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第一話「銀色の猫と、灰色の犬。」

1、


『日給一万円以上可。未経験者歓迎! 誰にでも出来る簡単な仕分けのお仕事です』


「おぉぉっ。これ良いかもっ‥?!」

 信号待ちの交差点で無料のバイト情報誌と睨めっこしながら、あたしは誰にとも無くそう呟いた。

 呟いた‥‥つもりだったんだけど、思った以上に大きな声が出ていたらしい。

 妙な空気を感じて振り向くと、案の定、後ろで信号待ちをしていた下校途中らしい学ラン男子の集団が、怪訝そうにあたしを眺め、一斉に半歩後ずさってた。


(あちゃあ。まただ‥)


 一人暮らしが長いせいか、最近独り言が増えちまってホント困る。

 あたしは気恥ずかしさに顔を赤くしてうつむき、その場で信号が変わるまで待つのに耐えられなくなって、仕方なく一つ隣りの交差点に向かい歩き始めた。

「うぅ‥寒い」

 立春を過ぎたとはいえ、春の足音なんか少しも聞こえない二月半ばのとある午後。

 あたしは、徹夜明けの重たい身体を引きずるようにトボトボと歩き続けた。

 右手には、近所のコンビニに置いてあった無料のバイト情報誌。

 左手には、スーパーの特売日で買い漁った一週間分の食料がみっちり詰まった愛用のトートバック。

 でも、そんな荷物よりも、頭上をどんよりと覆う鉛色の空の方が何故かズシリ‥と重たくて、あたしはついつい猫背になってしまった。


 あたし‥こと、草坂ヰ織くさかいおり。当年とって二十五歳。

 職業、同人作家。

 性別‥‥‥腐女子。もとい、貴腐人。

 高校一年の夏、クラスメートに誘われてノコノコ付いて行ったコミケで、ものの見事に同人誌にハマっちまったのが運の尽き。

 もともと趣味で漫画やイラストを描いてたあたしは、その年の冬にはもう読者から作り手の側に回ってた。

 このご時世、知らない人もいないとは思うけど、一応説明しておくと、同人誌ってのは個人やサークルが趣味で自費出版した本のこと。

 そう、今キミが手にしてるこの本だって、もちろん同人誌さ!(キラリン☆)

 ‥なんて、爽やか(?)にキメてる場合じゃないよ。

 最初はね‥。最初は、一回きりのつもりだったんだ。

 どうせ自分が描いた漫画なんて売れるわけ無いと思ってた。

 大好きだったアニメのパロディ同人誌を、一度で良いから作ってみたかった。ただ、それだけ。

 ところがどっこい、何の間違いか、初めて作った同人誌が一部のマニアにバカうけ。

 口コミで評判が広がり、あっという間に完売して、読者さんに「次も期待してます!」なんて言われちゃ、張り切って次の本を作りたくなるのが人情ってやつだろ?

 でも‥今思うと、その一回で潔くやめなかったのが、あたしの人生最大の失敗だったんだ。

 あたしは、次から次へと、人気アニメのボーイズラブな同人誌を量産し続け、気が付けば、何処へ出るにも恥ずかしい立派な腐女子作家になっていた。


「ふぅぅ‥」


 重たい空を背負ったまま、あたしは絞り出すように長い溜め息をついた。

 ついさっきまでゴーサインを出してた隣の交差点の信号は、あたしが辿り着く寸前に点滅を始め、目の前で真っ赤に染まった。

(あはは‥‥)

 まるであたしの人生みたいだ。

 交通量の多い片側二車線の国道を、轟々と音を立てて大小さまざまな車が行き交い始め、あたしはまた無料のバイト情報誌と睨めっこを始めた。

 このところ急激に厳しくなってきた家計の足しにしようと、短期のアルバイトをいろいろ探してはいるんだけど、正直な話、バイトなんて生まれてこのかた一度もした事がないから、どんな基準で選んだら良いのか検討も付かない。

 そもそも、あたしは『労働』というものをした記憶が全く無かった。

 初めて作った本以来、出せば売れるの繰り返しで、どんどん販売部数は増え、あたしの生活の全ては同人活動を中心に回り始めた。

 そして、一、二年も経つ頃には、それはもう趣味とは言えないレベルになっていた。

 だって、夏と冬のコミケの後なんて、お父さんのボーナスが少なく見えるくらい大量の札束があたしの両手の中にあったんだ。‥‥まぁ、ほとんど千円札ばっかりだったけど。

 だから、あたしは高校を卒業すると迷わず同人漫画家の道を選んだ。

 進学や就職なんて選択肢は、これっぽっちも考えなかった。

 自分が好きな事を好きなようにしてるだけで、みんなに褒められたり感謝されたりして、その上、生活するのに充分なお金まで手に入ってしまうなんて、これぞまさに天職だと思った。

 もちろん、両親や先生は、きっと後で悔やむから大学にだけは行っておきなさい‥って、心配顔で何度も忠告してくれた。

 最初のうちは、絶対に普通の大学じゃなきゃダメだって言ってた父も、あまりに頑固なあたしに、絵を描くのが好きなら美大に通えば良いじゃないか‥とまで折れてくれた。

 それなのにあたしは、大学なんて何の興味も無いものの為に、高い学費と、それ以上に大切な四年間を無駄にするなんて、そんなの馬鹿だ‥って、そう頑なに思ってたんだ。

 あの決断から、もう七年‥。

 同人誌の魔力に魅せられたあたしの青春は、輝く事を知らないまま、風のように過ぎ去って行った。

 そう、この頬を切る冷たい北風のように‥。

(‥‥んっ)

 信号待ちの交差点で、不意に砂粒まじりの乾いた風に吹き付けられ、あたしは、ぎゅ‥っと固く瞼を閉じた。

 その刹那。

「え‥っ?」

 突然の出来事に、頭の中が真っ白になった。

 徹夜明けのぼんやりと濁った思考回路がショートしかけ、あたしはバイト情報誌片手に、呆けたように立ち尽くした。

 左手がやけに軽い‥。

 確認するように視線を落とすと、そこにあった筈のトートバッグが影も形もなくなっている。

(あれ‥?)

