に湧く。こいつを捕まえて新鮮なうちに売り払おうという算段なのだ。
さっき、このウサギと戦おうとしたら、レヴィアに「見つかっちゃうでしょ!」と怒られたから、また怒られやしないかって不安だったけど、先に進むためには、どうしても金がいる。このままじゃ、ネオジュークにたどり着く前にレヴィアが倒れてしまう。
どうか理解してほしい。レヴィアのためなんだ。ネオジュークを目指すためには、寄り道も必要だ。
拒否されると思った。怒られると思った。覚悟していた。
だけど、意外にもレヴィアは、「いいですよ」と快諾してきた。ものすごく上機嫌である。
「ここなら、もう見つからないでしょうし、男の人って、すぐお腹すくんですよね。だから、どうぞ狩ってきてください。私は遠くで見てますから」
レヴィアはそう言って、質素なスカートが汚れてしまうことなど気にする素振りもなく、草原に座り込んだ。
いざウサギ狩りが始まる。
ウサギども、残念だったな。俺はウサギを狩るのにも全力を出す男なんだよ。おとなしくレヴィアの腹におさまるがいい。
てなわけで、ウサギの群れを発見。草原の緑に白いのが群れているからよく目立っていた。ダッシュで近寄ると、ウサギたちの赤い目が一斉にこちらに向いた。
うっかりテンションが上がってダッシュで近づいちゃったけど、実は、この素早いウサギを捕まえるセオリーは、見つからないように接近して一瞬で捕らえることであるという。
だから堂々と正面から捕まえに行くなんて、愚か者のすることだ。
なのに、なぜ正面から向かっていったのか。実を言うと、ちょっと自信があったんだ。どれだけ素早いウサギといっても、近所でモブ狩りを続けた俺は序盤の町で躓くようなレベルじゃない。
「はっ!」
「うおおお!」
「はいぃ!」
勢いよく地面を蹴り、追いかけ、飛びついた。
すべて回避された。
なんだこれ、ちょっとまって。こんなのありえない。はやすぎる。
「よいしょ!」
「えいやぁ!」
「とうっ!」
飛びついて、飛びついて、飛びついた。
華麗な動きですべて回避されてしまった。
捕まえられない。希望が見えない。無理だ。なんだこれ。
レヴィアの前で、こんな姿を見せてしまうとは史上最高に情けない。
「くそぉ!」
その後も、幾度となくチャレンジするものの、触れることさえできない。
いつの間にか、日が傾きかけていた。
遠くに座るレヴィアは、俺が情けなく奮闘する様子を微笑みながら眺めている。どういう意味を込めた微笑みなのだろう。
もはや呆れすぎて笑いしか出てこないって感じなのかもしれない。
俺がどんなに頑張っても、ラピッドラビットに触れることさえできない。俺の服には、ただ真っ白な抜け毛と、黒い土と、緑の芝が付着するばかりだった。
やがて俺が地面を殴りながら、「くそぉ! なんでだ!」などと叫んだ時、背後から声をかけられた。
「おめぇじゃ、敏捷が足らんなぁ」
「何だ? 誰だ?」
振り返ってみたが、そこには誰もいない。
「そっちじゃねぇぞ、こっちだ」
「え?」
また声のした方をみたが、やはり誰もいなかった。
俺は膝をついたまま頭を抱える。
「まさか幻聴か。ウサギを捕まえられないストレスで、ついに頭がおかしくなってしまったとでも?」
「そんなわけあるめぇよ。遅すぎんのよ、おめえがさ」
「どういう、ことですか?」
「どうもこうもあるめぇよ。ここらのラビットどもは特別でなぁ、祭りの日が近づくとマリーノーツで一番の速さになるわけよ。おめぇ程度のスピードではどうもならん。まして、今のオレの姿が見えねぇようではなぁ」
謎の声は、偉そうにそんなことを言った。
「何を言っているんだ」
