第288話 レヴィアの旅 くるまのなかで
レヴィアの夢は、まだ続いていく。
もしかしたら、こんなに長い夢なんだから、目が覚めたときにもいくらか記憶していられるんじゃないだろうか。そうだったらいいなと思うんだけれど、そうそううまくはいかないんだろうなぁ。
さて、ラージャン学問所を後にしたキャリーサの人力車は、高級商店が軒を連ねるエジザまで来た。
ここは、俺とレヴィアが再会した場所であり、フリースに靴を買ってやろうとして失敗した場所であり、また、初めてスイートエリクサーという美味なる食品を味わった場所でもある。
滞在時間が短いわりに思い出深い場所なのだが、この子たちは密室状態の白い人力車から一切降りずに、石畳さえ高そうに見えるまちを素通りである。キャリーサは見栄っ張りではあるけれど、そんなに裕福ではないのだ。
エジザに降り立ったが最後、財布の中身が死んでゆくことを、よく知っているのだ。
そこからしばらく、目的地のホクキオに向かって車輪はまわりつづける。
車内では、三人の雑談が続いていた。
「それにしてもさ、『原典』と『聖典』か、どっちがいいんだろうね」
キャリーサは、いつぞやカノさんが俺にたずねたような話題を二人に振った。
レヴィアは。よくわからないようで、首をかしげて半笑いのまま黙っていたが、フリースには自分の意見がある様子だ。
「キャリーサはどうなの?」
「あたいは、『聖典』があればそれでいいと思うねぇ。『原典』なんてのが今さら出てきても、誰も幸せになれない。あたいらの行動の基準とか基礎とか規範とか、そういうのを担うのが『聖典』だからね」
フリースは、しばし沈黙した。キャリーサの言葉をちょっと不快に思ったみたいだった。
フリースは語る。
「アオイがミヤチズ領主の地下にあるおっきなベッドで語ってくれたんだけど……」
例の俺抜きのイベントである。なんで俺も混ぜてくれなかったんだ。お泊まり女子会だからだろうけど、仲間外れみたいで悔しい!
「もう、アオイがまじで止まらなくて煩くて眠れたもんじゃなかったんだけども、話はそれなりに面白かった」
「どんな話だったんです?」とレヴィア。
「あんたも一緒に聞いてなかった?」
「おぼえてないので、たぶん寝ちゃってましたね」
「レヴィアは欲望にすぐ負ける。ごはんと睡眠のことしか頭にない」
「そんなことないです」
あるだろ。と、俺はきこえないツッコミを入れてみる。
「てか、勝とうとしてないでしょ。あたいがレヴィアと一緒にネオジュークに入った時も、食い物に目がくらんで、だもんね。あのパン、めっちゃ美味しかったでしょ?」
キャリーサは、かつての誘拐の手口を告白した。
その悪事を思い出して、「おいふざけんな許さん」と、キャリーサに対しても、きこえないツッコミを入れてみる。当たり前だが返事はなかった。
フリースは言う。
「アオイが言うには、獣人やエルフや人間が仲良く暮らすのが『原典』の世界観なんだって。マリーノーツの歴史からいえばほんの一時期のことだったみたいだけど、その、みんなの仲が良かった短い時間に夢を見て編まれた願いを否定するのは、あたしとしてはギルティ」
「いやいや、あたいは、否定とか、別にそんなつもりじゃないさ。でも、そう言うフリースは、やっぱり『原典』が正しいと思うの?」
しかしフリースは、わかってないな、とでも言いたげに小さく笑って首を振り、否定した。
「正しいとか正しくないとかじゃない」
「どういうこと?」とキャリーサは顔を崩し、足を組みかえた。
そして、美しい声が、彼女の口から響き出す。
「あたしが求めるのは『原典』でもない。『聖典』でもないよ」
「へぇ、『聖典』でも『原典』でもないなら、フリースは何を基準にするの?」
「基準なんてご大層なものは要らないけど……でも、どうしてもって言うなら、皆が『おいしい』という奇跡の飲み物、『スイートエリクサー』こそが、新たな経典たるにふさわしい」
真面目に聞いてたんだが、急におかしなことを言い出した。第三の選択肢にしても、もうちょいマトモなものがありそうなもんだが。
「皆っていうのは、そうだね、人間とエルフと獣人と、そこに各種モンスターや魔王とかを加えてもいい。ありとあらゆる世界を繋ぐのは、『おいしい』という一本の糸」
キャリーサは「うーん」と考え込み、たずねる。
「ねえフリース、あたい、スイートエリクサーって飲んだことないんだけど、そんなに美味いのかい? ベスおばさんとこのミルクより?」
「ミルク? スイートエリクサーに比べれば、あんなの、ただの生臭い液体だよ」
「あ、だけど混ぜたら美味しそうです」とレヴィア。
食べ物の話題になった途端にレヴィアは目を輝かせて食いついたのだった。
レヴィアは本当に甘い物が好きだなぁ。あと色々混ぜるのも好きだよなあ。
さて、スイートエリクサーの話題になったところで、フリースはコイトマルが繭になって眠っているフードの中から琥珀色の液体が入った小瓶を取り出して、キャリーサに差し出した。
「これ飲む?」
「なによこれ、まさか……」
「スイートエリクサー。つくってみた」
「ずるい!」当然レヴィアは不満げだ。「ずるいですフリース。キャリーサにだけですか? 私にはないんですか?」
「いいから、黙ってみててレヴィア」
口を尖らせて不快感を表明するレヴィアに対し、キャリーサはうきうきした様子で、瓶を封じた紙のフタを長い爪でひっかいて外した。
「いやぁ、初スイートエリクサー。うれしいなぁ。なかなか飲めないんでしょ、これ。あたい、ミヤチズにいた時代があったんだけど、定期的に晴れを呼ぶ儀式をしなくちゃいけなくて、そのために質素な生活してたんだよ。『白日の巫女たるもの、透明な白さをもつ生活をせねばならない』とか意味不明なこと言われてさ。そんななかで、ベスおばさんから送られてくる絹織物みたいに白いミルクは、最高に美味しかったんだ」
そんな思い出話がはじまってすぐに、レヴィアは窓枠に手を掛けた。
「それより、さっきから思ってたんですけど、窓をあけてもいいですか。キャリーサのにおいがこもって車のなかが超くさいです」
レヴィアの手が窓を開いた。風が入り込んでくる。
「あのねぇ、あんた、今のめっちゃヒドいからね。人を傷つける言動は駄目だってオリハラクオンに言われなかったかい?」
レヴィアが答える前に、フリースが横から、
「そうだね、キャリーサがくさいんじゃなくて、キャリーサの香水が鼻が曲がるほどくさいって正確に言わないと」
「フリースまで……。なんなの、オリハラクオンはどういう教育してんのよ」
俺は頑張って教育したつもりだったよ。でも、本人たちに学ぶ気が全くなければ、教育など全く意味をなさないのだ。まるで俺をいじめる時みたいキャリーサへの攻撃は、それを裏付けるものなのかもしれない。
「まったく……」
呟きながら、キャリーサは、瓶の中の液体をほんの少しだけ口に含んだ。
ぺいっと車内に吐いた。
「ううわ、微妙にまずい、なにのませたの?」
「やっぱ失敗だったか。ナッツ入れすぎたかな」
「あんた……このあたいを実験台に?」
「…………」
どうやらフリースは、スイートエリクサーの製造を目指しているようであった。
馬車がフォースバレー地区に入ったとき、路面の段差で座席が強く揺れた。