前編
1.事故のあらまし
西暦2062年11月7日23時17分――、
都心から少し離れたM市の市道交差点付近で、AiM(Artificial Intelligence Mobile = 人工知能搭載の自動運転車)が中央線をこえ、対向車線を走行していた別のAiMと接触した。幸い、被害は軽微なもので、両者とも車体の一部がへこむ程度の損傷ですんだが、車線を越えてきたAiMの運転手Sが泥酔状態であったため、もう一方の運転手Mが警察に通報、現場検証を行った結果、自動運転モードがオフになっていることがわかった。
警察は飲酒運転および危険運転の疑いがあるとして、Sを搬送先の病院で逮捕。しかし、話はここで終わらなかった。
逮捕後、Sは運転を否定。一貫して、あれは自動運転モード中の事故だったと主張した。つまり、今回の件はAiMが勝手に対向車と接触したのであって、自分には責任がないというのだ。
揉めに揉め、ささいな接触事故は、とうとう法廷で争われることになった。
しかし、結果は一審、二審とも、Sの敗訴。訴えは退けられ有罪と判断された。Sの証言以外に裏付けとなる証拠がないからだ。
納得のいかないSはさらに上告し、最終結論を最高裁判所に求めた。
2.最高裁判所第三法廷執務室
東京都千代田区隼町。
New国立劇場の隣に建つ、真新しい最高裁判所の一室で、裁判長の宇奈月は唸り、途方に暮れていた。というのも、2年前に建てかえられた執務室を使いこなすことができないでいたからだ。一見、なんの変哲もない重厚な造りのファイルキャビネットと豪華な調度品がならぶ古式ゆかしい執務室。だが、そんな外見とは対照的に、この部屋の設備は最新のもので揃えられており、空調管理から秘書業務にいたるまでのすべてが、「Roommate(=建物管理専用OS)」によって管理されていた。
なんでも万能にこなしてくれる魔法のようなハイブリット・ルーム。
それが、この執務室の売りだった。しかし、残念なことに宇奈月は、この「Roommate」との相性が悪かった。機能的で便利なシステムだということは、頭では理解している。使い方も知っている。だが、どうしても、宇奈月はうまく使いこなすことができなかった。
照明一つにしてもそうだ。執務室の照明は音声認識システムによって、オンオフするようになっているのだが、宇奈月の声にうまく反応してくれない。
たとえば、
「照明オン」
と命令すると、2秒ほどしてから「Poop!」という音がして、
『照明を? ――照明をどうされますか?』
と聞いてくる。
「照明を? といったんじゃない。照明オン、といったんだ」
『了解しました』
そうして、やっと照明がつく。だが、「Roommate」はAi(人工知能。iは大昔の端末にあやかって、小文字が使われている)を搭載した最新のOSである。すぐに宇奈月の口調は分析され、学習される。
だから、次に、
「照明オン」といえば、ちゃんと照明がつくのだった(あたりまえだが……)。
そして、
「照明を、切ってくれ」
といえば、
『照明オン? 切ってくれ? ――相反する命令が同時に出されました。もう一度、音声入力を行ってください』
といってくれるのである。
すさまじい勢いで学習はしてくれる。だが、宇奈月はこうした一連のやりとりにほとほと疲れていた。照明のオンオフは、壁のスイッチで十分だ。自分でやったほうがよほど早い。だが、最先端の執務室はそれを許してはくれなかった。設備の管理は音声認識、あるいは机に取りつけられた管理パネルでしか、できないようになっていたからだ。宇奈月は、何度か照明の明るさをパネルで調整したあと、机に置いてあったタブレット端末に目をやり、そして、再度、唸り声をあげた。
今度の唸り声は、先ほどよりも深刻だった。
一年前に起きたAiM同士の接触事故。その最終判決文の草案がそこに表示されていた。
判決は無罪。
一審、二審を覆す内容がそこに書かれていた。
宇奈月は判決文に目を通し、それから「Roommate」にむかって言った。
「悠木陸を呼んでくれ」
『了解しました』
それは、これまで何度となく繰り返されてきた要求だったので、すでに学習を終えていた「Roommate」は聞き返すことなく、すぐに悠木を呼び出した。
3.法廷診断士
悠木陸は、五分ほどでやってきた。
長身猫背のひょろりとした彼は、グレーのカジュアルスーツに身を包み、寝ぐせのついたボサボサ頭をかきながら執務室を訪れ、とぼけた調子で聞いてきた。
