第254話 眷属の泉エコラクーン(3/7)
「大勇者アリアさん、ですよね?」
俺の薄氷を踏むような声に、目の前の女性は答えてくれたが、帰ってきたのは「はい」でも「いいえ」でもなかった。
「あんた誰よ」
「俺はラックっていいます。で、こっちがレヴィアです」
俺はレヴィアを紹介したが、「大勇者アリア」という人名をきいたからだろうか、すっかり萎縮してしまっていた。後ろに隠れて挙動不審である。さっきまでの威勢はどっかにいってしまったようだ。
――大勇者アリア。
大勇者まなか、大勇者セイクリッドと並ぶマリーノーツ三大勇者の一角である。どうも以前小耳にはさんだ話によると、まなかさんが大勇者をやめる時に二人が戦うことになり、アリアさんが一方的に敗北、大怪我を負ったという話だったから、以前夢の中で見た時とは髪の色が少々違ったり、全身に包帯が巻かれているのはそのせいかもしれない。
それから、フリースとは深い因縁がある。フリースがエルフ社会から弾かれ、魔女と呼ばれるに至ったのは、マリーノーツを氷結させかけたからであるが、その際の氷河期を招きかけた小競り合いの相手が、この大勇者アリアなのであった。できれば再会させたくないけれど……。どうなることやら。
「で? どういうつもり?」アリアさんが鋭い右目でにらみつけてきた。「何か言いたいことがあるから、高みの見物をやめて、わざわざ降りて来たんでしょ?」
とりあえず会話がちゃんと成立することに安心しながら、俺は事情を説明する。
ここで暮らしていた人たちがモンスター化した可能性があること、それを救うには、紫熟香を使う必要があって、アリアさんの使い方が間違っているから効果がないということ。
丁寧にわかりやすく説明したつもりだった。
ところが、アリアさんは、俺の話にウンウンと頷いていたのに、俺の話を聞き入れてはくれなかった。
前言を撤回しようと思う。この片目隠しの女は会話が通じないタイプの大勇者だ。そういうところは、ちょっと猟銃使いのセイクリッドさんに似ていると感じる。
「お願いされた仕事は、このまちの人々の解呪。それが無理だった場合、すみやかに、まちごと凍結させること。だから、これから、ここを凍結させる。何人か死ぬかもしれないけど、仕方ない」
「え、ちょっと待ってください。今、俺、言いましたよね? 紫熟香の効果が発揮されないのは、アリアさんの腰にさげてる籠が原因だって。俺が持ってる黄金香炉を使えば、紫熟香の力が発揮できて、呪われかけている彼ら彼女らを元に戻せるかもしれないって」
「うるさいなぁ。これはさあ、あたしが頼まれた仕事なんだから、あたしが責任をもって凍らすんだよ」
「えっ。ちょっと何言ってるかわからない……。あのですね、もともとは人だったかもしれないんですよ。それを知った上で全部凍らせるとか……いや、え、ちょっと、あの、あなた、大勇者ですよね? 人を凍らせば、死なせる結果になるかもしれないんですよ? 大勇者が人殺しなんて……」
「でも、今はモンスターじゃん」
「だから、何でそうなるんですかって!」
「だって、呪い抜きが効かなかったからね、全てを凍らすのが、あたしの役目」
地面に足先で魔法陣を描きながら、彼女は言い放った。
当然、氷漬けは見過ごせない。
「だから! そこを俺なら何とかできるんですって! 考え直してください!」
「は? だって、あたしは大勇者だよ? 大勇者の決定に逆らうの?」
「いやいや、ていうか、全部凍らせるってことは、俺とレヴィアも巻き込まれるってことですよね。か弱い一般の人間を巻き込むなんて、大勇者としてどうなのか」
「ああもう、うるさいなぁ、あとで神聖皇帝様とか領主とかに謝りに行くから、黙って凍ってろよ。もう引けないんだよ」
