第二話「ひだまりに眠る、無垢なるもの。」
1、
三月も半ばを過ぎると、風はまだ冷たかったけど、日差しは少しずつ春の暖かさを帯び始め、あたしのマンションの前の桜並木も徐々に蕾を膨ませ始めた。
昨年は、ようやく満開になったと思った途端、大雨に散らされてガッカリしたから、あたしは、今年こそはあの満開の桜並木の下をのんびりと散歩するぞ! ‥と、心密かに楽しみにしてた。
もちろん、今年は、のあと椰弥と三人で歩くつもりだ。
「あーあ‥」
そんな、まだ閑散とした並木の下を一人で歩きながら、あたしは胸いっぱいに溜まったやるせない思いを声にして吐き出した。
毎年、この時期は冬と夏のコミケの間で、気が緩みがちになるんだけど、今年はそうも言ってられない。
冬のコミケで発行した新刊の書店委託分の売れ行きが思った以上に悪くて、ローンの支払いはおろか、日々の生活費を捻出するのさえ一苦労な状況なのだ。
ものは試しに‥と、あたしは、無料のバイト情報誌で見つけた運送会社の仕分けのバイトに一度だけ行き、生まれて初めて『労働』の過酷さを身も持って体験した。
肉体派のオジさんたちの間に混じって、大小さまざまな荷物を持ち上げては運び、持ち上げては運び、フォークリフトが忙しく行き交う構内を、重たい巨大な鉄の台車に山のような荷物を載せて行ったり来たりする、予想を遥かに超えた重労働‥。
普段の運動不足も祟って、仕事の途中から早くも筋肉痛が始まったあたしは、翌日から丸三日、全身至る所が痛くて歩くのもしんどい状況だった。
体を使って働くのが、こんなに大変だとは思わなかった。
あんな思いをして日給一万円だなんて‥、あたしが今までどれだけ甘えた生き方をして来たのか思い知らされた気がした。
(あれ‥?)
と、桜並木から隣の市営アパートの敷地を抜けて、近所のコンビニまで近道をしようとしたあたしは、狭い駐車場の隅で猫と戯れる銀色の髪の少女を見つけた。
「椰弥?」
「‥あ、ヰ織」
もふもふした毛並みの、ずんぐりした猫を抱えて振り向いたのは、やっぱり椰弥だ。
まだ午前中なのに、白いワンピースの上に薄手のカーディガンって私服姿だったから少し驚いたけど、よく考えてみれば、世間の学校では、もう春休みに入っていてもおかしくない時期だった。
それにしても、この猫は何なんだ?
なんだか、毛がボサボサに伸びたアメリカン・ショートヘアみたいな猫だ。
首の周りにも毛がフサフサしてて、何処となくライオンっぽい気がしない事も無い。
そんな見慣れない猫が、椰弥に抱かれて大人しくしてた。
「よく懐いてるねぇ。かーわいい」
「‥でしょ」
えへへ‥と、椰弥は嬉しそうに笑った。
「‥オズっていうの。いつもこの辺で遊んでるんだ」
「椰弥が飼ってるの?」
「‥ううん。たぶん野良猫」
「でも首輪付いてるじゃん」
「‥これはわたしが付けてあげたの」
首輪してないと、保健所に連れて行かれちゃうっていうから‥。そう言って、椰弥は哀しそうに睫毛を伏せた。
「‥本当は、わたしが飼ってあげたいけど。わたしの部屋、ペット禁止だし‥」
そんな椰弥の気持ちを知ってか知らずか、オズは「ん〜にゃ!」と一声鳴いて、椰弥の腕からヒョイっと飛び降り、そのまま植え込みの茂みの中にガサガサと入って行った。
「‥もう行くの? ばいばい、オズ」
椰弥が声を掛けると、茂みの中から「んにゃっ」‥と、小さく返事が聞こえた。
オズが入って行った茂みを、暫くじっと眺めてたあたしと椰弥だけど、結局、それっきりオズは姿を見せなかった。
「‥‥‥うち来る?」
「‥うん」
「ちょっとコンビニ寄って帰るから、付き合って」
あたしたちは、どちらからともなく、なんとなく手を繋いで歩き始めた。
歩き始めてから思ったけど、こんなふうに椰弥と二人で歩くのは初めてだ。
なんだか新鮮で、ちょっとドキドキする‥。
(おいおい。女の子相手にドキドキしてどうするよ?)
でも、こんな可愛くて綺麗な子と手を繋いで歩くんだもん、きっと誰だってドキドキするに違いないさ。うん。
「椰弥の手、小さいね」
「‥ヰ織の手が大きすぎるんだよ」
「そ、そうかな‥」
たしかに、女離れした大きさだって子供の頃からよく言われてたけど、毎日見てる自分の手だから、そんなに大きいって自覚は無いのだ。
(んにゃ?)
と、別にオズの鳴き真似したわけじゃないぞ。
椰弥と繋いでる手じゃない方の手に、椰弥よりずっと小さい手の感触を感じて、あたしは思わず苦笑いした。
視線を落とすと、案の定、いつの間に現れたのか、のあがあたしの手をぎゅ‥っと握ってニコニコしてる。
「お? のあも一緒にコンビニ行くか?」
「うんっ」
のあはコクンと大きく頷いて、あたしと繋いだ手をぶんぶん大きく振りながら嬉しそうに歩き始めた。
右にのあ、左に椰弥、いつもの並びで手を繋いでコンビニに向かったあたし達は、おにぎりとお茶を買って、その足で近くの河原の土手にピクニックに行く事にした。
本当は気分転換に雑誌でも立ち読みして帰るつもりで家を出たんだけど、せっかくの良い天気だし、このまま帰るにはもったいない気がしたんだ。
久しぶりに訪れた河原の土手は、まるで一面の菜の花畑だった。
どこまでも続く鮮やかな黄色と緑のコントラストが眩しくて、あたしは思わず目を細めた。
のあは嬉しそうに土手を上から下までパタパタと駈け回って、椰弥はそんなのあの無邪気な姿を優しい瞳で穏やかに眺めてる。
風も穏やかで、ぽかぽかした日差しがとても心地良い。
土手に座って菜の花畑を眺めながら、おにぎりとお茶でお昼を済ませた後、三人並んで芝生に寝転び、川のせせらぎをBGMに、透明な青空にぽっかりと浮かんだ白い雲を、飽きもせずに眺め続けた。
そのうち、すやすや‥と寝息が聞こえて、ふと隣を見ると、いつの間にか、のあも椰弥も気持ち良さそうに眠りに落ちていた。
そんなのあの鼻の頭に、菜の花畑から風に乗って遊びに来た白い小さな蝶が、ちょこんと止まって一休み。
なんてのどかな午後なんだろう。
こんな時間の使い方があるなんて、あたしは、のあと椰弥と過ごすようになるまで知らなかった。
無駄な事と、無駄じゃない事。
あたしは自分に関わる全ての物事を、その二つに無理矢理分別して、無駄な事は全部パスして生きて来た。