「お呼びですか? 宇奈月裁判長」
およそ最高裁判所に似合わない、とぼけた声。だが、慣れとは怖いもので、宇奈月はこの2年のあいだにすっかり悠木の口調に慣れ、違和感をおぼえなくなっていた。最初のころは、もう少し敬意を払えなどと小言を言ったりしたこともあったが、一向に直そうとしない悠木に呆れてからは、バカバカしくなり注意するのを止め、そのまま放置している。
もっとも、これが職務上の優秀なパートナーでなければ、見逃したりはしなかっただろう。
悠木はこう見えて、優秀な法廷診断士だった。
法廷診断士とは、2060年に施行された新しい司法制度に関連して作られた職業で、大きく生まれ変わった最高裁司法システムを管理・運営し、裁判が健全な環境下で行われているかどうかの診断を下すことが許された特殊な存在だった。ちなみに法廷診断士になるには、国家資格が必要で、法律に関する学科試験とSEに関する実技試験に合格しなければならないのだが、悠木は大学在学中にその試験に合格し、現在、最高裁判所で活躍する5人の法廷診断士の一人として、最高裁判所第三小法廷を担当していた。
二十代前半の青っ白い、ひょろりとした猫背の青年は、ようするに法律の専門家であり、SEであり、そして、――裁判長の話し相手だった。
「説明してくれ、この判決文はなんだ?」
「えーと、なんの話でしょう?」
突然の問いかけに、悠木は首をかしげながら、差し出されたタブレット端末に目をやった。そこには、さきほど同様に、接触事故の判決文草案が表示されていた。
「へー。あの裁判、無罪になるんですね」
「なるんですね、じゃない。どう考えてもおかしいだろう」
「えっ? そうなんですか?」
驚いたように悠木が目を丸める。これには、さすがの宇奈月も目眩を覚えた。
ビー。ビー。
腕につけたヘルス・ウォッチのアラームが鳴った。確認するまでもない。血圧が上がっているのだ。いまや、つけていない人はいないといわれるヘルス・ウォッチ。だが、こういうときは正直、面倒くさい代物だった。そもそも、人前でアラームなんかなったら、私は高血圧で、体調が悪いですよと言いふらしているようなものだ。個人情報的にそれはどうかと思うが、健康第一主義のこの時代に、そんな文句をいっても始まらない。「おじいちゃん、150まで生きてね」の時代である。つけていなければ、自殺志願者を見るような目で見られてしまう。いまはそういう時代だった。
宇奈月はヘルス・ウォッチの確認ボタンをタッチし、話を続けた。幸い、悠木は宇奈月の持病について知っており、突然のアラームにも慣れっこだった。
「単純な接触事故だ。無罪になるわけがない」
「でも、マキナが無罪だと判断したんでしょ? なら、きっと、無罪ですよ」
「法廷診断士の君がそういうことを安易に言うな。こうしたことに疑いを持ち、診断するのが、君の仕事だろう」
「確かにそうですね」
悠木は素直に認め、肩をすくめた。
新制度において、最高裁判所の裁判官が判決文を書くことはない。裁判官は膨大な証拠や証言資料と同じように転送されてくる判決文に目を通し、おかしなところがないかを判断するだけだ。もし、おかしなところや疑問があれば、法廷診断士に相談し、判決文に修正が必要な場合、それを修正させる。これが新制度下の最高裁判所裁判官の仕事になっていた。
一体、誰に修正させるのか。
それはもちろん、判決文を書いた本人に決まっている。
では、だれが判決文を書いているのか。
日本で最高を呼ばれる裁判所の判決文を、裁判官の代わりに書くことのできる存在。
それは、三台のニューラルネットワーク・コンピュータにほかならなかった。
人間の頭脳を構成する神経回路網を人工的に再現したコンピュータは、人間同様の(あるいは、それ以上の)認識および、思考、判断を行うことができ、すでに人間の領域を凌駕していた。
特に三台の第七世代型ニューラルネットワーク・コンピュータは、ディープラーニング(深層学習)によって解析した有史以来の判例をもとに、与えられた裁判資料と現行法から、公正で正確な判決を導き出すことができた。それはもはや、人間にマネのできるものではなく、まさに神業と呼ぶにふさわしいものだった。
