第194話 大黒龍玉
毒の水たまりがあちこちにできてしまった草原の上に、一匹の小さな黒蛇がいた。細くて短いやつだった。
のそのそと這いまわって、大勇者の足元にまでやって来た。
「ま、まなかさん、足元っ、それ、毒ヘビですか?」
俺は慌てて危機を告げたけれど、まなかさんは、そいつから距離をとる気配を微塵も見せなかった。
「ん? そんなこと言ったら、不敬罪で首を斬られるかもよ?」
不敬罪ということは、敬わねばならぬ存在ということ。
つまり、もしかして……。
「これオトちゃん?」
「そう、オトキっちだよ。ちょっと魔力を吸い過ぎちゃったっぽいけど、ま、そのうち戻るでしょ」
「じゃあ、今回、毒が撒き散らされた場所も……」
「もちろん。少し待てば、問題なく回復するよ。オトキっちに力が戻ったら、だけどね」
「本当に、ちゃんと戻るんですか? どのくらいで戻りますか?」
「全機能回復までは、そうだなあ……二、三週間くらいじゃない? 一日に二回くらいキレイな水に浸けるとすくすく育つかも。それと、体内で黒龍玉が自動で生み出されるから安心して。少したてば、雨を呼ぶ力も戻るはずだから」
「やけに詳しいけども、やっぱり、こうなったのは初めてじゃないんですね?」
「まあね」
大勇者まなかは微笑みを見せると、抵抗しない黒蛇を拾い上げ、俺が抱いているイトムシの上にのっけた。
オトちゃんがコイトマルの頭のあたりにくるりと巻きついて挨拶すると、コイトマルも首をふるふると柔らかく振って応えていた。
両方とも、互いの存在を認識しながら受け入れているようで、微笑ましかった。
まなかさんは、「さてと」と言って周囲を見回すと、寝転がる八雲丸さんに話しかけた。
「ねえキミ、これあげる」
右腕に抱いていた黒龍玉をごとりと転がしたのだった。
「んなっ」と思わず身体を起こした八雲丸さん。「こいつは受け取れねぇよ。おれは何をしたわけでもねえし……」
「でも、わたしは要らないからね。だって、雨を呼ぶアイテムなら、もう余る勢いで持ってるし」
「けどよぉ」
「じゃあ、戦う? わたしに勝ったら受け取らなくてもいいけど」
「いやいや……戦闘狂すぎんだろ、なんで戦いで解決しようとすんだよ」
「いいから、とっときなよ。すっごく高く売れるし、たぶん八雲っちは、コレ必要になるから」
「それってぇのは、どういう……」
八雲丸さんの問いが言い終わるのを待つことなく、まなかさんは手を振った。
「じゃあ、わたしは帰るから、あとよろしくね」
そこで帰ろうとしたけれど、座った姿勢の八雲丸さんが、彼女の細腕を掴んで引き留めた。
「いや、待て待て、まだやることあるだろ、大勇者ならよ」
「は? 何?」
腕を払いのけて、長身のまなかさんはふんぞり返って偉そうにして、八雲丸さん見下ろした。
八雲丸さんは刀で身体を支えながら対抗するように立ち上がって、堂々と意見を述べる。
「どうすんだって話だよ。緊急連絡で呼んだのに全然来ねえし、アスクークの町も壊滅しちまって……だったら責任とるのがスジってもんだろう。それが、大勇者の務めってもんだ。なあ大勇者! 大勇者まなか!」
うーん、このクソみたいな言い分は、絶対に通らないんじゃないかと客観的に見て思う。八雲丸さんではどうしようもなかった状況を覆して解決してもらったのに、「到着が遅れたからって責任をとれ」などというのは、ずいぶんなご挨拶であろう。
そもそも、まなかさんは、すでに大勇者ではない。脱退の儀式を終えて引退したという話を以前どこかで聞いた。
この言いがかりめいた物言いに対し、まなかさんがどう反論するのかと興味深く思っていたのだが、彼女の返しは予想の斜め上であった。
「うるさいなぁ。出る時にパスタ火にかけたの! そろそろ茹で上がる頃だから帰らなきゃ。邪魔しないでよ!」
「パ、パスタだあ? パスタとあの町ひとつと、どっちが大事なんだ!」
「は? 私の帰りを待ってる可愛いパスタちゃんに決まってんでしょ! パスタなめんな!」