俺は何も間違ったことを言ってないはずだ。それなのに、説得が全く聞き入れられなかった。
大勇者こわすぎだ。レヴィアが顔面蒼白にして小刻みに震えるのも心から理解できた。
「いい? これはねぇ、あたしが命がけでもやらなきゃならない大仕事なの。あたしが、今しがた足元に描いた魔法陣だけどね、この術式が発動すれば、体内の魔力が全て消費されて、あたしは死ぬ。そして引きかえに、このまちを全て氷で鎖すことができる」
早い話が、人柱。
意味が分からない。解決できる方法があるって言ってるのに、試さずに自爆とか狂ってる。なんだこれ。
全身の怪我の治療の影響でハイになり過ぎたりしてるんだろうか。
「もう俺はあなたがわかりません。思考回路どうなってんですか!」
「じゃあ、またあとで、あの世への入口で会おうか」
足元の文字が、色とりどりの光を放ち始めた。大技の予感である。
「れ、レヴィア、逃げろ!」
「えっ、えっ?」
レヴィアは全力で戸惑い、きょろきょろするばかり。
「ああ、くそ、こんな時に……こんな時にフリースがいれば!」
その時である。
レヴィアの顔が暗くなった。精神的なものではなく、物理的に、日陰になったのだ。
頭上を見れば、さっきまで何も遮るもののなかった青空に、分厚い氷のスロープが生まれていた。
「フリース!」
自分でもビックリするくらいに、歓喜に満ちた声がした。
空中に滑り出したフリースは、青くゆったりした服をはためかせて飛び、空中で樹木の枝のような形状の荒々しい氷の槍を生み出した。それを一切の躊躇いなく自爆希望の大勇者に刺し込もうとした。
「…………」
無言のうちに。
不意打ちを狙ったわけではないのだろうが、側面からの一撃になった。
ところが、見事な反射神経で分厚い氷の板を生み出し、アリアさんはこれを防いだのだった。
氷の槍と氷の盾。激しくぶつかり合い、火花が舞い散る。
「あぁ? 先輩? なんでここに」
アリアさんが地面の下から巨大な拳を出して反撃したが、これはフリースが虚空に氷の足場を作って移動し、回避した。
頼れる大勇者フリースは華麗に着地した。と、そこまでは良かったのだが、深く息を吸い込んだ途端に、ふらついた。
「おい、フ、フリース?」
俺の呼びかけに答えることなく、白銀の髪を不安定に揺らしながら、ぐらついた氷文字を虚空に描き出した。
――う、きもちわるい。
――なに、ここ。
――エコラクーンの清浄な魔力が、こんなに……。
ふらふらしたかと思ったら、地面に白い膝をついてしまった。
「あーあー、だらしないねぇ、この程度の呪いに負けて立ってられないなんて。もしかして、先輩も魔物になりそうなの?」
「絶対、なら……ない……」
救世主が来てくれたんだと思った。割って入って助けてくれると思った。
だけど、今のフリースはひどく弱々しく、小さな女の子そのものに見える。
こんなに苦しそうなフリースは見たことがない。この地の呪力によって、魔物化してしまうんじゃないかと本気で心配だ。
「ん? あれ、ていうか、なんだ、以前みたいにしゃべれるようになったのね、沼地の魔女先輩」
あ、やばい、と俺は思った。思った時には、もうフリースは銀髪を逆立てて攻撃を仕掛けていた。青い服のクォーターエルフ大勇者は、「魔女」と呼ばれると激怒するのだ。
「アリアァ!」
しかし、全く迫力のない氷の塊が出てくるだけだった。アリアさんに命中することなく、あさっての方向に飛んでいき、沸騰する泉の中に落ちて瞬く間に溶けてしまった。どう見ても本調子じゃない。
ついに、苦悶の表情を浮かべて地面に横たわる結果に。しかし、それでも戦意は失っておらず、穢れた土にまみれた顔を歪ませて、自爆寸前のアリアさんをにらみつけていた。