でも、この二人と一緒に過ごしてると、無駄な事なんて本当は何一つ無いんじゃないかな‥って、自然とそう思いたくなる自分がいる。
無駄とか無駄じゃないとか決め付けること自体が、そもそも無駄な事だったのかもしれないな‥って。
二人と出会って以来、あたしの暮らしには無駄がいっぱい増えたけど、そんな無駄な時間が、あたしはとても嬉しくて、愛しくて、不思議なくらい毎日が満ち足りていた。
二人の世話をしてる分、以前よりお金と時間に余裕がなくなってる筈なのに、どういうわけか気持ちにはゆったりした部分ができてる気がしたし、その証拠に長い間「忙しい」
「余裕がない」を言い訳に後回しにしてきた事を、あたしは少しずつ片付け始めるようになった。
「ありがとな‥」
あたしは、右手でのあ、左手で椰弥の頭をそっと撫でて、小さく囁いた。
二人がこうして傍にいてくれる事が、どれほどあたしの支えになっている事か‥。
「ふぁぁ‥」
あたしは羊雲を眺めながら、空に向かって大きな欠伸を一つした。
気持ち良さそうに眠る二人に挟まれて、いつの間にかあたしまで眠くなってしまったようだ。
どうしてだろう。
見上げる空の青さが、やけに目に沁みた。
2、
あたしが本当に描きたいものって、何なんだろう。
そんな事を真剣に考え始めたのは、皮肉だけど、同人誌が売れなくなって来たおかげかもしれない。
描けるものを描ける範囲で好き勝手に描く。
それだけで面白いようにお金が入って来ていた頃には、そんな事これっぽっちも考えやしなかった。
あたしに一番足りないのは、失敗を恐れない勇気だ‥って、小学何年生の時だか忘れたけど、担任の先生に言われた事が有る。
その頃のあたしは、学年で一番の長身を武器に女ガキ大将を気取ってる阿呆な子供で、このあたしに勇気が無いだなんて、この先生は本当に見る目が無いな‥って、半分軽蔑しながら思ってた。
だけど、今なら、その言葉の意味がよく分かる。
あたしは、自分で思っていたよりも、ずっとずっと弱い人間だったのだ。
打たれ弱い自分のささやかなプライドを守るために、いろんな事から無意識に逃げて生きて来た。
人生の大事な分岐点に立つ度に、失敗するのを恐れて、安全な方へ逃げて、逃げて、逃げまくったあげく、こんな行き止まりの袋小路に入り込んで身動きが取れなくなってしまった。
美大に行かなかったのも、半分は前に言った通りの理由だけど、残りの半分は、もし入試に落ちて自分の絵の才能を否定されたら‥と思うと、怖くて受験できなかったからだ。
目の前に、同人誌って、自分を認めて歓迎してくれる場所が有ったから、あたしは迷わずそこに逃げ込んだだけなのだ。
同人誌は、なんだかんだ言っても所詮は素人相手に作るもの。
自分の好き勝手に作れるし、作る過程を誰にも否定されない。
出来上がったものを読者さんに批判されたって、どうせ絵も描けない素人の言う事だから‥って思うようにすれば、プライドは少しも傷付かない。
でも、プロの作家を目指すって事は、プロの編集者に自分を評価してもらうこと。
もし、自分が全力で創り上げたものをプロの編集者に否定されたら、きっと、あたしは簡単に立ち直れない程のダメージを受けるだろう。
そんな無意識の防衛本能が働いて、あたしはずっとプロを目指す事から逃げていた。
別に無理してプロなんて目指さなくたって充分食べていけるし、こんなに売れてるんだから、そのうちどこかの出版社から話が来るだろう‥ぐらいで思ってた。
わざわざ自分から傷付きに行くことなんてないと思ってたのだ。
(はぁ‥)
あたしはどうして、失敗しても、否定されても、気にしないでどんどん前に進めるような図太い性格に生まれなかったんだろう‥。
そんなこと悔やんだってどうにもならないって分かっていても、そう思わずにはいられなかった。
あたしが本当に描きたいもの。
それは、いったい何なのだろうか。
「ねぇ。あたしの漫画って、面白い?」
あたしは、不意に椰弥にそう訊ねてみた。
あたしの右にはのあ、左には椰弥、三人でぎゅうぎゅうになりながら、一緒にお風呂に入ってる時の事だ。
‥といっても、別に最初から三人で入ってた訳じゃない。
のあと椰弥が仲良く昼寝してる隙に、気分転換を兼ねてお風呂で漫画のネームを捻ってたら、後から二人がすっぽんぽんで飛び込んで来やがったのだ。
一人ならゆったり入れる大きめのバスタブも、三人だと本当に狭くて、密着したまま、ほとんど身動きが取れない。
自然、あたしと椰弥も、顔がくっつきそうな距離で話す事になった。
「‥うーん。わからない」
椰弥は、少し考えるように小首を傾げた後、正直に言ってくれた。
「‥ヰ織の漫画って、ヰ織の漫画だけど、ヰ織の漫画じゃないから‥」
「うん‥」
抽象的な答えだったけど、あたしには椰弥が言おうとしてる事が良く分かった。
それは、あたし自身、沢山のパロディ漫画を描きながら、ずっと思い続けてた事だから。
「‥わたしは本当のヰ織の漫画が読みたいな」
「本当のあたし?」
「‥うん。一から十まで全部ヰ織が考えて描いた、ヰ織だけの漫画」
「そっか‥」
椰弥の言葉に、あたしは何か吹っ切れた気がした。
「やってみるかぁ」
漫画を描くのなんて、もう、やめたっていいと思ってた。
でも、どうせやめるにしても、いっぺん本気で自分の漫画を描いてからでも遅くないし、かえって、やるだけやってからの方が未練が残らなくて良いかもしれない。
怖くない、怖くない。
たとえ、誰かに否定されたとしても。
たとえ、自分の限界を思い知らされたとしても。
それであたしの全てが終わるわけじゃない。
当たって砕けて傷付いたって、この温かい巣に戻れば、きっとまた前に向かって突き進むエネルギーが湧いて来るだろう。
だから、大丈夫!
(それにしても‥)
‥と、あたしは、のあの躯をまじまじと眺めた。
初めて会った時から細いなあとは思ってたけど、こうして裸の躯を見ると、本っ当にガリガリでびっくりする。
あたしの部屋に来るようになって、肉付きも血色も少しずつ良くなってる気はするけど、それでもまだ、あちこち骨の形がくっきり見えてて、明らかに痩せ過ぎだ。
椰弥は、手足がスラっと長くて、腰なんて折れそうに細いし、余計なお肉なんて少しも付いてないけど、それでも、のあと違って出るトコはちゃんと出てる。
(よーし!)
