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Only facing

 まだ人の少ない朝の教室に真琴はいた。昨日どうやって家に帰り、そして朝学校に来たのか、いまいち記憶がない。いつもはきっちりと後ろで一つにまとめている髪も、今日はおろしたままになっている。真琴は力なく机に伏した。何をしていても昨日聞いた言葉が脳裏に浮かんで離れない。


 二度と俺の前に現れるな。


 蒼介は確かにそう言った。しかし突然言い渡された拒絶の言葉を、真琴はすぐに受け入れることができなかった。何度も何度も心の中で反芻して、そしてようやく理解した。その途端、全身から力が抜けた。

 何か嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。何が気に食わなかったのだろうか。いいや、違う。最初から言われていたではないか。迷惑だと。一度悪い方へ進んだ思考回路は回復することはなく、加速度的に下降していく。


「真琴?今日は美術室行かなくていいの」

 登校して来た美里が声を掛ける。

 その声に真琴はゆっくりと顔を上げた。しかし顔は美里の方へは向けずに斜め下を見ていた。

「美里。私、わかんないよ」

「うん」

 ただならぬ様子の真琴に美里は相槌を打つ。

「どうしてこんなに苦しいんだろ。たった一言、その一言が、刃物みたいに刺さって。会いたいのに恐くて、どうしても行けなかった」

 それは美里が初めて聞く真琴の弱音だった。

「ねぇ、真琴。人の心ってすごく難しいよね。簡単に推し量れるものじゃない」

 真琴の表情と言葉で、一体何があったのか、美里にはなんとなくわかった。

「だからこそ、言葉って大切だと思うの。自分の思いを相手に伝える為の手段だから。恐くても前に進むためには、それしかないと思う」

 真琴は静かにそれを聞いて、一つ頷き返した。

「いいんだよ、自分のタイミングで。ゆっくりでいいんだから。でも後悔だけはしないで」

 美里は諭すように言うと、そっと真琴を抱きしめた。


 美里の言葉はわかる。行かなきゃ、話さなきゃ、何も変わらない。そう思うのに、どうしてこの足は動かないんだろうか。

 鉛のようになった体は自分のものとは到底思えずに、息苦しさばかりが増していった。


*****


 放課後になっても、やはり真琴の気分は晴れなかった。きっと美里の言う通り、きちんと話さないと解決しないのだろう。

「おいおい東城、昨日の今日でなんでこうも違うんだ?」

 国見は頭をボリボリと搔くと溜息を吐いた。真琴の耳にその言葉が聞こえた瞬間、彼女は顔を歪めた。

「どうして……」

 真琴が放った矢は全て的とは見当外れな場所に刺さった。体がうまく動かずに、視界は靄がかかったようで思考回路もうまく働かない。

 わからない。何もかもがうまくいかない。こんなことは初めてで、どうしたらいいのかわからなかった。

「今のままじゃ、わかってるよな。東城?」

 国見は真琴の肩をポンと叩く。その声にはどこか気遣うような感じもした。

「……はい」

 目頭が熱くなる。こんなのは嫌だ、泣きたくない。視界がゆらゆらと歪み初めた時、目の前にふっと影ができた。

「東城、ちょっと」

「圭一……」


 二人で道場を出ると、そばにある水飲み場まで来た。目の前では野球部が、その奥ではテニス部が練習しているのが見える。

 真琴は肩に掛けたタオルで顔を拭きながら隣の圭一を見上げた。

「圭一、なに?」

 呼び出した圭一は口を開かずに、じっと真琴を見つめていた。

「えっと、どうしたの」

 沈黙に耐えかねて真琴が声を上げる。それでもなにも言わずにいる圭一に真琴は苦笑いを交えて言った。

「本当にさ、なにやってるんだろうね、私。昨日圭一に頑張るって言ったばっかりなのに、全然上手くいかなくて。なんでなのかな」

 消沈した自分を笑って誤魔化そうとする真琴だったが、逃げ道を塞ぐように圭一は真剣な眼差しで問うた。

「本当に気付いてないのか。どうして上手くいかないのか」

「え……」

「怒らないで聞いて欲しい。東城はさ、自分が思ってるよりもずっと単純な人間だと思うんだ。嬉しいことや、辛いことがあればそれは的面に表れる。それに気付いていないのは東城自身だけなんだよ」

 真琴は思い起こした。自分の調子が良かった時、和泉先輩が笑っていたことを。そして今、なにをやっても上手くいかないのは、和泉先輩に拒絶されたから。

「確かに私は単純な人間かもしれない。でも、たった一人に言われた言葉や行動でこんなに浮き沈みするなんておかしいよ」

 圭一はほんの少し悲しそうな顔をしたあと、微笑んだ。彼にはわかっている。彼女の頭に浮かんだ人物が自分ではないことを。そして彼女がいまだ、彼に対して抱く感情の名を知らないことを。全てわかっていて圭一は口を開いた。真琴の背中を押すために。

「東城さ、前に言ってたよな。和泉先輩の描く絵が好きなんだって。生きている本物のような絵。そして何より感動を与える絵。でもそれはさ、どうしてカメラで撮った写真じゃ駄目なんだ?」

