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2 村上春樹とドストエフスキー

               


 村上春樹はドストエフスキーの名前を出して「悪霊」のような総合小説を書きたいと言っていたと思います。村上がドストエフスキーの影響を受けているのは明白でしょうが、ドストエフスキーの思想についてはスルーしています。村上はもっぱら形式的にしか見ていません。


 村上春樹は消費社会を土台にした作品を書いていて、その考えは全く変わりませんでした。「多崎」の最後には村上の倫理が現れていて、要するにこの社会を肯定し、その社会の中で生きていく「決意」がクロというキャラクターの口を通じて言明されます。


 この倫理自体は、時代とズレているとはいえ、それほどくだらないとは思いません。「世界を肯定する物語の難しさ」という文章で、世界を肯定する難しさについて書いた事がありますが、村上の「世界肯定」はそれなりの意味があると思います。しかし、それについて全く修正が施されず、今にも持ち越しているというのには少々の驚きがあります。


 ドストエフスキーという作家の思想は構成上、難解になっていますが、基本的には無神論VS有神論となっています。無神論においては神がいないから人間が全てとなり、人間はそれぞれの存在にアトム化される事が予想されています。一方で、神を信じるとは人間を越えたものがあると信じる事ですから、人間は神を頂点に精神的に統一されると考えています。(ドストエフスキーの中ではロシアがその精神的結合の要となる)


 ドストエフスキーが考えたのが、「信仰は可能か」でした。「悪霊」のテーマは信仰は可能かどうかだと、どこかで見ました。


 しかし、信仰してしまっていては、問題は起こりません。本当に信じていたら、全ては鎮まり、ドラマは起こらない。どんな悲惨な劇もその向こうに「神」がいる。そう信じられれば、現実はもはや問題とはならない。ウィトゲンシュタインはある劇を見ていて、「私は神を信じているから何が起こっても怖くない!」というセリフを聞いて感動したそうです。ウィトゲンシュタインにとっても、信仰は可能かどうかというのが、哲学的にねじれた形で提出されていたと思います。


 仮に神の存在が実在で、信仰を持って生活する事が全てであるならば、聖職者が最も尊いという事になる。実際、ドストエフスキーの小説では聖職者がポジティヴな価値を持って出てきます。チホンやゾシマ長老、アリョーシャ、マカール老人といったキャラクターはいずれも重要です。


 しかしながら、それらのキャラクターは主人公にはなりえません。彼らは結論に到達してしまっているからであって、波乱を斥けるからです。そうすると、主人公は無神論者となります。無神論者は、「神がいないければ何をしても自由だ」という論理で、エゴイスティックな行動(「悪」)に出ますが、苦悩と悔恨を通じて神に到達します。少なくとも、神を信じようとするレベルまで行きます。それが無理なら文字通り破滅します。


 しかしながら、考えるべきなのは、何故神を信じなければならないのでしょうか? それは何故なのか?


 ドストエフスキーがこの問題を考えたのは牢獄でだと思います。ドストエフスキー自身は死刑になった身です。死の経験は当然、死を超える生、つまりは魂の永続、あるいは個体の死を超える極限…神の信仰を呼び起こします。しかし、都会の知識人としては、神をそんな風にたやすく信じられません。


 だから、カントという哲学者は、神を「要請」という苦しい所に持っていったのだと思っています。つまり、神は存在すると確としては言えないが、人間にとっては神を信じる方が「良い」と。しかし、この点はもっと徹底的に考える必要がある。


 例えばあなたが、無実の罪で牢屋に入れられ、後一時間で、死刑になるとするとあなたは何を思うか? 「神などいない! なんと現実は無慈悲だ!」と思うかもしれず、あるいは、「私の死を越えるもの…神や、魂の不死を私は信じる!」となるかもしれない。どっちの答えも正解でも間違いでもない。