「なんだとぉ、やるかぁ?」
頭に血がのぼってしまったのだろう。八雲丸さんは、「天王剣!」などと言って、最強状態に変身すると、勢いよく彼女に向かって踏み込んだ。
至近距離で発生した風圧に、俺は尻もちをつかされ、グルングルンと後転する形で回転させられた。
なんとか膝をつき、マントで二つの小さな命を守りながら、風に耐えた。白いイトムシと黒い蛇が、俺を応援してくれてるような気がして、嬉しかった。
だんだんと風が遠ざかっていき、遠くのほうで瓦礫が吹き飛ぶ異次元戦闘に突入した。一方的に八雲丸さんが攻撃をしているように見えたけれども、その全ては神回避され、当たらない。
俺のスキルレベルは、その攻防の一部始終を目で追える境地にまで到達していた。
俺の観察眼は、『曇りなき眼』を限界突破しさらなる上位スキル『開眼一晴』を会得したことによって、高まっているのだ。
決着は、すぐについた。
一度も剣を構えることなく、まなかさんの勝利である。八雲丸さんは、着地の際に一瞬だけ動きが止まる時がある。地面が凍ったり、ぬかるんだりしていると、滑ってしまうようなのだ。
その刹那の隙を見逃さず、勇気の踏み込みを見せた大勇者まなか。拳で腹を殴り抜くと、八雲丸さんは打ち上げられ、俺のすぐそばに落下して、ズザザザと滑り、毒の水たまりに突っ込んでしまった。
駆け寄って覗き込むと、意識はあるようだったけれど、戦意は喪失しているようだった。
「なあラック」
「なんですか、八雲丸さん。どこか痛いですか?」
「おれはさ、一生パスタとやらを食わねえと心に決めたよ」
八雲丸さんの嫌いなものリストにパスタが加わった。
「疲れたからしばらく寝る。起こすんじゃねえぞ」
大勇者候補の八雲丸さんは、すねたように丸まって眠ってしまった。
「へいへい、もう終わり?」
ゆったりと歩いてきた彼女が、突ついても全く起きる気配がなかった。
「あの、これ、毒水の中で眠ってしまって、大丈夫なんですかね」
「そうだね、死ぬかもだから、一応、移動しとこうか」
俺は、まなかさんと二人で八雲丸さんの身体を運び、治療魔法を持っている遊女のもとへと届けたのだった。
★
別れ際、まなかさんが、振り返って、こんなことを言ってきた。
「ラック、そういえばさ、まえにあげたラストエリクサー使った? さっきの戦いで誰にも使わなかったってことは、もう強敵相手に使っちゃったんだろうけども……すごいでしょ、あの効果。特別に凄いラスエリだったんだよ」
「え……ええ、まあ。すごかった……です」
俺はまた、嘘をついた。実際は次の日には売り飛ばしていたなんて言えるわけない。罪悪感に包まれてしまった。
「ここで会ったのも何かの縁だからね。今回も新しいアイテムをプレゼントしよう。大黒龍玉の場所を見破ってもらった御礼ってことで」
そうして握らされたのは、またしても麻袋だった。前回の中身は『ラストエリクサー・極』だったが、今度は何だろうか。
「これはね、ずっと昔にオトキっちが大暴走した時の桁違いに巨大な黒龍玉。その欠片を粉にしたもの。薬の原料とかになる貴重品だよ。買うと信じらんないくらい高いんだから」
受取った『鑑定アイテム:謎の粉』を鑑定してみると、『黒龍玉の粉・極』になった。
「コレ、ひょっとして、雨を呼ぶアイテムとかにもなったり?」
「なるなる。さっすがラック。曇りなき眼を大切にね! それじゃ、わたしはパスタが待ってるから、またねッ」
「え、あ、は、はい、ありがとうございます」
俺が感謝の言葉を口にし終えて、顔を上げた時にはもう、彼女は俺に背を向けて、緑のスカートを揺らしながら走り去っていた。慌ただしくて、とても軽やかな別れだった。またいつか会えるだろうか。
闇に浮かぶ白いブラウスが、遠ざかっていく。風を切り裂き、颯爽と去っていく。
「まなかさん、本当にありがとうございます」
俺は米粒みたいに小さくなった救世主の背中に頭を下げた。
これにて、周囲には誰もいなくなったのだった。イトムシと黒蛇以外は。