漫画は漫画で頑張るとして、料理も、もっとちゃんと栄養バランスを考えて頑張ろう。
あたしの愛の手料理で、のあを絶対プニプニにしてみせるのだ。
水平線から洩れ出した、絞ったばかりの夕陽の赤を背に、のあと椰弥が帰って行くと、あたしは早速、自分の漫画の構想を練り始めた。
一から自分で設定を起こしてストーリー漫画を描くなんて、中学時代に遊びで描いて以来だったし、その時は途中で飽きて最後まで仕上げる事ができなかった。
だから、十年も同人漫画家やってて今さら言うのもなんだけど、実質、これがあたしの処女作になるのだ。
新しい大学ノートを広げ、思いつくままにストーリーの切れ端やら、キャラクターの設定やらを書き連ねて行く作業は、思いのほか楽しくて、純粋に漫画が好きだった子供の頃の気持ちが甦って来るような気がした。
どのくらい、そうして机に向かっていただろう。
すっかり日が暮れて、軽く小腹が減ってきた頃、インターホンのチャイムが鳴った。
(ん‥?)
時計を見ると、もう午後八時を回ってる。
あたしは、せっかくノリノリで鉛筆を走らせてたのに、不意に集中を途切れさせられて軽くイライラしながらリビングのインターホンに向かった。
だいたい、こんな時間にアポ無しで来るなんて、新聞の勧誘かNHKの集金くらいのもんだ。
そう思って、インターホンのモニターを見ると、
「椰弥‥っ?!」
可愛がってる猫のオズを抱えたまま、今にも泣き出しそうな顔の椰弥が映ってて、あたしは慌てて部屋を飛び出した。
「‥ヰ織っ!」
「どうしたの、何かあった?」
大急ぎでマンションの入り口まで迎えに行くと、椰弥はオズをしっかりと抱いたまま、あたしのスウェットの胸に飛び込んで来た。
「‥オズが、オズが死んじゃう‥っ」
「え?!」
「‥オズが、オズが」
「オズがどうしたの?」
「‥だから、死んじゃうのっ」
「椰弥っ!」
あたしは取り乱してる椰弥の細い肩をぎゅーーっ! と、きつく抱きしめ、それから、安心させるように、できるだけ穏やかな声で囁いた。
「落ち着きなさい。オズがどうしたの?」
椰弥が涙まじりの声で話すには、帰る途中にいつもの駐車場でオズに会って、少し遊んでいたら、急にオズが苦しみ始めて吐いたらしい。
もちろん、オズは猫だから、お腹に溜まった毛玉を吐いたのかと思って見ると、消化途中の食べ物の残りが少し有るだけで、他は薄い黄色の液体だった。
心配になって、しばらく様子を見ていたら、十五分から三十分おきに何度も何度も吐くようになって、だんだんグッタリして、呼吸も苦しそうになって、もう、どうしたら良いか分からなくて、あたしの所にオズを連れて来たのだと云う。
そう言うと、椰弥は堪え切れなくなったように涙の粒をポロリと零した。
椰弥が事情を説明してる僅かな時間の間にも、オズは急にお腹を波打たせてえずき始め、透明な胃液を舗道のアスファルトの上にケホケホと吐いた。
「とりあえず獣医さんに診てもらおう」
「‥うん」
あたしは椰弥とオズをその場で待たせて、自分の部屋に全力疾走。
インターネットで近くの動物病院を調べて片っ端から電話をかけ、五軒目でようやく夜間診療してくれる病院を見つけると、ついでに電話でタクシーを呼び、オズを運ぶための手ごろな大きさのバッグにペットシーツ代わりにバスタオルを敷いて、また全力疾走でマンションの入り口に戻った。
椰弥は、しっかりとオズを抱いたまま、泣くのを必死で堪えるように顔を歪めてた。
「大丈夫だよ」
タクシーを待つ間も、病院に向かう道のりも、あたしは何度もそう声をかけて、オズと椰弥の頭をそっと撫でてあげた。
その度に、椰弥は掠れた涙声で「‥うん」とだけ小さく答えた。
不安に押し潰されてしまいそうな椰弥を守ってあげたくて、あたしは椰弥の躯を抱き寄せ、ぎゅ‥っと、ぎゅ‥っと、励ますように優しく抱きしめ続けた。
タクシーで十分ほどの場所の動物病院に駆け込むと、優しそうな女医さんが丁寧に対応してくれた。
事細かく説明を交えて、こちらの希望を聞きながら治療を進めてくれる先生で、心配性のあたしと椰弥にはとても有難かった。
先生との話で、嘔吐にはいろんな原因が考えられて、推測だけで治療を始めてしまうのは危険だから、とりあえずしっかり検査をして、それから治療に入りましょう‥という事になった。
血液の成分分析やレントゲン、小一時間ほどの検査で、脱水症状を起こしてはいるものの、命に関わるような切迫した事態では無いと分かって一安心。
「とりあえず今夜はお預かりして様子を見させて頂きますので、明日また来て下さい」
そう言われて診察室を出たあたしと椰弥は、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、会計で目玉が飛び出そうになった。
「五万と四百二十五円になります」
(はぁ‥?!)
