悪役令嬢の教育係
「身の程知らずが…!」
唐突に聞こえた、王宮内に相応しいとは決して思えない声に、フロール・ユリアナ・デ・ホルテルは足を止めた。
そして声のした方に近づくと、そこには2人の女性の姿があった。どうやら未婚の令嬢らしい2人の間に流れる空気はどことなく不穏で、フロールは僅かに眉間を寄せた。
「あなたのような方が殿下に気安く話しかけるなど…なんて恥知らずなの」
辛辣な言葉を放つ少しきつめの顔の美しい令嬢と、ふるふると震えて顔を泣きそうに歪める愛らしい令嬢。
よくあるいじめの場面───と、普段ならフロールはそれを見なかった事にして立ち去った。ブルス王国の第二子にして第一王女であるフロールがたかが貴族の令嬢の諍い如きに関わる必要はない。
だが、その2人はフロールも知っている人物で、そのうちの1人は親しく付き合いをしている人物なので見過ごすわけにもいかず、フロールはため息をついて2人に近づく。
「いいこと。これ以上殿下に近寄るようならば───」
「──なにをしていらっしゃるの?」
フロールが愛らしく首を傾げ、さも不思議そうな顔をして声をかけると、2人はハッとした顔をし、フロールを見つめた。
きつい顔をした令嬢は気まずそうな顔をし、震えていた令嬢は助かった、とばかりに顔を綻ばせる。
「フロールさま…!」
「なんだか不穏な雰囲気だけれど…どうかされまして?」
「アレッタさまが私を酷く責めてこられて…だけど私には身に覚えがなくて困っていたんです…!」
「…まあ。そうなの?」
「い、いえ、わたしは…」
顔を青ざめて口ごもるアレッタと呼ばれた令嬢をフロールはじっと見つめたあと、静かに「わかったわ」と呟いた。
「…あなたには詳しい話を聞かせて貰います。こちらにいらっしゃい」
フロールはアレッタを見つめそう告げると、アレッタはさらに顔を青ざめさせた。
そんな彼女にフロールは天使の微笑みと謳われる笑みを向け、もう1人の令嬢にも同じように笑いかける。すると彼女はポーッとフロールに見蕩れた。
「ここはわたくしが預かることにします。それでよろしいですわね?」
「は、はい…よろしくお願いします…」
ぼんやりとした様子の彼女にフロールは「それでは、ごきげんよう」と挨拶をし、アレッタを伴い歩き出す。
アレッタは今にも倒れそうな顔をしながらフロールに続く。
そしてフロールがアレッタと共に入ったのは、王宮内のとある一室だった。
フロールはアレッタに座るように言い、侍女に頼んでお茶を用意して貰う。そしてお茶が運ばれ、侍女が下がったのを見て、口を開く。
「──60点」
唐突に告げられ点数にアレッタは目を白黒───はせず、目を大きく見開いて泣きそうに顔を歪めた。
「な、なぜですか!?」
「あら。わからない?」
フロールは優雅にカップを口へ運び、喉を少し潤したあと、にっこりと微笑む。
「まずは台詞。あれは三流の小物が言う台詞です。次に表情。あなた、とても情けない顔をしていましてよ。あれで脅してるつもりなのですか? そして最後に場所。もっと目立たないところでやりなさい。あれではただあなたの立場を悪くするだけですわ」
フロールの言葉にアレッタは顔を歪め、盛大に泣き出す。
アレッタはフロールと3つ年の違う兄でブルス王国の王太子でもあるライニール・エルベルト・デ・ホルテルの婚約者だ。
公爵令嬢という身分の彼女はキツイ顔立ちの美女である。だが、その見た目に反してとても気弱な令嬢でもあった。
「だからわたしには無理なんですぅ…! これ以上はもう出来ません…!」
うわぁん、と泣き出したアレッタに、フロールは優しく言う。
「あら。でも声は良かったですわ。練習の成果は確実に出ています。だから無理ということはないと思いますわ」
ね、だから頑張りましょう?
