第252話 眷属の泉エコラクーン(1/7)
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「こいつは、ひどいな……ここまでとは……」
丘の上から見下ろした世界は、まさに地獄絵図だった。
茶色い毒々しい蒸気が漂い、有翼型のモンスターが低空を漂っている。
ここには、かつて清浄な泉と、そのすぐそばにマリーノーツ最大の劇場がある美しいまちがあった。エコラクーンと呼ばれる場所だった。
「アスクークと、どっちがマシなんだろうな……」
職人のまちアスクークは、水龍になって暴走したオトちゃんによって壊滅した。アスクークの場合は、潰されてぺしゃんこになったわけだが、このエコラクーンは、原形をとどめている。
高い建物もいくつか残っているし、泉から高熱の汚泥が生み出され続けている。聞いていた話と違って、汚くてボコボコ沸騰しているのが見える。清浄な泉には絶対に見えない。そして、劇場だったはずの場所には汚水がたまっていた。
エコラクーンは今や広範囲にわたって、灼熱の泥にまみれていたのだ。
かなり遠くの丘から見ているのに、臭気がこちらまで届いてきそうな汚れっぷりだ。
よく見ると有翼型だけではない。そこかしこに色んなモンスターがうろうろしていて、周囲に呪いを撒き散らしているようだ。
「行きたくねぇなぁ……」
俺が漏らした本音を耳にして、レヴィアが腕を掴みながら注意してくる。
「逃げちゃだめですよ、ラックさん」
「わかってるよ」
「それに、本当に、あの絵描きの人の手紙が本当なら、このまちを助けられるのはラックさんしかいないじゃないですか」
「それもそうだけどさぁ」
「さ、ぐずぐずしてたら取り返しがつかなくなります。行きましょう」
さて、アオイさんやカノさんに別れを告げることもせず、俺たちは書物のまちミヤチズを後にした。
その理由は、一刻を争う事態が発生したからだ。
いや、より正確に言うなら、そういう事態が発生していることを遅れて知ったため、罪悪感を抱えながら大急ぎで現場に駆けつけたというわけである。
一体どういうことなのか。
数時間前から語らねばならないだろう。
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ミヤチズ書店街でフリースが怒って帰った後のことだ。アオイさんもカノさんの鳥に呼ばれて研究の手伝いのために走り去り、俺とレヴィアだけになった。
久々の二人きりで、なんだかドキドキしながら、他愛のない会話を繰り広げつつ、本棚に挟まれた大通りの真ん中をレヴィアの歩幅に合わせてゆっくり歩いていた。
そして俺がレヴィアに、「スイートエリクサーの前に何か食べるか? 腹減ってないか?」とたずねた時であった。
「ファンです! 握手してください!」
突然、レヴィアに話しかける背の低い女性があらわれた。
心当たりはないようで、レヴィアは首をかしげる。
「白日の巫女を演じた方ですよね。あのサウスサガヤのお祭りで。格好良かったです! わたし本当に大好きで……」
レヴィアはこくこくと頷きながら、まんざらでもない様子で握手に応じた。
「ミヤチズで何か儀式でもされるんですか? もしかして、ミヤチズのお祭りの復活ですか? あなたが正式に白日の巫女になってくれるなら、晴れる日も増えると思うから大歓迎です!」
マシンガンのように早口で浴びせられた熱烈な声に少しばかり戸惑いながらも、自分を好きでいてくれる人がいたことに誇らしげだった。
やがて、そのレヴィアファンの女性は言うのだ。
「あ、そうだ。急なお願いですみませんが、あなたの絵を描かせてもらえませんか? わたし絵画スキルもちなので、お時間は取らせません。どうかお願いします」
以前にも、こんなことがあったなあ。あれは、ハイエンジを通りかかったとき、急に黒い服の女から絵のモデルになってほしいと声をかけられたのだ。
のちにザイデンシュトラーゼン近くで再会する絵描き女、ボーラ・コットンウォーカーさんである。後に知ったことだが、別名をハニノカオ・シラベールさんという新聞記者でもあるという。
あの時のボーラさんの怪しさときたら、俺がアイドルのマネージャーのように立ちはだかり、お断りせざるをえないレベルのものだった。
それに比べれば、この女性はマトモに見える。レヴィアと同じくらいの背丈で、いかにも好奇心旺盛という感じの、キラキラした目をしている。
ついでに言うと、レヴィアもモデルをやりたそうなキラキラした目を向けてきている。カウガールの帽子を整えて、ゴホン、とか咳払いしている。
「まあ、今はそんなに急いでもないし、いいだろ。レヴィア、描いてもらうか? どうだ?」
