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1  「多崎つくる」感想

 

 村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読みました。(以下「多崎」)


 先にドストエフスキーの「未成年」を読んだので、その比較の為に読もうと思ったのですが、「多崎」を読んだ後ではむしろ、ドストエフスキーの名前を出さない方がわかりやすいと思います。村上本人がドストエフスキーの名前を出して、ああいう小説を書きたいと言っているそうですが、全く毛色が違うというか、そういう問題に言及するほどでもないと感じたので、「多崎」単体で感想を言っていこうと思います。ドストエフスキーとの比較は後から出します。


 まず、作品全体を読んだ感想ですが、とにかくもやもやする作品でした。これは「シロ」を殺した犯人、レイプした犯人がわからない事から来るのではなく、作者の方では問題解決と考えているのに、その問題設定も問題解決もまるで現実を引っ掻いていない事から来ます。


 吉本隆明の言及でその通りだと思ったので持ってきますが、夏目漱石とかドストエフスキーとかいった文豪は、現実に対する洞察というのを決してやめませんでした。彼らはフィクションを通じて現実と戦う事をやめなかった。しかし、今では、フィクションを通じて現実と戦うという意味自体がわからなくなっている。どのような言説も商業主義に飲み込まれ、大勢の人に認められるか否かが全てになって、その過程で、フィクションはそもそも何と戦うべきなのかがわからなくなっている。


 これは、政治問題についての告発をしているようなつもりでも、ジャーナリズムに吸い込まれ、様々なしがらみに取り囲まれている内に、いつの間にか凡庸な、メディアに出てくるタレントの一人になっているというような状態に見られます。


 読んでいて、非常に残念だったのは、村上春樹の頭の中は八十年代の東京で止まっているという事です。作品は、凡庸な主人公が凡庸さを脱する、あるいは凡庸である事を認めて、一人前の人間になるというプロセスを辿る成長物語となっていますが、主人公の多崎つくるは凡庸というより、非常に恵まれた存在です。


 それから、多崎の彼女の沙羅も社会的に恵まれていて、男にも金にも仕事にも困っていない。出てくるのはそんな人物ばかりで、多崎も、恵まれている状態からふと自分自身の中にあるものを疑っていき、過去の友人と邂逅し、自分の傷口を癒やしていくという風になっています。しかし、これら全体を通じて、僕には主人公の、ないしは作家の切実さというものを感じませんでした。作家ーー村上春樹は追うべきテーマがないにも関わらず、文豪たらんと小説を書いており、過去の自己模倣に陥っている。何故自己模倣に陥るかと言えば、現実との葛藤がないからだと思います。


 もっと根本的な事を言います。そもそも村上春樹にとって母胎と感じられている消費社会はそれほど素晴らしいものなのか?という問いです。この問いは、もはや問われる事すらほとんどないのではないかと思っています。僕自身で言うと、何を言っても、書いても、〈なんだかんだ言っても作家になって売れたい〉という内外の欲望に、「文学」というものが吸い込まれていくという現象に現れています。文学について問うているつもりでも、いつの間にか、人の話しているのは「文学」の売上とか評価についてで、文学そのものについて話せる人というのは、あまりいないというのが正直な印象です。


 「多崎」に戻るなら、相変わらず主人公は南青山のフランス料理屋や恵比寿のバーで飲んだり食ったりしています。女とデートして、ホテルで抱き合います。村上春樹の頭の中は昔と何も変わっていません。


 あらすじを辿ると、主人公のつくる君は、かつて四人の友人と仲睦まじく生活していた。しかし、その中の一人「シロ」がつくるにレイプされたと嘘を言い、三人はシロの言葉を信じ、無言の内につくるを追放します。つくるは時間が経って、恋人の沙羅に促されて、死んだシロを除いた残り三人と会い、過去の修復に取り組みます。


 作品の最後には、つくるは、希望の象徴のような感じで沙羅を求める、「君が欲しい」なんて言うわけですが、読んでいると、このブルジョア共がどうなろうと知ったこっちゃないとしか思えませんでした。朝井リョウ「何者」を読んだ時「こんなちんまりした人達、どうでもいいや」と思いましたが、似たような感情でした。


