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夕映え

晩春の夕暮れはゆっくりとやって来る。


 勝頼は迫り来る敵を迎え撃つ場所として、田野の地を選んだ。


 切り立った崖に面したその場所は、敵が一度に、複数の方角から攻め寄せてくるのを防ぐことが出来、僅かでも敵が到達するまでの時間を稼げるからだった。


 戦うことよりも、武田家の終焉を見苦しくなく飾るために選んだ場所であった。


 佐奈のいる場所からは、谷ごしに周囲の山がすぐ近くにまで迫って見えた。


 夕陽はその山肌を染めながらまだなお、眩しい輝きを放っている。

 この世で見る最後のものが この黄金と茜色に輝く景色ならばそれは幸せなことだと佐奈は思った。


 四方に放っていた物見が帰ってきて滝川軍の先鋭が山裾をあがってくる姿が見えたという報告をした。


 土屋昌恒、阿部加賀守らがわずかに残された精鋭たちを率いて陣を駆け出してゆく。


 鬨の声があがった。


 山裾の方で響き始めた剣戟の響きと、地鳴りのような武者たちの吼える声がたちまちのうちに近づいてくる。


 勝頼と信勝のいる本陣を守っている旗本部隊は急ごしらえの柵を何重にも築いていたが、兵の数は少なく、敵がここへ到達すればいくらももたないことは明らかだった。



 その時がやって来た。

 勝頼は、佐奈を側に呼んだ。


 佐奈は白い小袖を着て髪を整え懐剣を手にしていた。


 敵がやって来る前にまずは女たちを先に送らねばならない。

 男たちに遅れて生き残るようなことになれば死よりもつらい運命が待っていることは明らかだった。


 佐奈は静かに地面に座り両膝を紐で結んだ。

 最後のときに見苦しい姿を晒さない為の配慮で、武家の子女が自決する際の嗜みとされていた。迷いのない動作で日頃おっとりとしている佐奈が、武家の姫として立派に育てられていることが分かった。


 佐奈は、視線を上げて勝頼を見た。

 万が一にも敵に捕らわれるようなことがないように、死に損ねて苦しむことがないようにと自ら介錯を

かって出てくれたのは勝頼だった。


 勝頼は黙って夕映えに輝く山の稜線の方に視線を向けていた。


 その時。

 叫び声とともに佐奈は山全体が鳴動したような錯覚に捕らわれた。


 見れば一番外側に築いた柵を乗り越えた敵兵たちが我先にと二番目の柵にとりつき、それを、そこを守っていた兵たち諸共に、わけもなくなぎ倒しながら山道を駆け上がってくるところであった。