一体なにがそんなに高いのかと、明細を確認すると、初診料が一五七五円、採血と血液検査で一二六〇〇円、レントゲンが八四〇〇円、栄養剤の注射が四二〇〇円、点滴が三本で四二〇〇円、一日分の入院費が一一〇五〇円、更に時間外診療で八四〇〇円が計上されている。
「獣医ってすげぇな‥」
帰りのタクシーの中で、あたしは溜め息混じりに苦笑した。
あっという間に今月の私の生活費が飛んでっちゃったよ。
「‥ごめんなさい。わたし、働いて絶対に返すから‥」
「んー‥。そうだね、気長に待っとくわ」
別にいいよ。あたしが好きでしたんだから。
‥それが本音だったけど、そう言えば余計に気にして困ってしまう子なのだ、椰弥ってやつは。
「‥ホントにごめんね。助けてくれてありがとう‥」
あたしの肩におデコをコツンと乗せて、ずっと張り詰めてた緊張から解放されたみたいにポロポロと涙を零した椰弥が、愛しくて、愛しくて、あたしはどうしたら良いのか分からずに、ただ、車の窓から澄んだ夜空を眺めてた。
冴え冴えと輝く銀の月に、椰弥の頬を伝う涙の雫がキラキラと煌いてた。
結局、オズの体調不良は胃と食道の炎症が原因だったらしく、獣医さんの的確な治療のおかげでメキメキと回復して行った。
オズの治療代と入院費で、合計十五万円近くが飛んで行ったけど、まぁ、それはそれ。
お金なら後から稼げるけど、失われた命は後で買い戻すことは出来ないのだから。
3、
四月と五月、あたしは同人誌や細々とした商業誌関係の仕事の合間を縫うようにして、二ヶ月掛かりで、オリジナルの読み切り漫画を一本描き上げた。
正直、描き始めるまでは、自分にオリジナルの漫画なんて描けるんだろうか‥って、不安でいっぱいだった。
でも、じっくりと設定を練って、納得が行くまで何度も何度もネームを描き直してるうちに、どんどん愛着と自信のようなものが生まれて、途中から原稿用紙に向かうのが楽しくて楽しくて仕方なくなってしまった。
オリジナル漫画に挫折した中学生のあたしと、今のあたしの大きな違いは、いろんなジャンルの作品をパロディしてるうちに勝手に増えた引き出しの数と、描き始めた漫画は最後まで必ず仕上げるって責任感。
そう思うと、パロディ同人誌に捧げた十年の歳月も、決して無駄じゃなかったんだって、本気で信じられる自分がいるから不思議なものだ。
五月の終わり、東京がすっかり初夏の陽気に包まれ始める頃、あたしの処女作は完成した。
あたしの性格上、百パーセント満足‥ってのは有り得ないけど、今現在の精一杯を注ぎ込んだ漫画を、あたしはいくつかの出版社に自分から持ち込んだ。
ある程度辛辣な言葉を覚悟していたあたしに、どの出版社の編集さんも良い所と悪い所を丁寧に指摘してくれて、いくつかの雑誌の編集さんは、雑誌に空きが出たら掲載させてもらうかもしれないから、これからも定期的に漫画を見せに来て欲しいと行ってくれた。
自分の漫画の良い所っていうのは、言われても「へぇ〜」って感じで、特にどうって事も無いんだけど、悪い所ってのは、指摘されてみると確かに編集さんの言う通りだと思える部分が多くて、とても勉強になった。
自分では気付くことさえ出来なかった未熟な点に気付かせてもらえただけでも、見てもらって本当に良かった。
以前、細々とした仕事で何度かお世話になった編集さんは、うちの雑誌には向いてないから他を紹介してあげる‥と、親切に他社の雑誌の編集部にまで連絡を入れてくれたし、みなさん本当に優しくして下さって、ビクビクしながら出掛けて行ったあたしは、嬉しくて涙が出そうになってしまった。
正直言うと、持って行く出版社や編集部ごとに、全然別の事を言われて混乱しそうになった部分もある。
でも、それぞれが作家に求めてるものが違うってのは理解できるから、大丈夫。
何を言われたって、結局のところは、あたしが自分で信じる方向に歩くしかない。
つまり、そういう事だ。
そんな五月の終わりのとある日曜日、のあと椰弥とあたし、三人で初めて一緒に台所に立った。
きっかけは、のあの、
「のあね、のあね、にくまんたべたい!」
の一言。
コンビニの肉まんも美味しいけど、たまには自分たちで手作りして食べるのも悪くない。
生地作りは発酵の具合とかが結構難しいから、慣れてるあたしが作ることにして、中に包む具の方を二人に任せた。
椰弥が包丁で丁寧に刻んだ野菜類と豚肉に、あたしが用意した合わせ調味料を加えて、のあがボウルでしっかりと混ぜ込む。
そして最後に、三人で具を生地で包んで形を整え、蒸籠いっぱいに並べて二次発酵させた後、強火で二十分しっかりと蒸し上げた。
とても手間が掛かるから、一人では滅多に作らないけど、こんなふうに皆で作ると意外と楽しくて、なんだかクセになりそうだ。
「わぁ‥。にくまん〜っ!」
ふっくらと蒸し上がった肉まんに、のあが大感激。
「のあ、にくまんつくれた‥」
まるで宝物でも見るみたいに、椰弥と二人、蒸篭の中に綺麗に並んだ肉まんを、うっとりと眺めてる。
そんな二人の横から手を伸ばして、あたしは蒸籠から手ごろな大きさの肉まんを一個取り出し、半分に割って軽くふーふーすると、半開きになってた二人の口に、えいっと押し込んだ。
はぐっ。もぐもぐもぐ‥。ごくんっ!
「えへへ‥。すっごくおいしい」
「‥うん。コンビニのよりずっと美味しいよ、ヰ織」
「そう? どれどれ‥」
もう一個手にとって、あたしも一口ぱくり。
「ん〜っ♪」
お・い・し・い〜っ!!
このふわふわもっちり感と、肉汁のジューシーさは、コンビニの肉まんでは味わえない手作りならではの幸せだ。
あたしたち三人は先を争うように手を伸ばして、できたての肉まんに舌鼓を打ち、大きな蒸籠に隙間無く並んだ肉まんが、あっという間に胃袋に消えて行った。
(うーん。満足満足)
そして、事件は、食後の後片付けの最中に起こった。
洗い物を手伝ってくれたのあが、割れたガラスコップの欠片を拾おうとして、手のひらを派手に切ってしまったのだ。
しかも、また例の我慢強さで、泣き声一つ上げないもんだから、あたしが気付いた時にはキッチンのシンクが血まみれになってた。
「ば、ばかっ! どうして言わないのっ!!」
もう、本当、心臓に悪い。
とりあえず傷口をタオルで押さえ、椰弥に留守番を頼んで、慌てて近所の病院に連れて行くと、すぐに診察室に通されて、何針か縫って包帯を巻かれた。
出血のわりに、傷はそれほど大きくなかったみたいだ。
「あの‥。保護者と連絡が付かないので、保険証は後でも良いですか?」
「ええ、大丈夫ですよ。あまり遅いようですと、そちらで後ほど役所に申請して給付を貰う形になりますが‥」
「はい。すみません」
そうだ、当然だけど、あたしはのあの健康保険証を持ってない。
‥というか、これは椰弥にも言える事なんだけど、二人があたしの部屋に来るようになって三ヶ月も経つのに、未だに二人の家の場所はおろか、こんな緊急時の連絡先すら知らなかった。
「のあ、家に帰ったらお父さんかお母さんに言って、明日また保険証を持ってこの病院に来るんだよ? わかった?」
「うー‥」
のあが、あたしを上目遣いに見て、小さく唸るように声を出した。
これは「なにいってるのかわかんない」の合図だ。
「そっか。じゃあ、あたしが手紙を書いたげるから、お父さんかお母さんに渡して?」
あたしは、外出時に漫画のネタを書き留めるのに使ってるポケットサイズのメモ帳に、事の仔細を書いて二つ折りにし、のあの服のポケットに入れてあげた。
だけど、のあは、もう一度「うー‥」と、何か考え込むような声を出すと、怪我してない方の手であたしの手を握り、そのまま引っ張るようにして歩き始めてしまった。
「ちょ、ちょっと、のあ? どうしたの」
「‥‥‥」
何か思いつめたような顔で黙って歩くのあに、あたしは戸惑いながらも、素直に付いて行くしかなかった。
やがて、のあは古い平屋建ての小さな民家の前で立ち止まった。
正確な位置関係は分からないけど、あたしがよく行く大型スーパーの屋上看板が見えてる所をみると、あたしの部屋から徒歩十分の圏内だろう。
「おうち」
そう言って、あたしの手をようやく離したのあは、民家の裏手に回り、どういうわけか、トイレに付いてる小さな窓によじ登るようにして、そこから中に入った。
「のあ??」
(な‥っ、なにやってんの??)