 確かに写真も同じように見る人に感動を与えてくれる。似ているようにみえても、それは真琴にとっては全く違うものだった。

「絵は、写真以上に描き手の心を映すから。写真はそこにある真実を余すことなく伝えるけれど、絵は少し違う。描き手の目に映ったものを、より明確に表す。例えば同じ景色を、二人の人間が同じ時間に、同じ構図で描いたとしても、きっと全く違う絵になると思う」

 夜の景色だけ見ても、青い月や黄色い月、白い月。大きさもまるで違うだろう。

「絵は描き手が感じた景色を、見る人も感じることができるから。だから、写真じゃ駄目なの」

 淀みない真琴の語りに圭一はうん、と相槌を打ちながら聞いてくれた。

「じゃあもう一つ質問。東城は、和泉先輩に自分の絵を描いて欲しいって頼んでただろ。それはなんで?」

 真琴はずっと心の中で思っていたことを、初めて声に出して言った。それこそ、今まで気付けずにいた核心に迫る言葉を。

「和泉先輩は風景画でもなんでも、人の絵を絶対に描かなくて、それは先輩が自分以外の人間を世界から締め出してるからだと思ってた。私にとって、絵を描いてもらうことは、先輩の世界に入ること。私は先輩の世界に、入りたかった……」

 だけど、拒絶された。理由もわからず唐突に。そう思うと堪えていた涙がいつの間にか頬を伝って地面に落ちた。

「……東城、それは恋なんだよ」

 圭一の言葉に真琴の目が見開かれる。その瞬間、ああ、彼女は本当に気付いていなかったのだと、圭一は思った。

「人の心に入りたい。世界に映りたい。そんな我儘、恋以外にはないよ?」

「これが、恋……?」

 真琴は呆然とした。告げられたのは、自分には無縁だと思っていた感情だった。

「昨日、東城と和泉先輩の間に何があったのか、俺にはわからない。でも、東城はこのままでいいのか?自分の気持ちを知っても、それでもまだ、足踏みするのか?そんなの絶対に後悔するだけだ」

 自分のことのように親身になってくれる圭一に、真琴の心はゆっくりと、だけど確実に浮上してきた。美里にも言われた。自分から行かなくては、きっともう本当に会えなくなる。

「圭一、ありがとう。私、ちゃんと一歩踏み出すから」


 初めて抱いたこの感情を殺すことなんてしない。足を止めて、あの時こうすれば良かったと後悔するくらいなら、いっそ当たって砕けた方がいい。たとえそれで、バラバラになったとしても。

 真琴はパッと笑顔を向けると、圭一の手を引いた。

「さ、まずは部活からだ!一緒に頑張ろう、圭一」

 屈託無い笑顔を見せた真琴に、圭一もまた笑い返した。


*****


 真琴のことが心配で、美里はいつもよりも早く学校に着いた。元気の塊から元気をとってしまえば、それはもう目も当てられない。美里は昨日の真琴を思い出して溜め息をついた。

 するとその肩を背後から軽く叩かれた。周囲に人がいないと完全に油断していた美里は、きゃあっ、と小さな悲鳴を上げて振り向いた。

「あ、ごめん美里!おはよう」

 そこには見慣れた真琴の顔があった。その表情からは影が消え、陰鬱なものが吹っ切れている。

「真琴っ!?お、おはよう」

 既に通常運転に戻っている真琴に内心では仰天しながらも、美里はできるだけいつもの調子で挨拶を返した。

「真琴、早いね」

「うん、美術室寄るから」

 真琴は靴を履き替えながらなんでもない風に言ってのけた。それから美里の正面に立つと頭を下げる。

「心配かけてごめん。美里たちのおかげでちゃんと向き合おうって思えた。だから、ありがとう」

 真琴は律儀に礼を言うと深々と頭を下げた。再び顔を上げた真琴の表情に迷いはなかった。

「そう、そっか。真琴、頑張ってね」

 美里は頷き走って行く真琴を見送った。

「で、真琴に何か言ったのはあなたでしょ、圭一」

 美里は今しがた玄関から入ってきた圭一に声を掛けた。真琴は言っていた。美里たちのおかげだと。美里にはどうも昨日の自分の言葉だけで真琴があそこまで立ち直れるとは思っていなかった。

「どうなの圭一」

「まぁ、後押しはしたけど」

 美里は、はぁぁ、と長い溜め息を吐いた。今日で既に二回目である。

「なんて言ったの」

「東城は和泉先輩のことが好きなんだって、言った」

「なっ」

 美里は一瞬固まると、圭一の背中を叩いた。

「もっ、馬鹿っ!なんでそんな貧乏くじ引くわけ!?」

 圭一が真琴を好きなことは知っている。だからこそ、真琴の恋の後押しをしてしまう圭一に苛立った。誰のために美里が真琴に明確なアドバイスをしなかったと思っているのか。

 しかし圭一は叩き続ける美里の手を捕まえると、落ち着いた声で返した。

「好きな奴には笑ってて欲しいし。それに、別に諦めるわけじゃないから」

「本当に、馬鹿」

 美里は固く手を握りしめて呟く。

「なんで応援してんのよ。これで真琴と和泉先輩が付き合うことになったら、あんたどうすんの」

「そうなったら、そうで構わない。俺は東城が幸せならそれでいい」

 本当になんの憂いもなく言う圭一に、美里は聞こえないくらい小さい声で言った。

「なんで惚れ直すようなこと、言っちゃうのかな……」


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