第10話 ゆきずりの冒険者(7/10)
緑のスカートが目の前で揺れている。その横には赤い鞘の剣がある。見上げれば白いブラウスが太陽の光を浴びてとてもまぶしい。すらりとした長身の彼女は長い腕を差し伸べてきていた。
まなかさんが差し伸べた手を掴む。すべすべの手は、少しひんやりしていた。彼女の手で引っ張り上げられて、また一つ、岩場を乗り越えた。
草原エリアから石畳の道を行くと、分かれ道があった。
片方はそのまま石畳の道で、これはホクキオ市街に行く平坦な道だという。
もう片方は、あまり整備されていないような道で、草原がハゲて生まれた細い道だった。こちらは、進むにつれて標高が高くなっていく道で、アヌマーマ峠という山賊が出る道なのだそう。
というわけで、まなかさんと俺は、山賊アンジュを懲らしめるために、アヌマーマ峠の洞窟に向かっていた。
やがて道は獣道となり、うっかり転落したら死ぬようなゴツゴツとした岩場が広がるようになり、そして今、まなかさんの手で引っ張り上げられて、次の岩に飛び移ったところである。
ふらりとよろめいたところを支えてもらって、実に頼もしい。細い身体な上に動きにくそうな貴族風の服装なのに。
さて、そんな感じで、俺は虎柄のツナギを着て、異世界の道なき道を行く。導き手のまなかさんの話によると、この防具は、防御力が高くない最弱アイテム。ただし、素材を集めて限界突破した防具鍛錬スキルで五段階ほど鍛えると最強クラスになるという。要するに、それっていうのは、一つのやり込み要素ってやつだろう。
虎柄のツナギは、着心地は悪くなかったし、薄い布一枚でもあたたかかった。身も心もあたたかかった。
「いやあ、服っていいっすね。人間として生きているっていう実感がわいてきましたよ」
俺がそう言うと、隣を歩くまなかさんは、
「あのさ、ラック、ここ死ぬ寸前の異世界だから。魔王倒さないと戻れないから」
そんな風に、冷たいツッコミで、現実めいたものを突き付けてきた。
しかし、だ。魔王倒せば戻れるとはいっても、俺はそんなに現実に戻りたいと思っているのだろうか?
だって、現実になんか戻っても、好きだった人には告白して振られた手前、気まずいし、大学院では永遠に続くかのような研究漬けの日々が待っているだけだろう。
だったらさあ、もうこの世界に永住していてもいいんじゃないの。特に罰則がないんだったらもうそうしたいよ。
「まなかさんは、この異世界と現実の世界、どっちが好きですか?」
「わたし? わたしはねぇ、ここのほうが現実だと思ってるよ」
なんだろう。それって現実逃避しているような言葉にきこえる。現実の世界でツラいことでもあるのだろうか。
「大丈夫ですか? 俺、相談に乗りますよ」
「あはは、やめてよ」
俺の調子に乗った発言は軽くあしらわれた。そして、はぐらかすように、
「あ、見てラック。野生のモコモコヤギがいるよ」
「モコモコヤギ?」
まなかさんの視線の先には、ずんぐりと立派な白っぽい毛で胴体を覆われた獣の姿があった。顔は黒く、あごひげは黄金で、体毛は長く、くるくる巻いている。黒い頭から二本生えている白い角もぐるぐるとネジれていて、刺されたらすごく痛そう
野生のモコモコヤギはこちらを向いた。目が合った。ジャンプ一番、襲い掛かってきた。
上空六メートルくらいから前足を突き出して落ちてくる。
「ええっ、ちょっ」
なんとか避けた。俺を蹴飛ばす気だ。
「ラック、いい? モコモコヤギは、一説には魔王の使いとも呼ばれてて、凶暴で人間に恨みを持っているから、気付かれたらすぐに向かってくる。こういう場所で戦うのは慣れてないと危ないから、絶対に見つからないように」
「おそいおそい、もう襲われてるぅ!」
続いて、モコモコヤギは角をこちらに向けて突進してきた。
「う、うわあああ!」
咄嗟に角をキャッチして受けとめたが、すごい突進力だ。その勢いで、またしても落ちそうになる。
俺のツナギの腰の部分をまなかさんが掴みあげて、何とか事なきを得た。命の恩人だ。
ヤギだけが落ちていった。
しかし、モコモコヤギは落ちながらも空中で姿勢を整え、岩場にストンと着地して、怒りの目を向けている。俺が何をしたというのだろうか。たしかにアンジュさんに食わされた肉について「野生のモコモコヤギの肉よ」みたいなことを言っていた気がするけど、知らなかったんだ。そんなの。
料理したのも食べさせたのもアンジュさんだ、アンジュさんが悪いんだ。
俺は悪くない!
