第168話 花の香りの遊びの廓
花の香りがする。
それも、ただ一種類ではない。上品に咲き誇った花束の中に迷い込んだような、そういう複雑な香り。
そよ風が吹いていて、数秒に一度は香りが変化していた。芳しい色のついた風が、つぎつぎに俺の鼻を満たしていく。
ここは、どこだろう。
目を開くと、視界が横倒しになっていた。
床に手を触れてみると、ざらざらしていた。畳の感触に似ていた。いや、え、待てよ、似ているというか、これは畳だ。
「何だ……」
まさか現実世界に帰ってしまったのか。
そう思いながら、身体を起こしてみたが、まだ頭が重たくて、顔を上げることができなかった。
頑張って、だんだん頭をあげていくと、目の前にぼんやりと花柄が見えた。和風な着物の柄のようだった。元気な黄色い花だった。すぐ横にも別の着物の花柄が見えた。落ち着いた青色の花だった。どうやら両方とも、膝のあたりの布地に咲く花のようだ。
二人の女性が、畳の上に座っているようだ。
さらに頭を上げ、くもったままの目で二つの影を見ると、その服装になんとなく見覚えがあった。
あれは、そう、ザイデンシュトラーゼン城を守る三人の女性のなかで、最も口の悪い女の子。
「あれ、タマ……サ……?」
そう、タマサ。はだけてあらわになった肩が艶めかしい着物姿。タマサの着ていた真っ赤なものよりは色が落ち着いていたものの、タマサの服装と同じような着こなし方をしていた。
「ようやく起きましたね」
けれど、それはタマサではない。タマサだったら、「やっと起きたかよ待たせやがってゴミが」みたいな発言をするはずだし、そもそも声が違う。ようやくクリアになった視界で、よく見てみてみたら、やっぱり全然違う人だった。
二人並んで女性らしい座り方をしていて、どちらも美しい人だ。
しかも、二人の女性は、胸の大きかったタマサと同じくらい、いや、それ以上……もしかしたらアンジュさんの上をいくほどの大きさを誇っていた。
深淵のごとき谷間が俺を見つめているような気がした。
目のやり場に困り、思わず俺は目を背けるしかない。
「どうしたのです? ラック様」
着物女の一人が言った。
「あぁ、いえ、タマサに服装が似ていたものですから」
すると、二人は顔を見合わせてから一瞬のうちに俺のすぐそばに寄ってきた。
「タマサ!?」
「タマサをご存知でありんすか?」
すごい迫力だ。そして二人とも、ものすごい嬉しそう。
さらにさらに、目の前の二人の声を皮切りに、ふすまがスパンと開いたり、障子がガタンと外れたり、天井にガスンと穴が開いたり、畳がズバンと跳ね上がったり、縁側がドタンと音を立てたり、まるで大量の忍者が隠れていたかのように、わらわらと肩のはだけた着物女性があらわれて、俺を取り囲んだ。
みんな肩とか腰とかをぶつけながら、俺に向かってきて、息がかかるくらいの顔の近くに寄って来たり、腕にしがみついてきたりしながら、次々に言うのだ。
「タマサだって?」
「元気だった?」
「どこにいるの? いま何してる?」
「タマサのこと好き?」
「わちきのこと何か言ってたでありんすか?」
「タマサ、まだあの話信じてる? アカクチバシ鳥が赤ちゃん運んでくるって」
「そうだ! タマサに彼氏できた?」
「もしかして君が彼氏とか?」
やいのやいのと大騒ぎ。タマサちゃん大人気であった。
起き抜けに多くの質問をうけたことによる混乱に加え、柔肌を押し付けてくるたくさんの女性のいい匂いにクラクラして、俺は再び倒れかけた。けれども、受け止めてくれた人がいた。最も胸の大きなひとだった。ふわふわの胸に後頭部を埋める形になる。
やわらかな、ぬくもりに包まれて。
ああ、俺は今、経験したことのない幸福感に包まれている。
ここは何なのだろう。夢の世界だろうか、それとも天国に迷い込んでしまったのだろうか。
「これはこれは、ラックさん。目覚めて二分もたたずに早速のハーレムプレイとは、さすがのプレイボーイでございます」
マイシーさんの声が、俺を楽園から引き戻してくれた。
俺は首根っこを掴まれ、畳の上に投げ転がされた。
どよめきのなか、マイシーさんが、俺を威圧的に見下ろしている。
妖艶な着物女性のあとにみると、このカタブツ感あふれる強い女性は、より真面目に見えてくる。なにせ、銀色の鎧を着た姿勢の良い騎士のような人だから。女性でありながら男性っぽさすら感じさせてくる。
