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Beloved liar

 朝、登校したら真っ先に美術室に行く。どれだけ早く家を出ても、あの人はもうそこにいて、キャンバスに筆を走らせている。

 本当は初めて会ったあの日から、既に惹かれていたのかもしれない。それとも小学三年生の夏から、それは始まっていたのだろうか。ただ一緒にいて、話をして、真琴が彼の描く絵を見る。それだけの関係。拒絶されて、初めて知った自分の気持ち。伝えたい。一歩踏み出したい。ただその一心で、真琴は美術室の扉を開いた。

 けれどもそこには誰もおらず、教室の中はがらんとしていた。ただそこに蒼介がいないだけなのに、真琴にはそこが全く見知らぬ場所のように見えた。


 朝の予鈴が鳴るギリギリまで、真琴は教室の前で待ってみたが、結局蒼介が現れることはなかった。


 真琴は昼休みにも美術室に行ってみた。いつもそこでお弁当を食べていたので来ているかとも思ったが、やはり彼はいなかった。途方に暮れて立ち尽くす真琴に美術部員と思われる女子生徒が遠慮がちに声をかけてきた。

「あの、いつも和泉君と一緒にいる子だよね」

「は、はい。そうです」

 真琴は突然のことに驚きながらも肯定した。

「和泉君を探してるみたいだけど、彼昨日うちの部を辞めたからもうここには来ないと思うよ」

「退部っ!?そうなんですか?」

 真琴は思わず大きな声を出してしまった。しかしそれをさして気にした風もなく美術部員は続ける。

「私達も部長から聞いてびっくりしたの。もうすぐ絵画コンクールも近いし、和泉君も出展する予定があったから」

 真琴は額に手を当てた。彼は何故部活を辞めてしまったのだろうか。

「あなた、何か知らない?」

「私、ですか?」

 美術部員に問いかけられ、真琴は素っ頓狂な声を出した。むしろ聞きたいのは真琴の方で、何がどうなっているのか全くわからなかった。

「私は何も……」

「そう。あなた、和泉君と仲良かったみたいだから、何か知ってるかと思って」

「すみません、何もわからなくて……」

 気落ちした様子の真琴を見て、美術部員は手を振った。

「ううん、いいの。気にしないで。それより私達ね、ずっとあなたのこと凄いって思ってたの。和泉君って近寄りがたい雰囲気があるから彼と親しい人って部内にもいなくて。同じ三年の私でもそうだからあなたは本当に特別なんだろうなって」

 特別。周りからはそんな風に見えていたのか、と真琴は少し悲しい気持ちになった。実際の真琴と蒼介の距離はきっと見た目ほど近くはないから。きっと真琴が近づけば近づくほどに、蒼介は同じ速度で離れて行ってしまうから。そんな考えが脳裏をよぎったところで真琴はそれを振り払うように頭を振った。彼女はもう決めたのだ。どんなに逃げようとも、追いついてみせると。

 美術室に蒼介がいないのなら、別の場所をあたればいい。真琴は美術部員に頭を下げると、校内を探し回った。蒼介の教室。人が集まる体育館。職員室。それから図書室。どこにも彼の姿はなかった。


 蒼介を探し続けること一週間。真琴はふと思い至って、靴箱に来た。そして三年生のところから和泉蒼介の文字を探しあてると、そっと中を見た。しかしそこにはあるはずのない蒼介の内履きが入っていた。

 嫌な予感がして、真琴は慌てて蒼介のクラスへ行くと、彼のクラスメイトが教えてくれた。和泉蒼介は真琴と会ったあの日から今日まで、学校には来ていないということを。担任は蒼介の欠席理由を体調不良と説明していたらしい。

 真琴は途方に暮れた。蒼介の家の場所も、連絡先も知らない。それどころか、真琴は蒼介のことを本当に何も知らなかった。家族のこと、クラスでのこと、成績。彼の描く絵を除いて何一つとしてわからない。そして彼が言った言葉を本当にその通りだと肯定する。

私たちは、友達でもクラスメイトでもない。他人なのだと。だけど今の真琴はそれでいいのだと思った。彼の描く絵が好きだ。彼の何気ない優しさも、口の悪ささえも。それだけで十分なのだと思えた。

 だから真琴は待ち続けた。蒼介が再び学校に来る日を。だけどその日が訪れることは永遠になかった。

 七月十四日。真琴は蒼介の机の上に花の生けられた花瓶を見た。目の前が真っ暗になる。彼は亡くなった。その事実を知った時、全身から力が抜けていくのがわかった。真琴は別れの言葉すら言えなかった。


*****


 蒼介が亡くなって、もうすぐひと月。夏休みを迎えていた。毎日会えていた人に突然会えなくなるのは、その間実際に過ごした日数よりも遥かに長い時を感じさせた。真琴にしてみれば、ひと月は一年だった。

 茜差す時間帯、部活終わりに真琴が職員室の前を通った時だった。目が離せなくなるくらい綺麗な女性が職員室から出て来たのだ。胸元まで伸びた真っ直ぐな黒髪と、涼しげな目元が印象的な美しい人だった。だけどそれと同時に、真琴は彼女に対して猛烈な既視感を覚えた。来客用のスリッパを履いていたので、この学校の先生ではないことは明らかだった。

 目を逸らせずにいる真琴に気付いた女性は少し目を見張り、それからゆったりとした足取りで真琴の前までやって来た。その表情は穏やかなのに、どこか泣き出しそうにも見えた。

「東城、真琴さん?」

 女性が確認するように真琴に尋ねる。何故、見知らぬこの女性が自分の名前を知っているのかと、真琴は息を呑んだ。そんな真琴の様子に確信をもったらしい女性は、微笑んだ。

「初めまして、和泉蒼介の母です」

 それは本当に儚い笑みだった。


*****


 少しだけ、付き合ってもらいたいのだけれど。いいかしら?

