第1話 プロローグ
岩山に転がる巨岩の上で、俺は拳を握りしめていた。
眺めのよい高い所だったけれど、開放感よりも緊張感のほうが強い。
透き通るような青空や、緑に包まれた美しい大地や、どこまでも伸びていくような石畳の道、そしてオレンジ屋根の町並みなどを楽しんでいる余裕など全くなかった。
転落の危険があるから、というのもあるけれど、緊張の主な原因はもっと別のところにある。
岩の足場の上、異世界で初めて手に入れた服を着て、魔物と対峙していたのだ。
俺が着ているツナギ型の戦闘服はトラの柄だからな、草食獣を襲う猛獣……という立場になれたらいいんだが、いかんせん、俺のほうがサイズが小さくて、狩られる側のような気分である。
――野生のモコモコヤギ。
目の前の体長二メートル以上の敵は、モコモコした毛並みからモコモコヤギと呼ばれる獣だ。魔王の使いとも呼ばれているらしい。山羊といえば、おとなしい草食獣のイメージが強いけれど、こいつは例外。凶暴で獰猛で人間に対して恨みを持っているのだという。
ずんぐりとした胴体は、立派な白っぽい毛で覆われている。顔は黒く、あごひげは黄金だった。体毛は長く、くるくる巻いており、このへんはヤギというより羊っぽい。黒い頭から生えている二本の白い角もぐるぐるとネジれていて、ひとたび刺されたら簡単には抜けなさそうだ。
俺は戦いを好まない平和な性格をしているのだが、向かってくるのだから仕方ない。野生の世界では、か弱い草食獣だって、時に襲ってきたやつを撃退することもある。相手してやろうではないか。
「レベルが上がった俺の力、見せつけてやる!」
年上の女に助けられてばかりの俺じゃないってことを証明してやるんだ。
俺はしっかりと敵を見据える。
横で見守っている背の高い女性に良いところを見せようと、苔むした岩肌を思い切り蹴って、モコモコした胴体めがけて突進していった。
「うおおおおお! くらえええええ!」
まずは体当たりをして、バランスを崩したところを連打で攻めてやろう。
接触、衝突、ぴくりともせず。
「あれぇ?」
野生のモコモコヤギのふわふわの毛は、あっさりとダメージを吸収してしまった。
俺は慌てて拳での攻撃に切り替えるが、素早く回避された、かと思ったら前足で軽いジャブをくらわせてきた。
「うぐ」
ひるんだ俺に、今度は両方の後ろ足で蹴り飛ばし。
俺は上空に打ち上げられた。
「ぎやあああああ」
などと情けない叫び声を上げながら落下していく。そして、落ち際の俺を待っていたのは、地面ではなく、巻き角での突き刺し攻撃だった。
こんなのに刺さったら、死ぬ。
なんとか身をよじって、串刺しは免れたけれども、十数メートルは吹き飛ばされて、隣の平たい巨岩に横たわる結果になった。
一気に瀕死状態である。この虎柄の戦闘服、防御力高いんじゃなかったの?
「……強すぎない? 序盤だよ?」
困った顔を見せつけてヤギ相手に相談してみたけれど、ヤギモンスターは相変わらず俺をにらみつけるばかりで、返事してくれなかった。
「こうなったら奥の手を出してしまうしかないようだ。まなかさん、準備はいいですか?」
俺は、パーティーメンバーである年上の女性に話しかけた。
名を冒険者まなかといい、背の高い美女である。白いブラウスに緑のスカート、剣の入った赤い鞘を装備している。俺に戦い方を教えてくれた師匠だ。
「走りますよ!」
そうして俺は岩に手をかけ、上へ上へと登っていく。
「さあ早く! いきましょうよ、まなかさん!」
岩の凹んだところに手をかけて、急いで登っていく。つまり、「逃げる」を選択したのだ。
「…………」
まなかさんは、ついてきてくれず、下から呆れたような視線で見上げている。
「ゴハァ!」
大きな岩を一つ、のぼりきろうかといったところで、肩にひっかけられる黒い前足。背中から地面に落ちて大ダメージを受けた。
「ヤギさん、ごめんなさい、命だけは! 俺の冒険はまだ始まったばかりなんだ!」
両手をのばして手のひらを向け、降参のポーズ。
だけどもヤギは待ってくれない。だってヤギだからね、言葉なんか通じない。頭を低くして突進してくる。怒りの形相だ。俺が何をしたっていうんだ。どうやら巻き角で今度こそ俺を串刺しにする気らしい。
土ぼこりをあげて迫ってくるヤギ型モンスター。
――ああ、これは死んだな。
座った姿勢のままでは、すぐには動けないし、いざとなると身がすくんで動けないものだ。俺はこんな序盤で、まだ旅立ちも済ませていないままに死ぬのか。
しかし、そのときである。待ちに待った救いの声が響いたのは。
「もう、しょうがないなぁ、ラックは」
「まなかさん!」
彼女は、俺の首根っこを掴んで敵から距離をとると、俺を守るように前に出て、野生のモコモコヤギと真正面から対峙した。
頼もしい白い背中。はためく緑のスカート。
また俺は、女の人に守られてしまった。
赤い鞘から黄金の剣が抜かれた、かと思ったら、鞘に収まる音がした。目にもとまらぬ斬撃だった。
立派な角は滑らかな断面で切断され、顎にあった輝く黄金の毛と、胴体のフワモコの毛が剥ぎ取られて、青空に勢いよく舞い上がった。
全身が真っ黒の、痩せ細った肉体があらわれた。
裸にされたモコモコヤギは、そのくびれた肉体を躍動させながら、一目散に逃げていった。恥ずかしかったのだろうか、あるいは寒かったのだろうか、本能的に勝てないと悟ったのだろうか。
岩から岩へと飛び移りながら、やがて草むらに飛び込み、見えなくなった。
勝利だ。
「……いっやぁ、信じられないくらい強いヤギでしたね」
「言われてみると、普通より強かったかな。やたら大っきかったし。だから、ラックが弱くて弱くて弱すぎるとか、そういうことじゃないからね」
「くっ、無理になぐさめてくれなくてもいいんですよ。年上の女の人がいないと服の一つも手に入れられないモヤシ野郎ですみません」
俺はその場に座り込んだまま、うなだれているしかなかった。
「そんなに卑屈になってたら魔王倒せないよ?」
それは困る。魔王を倒せないと、もとの世界に帰れないのだ。
★
そもそも、なんで俺がこのゲーム的な異世界に来てしまったかというと、年上の女性にふられたからだ。
いや、実を言えばそれが直接的な原因ではないのだが、俺が失意のまま市街地をうろつくきっかけを作ったのは、その事件だった。もしふられなければ、そのまままっすぐ家に帰っていたはずだからな。
あの日、二十三歳の真冬だった。二月くらいかな。そのひたすら寒い月のなかでも中旬だったかな。いやもう嫌な思い出すぎて細かく思い出したくないんだけども。
その日、俺は大学生から大学院生になる意思を固めた。
受験して受かったんだ。めでたい話だろう?