 なにがどうなってるんだ? と、思った瞬間、

『キキキキキキキキーーーーッ!!』

 激しい急ブレーキの音に続いて、クラクションが激しく鳴り響き、あたしは肩を竦ませながら顔を上げた。

 見ると、行き交う車の間を右往左往しながら、食料でパンパンに膨らんだあたしのトートバッグが向こう側に渡ろうとしてる。

 いや、違う‥。

 どう見ても小学生くらいの小柄な女の子が、あたしの大きなトートバックを両手で抱きかかえるようにして運んでる‥のだ。

(うわわ、あぶないっ!)

 女の子は、外国人なのか、ハーフなのか、淡い灰色のショートカットを揺らしながら、たどたどしい足取りで必死に道路を渡ろうとしてる。

 と、そこであたしはようやく気付いた。

(あぁ、そうか‥)

 どうやらあたしは、大事な一週間分の食料をひったくられたようだ。

「ド、ドロボーーーーーーーーッッ!!」

 叫んでから、いや「引ったくりーっ!!」が正解か‥なんて、暢気に考え直したけど、そう思い返した時には後先考えず車道に飛び出してた。

 クラクションと急ブレーキ、運転手たちの怒声が飛び交う中、灰色の小学生は、どうにかこうにか無事に反対側の歩道まで渡り切り、そのままこちらを振り返ろうともせずに逃げ続けてる。

 あたしは、その小さな背中を無我夢中で追いかけた。

 〆切り前の原稿を不眠不休で仕上げた後、週に一度の特売日だから‥と、ダルい体に鞭打ってスーパーまで出かけたのだ。

 その大切な戦利品を、みすみす奪われてなるものか。

「待てーーーーーっ!!」

 バイト情報誌を右手に握り締めたまま、何年ぶりかの全力疾走。

 中学時代は陸上部で長距離走をしてたけど、それ以降、運動らしい運動は何もしてなかったし、徹夜明けで疲れてるのもあって、少し走っただけで面白いくらいに心臓がバクバク言い始めた。

 すぐに足元がフラフラし出して、走っても走っても全然追いつけない。

 走ってるのか歩いてるのか分からないような足取りだ。

 そのうえ、次第に頭クラクラ体フワフワ、目の前がグルグルと回り始めた。

(あ‥やばい。なんだか楽しくなってきた‥)

 もうどうにもならなくなって、やけっぱちに苦笑しかけた瞬間。

 あたしは目を疑い、叫んだ。

「こ、こら! なにやってんだーっ!?」

 だって、だって、走って逃げてる灰色頭の小学生が、器用にトートバッグからジャガイモを取り出して、そのまま生で齧り始めたんだぞ?

(な、な、な、一体なんなんだっ?!)

 何かのドッキリ?

 まさか野生児?

 それとも、頭のおかしい子なのか??

 小学生は生のジャガイモが口に合わなかったらしく、一口食べただけで顔をしかめてバッグに戻し、今度はニンジンを取り出して、先っぽの方から、また生のまま齧り始めた。

 どうやら今度はさっきよりマシだったらしく、大きな荷物を抱えてヨタヨタと走りながら、二口、三口‥と食べ続けてる。

 そして、もつれそうな足を前に進めるのが精一杯のあたしの、ほんの十メートルばかり先で、とうとう、あたしがシチューに入れる予定で買ったニンジンを丸々一本食べきってしまった。

 しかも、まだ食べ足りないのか、もう一度トートバックに手を突っ込んでゴソゴソと漁り始めた。

「あぶない‥っ!!」

 あたしはまた叫んだ。

 下を向いてバッグの中を覗きながら走る小学生の進行方向、目と鼻の先に見えるコンビニから、制服姿の女の子がヒョイっと出て来るのが見えたんだ。

 肩掛けの学生鞄を右の肩に掛けた女の子は、両手に持った中華まんの底の薄紙を剥がすのに神経を集中させてる様子で、迫り来る灰色小学生の影に全く気付いていない。


「あ‥っ!!」


 あたしと、小学生と、制服の女の子、三つの声が同時に重なった。

 瞬間。


 ガツンッッ!!!!


 ぶつかるのを避けようと反射的に車道側に横っ飛びした小学生が、凄絶な音を立てて道路標識の鉄柱に頭から激突した。

 まるでスローモーション。

 その勢いで吹っ飛んだトートバッグから、あたしの一週間分の食料が飛び散り、歩道の上に無残に転がった。

(し、死んだ‥)

 そう思うくらい激しい事故だった。

 事実、固い鉄柱が軽く凹んで、そこから上が少し斜めに傾いてる。

 それなのに、灰色小学生はビックリしたように頭を抑えて目をパチクリさせるだけで、泣き声はおろか、涙さえ浮かべていなかった。

(‥どんだけ丈夫なんだよ?)

 激突の凄まじさに思わず立ち竦んでたあたしは、ハッと慌てて小学生に駆け寄った。

 初めは外国人の子供かと思ったけど、顔立ちはどこか日本人を思わせる親しみ易さがある。たぶんハーフかクウォーターなのだろう。

 それに、とても優しそうな可愛い顔をしてる。

(こんな子が、なんで引ったくりなんか‥‥)

 そう思ってまじまじと眺めてみると、

(うわぁ‥)