ちなみに三台のコンピュータには、それぞれ名前がついており、第一小法廷は「デウス」が、第二小法廷は「エクス」が、そして、宇奈月のいる第三小法廷は「マキナ」が担当するようになっていた。また、これらの小法廷とはべつに、特に重大な裁判を行う大法廷では、「デウス」「エクス」「マキナ」の三台が合議によって、判決文を作成するようになっていた。
つまり、人間は彼らの判決に「是」であるか「非」であるかを述べるだけでいいようになっていた。もちろん、コンピュータも完璧ではない。まちがえる可能性は限りなくゼロに近づいているが、絶対にゼロにはならない。だから、裁判官は必要だし、法廷診断士も必要だった。コンピュータを監視、管理することで、人類は自分たちの矜持をかろうじて守り抜き、人が人を裁くという体裁をなんとか維持していた。
いまのところは、なんとか……。
仕事熱心な宇奈月は、いった。
「とにかく、この判決はダメだ。到底受け入れられない。マキナが正常に判断したのか疑わしい。来週の最終公判までにマキナの診断をしてくれ」
「裁判長にそう言われては仕方ありませんね。わかりました。すぐに取りかかりましょう。ですが、裁判長」
「うん?」
「過去に何度も、同じような診断を命じられましたが、一度としてマキナの異常が確認できたことはありません。それをお忘れなく」
「よけいなことは言わなくていい!」
ビー。ビー。
ヘルス・ウォッチが、また鳴った。
あまりに続けてアラームが鳴ったので、「Room Mate」が気を利かせて119番通報し、十分後、宇奈月の執務室に救急隊員たちがやって来た。
宇奈月のAi嫌いは、まちがいなく「Room Mate」のせいだろう。
救急隊員に弁明する宇奈月を見ながら、悠木はひとりでそう確信し、まきこまれないよう、そっと部屋を抜け出した。
4.サーバ室
最高裁判所地下八階。
そこは関係者以外、立ち入り禁止のフロアで通路にはなにもなく、ただ、最奥にシェルターのような部屋が三つならんでいた。それぞれ独立した造りになっていて、扉には静脈認証システムが備え付けられていた。
悠木が慣れた動作で右側の扉のまえに立ち、静かに手をかざすと小さな電子音が鳴り、カチリと心地よい音がした。
室内灯が自動的に点灯し、広い部屋が姿をみせた。
そこは、ただ広いだけの簡素な部屋だった。あるものといえば、小さな机にイス、そして、休憩用のカウチだけだった。いや、もう一つ。机のうえに黒いキューブが置かれていた。
十センチ四方の小さなキューブ。
その小さなキューブがこの部屋の主役、「マキナ」だった。
第七世代型ニューラルネットワーク・コンピュータは、机のうえで微かな作動音をさせながら、ときどき、回路図のような模様を明滅させていた。
悠木はしばらくキューブを眺め、明滅を観察したあと、ガラス状の表面に触れ、明滅の周期にあわせながら指を這わせた。すると、それに応えるように明滅パターンが変化し、突如、壁一面に無数のシステム・プログラムがあらわれた。
起動中の司法システムや思考ログが表示され、あっという間に壁一面が埋め尽くされた。
それは「マキナ」がなにを考え、なにをしているのかを示すものだった。
悠木は壁から少し離れた場所に立ち、内ポケットから取り出したメガネをかけて、「マキナ」の診断を始めた。取り出したメガネは高性能スペル・チェッカーで、おかしなプログラムがあれば、見た瞬間、該当箇所に警告表示がつく代物だった。
悠木はときどきキューブに命令し、さまざまなデータを呼び出してみたが、一向にスペル・チェッカーは反応しなかった。それはつまり、バグや思考異常をあらわすようなものは存在しないということをあらわしていた。もちろん、チェックは始まったばかりだし、見ているデータも、まだほんの一部にすぎない。しかし、もし本当に、おかしな部分があるのなら、全体的にゆがみが生じ、壁一面に警告が表示されているはずだ。
それが映らないということは、おそらく「マキナ」に異常は見られない。少なくとも、「有罪」をあやまって「無罪」とするような、大きな論理的欠陥は生じていない。
悠木は腕組みをし、嘆息した。
そして、
「そろそろ、説明したらどうなんだ?」
と呼びかけた。
すると、背後から「クックックッ」という笑い声がした。ふりむくと、カウチに腰かけた少年が、いたずらっぽく笑っていた。
「そろそろ言うと思ったよ、陸」
少年は楽しそうだった。歳は小学校の高学年くらいだろうか。中性的な整った顔立ちをした彼は、長い足を組んで座っていた。
音もなく現れた少年――マキナだった。