返事はもちろんイエスだった。
「わぁ、レヴィアちゃんていうんですね! 名前もかわいい!」
その絵描きの女性は、さらさらっと絵を描くと、「宝物にします!」と言って、それから、「彼氏さんとお幸せに」と頭を下げて去っていった。
大した事件も何もない、ただレヴィアが名も知らぬ絵描きのモデルになり、その完成した絵を見せてもらうこともなく、何の伏線にもならないであろう取るに足らない出来事だった。
けれどもこの時、何か引っかかるものを感じた。何か忘れているような……。
「あっ」
そうだ。色んなことがありすぎて忘れていたけど、先日の夢で見たじゃないか、レヴィアがザイデンシュトラーゼンでボーラさんと会ったとき、別れ際に手紙を預かっていたのを。
「レヴィア、思いだしたかもしれない」
「え? なんです」
「絵描きのボーラさんから手紙とか、預かってない?」
「……あっ」
やはり忘れていたようだ。
レヴィアはベストの内ポケットをさぐり、くしゃくしゃになった封筒を取り出した。
「あれ、でも、なんでラックさん、私がお手紙を持ってること、わかったんでしょうか?」
「……あ、えーと……実は、ボーラさんから、レヴィアに手紙を預けたって連絡が来たんだよ。大事な内容だから早く読めってさ」
嘘である。だけど、説明するのが面倒だし、何より自分が意図したことではないとはいえ、夢を使ってレヴィアたちの行動をのぞいていたわけだから、バレたら少し面倒だ。
申し訳ないとは思いながらも、そんな事実は隠蔽させていただく。
「でも何で絵描きの人は、私に預けたんでしょう。急ぎの用事なら、鳥を飛ばしたほうが早いんじゃないですか?」
「さあなぁ。鳥が途中で事故ったら届かないこともあるからさ、確実に届けたい内容なんじゃないのか? さもなくば、貧乏芸術家だから送料の節約したとか」
俺はレヴィアから封筒を受け取り、上の方をちぎって中身を取り出した。
二枚の紙が入っていた。片方は良い紙をつかった手紙、もう片方は質の悪い紙を使ったマリーノーツ新聞の記事のようだ。手書き原稿の切り抜きだった。まずはボーラさん直筆の手紙を確認する。
『ラック、緊急の連絡がある。どうか落ち着いて読んでもらいたい』
切羽詰まった感じの文字で始まったボーラさんの手紙は、急いで書いたんだなっていうことがわかるくらいに、なんとかぎりぎり読めるくらいの殴り書きだった。
『すでに報じられている通り、河川地域でのモンスターの狂暴化、巨大化が続発している。最も深刻な事態が発生しているのは、ミヤチズから西に行った先にある、芸術の泉エコラクーン』
そういえばアオイさんが、モンスターが狂暴化してるって新聞に書いてあるとかなんとかって話をしていたっけ。
ミヤチズでも、水路では巨大な魚が襲ってきたし、銃殺された白馬が馬型モンスターになって学問所周辺の女性を見境なく連れ去ったなんてこともあった。
なるほど、河川周辺地域でのモンスターの狂暴化、あるかもしれない。
再び手紙に目を落とす。
『ご存知の通り、エコラクーンは、もともと行き場を失ったハーフエルフが築いた村が基盤になっているから、森の自然が生活の場に融合していて、美しい景観は人気が高く、観光地として名を馳せていた。マリーノーツ最大の劇場があり、毎日違った演目が開かれていて、文化の発信地でもあった』
全く存じ上げなかった。ホクキオに居た頃は、こんなところまで来るとは思っていなかったから、はるか遠くに思えたこのエリアのことを気にしていなかった。
『さて、ここからが本題。あたしの予想によると、すでにエコラクーンは壊滅していると思う』
「か、壊滅だって?」と俺。
「え、どうしたんです?」と文字の読めないレヴィアが首をかしげる。
レヴィアに教える前に詳しく知りたいので、ひとまず手紙の続きを読んでいく。
『エコラクーンに住む芸術家とか、記者とか、画商とか、あたしの知り合いと軒並み連絡がとれなくなった。誰一人として手紙を返してこない』
たとえばボーラさんが皆から嫌われていたとしたら、そういうことも起こり得るんじゃなかろうか。と、考えたのだが、
『確かにあたしゃ人付き合い苦手だけどね、仲が良いとか悪いとか関係なく、仕事の連絡なのに、誰にも音信不通だなんて、おかしいじゃないか』
まるで思考を呼んだかのような手紙である。
『そこであたしは、最悪のケースに思い至った。まず近ごろのモンスター出現報告や狂暴化のニュースをみると、水を媒介にして広がる呪いがあるのではないかということが予想される。これについては、同封した記事の切り抜きを見てほしい。データは明らかに湧き水のある地域での異常を教えてくれている』
