His world is whats color
梅雨が明けて、本格的な夏が始まった七月。校内で一階北側にある美術室は、数少ない自然の避暑地になる。他の教室より大きな窓からは心地よい風が吹き込んできて、クーラーにはない安らぎをもたらしてくれる。それに加えて美術室横の教員駐車場に植えられた桜の木が、太陽の光を遮って日陰を作ってくれているのも大きい。
真琴の学校生活はまず、この美術室から始まる。真琴は窓際の一番後ろの席を定位置に決めて座る。その斜め前の席では、一人の男子生徒がキャンバスと対峙している。真琴はこの日も熱心にそれを眺めていた。
彼の名前は和泉蒼介。三年生の美術部員だ。百八十を超える長身で細身。特に筆を持つ手首の細さは異様で心配になる。特徴はといえば色素の薄い切れ長の目と、色っぽい泣きぼくろが挙げられる。
彼との出会いはかれこれ一月前に遡る。部活の朝練に行く途中、駐輪場で猫を見つけて追いかけて行ったら、窓越しに美術室で絵を描く彼を見つけた。彼には初対面で突拍子のないことを口にしたので、変質者を見るような目をされたけれど、真琴は毎日美術室へと立ち寄るようになった。気まずさ以上に彼の描く絵に心が惹かれたからだ。それにきちんと蒼介の絵が好きだ、と言い直しもした。
彼の手にした絵筆によって、キャンバスが白から塗り替えられていく。色鮮やかで、躍動感のある景色が描かかれていった。
無から有を創り上げるその作業を見るのが真琴は好きだった。自分ではとてもこうはいかない。自慢じゃないが、今までに取った美術の評価は五段階中オール三。中学から今に至るまでずっとそう。関心・意欲・態度だけがかろうじて評価されての結果。まぁ要するに、やる気以外は実力を伴わない下手の横好きというわけだ。
真琴は無意識のうちにキャンバスの方へと身を乗り出していた。
今度は何が出来上がるのだろう。
しかし真琴の期待とは裏腹に、黙々と手を動かしていた蒼介は絵筆をパレットの上へと置いた。それから間を置かずして深い溜め息を吐く。
「あのさ、気が散るんだけど」
蒼介はすぐ横で手元を凝視する真琴に文句を言った。
「すごいね、まるで写真みたい」
真琴から出たのは謝罪ではなく絵の感想だった。せっかく話し掛ける雰囲気になったのだから、思ったことを口にしたかった。
「……俺の話聞いてた?」
「うん。なに?」
きょとんとして聞き返す真琴に蒼介が押し黙る。同じ日本語で話しかけた筈なのに、彼の訴えは聞き流されていた。蒼介は呼吸を整えると、自分と真琴を交互に指差し訊ねた。
「俺三年、お前一年。要するに?」
「二歳差?」
真琴が指で二を作る。見当外れなピースを見せられた蒼介は、頭を抱えた。
「違う、先輩っ!敬語くらい使え。馴れ馴れしい」
堪り兼ねて叫んだ蒼介に、真琴は口を尖らせる。美術室に通うこと一月、真琴はもう蒼介を友達のように思っていた。しかしどうやら真琴の一方的なものだったらしい。
「じゃあ、和泉先輩」
敬意のカケラもない、取って付けたような敬称で真琴は呼びかける。
「なんだ」
蒼介はトゲの付いたような声を出した。しかし無視されなかっただけマシというものだろう。
「私のことも、描いてくれませんか?」
真琴は自分を指差しにこやかに依頼した。
蒼介はそんな真琴を一瞥すると、そっぽを向いた。
「却下」
速攻で切り捨てた蒼介に、真琴は食ってかかる。
「ちょっとくらい考えてくれてもいいじゃないですかっ!」
「俺は自分の好きなものしか描かない。鏡見ろブス」
しっしっ、と手を振る蒼介に真琴は背を向けた。
「それは、どーもすいませんでしたっ!」
正直言って美青年の部類に入る顔に、この口の悪さは暴力としか思えなかった。しかし、彼の性格は別として絵は綺麗なものばかりだった。
真琴の調査では、彼が描くのは風景画。あるいは動物を描いたものばかり。人物画を描いているのは見たことがなかった。
例えば景色を写生しているのだとして、そこに人がいれば多くの絵描きはそれも余すことなく描くだろう。しかし、彼の場合は違う。徹底的に人物を排除する。一見おかしく見えるけど、それこそが彼の見ている本当の景色のような気がした。
蒼介はいつも一人でいる。学校にいるのに、友人と一緒にいるところを真琴は見たことがない。意識的に人との関わりを拒んでいるような気さえした。
だからもし、自分の絵を描いてくれたなら、それは蒼介の世界に真琴が入ることになるのと同義なような気がした。結果は門前払いで、ブスという言葉の土産付きだったわけだけど。
真琴は一人項垂れた。神経図太い真琴でも、ことのほかブスのダメージは大きい。意識の外で予鈴が鳴る。
見兼ねた蒼介が、準備室からひょっこり顔を覗かせ言った。
「おいブス、予鈴鳴ってるぞ」
「えっ!」
素っ頓狂な声を上げると、真琴は壁に掛けられた時計を見た。追い出す為の方便かとも思ったが、本当に予鈴が鳴っている。真琴は慌てて鞄を引っ掴むと、「また来ますから!」という言葉を残して、教室から駆け出した。