 そのおデコには予想外に大きなコブが見事なくらい真っ赤に腫れ上がってた。

 これは相当痛そうだ‥。

 でも、やっぱり灰色の髪の小学生は平気そうにキョトンとしてる。

 ショックで痛みを忘れてるのだろうか。

「‥大丈夫?」

 動揺して何も出来ずにいるあたしの横から、制服の少女が涼やかな目元に心配そうな色を浮かべて小学生に手を差し伸べた。

 この制服には見覚えが有る。すぐ近くの私立中学校の制服だ。

 どこか冷めたような気だるい雰囲気を漂わせてる少女だけど、まだ中学生なのだろう。

 それに、顔は綺麗に整った日本人の顔だけど、透きとおるような銀色の髪が、風に揺れてキラキラと煌いてる。

 どうやら今日はハーフの女の子に縁のある日らしい。

「‥‥‥」

 灰色の小学生が、無言で少女の顔を見上げた。

「‥どうしたの?」

 それに応えるように屈んで顔を近付けた銀色の髪の少女は、まさか自分が手を差し伸べてる小柄な小学生が、実は餓えた狼だなんて、思いもしなかったに違いない。

『パク‥っ!』

 と、自分の左手でホカホカと湯気を上げる中華まんに、いきなり喰い付かれて、

「え‥‥」

 目を丸くしたまま絶句した少女は、中華まんから手を離す事さえ忘れ、あやうく小学生に自分の指まで食べられそうになった。

『もぐもぐ‥。ごくんっ!』

 何の躊躇もなく、一息に中華まんを食べ終えると、小学生は頬をゆるめて満足そうに微笑んだ。

 その途端‥‥‥パチン。

 まるでスイッチが切れたみたいに目から生気が失われ、そのまま横向きにドサリ‥と崩れ落ちてしまった。

「な、なに? どうしたの?」

 呆然としてる銀色の少女の横から、今度はあたしが身を乗り出した。

 すると、小学生は舗道のアスファルトの上で、すやすやと安らかな寝息を立ててるじゃないか。

「‥‥どうなってるの?」

 少女は、中華まんを勝手に食べた小学生にじゃなく、何故かあたしに向かって不機嫌そうに口を尖らせた。

「さあ‥?」

 もちろん、あたしだって訳が分からないのだから、困ったように苦笑いを浮かべるしか出来ない。

 そんなあたしの反応をどう受け取ったのか、

「‥‥あのさ」

 銀色の少女は冷めた声で言った。

「‥今の肉まん、わたしの晩ご飯なんだけど‥‥責任とってもらえる?」

「はぁ?」

(え? なんであたしが!? あたしだって被害者なんだよ?)

 と、言いたい事はいろいろあったけど、徹夜明けに走るなんて無茶したもんだから、頭も口も上手く回ってくれなくて、面倒になったあたしは諦めてジーンズのポケットから財布を取り出した。

 要するにそこで寝てる小学生が食べた肉まんをあたしが弁償すれば良いわけだろ?

 まったくもって釈然としないけど‥。

 でも、財布を開けて中身を確認してみると、情けない事に三十円きっかりしか入ってなかった。

(しまった。さっきスーパーで手持ちのお金ぎりぎり計算して買い物したんだっけ)

「ごめん。今これしか持ってない」

「‥‥‥」

 なけなしの十円玉三枚を差し出すと、少女に冷めた目で軽蔑するように睨まれた。

「‥あなたの家、近く?」

「え? う、うん。すぐそこだけど‥」

「‥ならいいわ」

 そう言うなり、少女は地面に散らばった食料を手際よく拾ってトートバッグに詰め直し、右の肩に自分の学生鞄、左の肩にあたしのトートバッグを掛けて、すっくと立ち上がった。

「‥さあ行くわよ。そっちはあなたが持って」

「え?」

 そっち‥と、指差された先には、死んだように寝てる灰色の髪の小学生。

 どうしてあたしが? ‥と、悩み掛けたけど、

「‥なにしてるの? 早く行きましょ」

 静かに、だけど‥有無を言わさない口調で催促されて、あたしは仕方なく小学生を抱き起こし、背中におんぶした。

 小柄で華奢な小学生は、思ったよりずっと軽かった。

「‥さあ、案内して」

「えと‥。一丁目の交番で良い?」

 当然、この大きな落し物を交番に届けるものだと思ってたさ、あたしは。

 なのに、この子と来たら。

「‥は? なに言ってるの。あなたの家に決まってるでしょ」

「はぁ?!」

「‥さっさと歩く!」

 西の空に傾きかけた冬の太陽を背に、当然でしょ! とばかり、不機嫌そうに眉をひそめた。

(え? なんで? どうしてそうなるの?!)

 まったく、何がどうなってるんだ、今日という日は。


2、


 あたしが住んでるのは、東京の真ん中ら辺。M市の郊外にある大型分譲マンションの一部屋だ。

 今から四年くらい前に新築された、どちらかと言えば高級の部類に入るマンションで、都心に近いわりに自然に恵まれた立地と、シンプルだけど高級感があって可愛いヨーロッパ風の外観と内装のデザインが気に入り、どうせ住むなら気に入った部屋に‥と、購入に踏み切った。

 でも、今思えば、その頃のあたしは同人誌が一番売れてた時期で、調子に乗ってたんだと思う。

 未だかつて無いくらい大金を手にしてたあたしは、それが全て自分の実力で稼いだお金で、これから先、もっともっと稼げるものだと思い込んでた。

 だけど、それが自信過剰の勘違いだって気付くのに、そう時間は掛からなかった。

 パロディ同人誌専門で、その時々の人気ジャンルに寄り掛かって活動を続けてたあたしの化けの皮が剥がれるのは、時間の問題だったんだ。

 あたしの本が飛ぶように売れてたのは、あたし自身が本当に好きで惚れ込んだアニメや漫画、ゲームが、同人界でも指折りの売れ筋ジャンルで、しかもジャンルの人気が高騰する直前の、競合サークルが少ない時期に、読者さんを独占する事が出来た‥って、幸運が重なった結果だったんだから。

