第260話 サタロサイロフバレー(1/6)
フロッグレイクに向かう途中、三人乗りの氷力車が停まったのは、うつ伏せに倒れている人を発見したからだ。
ごくごく細い小川だった。幅は一メートルくらいだろうか。人工の水路のようで、水深は浅く、流れが速かった。
「いくぞ、二人とも」
レヴィアが素早く駆け寄って膝を地につけて頭をのせると、その人はエルフの女性のようだった。口の端から透明な水を垂らしている。
薄茶色の髪で、尖った耳、白い肌。深緑色のワンピースを着ていて、木の弦を編んでつくったサンダルを履いている。
青い服でもなく、青い靴でもないところをみると、純血のエルフか、そうでないにしてもエルフの血が濃い人だと推測された。年齢は、十代半ばくらいの見た目をしていた。ただ、エルフの場合、見た目と実年齢とが合わない場合も多い。実際のところどうなのだろう。
「…………」
フリースは沈黙している。知り合いではないらしい。
「呪いを感じますね」
とレヴィアがエルフ少女の薄茶色の髪を撫でながら言った。
「そこの小川が微妙に汚染されています。水を飲んだのかもしれません」
「危ないのか?」
「全然です。しばらくしたら起きると思いますよ。さっきの場所とは比べ物にならないほど微かなので、モンスターとかには絶対ならないと思います」
「なるほどな、無害レベルか。とはいえ、気を失っているわけだし、念のため、ここで呪い抜きの煙を焚いとくぞ」
白い煙を放った。げほごほと咳き込んだ女性は、「ここは……」と呟きながら目を開いた。そして、俺たちの姿に気付くと、四つん這いで少し近づき、言うのだ。
「誰でもいい。助けて!」
必死に手を伸ばして。切羽詰まった様子だった。
「みんな倒れてしまった。魔力の低い男たちから順番に……何が起きているのかわからなかったけれど、その場にいるのは危ないと思った。だから走った」
詳しい状況をたずねたら、彼女は頷き、冷静に答えてくれた。
「この川をさかのぼった先に、百人ほどのエルフが暮らす小さな村がある。わたしの家系は神官であり、医者でもあり、しかも『純血』だ。樹齢がどれほどなのか不明なほどの神木を守るのが一番の仕事だ。神木のそばに住んでいる。
どのくらい前かは詳しくおぼえていないけど、たぶん数日前のこと。まずは薬草畑で草とりをしていた弟が気を失って倒れた。次に兄がハシゴから転落した。二人とも、ゆすっても叩いても、治癒魔法を使っても返事をしなかった。
助けを呼んだら、他の村人や下女たちが近づこうとしてきた。でも、他の村人たちもバタバタと倒れて動かなくなった。助けたり運んだりしようとしたエルフたちも、皆が倒れてしまった。
残ったのは、わたしだけだった。
原因がわからなかった。
わたしがわるいのかもしれないと思ったけど、心当たりはなかった。
鳥を飛ばしても、戻ってこなかった。
助けを呼びに走るのが、わたしの義務だと思った。
知り合いのいる一番近いエコラクーンまで出れば、助けてもらえる、そう思った。
走って走って走った。異様に足が重たかった。呼吸が苦しかった。肺が握りつぶされてるみたいだった。喉が渇いたので川の水を飲んだ。そしたら、目の前がくらくらした。『あれ……』と呟きながら、視界がめぐって、何も見えなくなった。起きた時には白い煙に包まれていた。極楽浄土かと思ったけれど、目の前に貴方がたが居た」
そして今に至るのだという。
村がまるごと眠りにつくという謎の昏睡事件のようだ。
「どうだろう、心当たりは無いか?」
俺が二人に向かってたずねると、物知りフリースが氷文字で答えてくれた。
――エルフの村にそびえる神木がどういう機能を持っているか知っていれば、簡単にわかる。
つまり、フリースには心当たりがあるどころか、理由まではっきりわかったということだ。
「その神木ってのは、どういう機能なんだ」
――ここのは、集落単位で契約する使い魔のようなものって感じかな。
このフリースの描いた氷文字には、エルフの娘が驚いた。
「えっ、願いを叶えてくれる神聖なモノではないんですか?」
フリースは呆れたような目で俺に視線を送り、肩をすくめてみせた。
「待って、そのまえに氷で文字を描くなんて、すごすぎる……貴女、もしかして『流氷の一族』の生き残り……彼女たちは滅びていなかったということ?」
この質問には答えられなかった。フリースでも知らないことはあるのだ。
俺は人見知りのフリースのかわりに、「流氷の一族ってのは何ですか?」と初耳の言葉について、たずねてみる。
エルフの少女は、そんなことも知らないの、とでも言いたげに見下した雰囲気で答えてくれた。
「『流氷の一族』は、わたしたちの祖先が空から降りてくる時に、手助けをしてくれた女性の子孫。その女性は、楽師だったと伝わってる。この高潔な一族は氷の術を得意とし、一族の者にしか扱えない笛で数々の奇跡を起こした。……でも、その姿を見るに、貴女ハーフエルフよね。穢れをもつハーフエルフがここまで精密な氷の力を持てるわけがない」
――ハーフじゃない。
――クォーター。
「じゃあ、なおさら有り得ない。何かの間違いね」
少女の中で、勝手に疑惑が浮上して、勝手に解消されたようだ。
話に区切りがついたところで、俺は目的地の変更を告げる。
「フリース、もしも解決策があるなら、この子の村を救いに行きたいんだが」
――ラックがそうしたいならいいけど。
――村人である子は、ここで待ってたほうがいいかも。危険だから。
そのとき、深緑色のエルフの少女はまた、ハッと息をのんで言うのだ。
「フリースって、もしかして、あのフリース? だとしたら、今回の事件には、おまえが関わってるの?」
――は?
