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襲来

 翌朝。

 勝頼は小山田八左衛門を召して、女たちが脅えているゆえ今日、明日にも岩殿城に向けて発ちたい旨を

伝えた。


 八左衛門は主からの連絡が遅れていることを恐縮して詫び、今日すぐに自ら岩殿城に行き勝頼の意向を伝えてくると答えた。


 佐奈は間もなくこの村を発つという知らせを受けて支度を整えていた。

 からだのあちこちに昨夜の名残が微熱のように残っていて、その熱が妙にもの寂しかった。

 

 昨晩の勝頼の情熱は自分への愛情ゆえとは思われなかった。


 硬い腕のなかに息が止まるほど抱きしめられながら、佐奈は、それまでのどの晩よりも勝頼が遠くにいるような気がしていた。

 どんなに強く抱きしめても腕のなかから勝頼が抜け出て行ってしまうような気がして。


 恥ずかしさも忘れて夢中で手を伸ばして何度も勝頼に縋りついた。

 勝頼は、妻のいつにないそんな仕草に途中、愛撫の手を緩めて当惑したように佐奈の顔を見た。


 その顔に佐奈は自分から唇を寄せていった。


 朝、目覚めた床で勝頼は佐奈を膝に抱き寄せて、

「岩殿城に入ればそこから北条へ使いを出そう。そなたを小田原へ帰してやれるぞ」

と優しく言った。

 昨夜の佐奈の乱れようを追っ手への脅えと不安ゆえと思っているようだった。


「いいえ。私はどこへも参りません。どこまでも 御館さまにお供いたします」

そう答えた佐奈のからだを勝頼は小さく笑って抱きしめた。



 昼過ぎになってあたりが急に騒がしくなった。周囲を見張らせていた物見が戻ってきて、

「山裾の方からこちらを目掛けて上がってくる一団がおります。近隣の百姓どもを寄せ集めた雑兵どもで

 大した敵ではありませぬが念のため御台さま方から先にご避難を!」

と告げたのだ。


 勝頼は迎え手として一隊を差し向ける一方で、岩殿城へ向けて出発した。

朝方、出ていった小山田八左衛門はまだ戻って来なかったが帰りを待っている場合ではなかった。


 出立のときになり佐奈に命じられて女子供たちの点呼をとっていた侍女が、慌てふためいて戻ってきた。


「小山田殿のお身内衆のお姿がひとりも見えませぬ」

「何ですって!」


 佐奈は蒼白になった。

 藤野が止めるのを振り払って自ら小山田家の宿所に割り当てられていた小家に駆けつける。


「皆々さまを無事お城にお迎え出来るまでは……」

と遠慮して村外れのみすぼらしい家に肩を寄せ合うようにしていたはずの小山田信茂の母や妻、幼い息子たちの姿は、そこにはなかった。家のなかはもぬけの殻だった。


「御館さまに、このことを……」

 佐奈は喘ぐように言った。


 先に岩殿城に入りそれ以来使者は寄越すもののいっこうに顔を見せようとはしない小山田信茂。

 その身内がかき消すように消えた。意味は明らかだった。


 この時代、領主のもとに預けられた家臣の家族は人質を意味していた。

 侍女からの知らせを受けた勝頼の側近たちは一斉に声をあげた。


「おのれ、小山田信茂! 自ら岩殿行きを進言しておきながらこの期に及んで裏切るとは!!」

という怒号、怨嗟の声もあるが、

「いや、まさか小山田殿に限ってそのようなことが……」

と、いまだ信じかねる声も少なからずあった。


 しかし、真偽を確かめている時間はなかった。敵はすぐそこまで迫っていた。


 勝頼の配下きっての猛将、土屋昌恒が自ら志願して数十騎の手勢を率いて岩殿城へと向かった。


 郡内との境には急ごしらえの砦が築かれていて、土屋隊が近づくと有無を言わせず鉄砲を撃ちかけてきた。小山田信茂の謀反はもう疑うべくもなかった。


 あってはならないことだった。


 新築間もない城を焼き、本拠地、新府をあとにして来たのは岩殿城へ迎えるという小山田信茂の進言が

あってのことだった。戻れる場所はすでに甲斐の国にはない。


 慌しい軍議が交わされ、一行は間道を南へと向かうことにした。

 国境の峠を越えて北条の領内へ入ろうと考えたのだ。


 手勢は少なく追っ手もかかるなか、不案内な山の中を歩くことは危険なうえに事前の通達もなしに武装した他国の領主とその一行が無事に国境を通れる保証はどこにもなかったが、今はもう他に道がなかった。


 佐奈はその時になったら、自分の命にかえても北条の兵を説得し勝頼の身を守ろうと考えていた。

 

 しかし、その願いは(もろ)くも崩れ去った。


 敵陣を命からがらくぐり抜けて来た上野原城主、加藤丹後守からの使者が、佐奈の兄、北条氏政は織田方からの求めに応じて武田攻めの兵を挙げ、此の度の小山田信茂の裏切りも北条方に内応してのものだということを告げたのだ。


 現在の小田原では勝頼と佐奈の縁談を後押しした親武田派の家老は力を失い、織田派の重臣たちが主流を占めているという。 北条が敵方についた以上、もはや一行に逃れる場所はどこにもなかった。


 佐奈はその場に崩れ落ちた。


「御台さま!」

 侍女たちが悲鳴をあげる。


 おっとりしているように見えながら、芯の強いところのある佐奈は、侍女たちにも自分の弱った姿を見せるのが恥ずかしかった。


 その為、新府城を出ることになった時も、脱走者が相次いでいることを聞かされた時も、小山田信茂の裏切りを知らされた時も、強いて背筋を伸ばし凛とした姿勢を崩さないように努めてきた。


 けれど、今は膝が震えてどうしても立っていられなかった。

「姫さま……」

 支えようと近寄ってきた藤野に佐奈は縋りついた。


「私が嫁いできたばっかりに、御館さまをこのような目に……」 


 勝頼が小山田信茂の進言を聞き入れて岩殿城へ向かう決断を下した背後には、もとはといえば勝頼が新府を出て岩殿にさえ入れば、北条が援助をするという密約があった為であった。


 勝頼がそれを信じたのは北条氏政が、佐奈の実の兄であるからだ。

 さらに言えば、勝頼が、真田安房守の勢力下にある信州上田ではなく岩殿へと向かったのは、それが佐奈の実家である相模の国へと向かう道だからだ。


 勝頼の選択の裏には年若い妻を無事に安全な実家に帰してやりたいという気持ちが少なからず混じっていたに違いない。


 けれど、その選択が勝頼と武田家の前途からすべての希望を奪う結果となってしまった。


(私が武田に嫁いでなど来なければ……。いいえ。それよりも先年の上杉の乱の後、相模の兄上の勧めに従って素直に実家に帰っていれば…)


 こんなことにはならなかったのではないだろうか。

 少なくともこんな山中で行き場を失い、雑兵たちに追い回されるような惨めな境遇には陥らずに済んだはずだ。


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