◆006. ぬいぐるみ
「問題ないようですね。食欲もあるようですし、もう大丈夫でしょう」
様子を見に来てくれた医者の診察を受けていた。経過良好、問題なしとのことだ。
食事も、重湯から、グズグズになるまで煮た野菜、三分粥、五分粥と段階を経て、今ではもう普通の食事をとっている。
熱が下がってから、二週間が経っていた。未だに、父とは会えていない。
父の朝は早く、帰宅は夜遅い。
早起きして、話をするのはナシだ。朝の忙しいときに来られても困るだろう。
狙うのは帰宅時だ。元々、父との数少ない交流はそのときくらいだ。早めに帰ってきた父を黒羽たちと出迎えて、「おかえりなさい」と言うときだけ。それすらも発せずに、ただただ俯いていた。
一応、夜更かしも試みた。ダメだった。待ちきれず眠ってしまう。
(一週間に二回くらいは会えていたと思ったんだけどなあ)
この二週間は、主に部屋でおとなしく過ごしていた。
一人でいるときは、発音の練習をしていた。口を大きく開けて、口と舌を動かしたり、思いつく限りの歌を歌ったりした。
誰かの手が空いているときは、絵本を読んでもらったり、話し相手になってもらっていた。みんな快く相手をしてくれた。
みんなと話をしていて、わかったことがある。
三人の中で、一番の古株は黒羽で五年ほど前、私の生まれる前からいる。大地は二年、隼人は一年前くらいからここで働いているらしい。
他の人がいたこともあるらしいが、私は全く覚えていない。
母のことを尋ねると、大地と隼人は会ったことがない、黒羽は話したがらない。三人とも、最後は「良い子にしてたら――」だ。
父のことは、仕事以外のことは話さないからよくわからない、だそうだ。歯切れが悪いので、思うところはあるが、言わないだけなのかもしれない。
さらに一週間が過ぎ、私の誕生日から一ヶ月近く経った頃、とうとう父に会う機会がめぐってきた。
待ち望んでいたのに、緊張と不安に押し潰されそうになっていた。五歳の菖蒲が培ってきた、父を怖いと思う感情が大きい。心がモヤモヤする。視線を床から外すことができない。
庭で出迎えた大地とともに、父が玄関に入ってきた。
「おかえりなさいませ」隼人と黒羽が対応する。
(わ、私も!)
渇いた口の中を潤すために、唾液を集めて飲み込み、グッと拳を握った。
「お、おきゃーにゃしゃい」
なんとか声を出すことができた。でも、顔が上げられない。
父の足が、私の前でとまった。
「ただいま」
頭の上から、声がした。久しぶりに聞いた声に緊張が解けていく感じがした。ゆっくりと顔を上げた。
父は私を睨んでいた。長い前髪で、顔の半分が隠れている。あの、顔にモヤがかかっていて、目が一つだけ光っているイメージは、このせいだろう。
父に近づき、足に抱きついた。「おっ」と大地の声がした。
「きゃお、きょわい」
抱きついていた足がビクッとして固まった。他の三人も固まったような気がする。
「おきょってりゅ?」
少し間をあけて、「怒っていない」と聞こえてきた。足から離れ、父の顔を見上げ、両手を広げた。
「だっきょ」
父はゆっくりと私を抱き上げた。左腕に座らせるような格好で、右手は背中を支えてくれている。
正面から父の顔を見た。とても眼光が鋭い。下から見ると余計に怖い。たぶん、父は睨んだつもりはない。こういう顔だ。
顔の左半分を隠している長い前髪に手を伸ばした。父は頭を少し引いたが、構わずに右手で前髪をすくい耳にかけた。
大きな傷痕があらわになる。左の額から頬にかけて火傷のような痕があった。目は無事のようだが、眉毛とまつげはほとんどない。
「いりゅか、あーがと」
「気づいてたのか」
ぬいぐるみは、『イヌ』『ゾウ』『ネコ』『キリン』『イルカ』の順に『1』から『5』の数字の入ったスカーフをしていた。『5』のスカーフをしていた『イルカ』は記憶になかった。いつの間にか増えていた新顔さんだ。
誕生日プレゼント――、だと思った。