――ねえ、こいつ凍らしていい?
「気持ちはわかるが、やめてやれ」
それに、俺の考えが正しければ、きっとこの少女の言う通り、昏睡事件にはフリースの大魔王封印が関わっているのだろう。
だとしたら、フリースがこの子を凍らすのは筋が通らないんじゃないか。
「エルフの敵である罪深いお前が何を企んでるのか知らないけど、思い通りにはさせない」
偉そうな深緑の少女は、フリースという名前を耳にした途端に敵意をむき出しにしてきた。いやいや、それどころじゃないだろう。
「まてまて。俺たちは村を助けたいだけだ。争ってる場合じゃないだろ!」
「手下の人間がむきになってる。怪しい。わたしたちの村の財産を根こそぎ奪うために、何らかの策略でみんなを眠らせたと考えれば説明がつく」
根も葉もない推測は、せめて良い方向にだけ適用すべきである。
――こいつ面倒くさい。
と、吐き捨てるようにフリースは虚空に文字を書いた。
「なに? いくら卑怯な方法で大勇者に返り咲いたとはいえ、言動には注意することだ。わたしの父はこの国の議会で議員を務めているんだぞ。おぼえておけよ」
――ねえ、こいつ、本当に助けなきゃダメなの?
「我慢だぞフリース。グッと飲み込んでくれ。いずれにしても、村がどういう状況になってるのか、確認しとこう」
――まあ、ラックが言うならいいけどさ。
こうして、エルフの村を助けるために、寄り道が決定した。
★
村はすぐ近くに在ると言うので、氷力車ではなく、歩いてエルフの村に向かうことにした。
歩きながら、少女の見た目をしたエルフから情報収集する。
「お名前は?」
「お前たちに名乗る名前などない。さっさと問題を解決しろ」
いきなり会話のリズムを狂わせてくる尊大なエルフ娘である。はじめはしおらしかったのに、フリースという名前を聞いた途端にこうなってしまった。
人を見下しても、何もいいことなんか無いだろうに。
「せめて村の名前くらいは教えてほしいんですけど」
「その情報を悪用する気かもしれない。だから教えられない。教えてほしければ、絶対に裏切らないことを証明してみせることだ」
「この目を見てください。どうです? 『曇りなき眼』をしているでしょう?」
「そんなことが証拠になるとでも?」
ダメだな。これはもう、何を言っても疑いが晴れることは無いのだろう。
俺は対話を諦めかけたのだが、フリースの描き出す氷の文字が、村の情報を描き出した。どうやら、少女から聞き取るまでもなかったらしい。
――サタロサイロフバレー。
――谷底につくられたエルフの村。
――さっきまでいたエコラクーンは、災害から逃げ延びたハーフエルフが開拓した町だけど、サタロサイロフバレーは、水源が魔王軍の侵略を受けたときに逃げた上層部のエルフたちが移住した村。
――もともと、清浄な小川が流れていたサタロサイロフバレーでは、数人の混血エルフがイトムシの繭から糸を回収する仕事をしていた。育って繭になったイトムシは、村に運ばれてくるなり、大きな鍋で茹でられて、一本の長い糸状のものになる。
――そのままの状態だと見た目は糸だけど、まだ糸じゃない。繭の頃を忘れられずに、くっつきあっているので、その『くっつき成分』を取り除く必要がある。清浄な水を沸かして『精練』という作業をする。早い話が、糸をきれいに洗うわけだね。
――そうして使えるようになった糸が、エルフの織り手によって丁寧に織り上げられ、特殊な魔力を持つ服が完成する。あたしの『燃えない衣』も、そうやって作られた。
――イトムシを育て上げる人がいて、繭から糸をとる人がいて、糸をきれいに洗う人がいて、丁寧に織り上げる人がいて、喜んで着る人がいる。
――それが普通だった。何も特別なことじゃなかった。
――時代は変わった。
――この場所では、もう、そういう仕事をしてる人はいない。
――移住してきた『純血』を名乗るエルフたちが小川を埋めて流れを地下に追いやったから、そういう仕事はもう一生の仕事にはできない。混血エルフは、ほとんどが『純血』たちの下女になったって聞いた。
「他のところで同じ仕事をするわけにはいかなかったのか?」
――あの村で糸を洗うことに意味があった。別の場所で洗っても清浄な魔力は宿らない。
――神木と契約したのも、川を埋めたのも、村で多くの薬草が育てられてるのも、後から逃げのびてきた純血を名乗るエルフたちが苦肉の策で作った欠陥だらけのシステム。ただの応急措置。
――今回の事件は、その不完全な浄化システムが引き起こしたエラー。
――まあ、色々言ったけど、ひとことで言えば、これから行こうとしてるのは、ヒドイやつらが住むヒドイ村ということ。
――あいつらは、自分たちが何に祈りを捧げているのか、本来、何に祈りを捧げなきゃいけないのか、何も知らないで暮らしてる。
と、以上がフリースの意見なのだが、何かサタロサイロフバレーに恨みでもあるのかもしれない。ここに住んでいるのが純血エルフが大半であることが原因だろう。
もしかしたら、フリースは本心では行きたくないのかもしれないけど、どんな人であれ、助けを求めている人を見過ごすことは、俺にはできなかった。
ふと、フリースが手を前方にのばし、軽く窓ふきをするような動作をした。
何か入村の儀式とかだろうか。場所も、ちょうど樹木の赤い枝葉が広がる範囲との境目だったし、そこから先は日陰が続いているみたいだった。