のあの予想外の行動に、呆けたようにトイレの窓を見上げてると、今度は玄関の方で鍵を開ける音が聞こえて、のあがあたしを呼んだ。
「いおり、こっち」
呼ばれて、玄関の方に回り、のあに促されて中に足を踏み入れると、家の中は意外にきちんと片付けられて、整然としてた。
‥というと聞こえは良いけど、要するに、物がほとんど置いてなくて、古い民家なのに生活感が全く無い。
(ここが、のあの家‥?)
どうして、急にあたしを案内したんだろう。
それに、なんで、あんな小さな窓から出入りしてるんだろう。
何が何だか理解できずに頭を悩ませてると、のあは、部屋の隅の小さなタンスの引き出しをゴソゴソと漁って、三つ折りになった緑色の紙を差し出した。
「これ、ほけんしょ?」
「あ、うん。そう」
国民健康保険被保険者証ってちゃんと書いてあるし、有効期限もまだ切れてないから大丈夫だ。
表の世帯主の欄には『木野原健次』とある。これがのあの父親の名前なのかな‥。
「これ持って、明日、お父さんかお母さんと一緒にさっきの病院に行くんだよ」
場所と電話番号は、さっきのメモに書いといたから。
‥そう言いながら、なにげなく保険証の裏面の、同じ世帯の被保険者の一覧を見て、あたしは、ポカン‥と口を開けたまま固まった。
そこには、『木野原のあ』と、一人分の名前だけが書かれてた。これがのあのフルネームなのだろう。
他には誰の名前も無い。これだけ見ると、母親がいない父子家庭のようだ。
でも、あたしが驚いたのは、そんな事じゃない。
問題なのは、『木野原のあ』『女』の隣に印字された、生年月日。
「うそでしょ‥‥」
あたしは思わず自分の目を疑って、瞬きを繰り返し、手の甲でゴシゴシと擦った。
でも、何度見直しても、そこには『平・01・02・03』とある。
平成元年二月三日‥‥‥だ。
今年は平成十九年だから、引き算してみると‥‥。
(じゅ、十八歳ーーーーーーーーーーーーーーーっ?!!!)
まさか‥。
どうして。
どう見たって、せいぜい小学五年生ののあが、どうして十八歳なわけ?!
ありえない!!
「あの子が本当に十八歳なら、幼児期からかなりの期間に渡ってネグレクト‥育児放棄の被害を受けているのは間違い無いですね‥」
とりあえずのあを部屋に残してさっきの病院に駈け戻り、保険証を見せながら事情を話すと、のあの治療をしてくれた三十半ばくらいの医師が相談に乗ってくれた。
「ほとんど食事を与えられずに育ったのでしょう。心身の発育に相当の遅れが出ていますし、あの様子だと、学校にも通わせてもらっていないと思います」
そう言って、医師は顔を曇らせ、唇を噛んだ。
「あの‥。児童相談所とかに連絡した方が良いんでしょうか?」
どうしてあげれば良いのか検討も付かなくて、縋るように訊ねたあたしに、
「児童相談所は基本的に十七歳までの児童が保護対象になりますから、このケースは警察に連絡して保護責任者遺棄で立件してもらうのが良いのでしょうが‥」
医師は、怒りと悔しさが入り混じったような口調で言った。
「これは本当に難しいケースだと思います‥。肉体的な虐待の痕跡のように分かり易い証拠があれば立件してもらえるのですが、警察は民事不介入で家庭内の複雑な事情にはノータッチですから‥。それに、警察への通報がきっかけで、のあさんに対する虐待が悪化する可能性も否定できませんし‥』
仮に『木野原健次』が逮捕されたとしても、他に家族がいなければ、のあは一人になって、どこかの福祉施設に収容されてしまうかもしれない。‥と、医師は付け足した。
(うぅ‥)
一体、どうしてあげるのがのあにとって一番良いのか、あたしはすぐに答えを出す事が出来ず、トボトボと、のあが待つあの家に向かった。
もう、すっかり日が落ちて、次第に夜の帳が下り始めていた。
のあは、家の外でそわそわしながらあたしを待ってた。
あたしが保険証を返すと、慌てた様子で元あった場所に戻し、玄関に立ってたあたしの所に帰って来ると、ぎゅーっと抱き付いて、
「ばいばい」
そう言って、あたしをグイっと外に押しやった。
あたしの目の前で玄関の引き戸がピシャリと閉まり、中から鍵を掛ける音が聞こえた。
(ああ‥‥そうか‥)
のあは、きっと、家から出てはいけないって言われてるんだろう。
だから、トイレの小さな窓から出入りして、『木野原健次』が帰って来る前に、何事も無かったかのように家に戻っていなければいけないんだ。
でも‥今日は、外に出た証拠‥手に巻かれた包帯がある。
(気付かれないと良いんだけど‥)
あたしは心配で心配で、そのまま家の前に張り込んで、何かあったら飛び込んで止めてやろうかと思ったけど、そうする事が、のあにとって良い方向に働くのかどうかさえ自分では決めかねて、結局、ガックリと肩を落として自分の部屋に帰る事にした。
少なくても、暴力を振るわれてる訳じゃないんだ。
慌てる事はない。
そう、必死に自分に言い聞かせながら。
4、
「草坂さん! 椰弥さんをどうしたんです?!」
「へ‥?」
重たい気持ちのまま、足を引き摺るようにして帰ったマンションの入り口で、あたしはいきなり見知らぬ初老の女性に声を掛けられた。
(椰弥がどうしたって‥?)
あ‥っ?! と、思い出した。
(しまった、椰弥に留守番してもらってたのを完全に忘れてた‥)
‥でも、この人は何なんだ? ていうか、どうしてあたしの名前を知ってるんだ?
椰弥の母親にしては年を取り過ぎてるし、お祖母さんにしては若い気がする。
「私は椰弥さんの世話を仰せ付かっている里見と申す者です」
「は‥?」
(世話を仰せ付かる??)
一体なんなんだ?
あたしの思考回路は、のあの事でフル稼働中で、この状況を理解する事が全く出来なかったけれど、無視する訳にも行かないし‥と、とりあえず里見さんを自分の部屋に案内する事にした。
「‥おかえりなさい、遅かったね。のあは大丈夫?」
あたしのベッドで寝ていたのか、ドアが開く音で目を覚ました様子の椰弥は、ベッドの上に起き上がり、とろん‥と眠たそうな目をしてた。
「う、うん‥」
大丈夫といえば大丈夫だけど、大丈夫じゃないといえば全然大丈夫じゃない。
でも、どう説明したら良いものか分からずに、あたしは沈黙した。
「‥あれ? 里見?」
あたしの後ろに付いて部屋に上がった里見さんに気付いた椰弥は、少し驚いたように目パチパチさせたけど、
「お迎えに上がりました」
里見さんの言葉を聞いて「‥ああ、そう」と、つまらなそうに呟くと、静かにベッドから起き上がり、
「‥またね、ヰ織」
あたしにだけ見える角度で、ふわり‥と微笑んで、自分から部屋を出て行った。
その後を、里見さんが小さく溜め息をつきながら付いて行く。
(椰弥‥)
キミは一体なに者なの‥?