 佐奈は初めてその目で見た。

 功名や褒賞に目の色を変えた男たちの欲望にぎらぎらと輝く野蛮な顔を。


 思わず、腕に縋りついた佐奈を勝頼がそっと抱き寄せた。

 佐奈のからだは小さく震えていた。


「案ずるな。そなたを決して誰にも渡しはせぬ」

「……はい」


 佐奈が懐剣を鞘から抜き喉元にあてた。

「御館さま……お先に、失礼致します」

 こらえようとしても手がどうしようもなく震えた。


「すぐに行く。あまり遠くまでゆかずに待っておれ。出来るか?」

「はい」


「どうかな。そなたは少し目を離すといつもどこかへ行ってしまう」

「そんなこと…」


「初めて諏訪へ行ったときもそうであったな。信勝と湖遊びに行ったっきり、ふらふらといなくなっていくら待っても帰って来なかった」

「あの時はあんまり湖が綺麗で、桜も咲いていてつい……嬉しくなってしまって…」


 言いながら佐奈はくすっと笑った。


「嫌ですわ。こんな時に」

 手の震えはいつしか止まっていた。


「御館さまこそ。いつも私をひとり待たせてばかり。本当にすぐにいらして下さいますか?」

「ああ。三途の川はそなたを背負って渡ろうぞ。そのあとはもう二度と待たせたりはしない。ずっと一緒だ」

「嬉しい」


 佐奈はにっこりと微笑んで懐剣を握り直し、目を閉じた。

「では御館さま。お先に参らせていただきます」

 その切っ先が喉を突くよりも早く、勝頼の刀がその胸を刺し貫いた。


 佐奈は声もなく腕のなかに崩れ落ちた。









 腕のなかで急速に冷たくなっていく佐奈姫のからだを、勝頼はもう一度強く抱きしめた。

 姫のからだからはいつも焚きしめていた瑞々しい花のような香りがしていた。


 青ざめた顔に振りかかる黒髪を払ってやって、そっと地面に横たえてやった瞬間胸に熱いものがこみ上げてきた。


 泣いているときではない。

 自分にはまだ武田家の当主としてその終焉を見事なものにするという仕事が残っている。


 けれどその小さな花のような亡骸を見ているうちに、五年前甲斐の国に嫁いできた、桜の花びらのように可憐だった佐奈姫の姿がまざまざと眼裏に甦ってきた。


 初めてともに行った諏訪の湖で湖水で遊ぶ水鳥の姿に目を輝かせていた十四歳の佐奈姫。


 薄紅梅の衣の袖を翻して駆けだして行って、舞い散る桜の花びらにはしゃいでいる姿を勝頼に見られていたのに気がつくと、恥ずかしそうに頬を染めてうつむいた。


 戦と軍略に明け暮れ、父信玄の後継者としての重圧と家臣団との軋轢に疲れ荒んでいた自分の心を、うららかな春の日差しのよう温めてくれた愛らしい姫。


 愛されることしか知らずに育った無垢な瞳でまっすぐに勝頼を見上げていた小さな姫に、勝頼はもう一度、会いたいと思った。


 あの頃の、どんな苦しみも哀しみも知らない、生きる喜びそのもののような瑞々しい輝きに包まれていた佐奈姫をもう一度この手に取り返して。

 その時こそ、どんな苦しみも哀しみも与えずに、すべてのものから守ってやりたかった。





 遠のく意識のなかで、佐奈は勝頼の声を聞いていた


「もしももう一度、逢えるのなら……」


 そうね、もしも…。


 もしもこの世のほかの、先の世というものがあるのだとしたら。

 たとえ何度生まれて、何度死んでも、その度ごとに私は恋に落ちるのでしょう


 五年前のあの春の日。

 ひとめで恋に落ちたあの時のように。


 瞼の裏に残った夕映えの残照が消えて暗闇が訪れた。







 合戦は夕刻には終焉を迎えた。

 近隣の山々を美しく彩った夕映えののちに訪れた藍色の夜闇を武田家の主従が見ることは二度となかった。


 勝頼の首を挙げたのは、伊藤右衛門永光という武者だった。

 嫡子・信勝を脇に従え、具足櫃を背に太刀を振るって幾十という敵を斬り伏せた末の壮絶な討死であった。


 首は甲斐侵攻の総大将、織田信忠のもとで首実検にかけられたあと京へ運ばれ一条大路にて晒された。



 佐奈姫が、髪を託した三人の使者のうち、生きて小田原に辿りついたのは、早野内匠守ひとりであった。


 織田信忠の許婚であ勝頼の妹、松姫が姪にあたる姫たちとともに無事に武蔵の国へ逃れたという報告を受けて、当然、佐奈姫もそのなかにいるものと安堵していた北条氏政は、早野から妹の遺髪と遺言を受け取ると愕然とし、涙を零した。


 氏政のもとを辞去した早野内匠守は自邸にひきとると、その夜自決して果てた。


 佐奈姫……北条夫人の墓は彼女が愛した夫、勝頼とその嫡子、信勝とともに彼女が最後まで残ることを選んだ甲斐の国(山梨県)の寺、景徳院のなかにある。


 その傍らに立つ石碑には三人の辞世と伝えられる歌が刻まれている。



おぼろなる月もほのかに雲かすみ はれてゆくえの西の山の端(武田勝頼 享年三十七歳)


黒髪の乱れたる世ぞはてしなき 思ひに消ゆる露の玉の緒 (北条夫人 享年十九歳)


あだに見よ誰も嵐の桜花 咲き散るほどの春の夜の夢 (武田信勝  享年十六歳)





『夕映え~武田勝頼の妻~』  【完】


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