ところが俺には虚無感しかなかった。
なんでかっていうと、毎週三日は喫茶店で話すくらいにイイ感じの関係になってた女の人にふられたからだ。その理由が、就職せずに大学院を選んだからとのこと。まったく現実ってやつは厳しい。
その人は、年上のおねえさん。健康的な褐色の肌で、胸が大きくて、妖艶で、服装が派手派手で、なのにちょっと子供っぽくてかわいらしくて好きだった。
だけどふられてしまった。
おかしい。このせかいは間違っている。
だいたいにして、こないだ行きつけのファミレスで「大学院に行こうと思うんですけどどう思いますか」って相談した時に何も言わないで微妙な笑みを浮かべた後に話題を変えたくせに、大学院行くって決めた途端にふられるってどういうことなんだよ。
まったく、わけがわからねぇ。
きっと仲のいい優秀な後輩女子なら、その理由を詳細に分析とかしてくれるんだろうが、彼女に相談する気も起きないほどに、元気を失っていた。
そして俺は、ふられた後、ぼーっとしながら知らない町を歩き回ったんだ。
冬の空気は冷たいけれど、もこもこの羽毛入りアウターを羽織り、使い捨ての貼るカイロをくっつけて服の内部を温め、分厚い手袋と緑っぽいくすんだ色のマフラーを装備していた。強いて言うなら、耳が冷たくて取れそうだと思ったけれど、フードをかぶることでいつでも解決できる。
自然の猛威に負けない、文明にあふれた服装を誇りに思いながら、知らない道から知らない道へと移動していく。
川沿いの細い道を、ひたすら下っていく。
歩いて歩いて、足が痛くなるまで歩いた。足が痛くなっても歩いた。さいわい、都会のまちってのは、交通機関が充実していて、ちょっと広い道を歩けば駅や停留所が現れてくれるし、タクシーなんかを拾うことだって簡単だ。
それをいいことに、歩き続けた。
ふと気付くと頭の中で、なんでふられたんだろう的なことを考えながら歩いていた。そりゃ大学院に行くとか言い出したからでしょっていう結論は出ているのに、「なんで」ばかりが頭の中をめぐり続けていて、他のことを考えても、すぐに彼女に行き着いてしまう。
気持ちの整理がつかないってのは、こういうことをいうのか、とか呟きながら、ハハハと笑ってみたりした。虚無感しかなかった。
人間ってのは、まったく、なっちゃいない。
たかが失恋くらいで落ち込むなんて、欠陥製品なんじゃないの。
修理が必要なんじゃないの。
俺の人生、高校二年あたりからやり直させてよ。
そして俺は、全力の溜息を吐き、こう呟いたんだ。
「ああ、誰も知り合いのいない世界に行きたい。誰も自分を知らない世界に行きたい」
そしたら、俺は本当に異世界ってやつに飛ばされてしまった。
★
まったく、せかいってやつはよくわからん。
俺の気の迷いみたいな変な願い事ばかり叶えてくれて、せめて人並みに幸福でありたいっていう、まじで普通の願い事は全く叶えてくれないんだからな。
だけど、今にして思えば、それでよかったのかもしれないと思う。
だって、この異世界に迷い込んだおかげで、運命の人に出会えたのだから。
――さて、俺の運命の人は、どんな人なのか。
案内人を名乗る嘘つきの女の子なのか、かつて氷の魔女と呼ばれた女の子なのか、研究熱心な黒髪の美女なのか。
まさか禍々しい獣を生み出す女とか、露出の多い褐色山賊女とか、もしくは人間ですらない神聖な何かが運命の相手だとか、そんなことは、あってはなるまい。
いずれにしても、現実世界で出会ったあれこれに縁はなかったのは確かだ。どんな形であれ、『エリクサー』と名の付くものをめぐって出会った誰かと縁があったんだ。
異世界『マリーノーツ』の究極の霊薬たち。
エリクサーでも、ラストエリクサーでも、ミラクルエリクサーでも、アルティメットエリクサーでも……そして、ファイナルエリクサーでも。
もしかしたら、さらなる未知のエリクサーがあるかもしれない。
世界の果てへの旅を終えた時、俺は一体、何を得られるだろう。
溜息を吐き、空を見上げる。
美しき異世界の、現実感のない満天の星空を。
そして思い出す、この世界の草原に降り立った日のことを――。