 その証拠に、活動を始めたばかりの頃からずっと買い続けてくれた常連のお客さんも、あたしが地味なジャンルに移った途端、あたしの本になんて見向きもしなくなくなった。

 あたしの好みが同人界の主流から離れるに従って、本の売り上げも右肩下がりに急降下した。

 要するに、読者さんは純粋にあたしの漫画が読みたかったわけじゃなくて、あたしが描いた人気アニメや漫画、ゲームのパロディ同人誌が欲しかっただけなのだ。

 そりゃあ、派手な仕事をいくつもして名前が売れてるプロの作家さんなら、どんなジャンルの本を出したって面白いように売れるだろう。

 でも、あたしみたいに、とりあえず同人誌だけは売れるけど、実力と知名度が伴わない作家の行く末なんて、考えるまでもない。

 早めに見切りを付けて同人活動を趣味のレベルまで戻すか。

 それとも、中堅と呼ばれるギリギリで専業同人を続けられるポジションを必死に守りながら、もう一度来るかどうか分からない大きな波に乗るチャンスを待ち続ける。

 せいぜい、そのどちらかだ。

 そりゃあ、最初は好きで楽しくて始めた事さ。

 でも、今はもう、自分が何のためにこんな稼業を続けてるのか分からなくなって来てる。

 年がら年中、大小さまざまな〆切りに追われて身も心も休まる暇が無いのに、手にするお金は普通に社会人してる同世代の子たちとどっこいどっこい‥いや、最近はもうずっと少なくなってるかもしれない。

 健康の不安もひしひしと感じる。

 できるだけ健康を意識して生活してはいるけど、〆切り前になるとどうしても無理をして体に負担を掛けてしまうし、長年の運動不足と不規則な生活が祟って、この十年でウエストは十センチ増えた。

 百七十センチジャストの長身に、いくら食べても太れないスリムな体型のおかげで、十代の頃は街中でよくモデルのスカウトに声を掛けられたあたしも、今となっては見る影も無い。

 長身に加えて、年がら年中ジーパン姿のあたしを、男前だとかアニキだとか抜かす阿呆どももいるけれど、このままじゃ近い将来に待っているのは、間違い無くメタボリックだ。

 同業者には二十代後半から三十代で突然死する人も少なくない‥。

 ついこの間一緒のイベントに出ていたと思ったら、半年後にはネットで死亡情報が流れていたりする。他人事じゃないのだ。

 正直、しんどい‥。

 そんな肉体的、精神的な疲れが漫画を描く手を鈍らせて、ますますあたしを経済的に追い込んで行く。

 このマンションだって、貯め込んだ貯金を全部はたいて頭金で半分近くは払ったけど、残りのン千万円は親の名義でローンを組んでもらってるのだ。

 そのローンが、あと十年以上も残ってる。

 買った時は、この程度の金額なら楽勝だと思ってた。

 でも、今となっては、その月々の支払いが、落ち目のあたしに重く重くのし掛かっていた。


「‥なに、この部屋。汚い」


 あたしの部屋を一目見るなり、銀色の少女が無遠慮に口を開いた。

 そりゃあ、〆切り前で掃除してる余裕なんて少しも無かったんだから散らかってるのは当たり前だ。でも、

「‥なにをどうしたら、こんなに汚せるのかしら‥」

 不思議そうに首を傾げた少女からは、少しも非難めいた様子が感じられなくて、あたしの方こそ不思議な気分になった。

 あたしは、結局、灰色と銀色の二人を自分の部屋に連れて帰る事にした。

 まぁ、有無を言わさず案内させられた‥ってのが本当のところだけど‥。

 あたしが背負って運んだ灰色頭の小学生は、よほど眠りが深いらしく、あれ以来ずっと爆睡したままで、今はあたしのベッドの上ですやすやと気持ち良さそうに寝息を立てている。

 銀色の髪の少女はというと、汚れた部屋がよほど気になったのか、あたしがトートバッグの食料を冷蔵庫にしまってる後ろで、勝手に掃除を始めてしまった。

 あまり他人に部屋を弄られるのが好きじゃないあたしは、そんな事しなくて良いから! と、慌てて止めようとしたんだけど、「‥いいから、やらせて」って、荒れ放題の部屋を必要最小限の手間でテキパキと片付けて行く少女の要領の良さには、文句をつける隙が全く無かった。

(この子、すごい‥!)

 何も言わなかったのに、あたしが絶対に触られたくない仕事机の周りには手を付けないでくれたし、そこら中に散らばってた漫画や作画資料の類いも、最初から知ってたんじゃないかって疑いたくなるくらい完璧に、本棚の元あった場所に戻してくれた。

 その見事な手際は、なんというか、もう、思わず惚れそうになるくらいだった。

 徹夜明けのあたしは、買い物から帰ったら速攻で寝るつもりだったけど、妙な事態に巻き込まれて眠気なんて吹っ飛んでたし、名前も知らない少女に掃除をさせて自分だけ眠るわけにもいかない。

 それに、どういう理屈か知らないが、あたしは、あの爆睡欠食児童が勝手に食べた肉まんの償いをしないといけないらしい。

 正直言って、これ以上面倒な事に巻き込まれるのは御免だったから、部屋に帰ったら素直に肉まん代を渡して帰ってもらおうと思ってた。

 でも、気が変わった。

 部屋の掃除をしてくれたから‥って訳じゃないけど、どうせ自分もお腹が減り始めてたし、ついでだから‥と、あたしは二人に手料理を振舞うことにしたのだ。

 灰色の子は生でジャガイモを齧るくらい餓えてるみたいだし、銀色の子にしても、育ち盛りの女の子の晩ご飯が肉まん一個ってのは頂けない。

 まぁ‥あたしみたいに百七十センチの大台に乗るほど大きくなれとは言わないけどさ。

「ねえ、食べられない物とか嫌いな物があったら教えて」

 キッチンからカウンターテーブル越しに声を掛けると、リビングダイニングの床をモップ掛けしてた少女は、

「‥いえ。別に」

 相変わらずのそっけなさで素直に答えてくれた。

 だけど、それから少し間をおいて、思い出したように付け加えた。

「‥あ。刺激が強いスパイスと、生のタマネギは苦手‥かも」

 でも、それがどうしました? と、不思議そうに訊ねる少女に、あたしは、

「肉まんの代わりに晩ご飯作ってあげるから、食べてきなさい」

 そう、ニッコリ笑って見せた。

「‥‥‥」

 少女は黙ったままあたしを見て、何も答えなかった。

 でも、また少し間を置いて、安心したようにふんわりと頬を緩めると、

「‥ありがとう」

 そう言って、どことなく嬉しそうに目を細めてくれた。

(よーし!)