スカーフは、緑色の布に紫色の花と数字の刺繍が施されていた。『1』から『3』までは、そういうスカーフが売られていると思った。でも、『4』と『5』のスカーフを見たときに違うと気づいた。
「すみれみたいにうまくはないが」父がボソッと呟いた。
(やっぱり)
『4』と『5』のスカーフは、花と数字の刺繍が、歪んでいた。母が亡くなってからは、父が刺繍を刺しているのではないかと思った。そうだったらいいなと思った。
母が亡くなってから父との交流はほとんどなくなってしまった。私が泣いてばかりいたせいかもしれないが、父からの接触もなくなった。
私への愛情がなくなってしまったのか、と不安だった。もしそうだったら、と思うと怖かった。心のモヤモヤは、寂しさだ。
「へちゃでも、うりぇし」
父の首に抱きついた。
「わたしゅのこちょ、しゅき?」
父の腕に力がこもった。
「もちろん。大好きだ」
「ふっ、うぅ~、うっ」
涙があふれた。止まらない。聞きたかった言葉が聞けた。嬉しい、安心した。良かった。
前世の記憶を得ようが父は父だ。自分の中身が大人になったとは思えないほど、父を慕う気持ちがある。母を求めて泣いていたように、父を求める気持ちもあった。
ただ、怖かっただけだ。見た目もだが、拒否されることも怖かった。母を求めて泣きながら、これ以上悲しいことがないように、自分の殻に閉じこもっていた。
父は私をあやしながら、大地たちに指示をし、歩きだした。着いた先は、私の部屋だった。
部屋に入ると、ソファーに座らされた。隣に父も座り、ティッシュで涙を拭いてくれた。
「大丈夫か?」
「うん」
少し鼻をグズらせながら、頷いた。
ソファーから下り、イルカのぬいぐるみを本棚から持ち出し、父に渡した。「はい」と、両手を父に向けて差し出す。父は戸惑っているようだ。
「くだしゃい」
もう一度、両手を差し出した。すると、父の顔がほころんだ。
「菖蒲、お誕生日おめでとう」
イルカを手渡してくれた。
「あーがと」
父から受け取り、イルカを抱きしめた。父の手が優しく頭をなでてくれた。
変えたかった状況、父と全くと言ってよいほど交流のなかった状況を変えることができた。
父が早めに帰ってきたときは、父と過ごすようになった。お風呂も一緒に入るし、食事も一緒にとるし、一緒に眠ることもある。
正直、お風呂は遠慮したかったのだが、悲しい顔をされて断りきれなかった。大地と、大地がいないときは隼人と入っているので、なおさらだ。
これは後に、父と過ごしていく中でわかっていくことなのだが――。
父は、母がいないと泣きじゃくる私にどう接して良いのかわからなかった。やがて、父のことが嫌で泣いているのではないか、と錯覚するようになった。結果、近づけなくなってしまったらしい。
元々、見た目のせいで、子どもに好かれることがなかったらしく勘違いに拍車をかけたようだ。
父は自分の姿を見たら泣くと思い、私が眠っている間に顔を見に来ていた。ぬいぐるみもその時に置いていっていた。
帰りがしばらく遅かったのは、私が熱を出している間、仕事が手につかずに溜まってしまっていたからだった。
大地たちは、私のことを父に毎日報告していた。何をしていたかなど、代わり映えしなくても。そして父はそれをとても興味深そうに聞いていたそうだ。
父のことを聞いて歯切れが悪かったのは、この事をどう伝えたら良いかわからなかったからだった。
お嬢様のこと大事に思ってます、で良いのではないだろうかと思ったが、余計なことは言わないでおこうと、配慮してくれたのだろう。
ちなみに、父と仕事以外の話はしない、というのは嘘で、雑談もしているらしい。
とりあえず、ただ放置されていたわけではなく、気にかけて見守ってくれていたことがわかった。
父は、私が嫌っていない、さらに近づいても怖がらないとわかり、思いきり私を可愛がるようになった。
子煩悩というより親馬鹿といった方がしっくりくるほどにだ。
私はといえば、すっかりお父さん子になった。父を怖いと思う気持ちも心のモヤモヤも、きれいサッパリなくなっていた。