「ラックさん、夢の中だと思って大暴れなさるのはオススメしませんよ。なぜなら、この場所は夢でもなんでもなく、オトキヨ様の遊郭なのですから」
★
畳も天井もふすまも元通りになったところで、八角形の机に向かい合って正座して、俺はマイシーさんの説明を受けた。
「眠っているあなたをここに運んだのは、わたくしです。といっても、わたくしがあなた様に直接触れると、怒られるような気がしましたので、運搬のための屈強な男性人形を生み出して運ばせましたが」
「もしかして、この遊郭の人たちもマイシーさんの人形?」
「はぁ、いえ、今のは失礼ですよ? ここの人たちはみんな、誇り高き働く女性たちですから」
「あ、ああ……すまん」
「そんなこともわからないということは、つまりラックさん、移動中は一度も目を覚まさずに……?」
俺は頷いた。
「ここがどのあたりなのかも、わからないと」
「そうなります」
「では、まず場所から説明しましょう。ここは、ネオジュークから東。フォースバレー地区の西端にある深き谷の遊郭集落ラキア町」
フォースバレーの西か……。
「じゃあ宮殿からは、ちょっと西に戻ってるわけだな」
「そうなります」マイシーさんは頷いた。「集落のなかでも一番深いエリアに建てられたのが、このラキア遊郭。障子の向こうに見えるのはホーンフォレスト池といいます」
てのひらを向けた先には、障子がピタリと閉まっていたが、まるで自動ドアのようにするするっと開いた。
縁側の向こう、遠くに澄んだ池と細い滝が見えた。
「ここは小さな径が入り組んだ、町全体が隠れ家のようなところです。まるで蟻地獄の巣のような形をしていまして、底にあるのがあの池です。あの池の小舟から空を見上げたときの景色などは神々しさすら感じるほどですよ」
それは気になる、あとで行ってみよう。
「地形としては盗賊の隠れ家にしやすそうな地形ですが、なにぶん風光明媚なため、かつて貴族の資本によって、観光地として発展してきました。超高級料亭があり、遊女たちが芸を振舞う茶屋があり、そして宿泊施設が多く軒を連ねる小さいながらも賑やかな町でした」
「遊郭のための町なのか」
「だった、と言った方が正確ですね。今は過去の事。実は、オトキヨ様が遊女たちの置かれた状況を憂慮しまして、職業遊女たちのいる土地を全て買い占め、その職業を消滅させましたので、かつての遊郭と呼ばれる場所はなくなりました」
「でもここは、遊郭なんだよな」
「ええ。限られた人しか入ることのできない、新しいタイプの遊郭です」
「新しいタイプ……?」
「要するに、ここの女性たちは、誰も、いわゆる『女を売る』ような仕事からは足を洗っています。リニューアルしたのです」
「じゃあ、さっきうっかり触ったり、不可抗力だが胸に飛び込んでしまったのも、もしかしたら違反なのか?」
「褒められたことではありませんよねぇ。なにせ、ここにいる方々は、みんなオトキヨ様の妻ですから」
妻?
今、妻と言ったのか?
違和感がすごい。これまでオトちゃんは、可愛い幼女かオトナの女性の姿しか見せていない。
だけど、妻をもらっているとなると、オトちゃんじゃなくって、むしろ「お父ちゃん」ということになるじゃないか。
だとしたら……。
「ラックさんのご想像通りです。あるのですよ、男性バージョンが」
マイシーさんがそう言って立ち去るのと入れ替わるように、障子とは反対側のふすまがズバンと勢いよく開いた。
「その通りじゃあ!」
威厳のある渋い声とともに、男らしいスーパーイケメンな男性バージョンが姿を現した。ばばーん、って感じだ。はだけた黒い服が、ところどころ破けているのも男らしさを演出している。
二メートル以上あろうかという大男。
その引き締まったデカい筋肉、力強い下あご、濃ゆい顔面、短髪のよく似合う豪快系イケメン男が、両腕に着物の女性を抱きかかえながら登場し、ゆっくりと歩み寄ってきて、やがて二メートル前くらいで立ち止まった。
「喜べ、ラック! 特別じゃ! おぬしに、わしの嫁たちを貸してやる!」
これまでのオトちゃんに戻ってほしいと俺は思った。こんな野太い声がオトちゃんと同じ中身なんて、思いたくない。できればオトナ女子バージョンがいいと願うばかりだ。
「好きなだけ遊んでいくとよいぞ!」
大きな男たちの後ろには、何十人もの女性たちが、姿勢よく座って俺に甘めの視線を送っている。
場違いなところに来ちまった、と、俺は嫌な汗をかいていた。