彼はスペルチェッカーに搭載されたVR(拡張現実)機能を利用し、レンズ越しの仮想空間に擬似的な人物を作り出していた。そのほうが法廷診断士との意思疎通が容易だと判断したのだろう。マキナは悠木が診断に訪れるたび、人間の姿を作り出し、自己の思考の正しさを口頭で説明し、証明した。悠木は悠木で、膨大なログの検証よりも、擬似空間に現れるマキナの説明に耳を傾けた。それが筋道の通った話であるかどうかを注意深く聞き、悠木は法廷診断の材料にした。
もっとも、これはいまのところ、二人だけの秘密であり、表向きは膨大なシステムログの解析を行っていることになっている。だが、正直なところ、200ペタフロップスの計算能力を待つコンピュータに、人間が追いつけるはずがない。だから、悠木は対話という形で行うマキナの思考診断に反対しなかった。むしろマキナから、それとなく提案されたこの方法に感心していた。
「その口ぶりからすると、きみはぼくがここに来た理由を知っているみたいだね」
悠木の言葉に、マキナは芝居がかった仕草で、人差し指をぴんと立てた。
「もちろん、M市市道交差点付近で起きた接触事故の件だろう」
「わかっているなら話が早い。どうしてあんな判決文を書いたんだ?」
「愚問だね、陸。決まっているじゃないか、それが真実だからだよ」
マキナはカウチにもたれかかり首をふった。
「みんな、どうしてあの事故をSのせいにしたがるんだい? あれは自動運転中の事故なのに」
「どうして、そう言えるんだ? 自動運転モードはオフになっていたんだろう?」
「へー、ちゃんと裁判資料に目を通しているんだね。えらいえらい」
マキナは茶化しながら壁際の擬似空間に手をかざし、ファイルキャビネットを作り出した。
「そうだ、ちょうどいい。この件に関して確認をしようじゃないか。これまで提出された資料は、すべてこのファイルキャビネットにある。だから、陸、かいつまんで内容を説明してみてよ」
「は? なんでぼくがそんなことをしなきゃならないんだ?」
「そりゃ、一般的な事故の見解ってやつを知りたいからさ」
それはつまり、みんながどのようにあやまった見方をしているか説明しろということだった。嫌味なヤツ。一審、二審の記録はまさにそのファイルキャビネットにすべて収まっているんだから、知りたいのなら自分で読めばいい。いや、そもそも、すでにマキナはすべての記録資料に目を通しているんだから、いまさら、かいつまんだ説明なんて必要ないはずだ。
だが、悠木はそのことについてあえて触れずに、仮想キャビネットから資料ファイルを取り出した。
「簡単な説明でいいんだな?」
「ああ、それでいいよ。聞きたいことは質問するし、なんなら、こちらで捕捉する」
マキナが悠木を試しているのはあきらかだった。だが、実際問題、法廷診断を行うには、事故の内容を把握する必要がある。だから、悠木はマキナの要望に応えた。
「えーと……M市市道交差点付近の接触事故について。2062年の11月7日。都心のカクテルバーで飲酒していた大学生のSは22時50分ごろ店を出たあと、駐車場に停めてあった自家用AiM(形式シグマSS100)に乗車し、23時17分、自宅から少し離れたM市市道交差点付近で、対向車線を走る別のAiM(Mが乗車。形式シグマ702)と接触した。原因はSの乗ったAiMが突如、中央線をはみ出したためで、接触後、双方の車両はセーフモードによって緊急停止した。Mは事故の状況を確認するため、すぐに車から降りたが、相手が出てこないのを不審に思い、近づいてみたところ、運転席でぐったりしているSを発見した。Mは運転席のドアを開け、Sに呼びかけてみたが反応がない。この状況を危険と判断したMはすぐに警察と救急に連絡をし、意識不明のSはそのまま病院に搬送された。その後、一命を取りとめたSは、乗っていたAiMの運転モードが自動運転モードでなかったため、飲酒運転の容疑者として取り調べられ、そして、その後、逮捕された……と、まあ、これが大まかなところかな。あとは、Sが容疑を否認してるってことぐらいだな。彼はずっと自動運転モードでの走行だったと主張している」
「なるほどね。ところで、事故の被害は?」
「大きな被害は出ていない。どちらもバンパーの一部がへこむ程度の軽微なものだったみたいだ」
「ふむふむ。目撃者は?」
「事故を目撃した人はいない。ただ、交差点の防犯カメラには、しっかりと映っていて、これがMの証言と一致している」