 何故そう感じたのかと言えば、彼らが人として空虚だからです。最も「多崎」のキャラクターはまだマシとは言えますが。「センセイの鞄」のセンセイなどは、空虚過ぎて、類型化されすぎて、リアリティが皆無でした。しかし、多崎のキャラクターにもリアリティが欠けていて、それは村上春樹が、それぞれのキャラクターの名前に色を振るというメタ構造にも現れています。普通、みんなの名前に揃いも揃って色がつくという事はないので、作者がキャラクターを記号的にみなしていると感じました。


 もちろん、メタ的にそういう技法を凝らすのは悪い事とは限りませんが、キャラクターの会話でも、それぞれのキャラクターが何故か、村上的メタファーを使いこなし、その結果、どの人物も似た相貌になってきます。村上春樹はドストエフスキーが好きとの事ですが、ミハイル・バフチンの「ドストエフスキーの詩学」は読んだ事がないのではないかと思います。ドストエフスキーの作品の特性である「ポリフォニー」性は、各キャラクターを記号的にみなして、作者があっさり統御する行為とは逆であると思います。


 全体の状況から言うと、各キャラクターはみんな、問題を抱えている風ではあるものの、自分にすっかり満足しており、時折、人生の苦しさや辛さを吐き出して、それを修復する方向に向かいますが、なんというか趣味的に苦悩しているようにしか見えませんでした。これは村上春樹自身の立ち位置を示すとも言えるでしょう。


 それから、哲学や思想が好きな人間として言うと、村上は哲学を取り扱う時でも趣味的にしか扱えません。宗教も哲学も音楽も、全てが趣味でしかない。何故そうなのかと言えば、村上が消費社会と癒着している為に、その中で消費するような存在としてしかあらゆるものを見られないからだと思います。そういう中では女性も消費物の一つで、これは、女性から見た男性もそうです。村上の過去作品では、もう少し、現代社会の空虚というものが感じられていましたと思いますが、それも小さくなって、後は、物語を作る為に無理矢理葛藤を絞り出してくる、そういう技工だけになった感があります。(絞り出そうとするだけまだ良いとも言えます。今は葛藤ゼロのファンタジーが主流なので)


 僕が疑問に思ったのは、途中、つくるが年上の女と不倫する場面です。設計事務所で年上の女と関係を持つのですが、女には故郷に婚約者がいると後から明かされます。それをつくるも知っての上での付き合いなのですが、こんな描写が出てきます。女はつくるとベッドの中にいて、こう言います。


 『「とても良い人なのよ」と彼女は彼の胸に手を置きながら言った。「たぶん私には似合いの相手だと思う」』


 「とても良い人」だったら、不倫すんな、ゴラァ!! …と怒鳴ったら、道徳おじさんという事になるのでしょうか。しかし、つくるも不倫だと知って平気で関係を持っているので責任がないわけではないのですが、ここに葛藤はありません。全てはうまく処理されたとなっています。


 この箇所を読んで自分は「ここはフリーセックスの世界か? ヒャッホー」と闇の中で一人で叫びましたが(嘘です)、その後、つくるが恋人の沙羅に男がいるようだと知って動揺し、嫉妬するシーンがあります。


 だったら、こいつが不倫していたのは何だったの?と思いますが、そういう問題はどうなっているのでしょうか。


 それから、「シロ」という女の切り捨て方も不快でした。シロは誰かに犯され、その後、殺されるのですが、「ま、それはしゃーない」という終わり方で、なんだかよくわからないままに終わりました。当たり前ですが、シロという女が犯され、殺されたというのであれば、それは村上ワールド内部の話であっても、「悪霊でやった」では済まされないのです。誰かがやったわけです。シロは現実に苦しみ、誰かに殺されたわけです。「悪霊がやった」とか、そういう話ではないわけです。それは現実なわけです。