 ドストエフスキーの小説にみなぎるのは全て、極限的な、逆転した時間感覚に生きている人々のドラマです。神がいなければ何をしても自由だと信じる人間は、既に神に裏切られた人間ではないかと思います。神は人間を守らない。現実はどこまで行っても過酷で悲惨で、人は石が落下して押し潰されればそれで死にます。その石にはどんな意味もない、ただ偶然で落下したとしても、そこにたまたま出くわした人には、それは自分の命を殺す決定的な存在となってしまう。


 ちなみに村上春樹の小説では、こういう現実の悲惨さはやんわりと和らげられ、都合の良いものになんとなく置き換わられます。村上がよく言う「才能」というものそうですが、一種の流れ、何かが繋がったという感覚、スピリチュアルな予告、予知。それらは、現実における冷酷さを和らげ、現実が主体の意識や願望にうまく沿うものになる道具になっている。そこに村上ワールドの心地よさと、欺瞞があると感じます。


 話を戻します。現実は冷酷で、「私」は世界に見捨てられている。ドストエフスキーは死刑になったわけですから、これは世界から見捨てられ、絶海の孤独に立った経験です。つくる君のような趣味的な死の観想とは違う。そこで、ドストエフスキーは信と不信を入れ換えたのかもしれません。しかし、ドストエフスキーの信仰に対しては常に、こんな風な反駁があります。「確かに神を信じた方がいい良い人生なのかもしれない。しかし『現実には』神はいないから、俺は俺の自由にする」 神がいなければ、何をしても自由だという行為(悪)は常に、秩序に対立するものとして現れます。


 現代において、これは村上春樹含めて社会常識によって薄められ、集団理念によって暗黙の内に斥けられますが、本質的に斥けるのは無理だと自分は思っています。なぜなら、道徳的に優れたものが幸福になる、つまり徳福の一致はいつまでも成立しない為に、その間に悪が発生すると思います。


 これらの問題をドストエフスキーは、経験と対話的な方法で処理しました。即ち「小説」という形式です。聖者がいるだけでは説教を垂れるだけで、内実を欠く。しかし、自らを自由と感じ、好き放題現実の快楽をむさぼる無神論者だけでは放埒に流れる。現在の我々は当然後者です。ドストエフスキーは、放埒な自由者が、臨界点を越えた行為ーー即ち悪ーーを成し、その為に悔恨と苦悩の中、救いを求める姿を描いたと思います。結論は破滅か神かのどちらです。中庸はありません。ドストエフスキーにあっては、真理は極限的なものにしかありません。


 神を違う言葉で呼び替えても問題ないかと思います。現実の世俗生活を越えたものを認めうるか否かが問題なので、それを今は端的に神と呼んでいるにすぎないからです。


 村上春樹に戻ります。村上春樹はドストエフスキーのような小説を書きたいと念願しているようです。村上は、ドストエフスキーの本質が理解できていないので、形式的な面だけなぞる事になる。そうすると、村上は相変わらず、自分の消費社会肯定の姿勢を意識できず、形式だけ盛って偉大な作品を作ろうとする。そこで、村上春樹が、悪や自由の問題を扱っても、彼が自分を極限的に疑うのが不可能であるので、問題は表面的に流れるにとどまるでしょう。しかし、現代人にとってはその程度の方が心地よいのかもしれません。常識は時間と共に変化しますが、変化を意識しない人々はとにかくも自分の現在の常識を肯定し、そうしてそれらそのものを覆すようなものを避けるからです。


 村上春樹が土台であり、母胎とも感じている消費社会、即ち沙羅とつくる君がどこかのバーでよろしくやっている図は、村上にとっては自然なもの、そこに村上春樹の青春があり、また帰ってくる場所があるのでしょうが、「多崎つくる」の時点で、世界情勢とズレているので、これからズレはもっと大きくなるでしょう。村上春樹の小説は突き詰めれば、社会風俗小説なので、現実を象徴的に深いものを現しているわけではなく、そうしたいができないので、雰囲気だけになっていると思います。