悠木は証拠として提出された防犯カメラの映像を、擬似空間に呼び出した。少し角張ったAiMが反対車線に飛び出し、タマゴのような丸いAiMに「こつん」といった感じで当たるところが映っていた。その後、Mが車から飛び出し、しばらくして、Sの車に近寄り、なかのようすをうかがっているところも、しっかり映っていた。
「Sがぐったりしていた理由はなんだったか、わかるかい?」
「酒の飲みすぎだよ。急性アルコール中毒と診断されている。なんでも、その日、彼女にフラれてヤケ酒を飲んでいたらしい。発見されたときは意識がなくなっていて、かなり危ない状態だったそうだ」
「そんな状態の人間が運転なんてするだろうか?」
「ヤケになった人間のすることはわからないんじゃないか? きみはSの運転を疑っているみたいだけど、そもそも、ハンドル脇の運転切り替えボタンはオフだったんだから、疑いようがないだろう」
「疑いようがない、ね」
マキナはつまらなさそうに指を動かし、現場検証の写真を呼び出した。悠木の言う通り、たしかに自動運転モードはオフになっていた。
「……ところで、陸。M市市道交差点付近というのは、どんなところだい?」
「どんなところ、というと?」
「つまり、人通りが多いとか、交通量が多いとか、そういうことだよ」
「ああ、それなら、人通りも交通量も少ない、とても静かな場所だよ。まさに閑静な住宅街ってところかな」
多少、土地勘のある悠木が答えた。
「ふむ。交通量は少ないんだね?」
「少ないっていうか、あの時間だとほとんど車が通ることはないんじゃないかな。正直、事故の話を聞いたとき、よくあんな場所で接触事故なんか起こしたもんだと思ったくらいだから」
「なるほど」
マキナは満足そうにうなずいた。
「じゃあ、最後に事故の関係者であるSとMについて確認しておこうか。当事者の一人であるSは、都内の私立大学に通う、夜遊びが大好きな青年ってことでまちがいないかな?」
「まあ、かいつまんでいうとそうだけど、もうちょっと、言い方ってもんがあるだろう……」
悠木は資料ファイルをめくり、写真の若者に目を止めた。流行りのヘアースタイルに、今風のファッション。どことなくあか抜けた感じのする華奢な青年だった。資料によるとかなり裕福な家の生まれらしく、親から届く多額の仕送りで大学に行き、余った金で遊興にふけっているとのことだった。なるほど、道理で自家用AiMなんてふざけたものに乗っているわけだ。
AiMは基本、所有したりしない。必要な時にレンタルするものだ。
車を個人で所有する時代は、とっくの昔に終わっている。自動的に目的地まで安全に運転してくれる移送手段の登場によって、自動車業界が一変したからだ。いまや、AiMは社会や企業が持つインフラであり、個々が所有するようなものではなかった。我々はメーカーが管理するAiMを必要なときに、必要なだけ利用し、それに応じた代金をIDパス(電子決済用パスカード)で支払えばいい。それで、なんの不自由もなく移動できるのだから、わざわざコストをかけて、所有する必要がなかった。
だから、マニュアル運転を愛好する一部の金持ち以外は、みんなレンタルAiMを利用していた。それがこの時代の主流だ。
「彼は重度のマニュアル運転愛好者だったみたいだな。何度か手動運転モードで、事故を起こしているようだ。ほら」
悠木は資料に書かれていた事故歴をマキナに見せた。カウチに腰かけていたマキナが立ち上がり、静かに顔を近づける。
「うーん。一度目は山中のガードレールに激突で、二度目は高速道路で曲がり損ねてスピン事故か……こりゃ、心証が悪いな。一審、二審で有罪にしたくなるのもうなずける」
判決文を書くマキナは、他人事のように言った。
いや、それ以前に、よく生きてたな、だろ。
悠木が心のなかで、つぶやいた。
「ちなみに、Sの証言を裏付けるようなものは?」
「ない。AiMメーカー、シグマから提出された運転ログによると、彼は接触事故の五分前に手動運転モードに切り替えている。ここまでハッキリした証拠があるから、Sの弁護人も彼の無罪は証明できないと思ったらしく、減刑の方向で弁護しているくらいだよ」
「提出された運転ログか……なるほど」
意味ありげにうなずく、マキナ。
「まあ、大体のところはわかった……つぎは、関係者その2、Mについても確認しておこうか。接触されたMはどんな人間だい?」
