◆004. 父と母
ベッドに、大の字に寝転がった。
私は五歳だった。黒羽は九歳で、隼人は十九歳だ。この家で一番年上は、二十一歳の大地だ。
(一番年上? 一番? なにか、忘れてるような。なんだろう)
両手をお腹に置き、声を出す。
「あー、いー、うー、えー……」
思ったように、話せないのはなぜだろうか。五歳なら、もう少し話せても良いような気もするが、個人差の範囲なのだろうか。
「ふー、ふえー、ふおー、まー……」
ゆっくりと、五十音を声に出してみる。少し発声しにくい音はあるが、概ね問題はないように思える。
ベッドを下りて、本棚を調べる。二段しかない本棚は、小さい私にはちょうど良い高さだ。
絵本や画用紙にクレヨン・色鉛筆、ぬいぐるみが並べられている。絵本は、十冊ほどしかない。『○△□、○△□』というタイトルの絵本を開いてみると、見開き毎に『つん、つん。ツン、ツン』などの擬音が二回ずつ、ひらがな、カタカナの順で書いてあった。
(ひらがなとカタカナ……)
そういえば、話している言葉も日本語だ。生まれ変わったということは、ここは前世の私にとっての未来の日本なのだろうか。
二冊三冊と、絵本をめくっていく。どれも問題なく読めた。どうやら、知らない言葉が自動翻訳されているなどではなく、日本語を使用しているようだ。
書いてある文字と発音が違うなど、そのような可能性はあるのだろうか。考えすぎだろうか。
(あとで誰かに、絵本読んでもらおう)
絵本を本棚に戻し、画用紙を広げる。大量の画用紙に、この部屋とぬいぐるみの絵ばかりが描いてある。
(それもそうか。いつもここに閉じこもって、描いてるものね)
「あっ!」思わず、声が出た。
私は部屋に閉じこもり、絵を描くか、お母様に会いたいと泣いていることがほとんどだった。
大地や隼人と接するのは、食事とお風呂のときくらいだ。黒羽と接するのもお世話されるときと、閉じこもってばかりだと体に良くないからと毎日少し散歩するときくらいだ。
その間、会話はほとんどない。話しかけられても、黙って俯いて終わりだ。
全然、声を発していない、話していない。言葉を聞く機会と、話す機会が少なすぎる。誰かとコミュニケーションをとって、言葉を聞いたり話したりして練習しないといけないのかもしれない。
画用紙に色鉛筆で、『あ』と書いてみた。ヘロヘロで、バランスもひどい。書いた私は『あ』だとわかっているから読めるが、他人が見たら読めなさそうだ。
前世でできたはずの、手での水鉄砲もできなかった。体が小さいからかもしれない。もしくは、この体でもできるようになるためには、一から練習が必要なのかもしれない。
「れんちゅー、しゅにゃーちょ」
(練習しないとって言ってるつもりなのに)
舌足らずだ。とりあえず、練習に童謡でも歌うのはどうだろうか。少し大袈裟に口を開けて、筋肉も動かした方が良さそうだ。
歌いながら本棚を眺めていると、ぬいぐるみの置いてある場所の端が、目にとまった。
イヌ、ゾウ、ネコ、キリン、イルカが並んでいるその端に、小冊子が置いてあった。
絵本とは明らかに違う装丁。布張りだ。表紙には、縦長の楕円が刺繍されている。数字のゼロか、アルファベットのオーのどちらか、もしくはただの模様かもしれない。楕円の中にウサギの刺繍がされているので、額縁かもしれない。
表紙をめくり、何も書いてない見返しをめくると、『湖月 菖蒲』と手書きで書いてあった。
(これって、私の名前。漢字で書くと、こう書くんだ。漢字にひらがなにカタカナ、やっぱり日本語だ)
名前のページをめくると、生まれたばかりの赤ちゃんの写真が差し込んであり、『六月六日 誕生』と書いてある。次のページには赤ちゃんの手形が押してあった。さらに次のページには、母からのメッセージがしたためてあった。