翌日。
これからどうなっちゃうのかと思って、ほとんど眠れなかったあたしの心配をよそに、のあも、椰弥も、いつもと変わらずにやって来て、いつもと同じように過ごし、いつもと同じ時間に帰って行った。
あたしが、二人の今まで知らなかった部分を目にしてしまっただけの話で、あたしたちの不思議な関係は今まで通り続いて行くのだろうか。
それとも‥。
そして、その週末の土曜日の朝、ハムスターのぺぺが逝った。
平均寿命をとっくに越えていたし、そろそろだろうな‥と覚悟はしていたけど、それはあまりにも急な旅立ちで、あたしは動かなくなったぺぺを両手のひらに乗せたまま暫く口もきけなかった
長い間あたしの苦しみを誰よりも傍で見て、ずっと励まし続けてくれたぺぺは、のあと椰弥がやって来て、もうあたしの面倒を見なくても大丈夫だと思ったのだろう。
安心したように、とても穏やかな顔をしてた。
あたしは、泣いた。
のあが来ても、椰弥が来ても、あたしは何も気にせず泣き続けた。
ぺぺとは短い付き合いだった椰弥も、ぺぺの背中を優しく撫でながら、静かに涙を零してくれた。
でも、いつもぺぺと一緒に過ごしてたのあは、泣かなかった。
顔を歪めて今にも泣き出しそうなのに、それでも、のあは涙の一滴も零そうとはしなかった。
思えば、あたしはのあが泣いたのを見た事がない。
泣いて当然だと思うような状況でも、のあは決して泣かなかった。
(のあ‥‥)
‥‥あたしはようやく気付いた。
のあは、きっと、外出する事を許されてないのと同様に、泣く事も許されてないんだ。
幼い頃からずっとのあを閉じ込めて学校にも行かせなかったような『木野原健次』だ。
それくらいの事、きっと平気でするだろう。
だから、あたしは、のあの大きな青い瞳を真っ直ぐに見て、言った。
「大丈夫。泣いても良いんだよ‥」
その途端、のあは声を上げてわんわん泣き始め、その大きな目からは、堰を切ったように、どっと涙が溢れ出した。
どれくらい長い間泣くのを我慢してたのか分からないけど、のあは、声が嗄れて出なくなっても、まるで洪水のように涙をこぼし続けた。
あたしたち三人は、ぺぺを想って一日中一緒に泣いた。
あたしは、ぺぺの亡骸をどうしようか少し迷ったけど、逢いたくなったらいつでも逢えるように‥と、実家の裏山に小さなお墓を作ってあげる事にした。
翌朝、鈍行列車に二時間揺られて実家に帰り、あたしは久々に両親と顔を合わせた。
「元気でやってるの?」
「うん。まあまあかな‥」
母は、いつもの屈託の無い笑顔であたしを迎えてくれ、父は、あたしが裏山にハムスターのお墓を作らせて欲しいと言うと「仕方ないな」‥と言いながらも、倉庫からスコップを持ち出して手伝ってくれた。
上京して以来、両親とはロクに電話もしていない。
お互い口下手で何を話したら良いのか分からなかったから、電話をしてもすぐに話が途切れた。
実家で一緒に暮らしてた頃は、いろいろ口出しして来てうざったい両親だな‥って、あたしはずっと思ってた。
でも、のあや椰弥と一緒に過ごすようになって、実は自分が家庭に恵まれていた事をつくづく思い知らされた。
「つらくなったら、いつでも帰って来いよ」
「体には気を付けるのよ?」
こんなに心配して気にかけてくれる親を、うざったいだなんて言ったら、それこそバチが当たる気がする。
忙しさにかまけて、ここ数年一度も顔を見せていなかった自分が情けなくて、本当に申し訳無い気分でいっぱいになったけど、何故か、心の奥の辺りが、じわ‥っと温かくなった気がして、あたしは両親の顔を見ながら、思わず涙が溢れそうになってしまった。
5、
『お世話になりました。ありがとう』
久しぶりに実家に一泊して、翌日の昼過ぎに東京の部屋に戻ったあたしを待っていたのは、ポストに入ってた一枚のメモ用紙だった。
その几帳面な筆跡は、見覚えが有る。椰弥だ。
(え‥‥。なんで‥‥)
あたしは、そのメモを見た途端、目の前が真っ暗になって、その場にヘナヘナと座り込んだ。
そして、その日から本当に椰弥はあたしの部屋に来なくなった。
同じ日から、何の言葉も無いままに、のあも姿を見せなくなった。
のあの方は、事情を知っているだけに心配で怖くなって、のあの家の前まで何度も足を運んだけど、呼び鈴を押しても、戸を叩いても、ウンともスンとも返事は無かった。
近所の人の話だと、この間、警察や市役所の人たちが来て一騒動あった後、どうやら引っ越したらしいとの事だった。
誰かにのあの事を通報されて面倒になった『木野原健次』が、引っ越して逃げたのだ。
(そっか‥‥。もう、のあとも逢えないんだ‥)
そう思ったら、急に涙で視界が曇り始めて、あたしは慌ててスウェットの袖で涙をぬぐった。
まさか、こんな唐突に、あたしたちの『群れ』が崩壊するだなんて、思いもしなかった。
のあと、椰弥と、もう逢えない。
その事実がなかなか受け入れられなくて、あたしは『巣』に残る二人の想い出にすがりながら、原稿に追われる毎日をどうにかこうにか遣り過ごした。
でも、ダメだった。
二人と一緒だった頃は面白いように描けた原稿が、悩んでばかりで全然進まない。
一緒に過ごした巣に一人取り残されて、あたしは、自分がどれだけあの二人に依存して、癒されながら暮らしていたのか、あらためて思い知らされた。
そして、そんなふうに生きるしかできない自分に、自己嫌悪が募るばかりだった。
次第に、あの楽しかった日々が、全部幻だったような錯覚に囚われて、生きる気力が急激に失われて行くのを感じた。
できるなら、このまますぐにでも消えてしまいたかった。
そんな長い長い一週間が過ぎ去り、そのまた次の一週間が終わりに近付いても、あたしの心は少しも晴れなかった。
どうして‥。
どうして‥?