まなかさんは言う。
「ふぅ。危なかったねラック。落ちてたら死んでたよ」
そして、さらに続けて、
「モコモコヤギは美味しいんだけどね、野生のは臭くて硬くって食べられたもんじゃないんだよね。飼育されている食用のモコモコヤギは脂も甘みがあってやわらかくて、ほどよく獣っぽさも残ってる上に甘みもあって、料理の材料になるんだよ、パスタソースにするともう絶品。でも野生が落とす『かたい肉』は特に必要ないアイテムだね」
野生だと肉はかたいのか。でも、アンジュさんの調理したものは柔らかかったな。料理スキルがあったからだろうか
「だからさ、モコモコヤギなんてザコは放って進んでもいいと思うよ。ただ『黄金のヒゲ』と、『黒山羊の巻き角』は装飾品とか武器に使えるから、狩っていってもいいけどさ」
その発言がモコモコヤギ様の反感を買ったみたいで、下から「マァー!」とか叫んで上がって来た。怒り狂っている。
――とはいえ、レベルの上がった俺なら、なんとかなるんじゃないか。
俺は少し広めの岩場に飛び移り、モコモコヤギと戦うことにした。
年上の女に助けられてばかりの俺じゃない。ちょっとは良いところを見せたいじゃないか。
「うおおおお! くらえええ!」
連続ヒットした。
ヤギの攻撃が。
俺の体当たりは全く効かなかった。
ならばと繰り出した拳をするりと避けたモコモコヤギは、前足の蹄で軽いジャブをくらわせてきて、ひるんだ俺に、こんどは後ろ脚の蹴り飛ばし、叫びながら落ちてきたところでツノの一撃を見舞った。幸い、角度が浅かったため貫かれることはなく隣の岩場に転がる結果となった。
ああ、なんというか……。
なんというか、これはダメだ。
山に生きるしなやかな野生動物は俊敏すぎる。小型犬やスライムとは全然違う。今の俺ではレベルが足りなくて勝てる気がしない!
俺は逃げようと岩を登り始めたが、これも引きずり降ろされ、俺はヤギ相手に必死の命乞いをしたのだった。
「しょうがないなぁ」
まなかさんは苦笑いしたのち、一閃。
剣を鞘にカチンと納めた時には、あれだけ強かったはずのモコモコヤギは、立派な角を滑らかな断面で切断され、顎にあった輝く黄金の毛も胴体にあったモコモコフワフワの毛も、さっぱり剃り取られ、空に舞い上がっていった。
素肌があらわになる。全身が真っ黒だった。
裸にされたモコモコヤギは、実はやせ細っており、そのくびれた肉体を躍動させながら一目散に逃げて行った。恥ずかしかったのだろうか。あるいは寒かったのだろうか。岩から岩に飛び移りながら、草むらに飛び込み、見えなくなった。
あのモコモコヤギは、命がとられなかっただけ運がよかった。まなかさんは、あらゆるモンスターにとって突然の災害みたいなものだからな。
彼女は、地に落ちたアイテムを拾い上げて、言う。
「このモコモコヤギの巻角は、野生だと一センチのびるのに一年かかるから、貴重といえば貴重だね。飼育されているヤツは圧倒的に成長が早くて一年で十数センチのびて、二年くらいしたら生え変わるんだよ」
それを聞くと、野生と飼育されているやつは完全に別種のような気もする。
とにかく、ひどい話なのは、長い時間をかけて育った角を、あんなに一瞬で刈り取るっていう行為だ。そういう知識を持ちながら平然とやり切る彼女は正直な話、外道としか思えない。
長年かけた学術研究の成果をあっさり盗まれるみたいな絶望感がありそうだ。現実の人間社会だったら、そんなの何があっても許されないだろう。
でも、この『マリーノーツ』とかいう世界の辺境地『ホクキオ』は、どう考えても野生の弱肉強食世界だから仕方ないのだ。
だって転生したての右も左もわからない赤ちゃんみたいな俺から、巧妙な手口で持ち物を奪う輩がいる世界だぞ。未開で野蛮じゃなくて何だと言うのだ。
だから、仕方なかったんだ。あのモコモコヤギは可哀想だったけど、敗北という現実を受け入れて、また何年もかけて立派な巻き角を育ててほしい。その頃には俺のレベルもきっと上がっていて、モコモコヤギさんと戦える強さになっているはずだから、その時に、また正々堂々戦おう。
そうだなぁ。十年くらい待っていてくれって感じだ。
「いっやぁ、えらい強いヤギでしたね」
「言われてみると、普通よりは圧倒的に強かったかな。大っきかったし。だから、ラックが弱くて弱くて弱すぎるとか、そういうことじゃないからね」
「くっ、無理になぐさめてくれなくてもいいんですよ。年上の女の人がいないと服の一つも手に入れられないモヤシ野郎ですみません」
「そんなに卑屈になってたら魔王倒せないよ?」
「それは、ちょっと困るような……」
「でしょ。ま、とにかく、この角は、ラックにあげよう。幸運を招くと言われてるラッキーレアアイテム」
「え、どうもありがとうございます」
俺は感激の中で『鑑定アイテム:謎の角』を手に入れた。
育つのに時間がかかると聞くと、呪いとか宿ってそうで少しおそろしいように思える。でも、それ以上に、年上の女性からのプレゼントというのは、俺にとってはとても嬉しかった。
大切にしよう。