 しかし、今の作家はみんなそんな感じです。自分もそうです。何故かと言えば、我々が神なき現代において、自己を肯定し、それと共に人々の無意識的な理念を肯定し、職業作家になる事を念願し、そうして人々の母胎的な無意識と接合する事を願っているからです。それらに普遍性があると喧伝する方が様々な人にとって得だとは自分も知っていますが、自分はそこに真実ーー文学があるとは思われません。


 我々が集団になる事によって、個体において問題だったものが解決されるのでしょうか? …これが謎です。もう一つは、我々の自己の欲望の自然な肯定が、歴史的に生まれた産物だとしても、何故、我々はこんなにも卑俗で、ろくでもないものしか生み出せないのかというのが疑問です。村上春樹に対する批判というより、自分に対する批判です。村上春樹は単に時代の波にうまく乗っただけです。それを「才能」と村上が呼び、人が呼ぶのも結構です。しかし、それにしても何故、このくらいに留まってしまうのか。


 フランスのミシェル・ウエルベックは、自分の文学のクオリティを、世界に対するニヒリズムによってギリギリ保っていると思います(今はどうか知りません)。ウエルベックは、消費社会、即ち放埒に流れる自己を批判的に眺めました。とはいえ、ウエルベックは現代人なので、キルケゴールやドストエフスキーのようにキリスト教にも行かなかったので、ただニヒリズムだけが浮かぶ事になる。これは異様に苦しいポジションですが、そこにギリギリ、ウエルベックの作家としての矜持があったと思います。


 長々と書いてきたので、そろそろまとめます。問題は、もはや村上春樹が課題としているような所にはないと確信しています。つまり、つくる君が「駅を作る」のを、地道な社会適合努力、それ自体意味がある努力とみなすというような解決法はもう通用しない世界になりつつあるという事です。現実において、犯罪がもみ消されたり、人々が自分という悲惨さから逃げ出す為に違う悲惨さを作り出すのは明白となってきています。総中流の社会が壊れて、上と下に分かれてきています。しかし、ここで「上」になれば問題は解決したとするのは、相変わらずの唯物論であり拝金主義に陥るでしょう。自分が「上」になったとして、「下」の人間を踏み潰してもいいのかという問題があります。そういう問題を生産性、効率性、夢を叶えるという用語でごまかすのは無理であると思います。


 村上春樹は成功者ですので、これらの問題に面倒に考える必要はありません。しかし、ドストエフスキーのような人は、ずっと考え続けたと思います。総中流の社会において、また日本が資本主義を上がっていく過程において、バーでビールを飲んで女とおしゃれな会話をするというのはある種の価値観だったのかもしれませんし、それが、資本主義が上昇していく過程で他国の人にも共感できたのかもしれません。しかし、それらは本質的に唯物論…即ち、我々の生活がやんわりとした中庸に包まれ、それを人々が信じ、その中に自分も包まれると信じられるが故の共同幻想でした。我々の社会は破裂と混乱がうごめいていて、村上春樹的に、消費社会の母胎に帰るのは無理だと思います。オタク的な閉じこもりも、メディアの上での成功も、本質的な問題提起でも解決でもないと思っています。


 ではどうすべきかと言えば、多分どうにもならないと思います。どうにもならないとわかった時、神と、神に抵抗する悪が同時に出てきて、それが対話的に蠢く…そういう所にドストエフスキーの本質があると思います。村上春樹の作品にある心地よさは、我々が現実を忘却する心地よさと繋がっていると思います。現実は悲惨で過酷です。だから、我々は破裂するのか、それとも、自分を制御するのか。しかし、どちらも、我々自身ーー人間の生ではないかと思います。人間は神を作り出すと共に悪魔も作り出します。しかし、どちらも人間であり、本質的に文学は「人間」を描くものだと思います。その過程において、社会風俗に流れる村上春樹作品はゆっくりと風化していくでしょう。それと共に、社会の破裂と混乱を目にして、そこから極限的な人間を足がかりに人間の本質を描くーーそういう作家がこれから、出てくる事があるかもしれません。

 


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