そればかりが頭の中をグルグルと回り続け、気が変になりそうだった。
突き刺すように胃が痛くて、食欲も全然なくて、無理して何か食べても、すぐ戻すようになった。
もう、何もかもどうでもいいや‥。
どうして自分は、ここに存在してなきゃいけないんだろう‥。
苦しくて、苦しくて、こんな想いをするのなら、最初から、のあと椰弥と出逢わなきゃ良かったのに‥と、毎日、神様を恨みながら目の前の〆切りと戦ってた。
「‥‥‥‥雨か」
散歩でもすれば少しは気が晴れるかな‥と、何気なく外に出てみると、外は雨が降っていた。
この所ずっとカーテンを閉め切って生活してたから気付かなかった。
どうやら、季節は、いつの間にか梅雨に入っていたらしい。
あたしは、傘を取りに戻るのが面倒で、雨に濡れながらトボトボと歩き始めた。
スウェットが、ジーンズが、あっという間に水を吸って、重く、冷たく肌に張り付いて来る。
でも、それでも、あたしの足は何処かへ向かってトボトボと歩き続けた。
コンビニの前を通り、スーパーの駐車場を横切り、意味もなく交差点の青信号の下で立ち止まり、赤信号を無視して車道を横切ってみたりした。
そのあと、どこをどう歩いたのだろう‥。
あたしは、いつの間にか、河原の土手の上に突っ立っていた。
三人で寝転んで空を見上げた、あの菜の花が咲き乱れる河原だ。
季節が移り、今はもう、ただ深い緑に覆われた河原で、あたしは、ぬかるんだ土手に寝そべり、泥まみれになるのも気にせず、いつまでも延々と降り注ぐ冷たい雨を、全身で受け止め続けた。
もう、自分が何をしているのか、よく分からなくなっていた。
灰色の空が次第に暗くなり始めると、あたしはようやく泥の中から起き上がって、またトボトボと帰途に着いた。
すれ違う人たちの好奇の目に晒されながら、ずぶ濡れのあたしがマンションの前に戻ると、オートロックの入り口の横に、ぺたん‥と腰を下ろして、降りしきる雨を眺めてる人影があった。
その人影は、泥人形みたいなあたしが近付いた途端、跳ね上がるように飛び起きた。
(ああ‥‥。驚かせて悪い事したな‥‥)
こんなお化けみたいなのが、いきなり現れたら誰だってビックリするよな‥。
そう思って、下を向いたまま通り過ぎようとした、その刹那。
横から、ぎゅ‥っと、腰に抱き付かれて、あたしは息が止まった。
「いおり‥っ」
「の‥、のあ?!」
信じられなかったけど、それは、やっぱりのあだ。
のあは、ドロドロに汚れたあたしを、ビックリするくらいの力で抱きしめて、わんわん泣きながら、いつまで経っても離してくれなかった。
あたしも、そんなのあの折れそうに細い躯を、無心で、貪るように抱きしめ返した。
マンションの入り口で暫くそうして抱き合ってたあたしとのあだけど、管理人さんが遠くから怪訝そうな顔をして近寄って来たから、あたしは誤魔化すように笑って自分の鍵でオートロックを開け、のあを暖かい巣に連れて帰った。
靴下が血まみれになってたから、ビックリして脱がせると、のあの足には酷いマメが幾つも出来て、皮が破け、あちこちから血が流れてた。
いったい、どれほどの距離を歩いてここまで来たんだろう‥。
それに、しばらく見ない間に、体つきがまた一段と細く小さくなってる気がした。
「のあね。のあね。いおりとややといっしょにいたい‥。ダメ?」
玄関のドアを開けて、巣に戻るや否や、のあはもう我慢できない‥って顔をして、あたしに、携帯電話の番号を書いた小さな紙切れを、おずおずと差し出した。
(のあ‥‥)
その、のあの言葉で、あたしは決意した。
もう、二度とのあを帰さない!
あたしは濡れた服を着替えもせずに、その番号に電話を掛け、出た男に向かって、単刀直入に「あたしがのあの面倒を見る」と伝えた。
「好きにしてくれ」
男は、あっけないほど簡単にそう言った。
「あれは死んだ兄貴がロシア人留学生に生ませた子だ。俺には何の関係も無い」
「はぁ‥?!」
じゃあ、どうしてのあを引き取ったりしたの?
どうして、ちゃんと育てようとしなかったの?
どうして、家の中に閉じ込めて、学校にも行かせなかったの?
問い詰めたい事は山のようにあったけど、あたしは『木野原健次』の態度で、何もかも分かってしまった。
こいつは病的に無責任な人間なんだ。
もういい。
のあは、あたしが責任持って育ててやる。
ぺぺが旅立った翌日から、ずっと止まったままだった事態が急激に動き出したのは、あたしたち三人が三人とも、同じタイミングで、群れからはぐれて生きてはいけない‥と、本能的に気付いてしまったからなのかもしれない。
「草坂さん。すぐに来て頂けませんか‥?」
あたしの部屋のインターホンのモニターに、あの初老の女性、里見さんが現れたのは、のあと一緒にシャワーを浴びて、新しいジーンズとスウェットに着替えた直後だった。
「椰弥に何かあったんですか?!」
あたしは直感的にそう感じ取って、噛み付くような声で訊ねた。
一体、あたしの知らない所で、どんな事態が起こってるんだ。
あたしは椰弥の事を何も知らない。
何処でどんな生活をしてるのかさえ分からない。
知っているのは、ただ、一緒にいると、とても落ち着くって事。
そして、見えない所で、見えない糸で、あたしと、のあと、しっかりと繋がってるんだって事。それだけだ。
でも、あたしにとって、それ以上に大切な事なんてない。
椰弥が何処の誰だろうと、あたしにとって、椰弥は椰弥でしかないんだから。
椰弥が倒れた。
そう聞いて、あたしはシャワー上がりの濡れた髪のまま、靴下も履かずに部屋を飛び出した。
マメだらけの足で、立ってるだけでつらそうなのあも、
「のあも、ややのところいく!」
って、きかないもんだから、あたしは仕方なく、のあの小さな躯をおんぶして連れて行く事にした。
背中に感じる柔らかなぬくもりが、あの出会った日の事を思い出させて、なんだか目頭が熱くなる気がした。
里見さんと一緒にハイヤーで向かった先の病院の一室で、椰弥は点滴の管を付けられて、ベッドの上に横たわっていた。
鎮静剤を投与されて、眠っているのだという。
病名は神経性胃炎。
だけど、倒れた原因は、ストレスによる拒食症と、それに伴う栄養失調に、長期に渡る不眠が重なり、酷い貧血を起こしての事だ。
あたしは、里見さんからそう聞かされて、思わず泣きそうになった。
だって、その症状は、全部そのまま自分にも当てはまる事だったから‥。
姿が見えない、声も聞こえない、遠く離れた場所で、椰弥もあたしと同じように悩み、同じように苦しんでたんだと思ったら、もう、椰弥の事が愛しくて愛しくて、どうしようもなくなってしまった。
「一緒にいてあげて良いですか‥?」