 あたしは早速、キッチンに立って食事の支度を始めた。

 ニンジンは食べられちゃったし、ジャガイモには齧った跡が付いてたけど、残りの食材はほとんど無傷だったから、三人分の食事くらいなら楽勝で作れる。

 どんなメニューが良いか、徹夜明けの自分の胃の具合と相談して、あたしは野菜をたっぷり入れた特製の卵雑炊を作る事にした。

 実家を出るまでは、料理なんて学校の調理実習程度しか経験がなかったあたしだけど、一人暮らし歴が長くなるにつれ、一通りの料理は目分量で作れるようになっていた。

 フレンチやイタリアンはレシピ本を見ながらじゃないと、まだ上手く作る自信が無かったけど、和食に洋食に中華、いわゆる普通の家庭料理なら、その辺の主婦に負ける気は全然しなかった。

 銀色の髪の少女がすっかり掃除を終える頃には、ダイニングテーブルの上に土鍋いっぱいの卵雑炊がデンと据えられた。

「‥美味しそう」

 洗面所で手を洗って帰って来た少女が、土鍋の中を覗いてポソリ‥と呟いた。

「‥‥‥‥」

(ん‥?)

 じーーーーっと、物欲しそうな視線を背中に感じて振り向くと、雑炊の匂いに誘われて目が覚めたのか、ちょうど起こしに行こうと思ってた灰色頭の小学生も、自分からダイニングにやって来てた。

「あ、起きたんだ。一緒にご飯食べよ?」

 そもそも日本人かどうかさえ分からない不思議な子だ。

 ちゃんと言葉が通じるかどうか、少し不安になったけど‥、

「そっちに洗面所があるから手を洗っておいで」

 そう言うと、小学生はコクン‥と小さく頷いて、ててて‥っと、あたしが指差した方に駈けて行った。

(よかった。日本語は通じるみたい)

「‥うらやましいな。優しいお母さんで」

「は?」

 小学生の背中を目で追いながら、銀色の少女がポソリ‥と言った。

「だ、誰がお母さんだって?」

「‥え。あなたの子供じゃないの?」

「違うよ! あたしゃまだ独身だし、子供なんて持った覚えありません!」

「‥ご、ごめんなさい。てっきり、そうだとばかり‥」

 てへへ‥と、少女はバツが悪そうに小さく笑った。

(うわ‥っ)

 その瞬間、あたしの抱いてた少女のイメージがガラリと変わった。

 だって、笑うと、もんのすごく可愛い‥のだ。

 女のあたしでも思わずキュン‥となって抱きしめたくなるくらい、とにかく可愛い!

 普段のどこか冷めたそっけない表情とのギャップのせいもあるだろうけど、こんな可愛い笑顔、テレビや映画の中でもなかなかお目に掛かれない気がした。

(いいもん見たぁ‥)

 今の笑顔を絵で表現できたなら、あたしの漫画も少しは魅力的になるだろうに‥。

 そんな事を思いながら、呆けたように少女の顔を眺めてたら、

「‥なんです?」

 今度はまた不機嫌そうな無愛想顔に逆戻り。

 笑ってれば最強に可愛いのに、ホントもったいない。


 あたしの特製卵雑炊は二人のお気に召してもらえたらしく、少し作りすぎたかな‥と思ってた土鍋いっぱいの雑炊も、結局三人でペロリと平らげてしまった。


「‥なぁ、なんであんな事したりしたの?」

 食事の後、三人でベッドに転がってテレビで夕方のアニメを見ながら、あたしは思い出したように小学生に訊ねた。

「‥?」

 灰色の髪の小学生は、キョトンとしたまま、じっとこちらを見つめるだけで、話が通じてるのかどうかさえ怪しい。

「お腹がすいてたのは見れば分かるけど、あんなことしちゃダメだろ?」

「うー‥」

 少なくても怒られてる事だけは理解してる様子で、うつ伏せに寝たまま、うつむいて、上目遣いで困ったようにあたしを見上げる。

 その様子があんまり可愛くて、あたしの方こそ困ってしまい、思わず灰色の髪をわしゃわしゃと乱暴に撫で回した。

 だって、なんだか、悪戯をして叱られてる時の仔犬みたいなんだもん。

「いい? どんな生活してるのか知らないけど、人の物を取るのは絶対にダメ! 今度から、お腹が減ったらこの部屋においで。あたしがメシくらい喰わせてやるから」

「‥‥‥」

 じ‥っと、その透きとおった青い瞳にあたしを映した犬っころ小学生は、あたしの様子を窺うように、おずおずと傍に寄って来て、そのままあたしにピタリとくっつき、安心したように頬をゆるめた。

 その仕草がまた可愛くて、あたしは思わず彼女をぎゅーっと抱きしめてしまった。

「‥仁科椰弥にしなやや

「え?」

 ずっと黙ってテレビを眺めてた銀色の髪の少女が、急に不機嫌そうに口を開いた。

「‥わたしの名前」

「あ‥‥、うん」

 なんでまた急に? と、思ったら、

「のあ!」

 灰色の髪の犬っころも、あたしの腕の中で声を上げた。

「ん? どうしたの?」

「のあはね。のあなの!」

 どうやら、自分の名前を言ってるらしい。

(そっか、椰弥に、のあ‥か)