「今やってるのはよぉ、オレのもつ敏捷スキルのなかでも大したことのないやつだぞ。これが見えねぇなら、おめぇにゃここいらのラビットは倒せねぇ」
なんてうるさい幻聴だ。
そんなに俺の弱さを強調しなくたって、さっきから嫌っていうほど自覚している。レベルが多少上がったくらいで強くなった気分になっていた。本当はこんなにもザコ野郎で、二つ目の町周辺に出てくるザコ敵も捕まえられないんだ。
この世界に十年いるのに、どうしようもない弱さなんだ。
幻聴のなか、何度手を伸ばしても触れることすらできない。もう全然捕まえられる気配がない。ホクキオの町に帰りたくなってきた。
やっぱり俺に冒険の旅なんて無理だったんだ。
「ニイちゃん、何度もいうけどな、ちゃんと敏捷スキル上げないと無理だぜぇ。あっちで座ってる嬢ちゃんだったら余裕だろうがな」
「本当にうるさい幻聴だな! あんた誰なんだよ!」
「ヘヘッ、ハイエンジのスピードスター・鳥ックっていやあ、食材ハンターの間では有名なんだぜ。引き締まった最高品質のラピッドラビットを捕まえられるのは、マリーノーツを探しても一握りよ」
「へー、そうなんですかー」
俺は生返事した。
「それはそうとニィちゃん、あっちに座ってる嬢ちゃんは、まじで何者だ? オレの極め切った敏捷スキルを駆使してもあっさり目で追いやがる。オレのことがクッキリと見えているに違いねえ。相当の使い手と見たが、どうなんだ?」
また声がきこえてきたので、俺はその目に見えない声に向かって返事する。
「さあ」首をかしげてみせた。「レヴィアの戦闘スキルに関しては、細かくは知りません。ただ、蹴られると痛いっす」
「ほほう、是非とも手合わせしてみたいもんだ」
「いやいやダメっすよ、暴力を好まない優しい子なんですから」
さっき薬を嫌がるあまりに俺を蹴飛ばしたレヴィアだけども、本来は戦いなんか好まない良い子なはずなのである。
こんな顔も姿も現さない敏捷おじさんと戦わせることなどできない。
「じゃあよぅ、ニイちゃん。こういうのはどうだ? 十秒の間に、どっちが多くラピッドラビットを捕まえられるかの競争ってのは。お互い妨害なしってルールなら問題ねぇだろ。先攻はくれてやる」
「なるほど、それならまぁ……でも待ってください。先のほうが有利なんですか? 後のほうが、ウサギが疲れて足が止まるんじゃ?」
「この時期のラビットたちはよぉ、速えだけじゃねぇ。スタミナも神がかりなのよ」
俺はレヴィアに向かって手を振って、彼女を手招きで呼び寄せた。
トコトコやって来たレヴィア。
さあ、というわけで敏捷おじさん・鳥ックとの狩りバトルが、今、開始されようとしていた!
ところがどっこい、レヴィアが近づいた瞬間にラビットたちは一羽残らず、絶望的なおびえの表情を見せたかと思ったら、まさに脱兎のごとく逃げ出してしまった。
草原を蹴って猛ダッシュ、風を残して遠くに逃げ去って、あっという間に見えなくなった。
本当に影も形もなくなった。周囲にウサギの姿は一切ない。おっさんと同じように目にも止まらぬスピードになっただけかと思ったけど、どうも違うようだ。やはり一羽のこらず逃げ去ってしまったらしい。
おっさんは、なおも目にも止まらぬ高速移動しながら言う。
「はえー驚れぇたな。この時期のラビットは人間から逃げたりしねぇで、かかってこいとばかりに挑発して、狩人が諦めるまで避け続けるはずなんだが……嫌われたもんだ。ラビットどものあんな逃げ方を見たのは初めてだぜ」
「…………」
レヴィアは助けを呼ぶような困った顔をして、こっちを見ていた。
「大丈夫、大丈夫だぞ。レヴィアは悪くない」
俺はレヴィアの細い肩にそっと手を置いて、彼女を勇気づけたのだった。