「どんなって……国立大卒の五十代前半の男だよ。外見は渋くて、まあ、ハンサムなほうかな」
「ほかに言うべきことはないのかい?」
あきれたようにマキナがいった。マズい、これはバカにしているときの反応だ。悠木はあわてて、ファイルの内容を確認した。
「えっと、……自動車メーカー、シグマ社の営業本部長で、かなり優秀な人物みたいだ。事故にあったのは、出張からの帰りで、ちょうど自動運転モードで仮眠している最中に、こつんとやられたと証言している……って、あれ、シグマ?」
悠木はSのときに見たページをもう一度開いた。まちがいない、Sの乗っていたAiMは「シグマSS100」――Mの勤めるメーカーの車だった。
「気づいたみたいだね、陸。そう、これはシグマ社製のAiMとAiMが接触した事故なんだ。しかも、その一方に、当のシグマ社の社員が乗っていた……まるでマンがみたいだろ?」
「マンガというより、なんか呪いみたいなものを感じるよ。Mって人は、よっぽど、運が悪いんだな」
「そう、その通り! 彼はとっても運が悪いんだ! あはは、陸。きみ、意外といいこと言うね!」
意外と、はよけいだ。
悠木ははしゃぐマキナを横目で見たあと、しばらくしてから口を開いた。
「さあ、これで事故の確認は一通りしたぞ。そろそろ、判決文の説明をしてくれ。きみはなぜ、Sが無罪だと判断したんだ?」
「うーん、それなんだけどねぇ」
マキナが頭をかきながら、気まずそうに悠木を見た。こういうときの仕草を見せるときのマキナは要注意だ。決まってとんでもないことを言い出すから……。
「実は、あの判決文を完成させるには、あと二つほど、ピースが足りていなくてね……陸、悪いんだけど、ちょっと頼まれてくれないか?」
ほら来た。
悠木は案の定といった感じで、マキナに冷ややかな視線を投げかけた。
「今度はなにをさせたいんだ?」
「やだなぁ。その言い方だと、いつもぼくが使いっぱしりをさせているみたいじゃないか」
「へえ、意外だな。ぼくはいつも、きみの使いっぱしりをしているものだとばかり思っていたよ」
悠木は過去の診断において、マキナの疑問に答えるため、現場の再確認や、証拠品の採取を何度となく、手伝っていた。これが使いっぱしりでないなら、なんだというつもりだ。最近じゃ、この使いっぱしりのせいで、法曹界関係者から「でしゃばり」と陰口をたたかれているくらいだ。もともと、業界に存在しなかった法廷診断士がよけいなことをするのだから、まあ、言われても仕方がないのだけど……。
悠木は無邪気に笑うマキナを見たあと、静かに嘆息した。
「で、なにをすればいい?」
どうせ、膨大なログをチェックしてみても、おかしなところは見つからない。なら、マキナの手助けをし、思考ロジックが正しいと証明するほうが手っ取り早い。
「いやー、そういってくれると思ってたよー。さっすが、陸!」
おそらく、悠木がこのように反応することも、マキナはすでに計算済みなのだろう。少年は、うれしそうにぴょんぴょん飛び跳ねた。
「頼みたいことは、たったの二つだ、陸。一つは、M市警察署に行って、Sが乗っていたAiMの運転切り替えボタンについて調べてくれ」
「調べるって、なにを調べるんだ?」
「指紋について、調べてほしい。いままでの裁判では、証拠として提出されていないから、それを警察に提出するように言ってくれ。彼らはすでに調べているはずだ」
「わかった。もう一つは?」
「SのAiMの運転ログについて調べてほしい」
「運転ログ? それなら、すでに提出されているじゃないか」
「そうなんだけど、もう一度、調べてほしいんだ。実際にシグマ社に行ってね」
それはつまり、提出された運転ログに細工されたあとがないかどうかを調べろという意味だった。
「なにか見つかるんだな?」
「さあ、どうだろう? それはわからないな」
言いながらも、マキナは確信めいた表情で微笑した。
「あ、そうだ。ログの解析ついでにAiMがきちんとVICS(道路交通情報)を取得していたかどうかも調べて来てほしい」
「VICS? それが今回の事故とどう関係するんだ?」
「そうあわてないでくれ、陸。結論は、証拠を集めてからにしようじゃないか」
マキナは楽しそうに、ひとさし指を「ちっちっち」と振ったあと、ふたたび、カウチに腰かけ、悠木にウインクして見せた。
「なーに、すべてはすぐに明らかになるさ」
200ペタフロップスの少年は、預言者のように宣言し、そして、また微笑した。