「あたしは草坂ヰ織。ヰ織で良いよ」


 これが、あたしたち三人の奇妙な出会いだった。


3、


 どれくらい眠っただろう。

 二人をマンションの外まで見送った後、重たい身体を引き摺るように部屋に戻ったあたしは、そのままベッドに倒れ込み、布団も被らずに爆睡した。

 ふと目が覚めると、カーテンの隙間から眩しい光が差し込み、壁や天井に不思議な幾何学模様を描き出していた。

 枕元の目覚まし時計を引き寄せると、午前十時を過ぎたところだ。

(‥‥‥寝過ぎた)

 徹夜明けとはいえ、十六時間も眠ってしまった。

 今日と明日は特に〆切りは無いけど、明後日までにカラーイラストを一枚仕上げないといけない。

 基本的に専業同人のあたしだけど、毎月いくつかは商業誌関係の小さな仕事も引き受けている。

 手間の割りに実入りの少ない仕事ばかりで、正直あまり乗り気じゃないのだけれど、頼まれると断れない性格が災いして、この類いの仕事はどんどん増えるばかりだ。

 ‥と、まあ、愚痴っていても始まらない。

 年を重ねるごとに遅くなっている自分の作画スピードを考えると、今日中に下描きまでは終わらせておきたいところだ。

「よっし‥!」

 まだ寝足りないのか、それとも寝過ぎたのか、心と身体にズシ‥っと圧し掛かってくる強烈なダルさを振り払うように、両手で顔をパンと叩き、あたしは勢いを付けてベッドから起き上がった。

 あたしをローンで苦しめてるこの部屋の間取りは、一人暮らしにはちょっと広い3LDK。

 とても使い勝手の良い洗練されたキッチンスペースに、十二畳のリビングダイニング。

 三つの個室はそれぞれ、仕事部屋、寝室を兼ねたプライベートルーム、書庫を兼ねた同人誌の在庫置き場に使ってる。

 時たま遊びに来る作家仲間たちは、あたしの部屋を見ていつも羨ましがるけど、あたし自身は別にそんな大した暮らししてる訳じゃないし、むしろ、ローンの支払いに押し潰されて窒息しそうになってからは、この無駄に広い、時が止まったような部屋に独りで篭もってると、なんだか虚しくて堪らなくなる。

 独りは嫌だ。

 独りでいると、ロクなことを考えない。

 同人活動が生活の中心になってからの十年は、あっという間に過ぎたけど、特に、この部屋に住み始めてからの四年は早かった。

 ローンに縛られて、本の売り上げとか採算とかあれこれ考えるようになって、だんだん、自分がどうしてこんな事をしているのか分からなくなって来たのが原因なのだろうか‥。

 地元の友人たちは、仲間内の誰よりも早く身を立てて稼ぎ始めたあたしを羨ましいと言っていたけど、今となっては、普通に大学を出て、普通に就職して、普通に社会に溶け込んで暮らしてる彼女たちの方が、ずっとずっと羨ましい気がする。

 同人を始めた頃の作家仲間たちも、いつの間にか彼氏を作り、結婚、出産し、一人また一人と同人活動から離れていった。

 あたしだって、やめられるものなら今すぐにだってやめたい。

 未練は無い。‥‥と思う。

 でも、他にやりたい仕事があるわけじゃ無いし、やりたくもない仕事をするくらいなら、今のまま、自分が出来る事で稼いで生活してる方がマシな気がする。

 そもそも、学歴も職歴も社会経験も何もない二十五歳のあたしが、今さら同人作家をやめてどうやって暮らして行けば良いというのだろう。

 見た目は年齢相応になってるだろうけど、精神年齢なんて、きっとその辺の中高生と何も変わらないハズだ。

 それなら、彼氏でも作って結婚しちゃえば良いんじゃない?

 そう、気軽に言ってくれる人もいるけど、人付き合いが下手で、恋愛はもっと下手なあたしが、そう簡単に結婚まで漕ぎ着けるわけがないのだ。

(ああ‥もう! 本当にどうしようもないな‥あたしって)

 独りでグジグジ考えるばかりで、一歩も前に進めない。

 どんなに悩んだって、結局は、いつも同じ所で足踏みしてるだけなんだ。

「はーあ。やんなる‥」

 あたしは仕事部屋の作画机に向かい、何とは無しに自分の手をまじまじと眺めた。

 長年酷使して来た指先には大きなペンダコが脹らみ、鉛筆とペン軸を支え続けた中指の先は、パッと見で分かるくらい薬指側に曲がって傾いてる。

 哀しいけど、職人の手だ‥。

 あっという間の十年だったけど、実際は、こんな手になるくらい沢山の絵を描いて過ごした濃密な十年なのだ。

 それなのに、あたしにはそんな実感は少しも無かったし、自分の絵に対するプライドや自信みたいなものも、いつまで経っても芽生えては来なかった。

 自分の仕事に誇りを持てない情け無い同人職人。

 それが、今まであたしが歩いて来た道。

 そして、きっとこれから先も、ただ無為に、充実感の無い絵仕事を続けながら、この世界の片隅で細々と生き続けるんだ。


 めちゃくちゃ濃くて熱いブラックコーヒーをカフェオレ・ボウル一杯分一気に飲み干し、寝起きのモヤモヤしたネガティブ思考からどうにか抜け出したあたしは、お昼前になってようやくカラーイラストの下描きに取り掛かった。

 スロー・スターターなあたしは、物事に本気で取り掛かるのにとても時間が掛かる。

 一度始めてしまえば、面倒な事でも後は惰性でどうにか出来るのだけど、始めるまでが大変なのだ。

 なのに、鉛筆を走らせ始めてほんの十分も経たないうちに、インターホンのチャイムが鳴って作業に水を差された。

 なんなんだよ、もう! ‥と、不機嫌まるだしのあたしは、足音をドスドス響かせてリビングのモニター付きインターホンの前に向かった。

「‥早く開けて」

 聞き覚えの有るそっけない声。

 そして、モニターの画面には見覚えのある個性的な美少女が二人。

 あたしは、なんだかそれだけで不思議なくらい嬉しくなって、思わず声が弾むのを抑えられなかった。

「ごめん。いま開けるーっ」

 オートロックを解除してあげると、あたしは玄関に向かってドアを開け、廊下に出て二人を出迎えた。

 そう、昨日知り合ったばかりの椰弥と、のあだ。

「おはよ。どうしたん?」

「‥この子が困ってたから」

 と、あたしの前にのあをズイっと差し出した椰弥の話によると、近所のコンビニに行く途中、うちのマンションの前を通ったら、エントランスの自動ドアの前で途方に暮れてるのあの姿を見つけて、代わりにインターホンであたしの部屋を呼び出してあげたのだと云う。