 そう言った蒼介の母、冴子さえこに連れられて、真琴は駅前の美術館にやって来た。そこは市営の小規模なもので、中にはカフェスペースなんかもある。冴子はそこで飲み物を二人分買うと、一つを真琴に差し出した。それから小さなカフェテーブルに向かい合うようにして二人は座る。

「急にごめんなさいね。びっくりしたでしょう?見知らぬ人に唐突に声を掛けられて。でも、どうしてもあなたとお話ししたくて」

「いえ、そんな」

 真琴は慌てて手を振った。そんな様子を冴子は優しい面差しで眺めていた。

「あの、どうして私のことを知っているんですか。確かに私は和泉先輩と面識がありますけど、私はクラスメイトでも友達でもありません」

 言った真琴は自分の言葉に悲しくなる。でも彼女は事実を言った。

「そうかもしれない。でも、蒼介にとってあなたは特別な存在だった。きっと誰よりも。そう、母親である私より」

「どういうことですか?」

 予想もしなかった冴子の言葉に、真琴は疑問を口にした。冴子はコーヒーに砂糖を入れると、くるくると掻き混ぜた。そうして甘くなったコーヒーを口にする。

「蒼介は、生まれつき心臓の弱い子だった。大人にはなれないだろうって、先生から言われていて。あの子が十九歳まで生きられるなんて、誰も思ってなかった」

 何度目ともしれない発作の末に、彼は遂に帰らぬ人となった。真琴は今日初めて、蒼介の死因を知った。そこでふと、真琴に疑問が浮かぶ。

「十九歳?でも和泉先輩は……?」

「以前の学校では出席日数が足りなくて留年してしまって、今年の春に今の学校に編入して来たの」

「そう、だったんですか」

 真琴は下を向いて言う。コーヒーには情けない顔をした自分が映り込んでいる。

「あの子は幼い頃から、自分に与えられた時間の短さを知っていた。だからかしら。何がしたいとか、何が欲しいとか、そういうことを決して言わない子だった。でも本当は、やりたいこと、たくさんあったと思う」

 真琴は不意に、体育の授業を見学していた蒼介を思い出した。彼は決して嫌いだとか、面倒だから見学したとは言わなかった。授業を受けたくても、受けられなかったのだ。

 どうしてあの日、勿体無いなんて言ってしまったのだろう。真琴は過去の何気ない言葉がどれほど彼を傷付つけていたのかと、遣る瀬無い気持ちになった。

「あの子は無理してる。それに気付いたのは、あの子の描く絵を見たときだった。真琴さん、あなたもわかっていたんじゃないかしら」

 冴子がそっと問いかける。

「和泉先輩は、人を、描こうとしませんでした。それはきっと先輩が見たくなかったからですよね」

冴子は悲しげな表情を浮かべて頷いた。

「私も全く同じことを思った。きっとあの子は未来ある者に憧れて、でもそれは許されなくて、だから見ようとしなかったんだって」

 蒼介の世界は、他者の存在しない世界だった。彼は恐れたのかもしれない。未来への希望を持つことを。未練を残すことを。

「でもね、真琴さん。あなただけは違った。あなただけは蒼介の世界の内側にいた」

 冴子は俯く真琴の肩に手を置いて言った。

「それをあなたに知って欲しかったの」

「それって、どういう……」

 真琴は上手く言葉を飲み込めずに聞き返す。冴子はそれ以上は語らずに椅子から立ち上がった。

「真琴さん。あなたに見てもらいたいものがあります」

 冴子はそう言うと真琴を美術館のメインホールまで連れて来た。ホールの入り口には絵画コンクール受賞作品と書かれている。風景画、人物画、水彩画に油絵。様々な絵が飾られているそこは、小学生の頃、母に連れられてきたショッピングモールでの光景を思い起こさせた。

 冴子の隣を歩いていた真琴は一枚の絵の前で足を止めた。正確には止まって動かなくなった。瞬間、涙が一筋頬を伝う。

 特別賞と表示されたその絵に描かれていたのは、真琴だった。絵の中で彼女は無邪気に笑っている。

 冴子は絵を見つめながら言った。

「今日、学校であなたを見たとき、すぐにこの子がそうなんだって思った」

 真琴は声を出せずに、冴子の話を隣で聞いていた。

「蒼介が倒れて緊急入院することになった時、私も主人もあの子が望むことならなんでもしてあげようと思った。今まで食べられなかった好物。行きたかった場所。たとえ高価なものをねだられたとしても。でも、あの子の最後の我が儘は、絵を描くことだった。あの子の世界は、孤独じゃなくなった」

真琴は堪えきれずに両手で顔を覆う。


ー却下。

ー俺は自分の好きなものしか描かない。

ー鏡見ろブス。

ー二度と俺の前に現れるな。


 そう言っていたのに。

 蒼介からの最後のメッセージに言葉はない。だけどそれ以上のものを彼は真琴に残した。真琴はそれを言葉以上に理解し、受け止めた。


「嘘つき……」


 真琴は掠れる声で、そう呟いた。

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