第3話 ホクキオ郊外(2/2)
アンジュさんの家に足を踏み入れた。
内部は簡素なつくりだった。壁と床に板が張られてはいたが隙間だらけでぼろぼろである。天井から伸びた紐にランタンが括りつけられていて、そこの炎が部屋全体を赤く照らしていた。
あまり裕福とは言えない空間だった。
「ていうか、あんた、そんなにずぶ濡れで……それ汗? そんなにあの敵が怖かった?」
「いえ、これは川に落ちてですね」
「この辺りはちっちゃい小川ばかりで、落ちて全身濡れるような大きな川はないけどね」
「それはまたなんとも、不思議ですね」
そして、アンジュさんは言うのだ。
「ま、転生者にはよくあることだね」
転生者とな。やはり俺は異世界転生を果たしてしまったというわけなのだろうか。
「あの、アンジュさん……転生してくる人は、みんな不幸な事故にあっちゃって、それで死んだ後に送られてくる感じなんですかね?」
「さあね」
そう言って、アンジュさんは曖昧に笑った。大人の女の人っていうのは、どうしてこう、はっきりしない返答を好むんだろう。それがまた、俺の好きな人に重なってしまって、困る。
このまんまだと、会ったばかりの彼女をどんどん好きになってしまうじゃないか。
「それより、君、ちょうど食事ができたんだけど、食べてみるかい?」
「言われてみれば、いい匂いがしてますね」
肉料理のようだが。何の料理だろうか。異世界料理か。いや、これ大丈夫かな。異世界の料理を食べたら帰れなくなるとか、そういうルールとかないだろうな。
黄泉の国のものを口にしたら帰れない系の神話とか、割とよく聞くから……。
彼女は、薄暗い明かりのなかで、俺に座るよう指示し、鉄板やら皿やらナイフとフォークやらコップやら毒々しい色の液体が入った透明なポットを並べ、配膳を終えると、指差してにこにこ笑いながら、
「君が心配してること、当ててあげようか?」
「え?」
「この料理を食べたら、帰れなくならないかって心配してるんでしょお?」
考えを当てられた。
もうさぁ、この人、まじで俺の好きな人そのものなんじゃないの?
年上だし、かわいいし、なんか似すぎてるよ。
目の前では、鉄板に乗った肉の塊がジュウジュウいっている。あつあつで美味しそう。ソースがかかっていた。
あまり腹は減っていなかったが、味を確かめてみたいという欲望がこみあげてきた。
彼女は焼けた肉塊に、酢だとか、いかにも辛そうな物体とかをドバドバかけて食べ始めた。がつがつと。やばすぎる食事風景。
しかも驚いたことにナイフ二刀流だった。
左手のナイフで肉をおさえ、右手のナイフで肉を切り離し、切ったナイフを肉に刺して口に運ぶ。「おいし」と呟く。
なんだこれは。俺の好きな人そのものだぜ。
俺の好きな人は、上品を気取っているのに、食い方がまじで蛮族だった。これは本当の話なんだが、ファミレスでわざわざ追加のナイフを注文してからナイフ二刀流で食い始めた時には、大いにびっくりしたものだ。
その姿が重なってしまって、もうこの異世界で彼女と一緒に暮らすのもいいかなって思う。
「あのう、アンジュさんって、結婚とか、してますか?」
「彼氏もいないよ」
「……そうっすか」
そのまま勢いでアイラブユー的なことを言ってしまえばよかった。でも、やっぱりまだ何かが引っかかる。目の前の人は、俺の好きな人に似ているだけで、やっぱり俺の好きだった人とは違うんじゃないかと。
「あちっ」
アンジュさんは、露出されたおなかにソースを飛ばした。
「あちゃ、やっちゃった」
俺の好きだった彼女が白い服にタバスコこぼした時に放った言葉といっしょだ。ふき取るときの紙の折り畳みかたも同じだ。
共通する動きが多すぎる。この世界は、もしかしたら夢で、俺の中にある記憶から彼女が形成されているのかもしれない。新しいタイプの走馬灯みたいなものなのかもしれない。だったらやっぱ恋人にしてもいいかもしれない。