 あれ‥でも、まだ午前中だよな。学校は‥? と思って見ると、昨日は制服だった椰弥が、今日はチノパンにダッフルコートって私服姿だ。

「‥ヰ織。今日は土曜でガッコ休みだよ」

「あ、そっか‥」

 ずっと昼も夜もない不規則な生活をしてると曜日感覚が無くなって困る。

 ここに引っ越すまでは、ゴミ出しの都合で、かろうじて曜日感覚を保ってたけど、このマンションは、いつでも好きな時にゴミ集積所まで持っていけば良いから、曜日を気にして暮らす必要が全くなくなってしまった。

「‥のあにオートロック教えてあげて」

「あ、うん‥ごめん」

 まさか今どきオートロックを開けてもらう方法を知らない人がいるなんて思わなかった。

 でも、のあは見るからに幼くて世間知らずっぽい。

 まぁ、見た目は小学校高学年くらいに見えない事もないけど、中身はまだ幼稚園児なんじゃないかって疑いたくなるくらいだ。

「ふぇ‥?」

 そんなのあは、何を言われてるのか良く分かってない様子で、あたしと椰弥の顔を代わる代わる眺めながらキョトンとしてる。

 昨日作ったおデコのコブは、もう腫れは引いてるものの、灰色の前髪の間からちらちらと、青紫色に内出血してる痕が見え隠れしてた。

「いらっしゃい。のあ」

 あたしは腰を屈めてのあと目線を合わせ、淡い灰色の髪を撫でながら、ニコっと笑ってみせた。

「えへへ‥」

 それが嬉しかったのか、のあは頬をゆるめてホッとしたように笑った。

 のあが来たって事は、当然、お腹が減ってる‥って事だろうけど、椰弥はどうなんだろう?

「そういや、椰弥はまた肉まん買いに行くの?」

 苦笑混じりに訊いたあたしに、椰弥はいつものそっけない口調で答えた。

「‥うん。お昼ご飯」

「そっか」

 昨日も今日もコンビニの肉まんが食事代わりなんて、どんな家庭に暮らしてるんだろ。

 もしかして‥椰弥も餓えてるんじゃないのかな。

 そう思ったら、あたしはなんだか放っとけない気持ちになってしまった。

「あのさ。よかったらまた一緒にご飯食べてく?」

「‥え。いいの?」

「うん。椰弥なら大歓迎だよ」

「‥ありがとう」

 じーーー‥っと、下の方から物欲しそうな視線を感じて見ると、のあが、その零れ落ちそうなくらい大きな青い瞳に、あたしをじ‥っと映してる。

「もちろん、のあも一緒に食べるよな?」

「うんっ!」

 大きく頷きながら即答して、本当に嬉しそうにニコニコと笑うのあ。

 のあに、もし尻尾が生えてたなら、絶対、千切れそうなくらいパタパタと振りまくってるに違いない。


 あたしは、描き始めたばかりのイラストの下描きは一旦忘れる事にして、さっそく食事の支度に取り掛かった。

 椰弥が少し申し訳無さそうな顔をして「‥なにか手伝う?」と言ってくれたけど、残念ながらあたしは料理は一人でちゃっちゃと作る主義なのだ。

 大量に野菜の皮を剥いたり切ったり、パン生地を捏ねたり、餃子の具を皮で包んだりする時は、手伝ってもらった方が楽だけど、それ以外の時に一緒に台所に立たれても、かえって動きづらくて邪魔くさい。

 昨日は食事の支度が済むまでずっと寝てたのあも、今日はその青い瞳に『ワクワク』と書いて、料理するあたしの手元を眺めてる。

 お米を炊く所から始めて、完成するまで小一時間。

 今日のメニューは、あたしの得意料理、半熟ふわふわオムライス。

 ちなみに料理のポイントは、隠し味のマヨネーズとおたふくソースだ。


「おいしい‥っ!」

「‥本当。美味しい」


 きっと普段ロクなもの食べさせてもらっていないのだろう。

 昨日も思ったけど、私の作った料理でこんなに幸せそうな顔をしてくれたのは、のあと椰弥が初めてだ。

 もう! こんな顔されたら、毎日だって作ってあげたくなっちゃうじゃないか。


 ゆったりとした食事を終え、今日もまた三人ベッドに寝転んで食休みした後、あたしと椰弥は、のあにオートロックのマンションの入口からあたしの部屋を呼び出す方法を教えることにした。

 恐ろしく物覚えの悪いのあに、休憩を挟みながら何度も何度も繰り返し教え、ようやく部屋番号を間違えずに押せるようになる頃には、今日もまた陽が西に傾きかけていた。


「それじゃ、またね」

 と、二人を見送った後、あたしは軽めの夕食をとって、お風呂に浸かり、それからようやく仕事部屋に戻った。

 すると、どういうわけか、あたしの右手は自分でもビックリするくらい何の迷いもなく滑るように動き始め、いつもなら半日掛かりで腐心する下描きを、ほんの一時間程度で描き上げて、数時間後にはペン入れまですっかり終わらせてしまった。