 ちなみに、つくるがシロにレイプ被害の罪を着せられたのも、シロが犯され、殺されたとの同じように現実です。シロ含めた四名は、つくるを無言のまま放り出しますが、もしシロが犯されたのなら、それは現実の事態ですので、警察に相談するなりなんなりした方がいいでしょう。警察が嫌なら、シロを想った仲間がつくるを殺しに来るとか、つくるが怒りに震えてシロを殺すとか、そこまで徹底的に、嫌なものを描いて構わないと思います。再三言いますが、村上ワールドの中と言え、それはその内部における「現実」であって、それを「なんかいい風の話」でずらせて終わらせるのは、村上の文学者としての限界を感じます。


 僕はドストエフスキーが自分を「写実派」だと言っていた意味がなんとなくわかってきたと思いますが、ドストエフスキーにしろシェイクスピアにしろ、そこに現れているのは奇想天外な、作家の天才的想像力のように見えて、あくまでも現実の洞察の延長と思います。そこにあるのは、心理をえぐり出す力であって、我々は我々にも気づいていないような心理を持って行動しています。しかし、我々の認識レベルが低い為に、我々は現実を類型化して理解してしまうのだと思います。ヒット作が軒並み、類型的な作品であるというのがそれを証明していると思います。現実の人々は、世界を自分の論理に当てはめる力があまりに「高い」為に、むしろ、現実を見ない。そこでドストエフスキーのような男が、世界を「写実」するとそれがファンタスティックに見えるというわけです。


 村上春樹はそういう問題はスルーして、自分の「感覚」「才能」を頼りに書くわけですが、その為に、世界との葛藤を失い自閉的な空間に終始します。ただ、ここからが厄介ですが、今や人々はメディアでつながり、人々自体が発信者である為に、人々がそうであると思い込んだ自閉的な空間それ自体が、現象としては客観的なもののように現れてきます。「なろう小説」的な、明らかに低レベルの作品でも、多くの人が認めると、そこには「客観的価値」があるという風になる。


 この問題は村上自身にも繋がってきますが、村上は「物語・文学・普遍性・感覚・才能」といった場所に閉じこもるので、そういうものが見えてくる事はないでしょう。そのまわりを商業的成功、名声といったものが包むが為に、村上が外部の世界と再び接触する事はないのでしょう。


 後はもう言う事はそれほどないのですが、作品が謎めいた印象で終わるのは村上春樹の計算だと思います。謎めいていれば、勝手に読者が考察して、深いものだと誤解してくれる人がいるだろうという計算ではないかと思っています。仮に、計算でないにせよ、シロの犯人が誰であろうと、推理小説以上の意味はないので、文学としては問題にならないと思います。


 それから良かった点を言うと、文章のリズムとストーリーテリングのうまさは生きていたかと思います。おかげでスラスラと最後まで読めました。…こうして考えると、今の読者が求める「わかりやすく・気持ちよく」という基準は満たしているのだなと思います。それが文学として良いかどうかはわかりません。


 もう言う事はあまりないのですが、村上本人は意識しないだろう思想的な話をします。個人的にはここからが重要なポイントとなりますが、一般的にはここまでの方が興味深いかと思います。



(言い忘れましたが、途中アカというキャラクターが、人生における自由を語る場面があります。「リアルワールドにおいて人間に可能な自由はせいぜい足の爪を剥がされるか、手の爪を剥がされるか、どちらかを選べるだけ」という話で、実際の我々はその程度の自由しかないのだ、という訓話です。


 自分はこの話ーーその認識に賛成します。本当にそんな程度だと思います。そういう意味では、村上春樹は部分部分では見るべきものというのはあるし、自分は完全な村上否定者ではありません。


 ただ、もし村上春樹がこの話に盛られた人生観を徹底していたのなら、もっと冷酷に現実を眺めていたら、こういう小説は書かないと思います。そういう意味では、このエピソード自体はそうだろうな、と思いますが、それは全体として見ると薄められ、弱まったものになっていると思います。簡単に言えば、村上春樹がなりたいと思っているであろう「文豪」になるには、「絶望」が足りないのです。ブコウスキーにもカフカにも、サリンジャーにもある精神の重荷、精神の錨とでもいうべき「絶望」がどこか軽いのです)





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