《菖蒲へ
あなたの名前は、父と母、二人の名前から名付けました。
父、忠勝から勝―しょう―を。
母、すみれから花の名を。
あなたの父は、『菖蒲』より『あやめ』の方が良いのではと悩んでいましたが、『しょうぶ』とも読める漢字の方が『勝』を 含んでいるようで良いと、私が押しきりました。
名前のもととなった花は『花菖蒲』です。
すみれより》
菖蒲は、ショウブともアヤメとも読むことができる。確か、ショウブとハナショウブは別物で、ハナショウブとアヤメは似ている違う花で、もう一つ似ている花があったような気がする。機会があったら、調べてみよう。
ページをめくる。次が、最後のページのようだ。
写真が差し込めるようになっているが、写真はない。写真のスペースの下側に右から『忠勝』『菖蒲』『すみれ』と書いてある。どうやら、ここには、三人で撮った写真があったようだ。写真はなくしてしまったのだろうか。
母のメッセージと、他のページの字は、明らかに筆跡が違うようだ。父の字だろうか。
(そうだ、お父様だ! この家で、一番年上はお父様じゃないか。誰か忘れていると思っていたら、お父様だ)
熱を出してから、父に会っていなかった。その前から、滅多に会うことがなかった。顔を思い出そうとしても、顔に黒いモヤがかかって目が一つ光っているような、お化けのような悪魔のようなイメージしか浮かばない。それになんだか胸が痛い。
(なんなんだろ、このイメージ。お父様の顔も思い出せないなんて)
小冊子を戻し、ぬいぐるみをベッドに並べた。
このぬいぐるみ、種類もサイズもデフォルメもバラバラだ。でも、唯一、揃っているところがある。
ぬいぐるみが巻いてるスカーフがお揃いだ。スカーフには、『1』から『5』の数字が刺繍されていた。小冊子の刺繍は、数字のゼロが正解なのかもしれない。
『1』から順に、ぬいぐるみとスカーフを観察する。
(干支とか。ここは『平行世界』で、干支が前世と違うものになってる、とか)
(イルカは、干支を決めるレースに出るのも無理か。海岸沿いにコースを作ればいけるかな。それか、地中を泳げるイルカなのかもしれない。そんな映画があったような)
(うーん。干支ではないか……)
少々、脱線気味になりつつも、『2』、『3』と観察を進めていった。
(あれ? これって、もしかして……)
コンコンとドアがノックされ、「お嬢様、失礼します」と黒羽が部屋に入ってきた。
「お嬢様!?」
ガシャンと音がした。黒羽の方に目をやると、持っていた昼食を乗せたお盆を落としそうになっていた。なんとか落とすことなく、持ち直しテーブルに置いた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
ベッドに駆け寄ってきた。私が、うつ伏せになり、枕に顔を埋め、グズグズと泣いていたからだろう。
「どこか痛いところでも?」
枕に顔を埋めたまま、頭を左右に振った。
「ああ、お母様ですね。お嬢様が良い子にしていたら、会えますよ。元気出してください」
私が泣いたときの常套句だ。
前世の記憶のある私は、もう何もわからない子どもではなくなってしまった。そうでなくても、そろそろ理解したかもしれない。
母に関しては、熱が下がり、頭の中を整理できた朝の時点で気づいていた。
亡くなったのだと。
私には葬儀の記憶があり、それを葬儀と理解することができるようになった。葬儀中は、ずっと隣に黒羽がいて、手をつないでくれていた。
母が亡くなってしまったことは、寂しいし悲しい。想うと涙が出る。
でも、今泣いているのは、母を想ってのことではなかった。
※誕生日の関係で多少ずれています。菖蒲に対して、黒羽が5、隼人が15、大地が16学年上になります。