「君、あんまり食べてないけど、口に合わなかった?」
「いや、そういうわけでは」
あなたのことをじっくり観察してたからゆっくりなんですよ、とか言えるわけない。
「俺、猫舌なんですよ」
これは嘘ではない。熱いものは苦手だ。
「あたしも」
「え、でも、アンジュさんは、さっきからアツアツのまま食べてるじゃないですか」
「これにはテクニックがあってね。熱さを感じるのは舌の先なの。だから、舌の先を隠して食べるとね、熱くても平気なんだよ」
「そう……なんですか……」
「うん? どうしたの?」
「いえ、こんど試してみます」
内心まじかよと思っていた。俺の好きだった人と同じことを言ったからだ。彼女も得意げに猫舌対処法を語る女だった。
今まで食べたことのないちょっぴり獣くさい肉を口に運んだ。不思議な味だったが、料理の腕がいいのか、おいしかった。脂身こそ多くはないが、柔らかい肉だ。「何の肉ですか?」ってきいたら、「野生の『モコモコヤギ』の肉」だと言っていた。
そして、食後になって、またしても俺は驚いた。
筒状の白っぽいものを取り出して、先端に魔法みたいなもので火をつけ、煙を吐いたからだ。
タバコだ。
銘柄は違うけど、食後に強いタバコを吸うところも同じだった。
「って、アンジュさん! それタバコですか?」
「ああ、えっと、吸う?」
「いえ、俺はタバコ吸わないんで。っていうか、この世界にも、タバコが?」
「ああ、えっとね、転生者がね、くれたの」
なるほど。死んだ時に身に着けているものは、持ち込めるってことか。
「タバコ、やめる気とかってあります?」
「やめようと思ってるんだけどねぇ」
そうしてヘビースモーカーはてへへへっと笑い、灰皿でタバコの灰を振り落とし、再びくわえた。
煙を吐く仕草の格好よさ。煙を吐き出す尖った唇。計算されつくしたグッとくる角度を見せつけてくる。
やっぱこの人、俺の好きだった人の生まれ変わりとか、生き別れの双子の姉妹とかなんかじゃないの。どうせ彼女にはふられたんだから、アンジュさんを好きになってしまってもいいんじゃないの?
いやまてよ。逆に、もしかしたら現実世界のあの人が、異世界出身だったのかもしれない。そうだとすると、現実世界出身の俺がふられたことにも納得がいく。世界の次元が違う恋愛なら上手くいかなくても仕方なかったね。
そう考えたら、もはや俺たちの間に障害なんか無いんじゃないの。今、アンジュさんとは同じ次元に生きているわけで、アンジュさんと結婚して子供たくさんつくってこの異世界で幸せに暮らせばいいんじゃないの。
まてまて、慌てるな。まだ彼女と一緒になるべきか確定したわけじゃない。次が最後のテストだ。もし、これが一致したら、俺はアンジュさんに告白する。一目ぼれです結婚して下さいお願いします幸せにしますって叫ぶ!
最後のテスト。
そう、飲み物だ。
あのテーブルの端にあるヤバい色のポット。透明感のあったポットは、時間が経つにつれて、どんどん毒々しい色になっていく。あの得体のしれない液体の味を確かめたい。
俺の好きだったおねえさんは、いつもファミレスで自己流ブレンドティーを飲んでいた。様々な茶葉を入れて紫とピンクの間くらいの色の液体を作り、それを俺に分けてくれていた。
色は似ている。ただ、この異世界特製ティーのほうがやや濁っているようだ。
きっと、茶葉とかが違って独特のものなんだろう。
アンジュさんは、どうやら俺の心が読めるらしく、
「飲んでみる?」
そら来たァ。
俺は頷き、カップに注いでもらった。現実の彼女のスペシャルティーは酸っぱさの中にも甘みがあって美味しかった。もしもこれで同じ味だったら――。
俺はカップを傾けた。
なにこれ苦い――。