俺は、そんな絶望的な光景を見て、呆然としそうになったのだが、レヴィアに強く背中を叩かれて、ハッとする。
「ラックさん! あのお香です。呪いが全身にまわる前に!」
「あ、ああ……。レヴィアにとっては、ちょっとくさいが、我慢しろよ!」
「そんなの言ってる場合じゃないでしょう!」
俺は鳥の形をした黄金の小型香炉を急いで取り出す。その中に紫熟香の欠片を置き、炎魔法のアイテムを使って、素早く火をつけた。動かなくなっていたフリースに白い煙の帯を浴びせていく。
とろりと下に落ちていく煙にのみこまれ、白銀の髪も、青い服も見えなくなった。
げほごほと苦しげに咳き込む声がきこえたが、今しばらくは我慢してもらいたい。
「もう終わりかい? じゃあ、術式を再開だ」
アリアは自爆術式を再開させた。魔法陣に、だんだんと色が灯っていく。あれが起動すれば、この一帯は氷漬けになるという。自分の身を犠牲にして、俺も、レヴィアも、フリースも、全てを凍りつかせるのだという。
「やめ、て……」
白い煙の隙間から、フリースのかすれた声がする。
「ラック、やめさせて、おねがい」
彼女は足で穢れた地面を蹴り、腕を使って身体を引きずりながら、煙の中から這い出してきた。
いつも冷静なフリースが、涙を浮かべながら頼み込んできた。この涙は、煙を浴びたことによるものだろうか、それともフリースらしくないことに感情が昂っているのだろうか。
たぶん、俺の足に必死にしがみついているところをみると、後者。感情爆発のほうだと思う。
ああ、わかったよフリース。あの子に自爆なんてして欲しくないんだな。いくら憎き後輩でも、助けたいんだな。よくわかった。
相手が大勇者だろうが何だろうが、戦って傷つくことになったとしても、何が何でも絶対に止めてやる。
フリースは俺のことを恩人だと思っているかもしれんが、俺にとってはフリースが命の恩人なんだ。何度も助けてもらった恩の一部を、今、返そう。
「やめろって言ってんだろ!」
自分に気合いを入れるようにして、俺は叫んだ。
「あん? 誰に向かってそんな口を……」
「アリア! いいから、俺の話をきけ!」
近くに寄っていた禍々しい黒い蟲、雷撃ウナギの群れが驚いて距離をとるくらいには、この時の俺の声には迫力があったらしい。
それでも、迫力だけで大勇者が引いてくれるはずもなかった。
「だって、もう凍らすしかないでしょう! こんな呪われた場所は!」
「うおおお!」
俺は体当たりを仕掛けた。真正面から、無理矢理にでも押し出そうというのだ。魔法陣から遠ざければ、氷づけを回避できると思う。
タックルをして、持ち上げて、弾き飛ばす。そうして自爆を阻止してやる。
失敗なんか考えるな、何が迫って来たって止まるんじゃない。俺は自分に言い聞かせながら進んでいく。姿勢を低く低く、保ちながら。
大勇者アリアは、右目で俺を見下ろしながら、不敵な笑みを浮かべ、氷の壁をつくった。
瞬間、ガラスが割れるような音。壁は砕けた。
俺が砕いたわけではない。大勇者のつくった氷を簡単に割るなんて、そんな芸当ができるのは、この場に一人しかいないだろう。
そう、我らが大勇者フリースだ。
苦しみながらも仕事をしてくれた。
「なんっ……」
余裕の見下した顔は、驚きの表情に変わった。
そして、俺は地面の氷に滑った勢いで想定していたよりも強い体当たりをかまし、大勇者アリアを魔法陣から押し出すとともに、気を失わせる結果になったのだった。
「やった……のか?」
こういうセリフは、たいていの場合、さらなるピンチの呼び水となるものだが、この時ばかりは違ったようだ。
アリアさんは、再び暴れ出すことはなく、胸をゆっくり上下させながら、ぐったりしていた。
身体じゅうに巻かれた包帯が、痛々しいなと思った。