 あたしは、余計な事なんて何も考えず、目の前の作業にだけ集中してた。

 不思議なくらい気持ちにゆとりが生まれて、このところずっとあたしを縛ってた焦りや不安みたいな気持ちが、嘘みたいに軽くなった気分だった。


『ピンポーン』


 次の日から、のあは毎日あたしの部屋のインターホンを鳴らすようになった。

 おかげで、一人暮らしを始めて以来ずっとグダグダだったあたしの生活も、自然と昼間起きて夜に眠る規則正しい生活に戻り始めた。

 最初は、まだどこか遠慮してる様子ののあだったけど、そのうち、あたしが何処へ行くにも後を付いて来るようになった。

 仕事をしてる時には傍で大人しくしてたし、料理をしてる時は瞳を輝かせてあたしの手元を覗いてた。

 テレビを見る時も、気分転換に近所の散歩に行く時も、スーパーやコンビニに買い物に行く時も、ずっとあたしにピッタリとくっついて、片時も離れようとしなかった。

 やっぱり、のあは犬っころだ。

 椰弥も、休日や学校の帰り、ほとんど毎日顔をみせるようになった。

 相変わらず無愛想でそっけない椰弥だったけど、たまに見せてくれる、あの、とびっきりの笑顔は、あたしの創作意欲をモリモリと掻き立ててくれた。

 二人と一緒にいると、友達と恋人と妹と娘が同時に出来たような、なんだか不思議な気分だった。

 嬉しくて、ちょっぴりくすぐったくて、少し手間が掛かる事もあるけど、それもまた楽しみの一つで‥。

 兄が一人いるだけで姉妹がいないあたしには、のあや椰弥と過ごすまったりとした時間が、とても新鮮で心地よかった。

 二人は、よほどうちの居心地が良いのか、それとも他に行く場所が無いのか、次第にあたしの部屋で過ごす時間が増え、週末なんか朝早くから日が暮れるまでずっと入り浸るようになった。

「こんなにうちでのんびりしてて大丈夫なの?」

 中学二年生で来年は高校受験だという椰弥に、さすがのあたしも心配して声を掛けたけど、「‥大丈夫」と、そっけなく返されて、それ以上何も言えなくなってしまったし、無口でおしゃべりをするのが苦手な様子ののあは、椰弥以上に自分の事を何も話そうとしなかった。

 まあ、問題があるようなら親御さんが何か言って来るだろう。あたしが一人で気にしてても仕方ない。

 それに、のあや椰弥と一緒に過ごしてると、ついつい、ゆったりした気持ちになって、いつの間にか、そんな心配なんてすっかり忘れ去ってしまうあたしなのだ。

 ずっとあたしの傍にくっついてた二人も、あたしが漫画の原稿を始めて、構ってあげられなくなると、それぞれ自分のお気に入りの場所に陣取ってのんびりしてる事が多くなった。

 のあは、ベッドルームの隅に置かれた、あたしの唯一のルームメイト‥長毛種のゴールデンハムスター『ぺぺ』のケージの前で、ぺぺと何やら談笑してるし、椰弥は書庫に座椅子を持ち込んで、漫画、小説、絵本、作画資料用の写真集から雑誌のスクラップまで、置いてあるもの全てを読み尽くす勢いだ。

 あ、ちなみに『ペペ』はフランス語で『おじいちゃん』って意味。

 最初から見た目がおじいちゃんっぽかったから、なんとなくそう付けた。

 ゴールデンハムスターは、三年生きたら長生きの部類に入るというから、この部屋に引っ越した四年前、近くのペットショップで一目ぼれして、そのまま連れて帰ったぺぺは、名前の通り、もう相当なぺぺ(おじいちゃん)だ。

 最近すっかり大人しくなって、ケージの隅で寝てる事が多くなったぺぺだったけど、のあが来るようになってからは、のあの話し相手をしてくれてるようだった。

 あんな小さな毛むくじゃらだけど、ぺぺはあたしの大事な家族なのだ。

 あたしの部屋にはTVもゲームもDVDも一通り揃ってるけど、あの二人はそういう類いの物には興味が無いらしく、いつもお気に入りの場所でゴロゴロしてた。

 正直、こんなに毎日ゴロゴロしてて、よく飽きないな‥と思う事もあったけど、きっと、この部屋でのんびり過ごす時間が、二人にとっては大切な時間なのだろうと思って、何も言わずに放っておいた。

 もちろん、どんなに原稿が忙しくてもメシの面倒だけはしっかり見た。

 あたしが仕事の合間の休憩にベッドにゴロンと横になると、二人はいつも、もそもそとベッドに上がり込み、あたしに身体をピッタリとくっつけて、安心したように昼寝を始めた。

 二人とも育ち盛りだし、寝る子は育つって言うから別に良いんだけど、もしかして自分の家でちゃんと眠れてないのかな‥って、少し心配にはなった。

 そんな二人と接する時間が長くなるにつれ、あたしは二人の家庭環境が少しずつ気になり始めた。

 虐待を受けてるだとか、そんな深刻な雰囲気は感じ取れなかったけど、家庭に満たされていないのは、二人の様子を見ていれば嫌でも分かった。

 でも、だからといって、満たしてやろうだとか、癒してやろうだとか、そんな気持ちはあたしには少しもなかった。

 むしろ、あたしの方が、あの二人に癒され、満たされてるような気がしていた。


 三人でいる時は、いつもあたしを真ん中に挟むようにして、右にのあ、左に椰弥。

 それが、自然とお約束の形になった。

 あたしたちは、なんだか、同じ群れの仲間みたいだ。

 でも、種類は全然違う。

 さしずめ、私が寂しがり屋の兎で、のあは甘えん坊の仔犬、椰弥はクールで気まぐれな猫‥ってトコだろう。

 そんなあたしたちが、一つ巣の中で身を寄せ合い、冷えた心を温め合い、互いの傷を癒し合う‥。

 あたしたちが交わす言葉は少なかったけど、ただ、こうして三人で寄り添い、ゆったりとした時間を送るだけで、ズシ‥っと重たかった気持ちが、嘘みたいに軽くなって行くんだ。

 ああ‥。

 このまま三人一緒に暮らして行けたならどんなに良いだろう。

 この、けもののような不思議な関係が、いつまでも続いてくれますように。


 そして、今日もまたインターホンのチャイムが鳴る。

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