「お願いします。椰弥さんは、ずっと寝言でお二人の名前を読んでいました。よほど会いたかったのでしょう‥」
あたしと、のあが、椰弥の手を包み込むように優しく握ると、眠ったままの椰弥の顔が、ふわ‥っと微笑んでくれたような気がした。
ここに来る途中、ハイヤーの中で、里見さんは椰弥の事を沢山話してくれた。
椰弥が、投資家で大富豪の日本人の父親と、その二番目の妻だったノルウェー人モデルとの間に生まれたハーフで、幼い頃、両親がそれぞれ浮気相手との再婚目的で離婚した時、一人で日本に残されて、世話役の里見さん夫妻の元で育てられた事。
そんな無責任な両親が大嫌いなのに、結局は父親の庇護下で暮らしてる自分が許せなかったから、椰弥は世話役の里見さんに極力頼らないようにして来たし、食事はもっぱらコンビニの肉まんで済ませて、余った生活費は全額送り返すようにしてた事。
十五歳になってアルバイトが出来るようになったら、出来るだけ早く自活して、父親の庇護下から抜け出そうと思ってた事。
それなのに、つい最近、五番目の妻と離婚して、NYの摩天楼で優雅な独身生活を送っている父親が、何の気まぐれか、今まで世界中に落としてきた自分の子供達を全員呼び寄せて、一緒に暮らそうと言って来た事。
大嫌いな父親だったけど、昔から父親が決めた事は椰弥にとって絶対だった。
たとえ逆らったって、どんな手を使ってでも自分の思い通りにしないと気がすまない人なのだ。椰弥の父親は。
だから、無駄な抵抗をして、あたしとのあに余計な迷惑を掛けたくない‥って、椰弥は大人しく出国の準備をし始めた。
なにもかも、もうとっくに諦めが付いてる筈だった。
なのに‥。
長年、椰弥を見守ってきた里見さんがうろたえてしまうくらい、椰弥は日に日に元気が無くなって、体調を崩し始め、食事も喉を通らない様子で、どんどん痩せこけて行った。
そして、今日の午後、ついに栄養失調と酷い貧血で倒れてしまったのだ。
「‥ヰ織? のあ‥?」
椰弥は、夜更けになって、ようやく目を覚ました。
そして、そう、あたしたちの名前を呟いた時には、もう椰弥の目から大粒の涙がぽろりと零れ落ちていた。
「やや‥っ!!」
さっきまで疲れてウトウトしてたのあが、嬉しそうに笑顔を弾けさせて、椰弥の体に飛び付き、ぎゅうっと抱きしめて、自分のほっぺたを椰弥のほっぺたに擦り付けた。
「椰弥‥」
あたしは、そんな椰弥の銀色の髪を、そっと撫でながら、抱きしめたい気持ちを必死に押さえ込んでた。
だってさ、こんな気持ちで抱きしめたりしたら、きっと力の加減が出来なくて椰弥に苦しい思いさせちゃうもん。
「‥わたし‥ダメだ」
「こら、ダメとか言うな!」
病院のベッドで、縁起でもない。
でも、椰弥は、そんなあたしに向かって両手を伸ばし、あたしの躯を引き寄せるみたいに、ぎゅ‥っと、精一杯の力で抱きしめてくれた。
「‥ううん、本当にもうダメ。わたし、ヰ織と、のあがいなくちゃダメみたい‥」
「え‥‥」
「‥わたし、ヰ織と、のあと、一緒にいたい。ずっと、ずっと、ずーーっと!!」
そう言って、椰弥は、透きとおった涙の粒を、ポロポロと目尻から溢れさせ、頬から首筋を伝った涙が、枕元のシーツに吸い込まれていった。
その、何かを決意したような凛々しい泣き顔は、あたしが生まれてこのかた見た事も無いくらい、とんでもなく綺麗で、愛おしくて、あたしはもう、躯の芯まで溶けちゃいそうだった。
「ばか‥っ!」
もう! そんな顔見せられたら、我慢なんてできる訳ない。
あたしは、椰弥の背中に手を回し、ぎゅーーーーっと、骨が折れるくらい、きつく、きつく抱きしめてやった。
もう、二度と、絶対に離してやんないんだからね。
「‥い、痛いよ、ヰ織」
いつの間にかあたしにベッドから抱き起こされて、椰弥は困ったように笑いながら、それでも、あたしの手を振りほどこうとはしなかった。
「‥里見。ごめんなさい、迷惑かけます‥」
「仕方ありませんね‥。私がなんとか説得してみましょう」
ずっと部屋の隅で見守ってくれていた里見さんは、困ったように微笑んで、そう言ってくれた。
こうして、あたしたちの小さな群れは、ひとまずの平穏を取り戻したのである。
6、
「のあね。のあね。いおりとややがだいすきーだよ!」
「‥はいはい。わたしも、のあとヰ織が大好きよ」
「いおりは? のあのことすき?」
「大好き! ってゆーか、もー愛してるぞ」
「あいしてる?」
「うん。愛してるよ」
あたしは、右に寝てる、のあの上に覆い被さるようにして、ぎゅーっと抱きしめてあげた。
‥と、左から冷めた視線を感じて、のあの躯をパッと離し、にっこり笑って振り向いた。
「あ、もちろん、椰弥も愛してるからね」
「‥ふうん。わたしはついでか」
いやいや、そうじゃないよ。‥って、同じようにハグしようとしたら、椰弥が急に寝返りを打って、あたしの両手はスカッと空を切り、目標を失ったあたしの体は、芝生の上にドサっとうつ伏せに落ちた。
「‥ヰ織のばーか」
もう一度寝返りを打って元の場所に戻って来た椰弥は、あたしのお尻を枕にして空を見上げ「‥ふふ」っと、小さく微笑んだ。
晴れ渡った梅雨の合間の青空の下、あたしたち三人は河原の土手に寝転んで、ゆったりと流れる白い雲を飽きもせずに眺め続けた。
つい先日、原稿を持ち込んだ雑誌編集部の一つから、九月号に読み切り漫画を描いてみないかって話が来た。
正直、まだ自信はあまりないけど、とりあえず引き受けて頑張ってみるつもりだ。
そして、もう一つ決めた事がある。
あたしは、この一ヶ月の間、朝から晩まで真剣に考えて、考えて、考え抜いて、のあを養女にすることにした。
未成年ののあと養子縁組するには、家庭裁判所の手続きを待たないといけないけど、きっと、そう遠くない未来、あたしとのあは七つ年の離れた親娘になるだろう。
椰弥は、相変わらずあたしの部屋に入り浸りながら、高校受験に向けた勉強を本格的に始めた。
とりあえずは受験。それからアルバイト。‥なのだそうだ。
そうそう。
椰弥の父親が画策してた『子供達全員集合計画』は、結局、世界中の落とし子たちから総スカンをくらって、見事に挫折したらしい。
いやはや。本当にいい気味だ。
「‥ヰ織、おなかへった」
「へったへったぁ」
「はいはい。それじゃ、お弁当にしようね」
あたしたち三匹の"けもの"の小さな群れ。
やさしくて、あたたかくて、ふんわりした、あたしたちだけの居場所。
これから先の長い人生、まだまだ沢山の悩みや苦労が待っているだろう。
でも、このぬくもりが有る限り、きっと、私は迷わずに生きていける。
一人一人は弱いかもしれないけど、三人でなら、きっと大丈夫。
依存し合ったって、甘え合ったって、良いじゃないか。
人間だって、所詮はけものなのだから。