マリーノーツ新聞の記事の切り抜きには、地図と、異常発生地点が記されている。
『そして、このタイミングでの音信不通が意味することは何か、聡明なラックには理解できるだろう?』
わからないし、わかりたくもなかった。そんなに聡明でもないし。
そして、この手紙もまた、俺を無視して、解決しなければいけない事件を告げてくる。
『――エコラクーンの人間が、呪いによってモンスター化している』
「いやそんな、ゾンビ映画じゃないんだから」
「ゾンビ映画? 何です、それ」
「いや、なんでもない。俺の世界に帰ったら一緒に観よう」
そして手紙は、次の言葉で締めくくられていた。
『魔物に全員が襲われた可能性もなくはないけれど、あたしの予想ではモンスター化のほうだ。さあ、ここまで言えば、あとはわかるね。現在、同封した記事は大規模パニックを招かないために公開を待ってもらっている。ラックのほうでも、どうか公にしないでほしい。ラックのような転生者であれば、モンスター化することはないと思う。あたしのかわりに、調査しに行ってほしい。そして、エコラクーンを……いや、世界を救ってほしい』
「重い重い、重いって」
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そして今、ビシクの丘の上という場所から、レヴィアとともにエコラクーンを見下ろしている。
ボーラさんの予想通り、すっかり瘴気あふれる呪われた地となってしまったようだ。
美しい泉のまちの面影はない。泉は沸騰し、穢れた蒸気があふれ、翼のはえた大量のモンスターたちが、虚ろな目でうろついている。
「あれが、もとは人だったってのか?」
「ふつうの生き物が呪いにあてられて魔物化することがあるなら、ヒトだって呪われて魔物化することがあります。特に、周囲の魔力の質に影響されやすい人とかは、なおさら」
モンスター同士がぶつかっても戦ったり傷つけあったりはしていない。もしかしたら、まだ魔物になりかけているだけで、完全にモンスター化はしていないのかもしれない。
「この場所から煙をたけば、なんとかなったりしないかな。風向きさえちゃんと向こうにむけば」
「それは無理だと思います」
「そりゃ何で」
「呪いが濃すぎます。かつての荒れ地とは質が違うんです。あの泉から湧き出した呪いが、周囲の生き物にとりついて、生き物のなかで増殖して乗っ取り、眷属化しているようです。このタイプは環境を壊すので、悪い魔族にさえ毛嫌いされるやつですよ」
「呪いにも色々あるんだなぁ。俺が何も感じないってことは、やっぱり転生者にとってはそんなに危なくないってことなのか?」
「転生者は特別な存在ですので、この種の呪いに耐性があります。もちろん魔物化もしません。ただ……このタイプの呪いに冒された生き物は、呪われていないものを呪いに染めることを求める習性があります。簡単に呪いに染まらない転生者があの場所に降りたら、あのひとたちは、新鮮なお肉を食い破りたい欲求に駆られて襲い掛かって来るでしょう」
なにそれ、ほんとにゾンビみたいじゃん。
「だとしたら、フリースは、こんなところに来させないほうが良いのか? 呪われるのも困るし、襲われても大変だし……。さっきもう鳥を飛ばして呼んじゃったけども」
「私たちよりも圧倒的に危険は高いかなって思いますね」
とはいえ、フリースがいないんじゃ、戦闘力が足りなくて、いくら呪い耐性があっても、手の打ちようが無い気もする。
「紫熟香は効くはずだよな?」
「たぶん」
「どうすれば紫熟香を行き渡らせることができるのやら……」
悩んでいたら、エコラクーンの劇場前広場で動きがあった。激しい爆発音とともに、モンスターを蹴散らす大規模な氷の一撃が、花が咲くように広がった。
「あの、ラックさん、まだフリースは来てないですよね」
「ああ、あれは……」
白い煙を撒き散らしながら、氷の壁をつくって、モンスターを遠ざけている女の姿が見えた。
「んう」
「どうした、レヴィア」
「くさいです。紫熟香とかいうの、くさいのが、風に乗ってきてます」
「俺はまだ煙を焚いてない……。ということは、すでに誰かが呪いをなくすための行動を起こしてるけど、効いてないと? 人のモンスター化は呪いの一種なんだろう? 紫熟香が効かないのはおかしいんじゃないか?」
「そんなの私に言われても」
「それに、香を焚きながら戦ってるのは一体誰なのかっていうのも気になるぞ。あれは簡単に手に入るような代物じゃないからな、入手困難なはずだ」
もしかしたら、大勇者の誰かかもしれない。氷を使う大勇者には、フリースの他に一人だけ心当たりがあった。