天使の微笑みを浮かべて励ますフロールにアレッタはブンブンと首を横に振る。
「無理です! わたしにあ、悪役など…! ルフィナさまにあんな風に言うのだってわたし辛くて…申し訳なくて…!」
「あらあら…」
再び泣き出したアレッタにフロールは困ったように首を傾げる。
「──困りましたわ。それではお兄さまにご報告しなければなりませんわね」
「え…?」
「あなたの婚約者さまは、可愛らしい嫉妬をして、一人のご令嬢を責めておられたと。そう、ご報告しなければ…」
「え…あ…え…?」
狼狽えるアレッタにフロールは優しく微笑みかける。
「もとを辿ればお兄さまが悪いのですもの。大丈夫、安心なさって。アレッタさまを咎める事なきよう、お兄さまにはきちんと言いますから。どうぞご心配なく」
「あ…ま、待って…」
「それではさっそくお兄さまにご報告を…」
「お、お待ちください、フロールさま!!」
席を立とうとしたフロールにアレッタは止める。
「どうかなさいまして、アレッタさま?」
「ど、どうかライニールさまには仰らないでください…!」
「どうして? お兄さまがはっきりとした態度を取らないから、ルフィナさまが勘違いされてしまうのでしょう。お兄さまにはあなたという婚約者がおられるのに…」
「それでも! ライニールさまには言わないでください…! わたし、ライニールさまに嫌われたくないのです…!」
必死に言わないで欲しいと懇願するアレッタをフロールはじっと見つめ、おもむろにため息を吐き、腰を下ろす。
「…そう。では、あなたがすべきことはわかっておりますわね?」
「うっ…それは、その…」
もごもごと口ごもるアレッタに、フロールははっきりという。
「あなたがその見た目に反してお優しい方がということは、わたくしも重々承知しております。ですが、優しいだけではいけません。あなたは未来の王妃となられるお方──ならば、その外見すらも武器に変えられるような方でなければ、お兄さまの妃など務まるとは到底思えません。この魑魅魍魎が蔓延る、この王宮では特に」
「は、はい…」
「あなたの見た目から、あなたが苛烈な性格の持ち主だと判断する方が多い。ならばそれを利用しない手はないと思いませんこと? あなたがわたくしのように、守ってあげたくなるような容姿の持ち主ならば、また話は別ですが」
「……」
アレッタは黙り込んだ。
確かにアレッタはフロールのような可愛らしい容姿をしていない。フロールは金色のさらさらとした艶やかな髪に、透き通る水色の瞳をした、まるで絵に描いた天使のような容貌の持ち主。どこか儚げで、男性の庇護欲をそそるような雰囲気もある。…その中身がその通りであるかは別として。
対してアレッタは、燃えるような赤い髪の巻き毛に吊り上がった緑の瞳の、絵に描いたような悪女の容貌をしている。さらにはその体型もとても女性らしく、出る所は出てしまるところはしまっており、世の男性の理想の体型をしていた。多少キツイが顔も整っており、アレッタに熱い視線を送る殿方は数知れないのだが、当の本人はその事にはまったく気づいていない。
「いいですか、アレッタさま。人には向き不向きというものがあります。あなたの性格上、あなたに悪役をこなせ、というのは不向きなのでしょう。しかし、あなたのその容姿は悪役にぴったりなのです。容姿はどう足掻いても変えることは不可能ですが、性格ならば“演じる”ことが出来るでしょう? わたくしがあなたに言っているのは、あなたに“悪役を演じろ”ということです。別に悪役でなくとも構いませんが、男爵令嬢くらいは軽くあしらえるようになってくださいませ」
「は、はい…」
しゅんと項垂れたアレッタにフロールは飴を与えるように優しく語りかける。
「──アレッタさま。わたくしはあなたの味方です。そのことは覚えておいてくださいまし。本当にどうしようもなくなったときは、わたくしをお使いなさい。わたくしで出来る限り、あなたの助けとなることをお約束しますわ」
「フ、フロールさま…!」
感激したようにフロールを見つめるアレッタに、フロールは天使の微笑みではなく、心からの柔らかい笑みを浮かべた。
アレッタは何度もお礼を言い、再び頑張ることをフロールに誓って帰っていった。
それを笑顔を見送ったあと、フロールはくすくす、と笑いを零す。
(なんて、素直な方なのかしら…!)
アレッタは、可愛い。思わず苛めたくなるくらいに。
アレッタとフロールの付き合いは長い。アレッタは昔からフロールの兄であるライニールの婚約者候補として王宮に上がり、ライニールと共に過ごすことが多かった。
見た目に反して気の弱いアレッタ。そのギャップにやられたライニールが裏から表から手を回し、彼女を婚約者としたのは今でもよく覚えている。
そこまであの兄が惚れ込む方というのは、どんな方なのだろう。
そうフロールが興味を惹かれるのも必然といえば、必然だった。
渋るライニールを説き伏せ、アレッタと出会ったフロールは、兄と同じように彼女の事を気に入った。
見た目と中身が違うことが面白かったし──ライニールには「おまえが言うな」と渋面を浮かべられたが無視した──、何よりも、彼女が絡むとライニールの態度が急変するのが面白かった。
いつも冷静で誰に対しても態度の変わらないライニールだが、アレッタが絡むと感情をむき出しにするのだ。
その事を発見してから、フロールは何かとアレッタに構い、兄を怒らせては楽しんでいる。ちなみに現在も、である。
「お兄さまがアレッタさまを嫌う事など、あるはずがないのに…本当に、可愛らしい方」
あれほどアレッタに惚れこんでいるライニールだ。アレッタが嫉妬してルフィナに弱々しく苦言を言っていた程度で嫌うはずがない。むしろ嫉妬をしてもらえたと知って喜ぶだろう。
しかし、残念な事にその兄の愛はアレッタに伝わっていない。
そこがまた面白い。
「…殿下」
「なあに、レーヴィ」
今まで気配を消し、そっと控えていたフロール付きの護衛──レーヴィ・パルッカリは渋面を作ってフロールを見ていた。
「あまりアレッタさまを揶揄われるのはどうかと」
「あら、失礼ね。揶揄ってなどいないわ。わたくしなりに真剣に考えてあげているのに」
半分くらいは楽しんでいるけれど、と心の中で付け足す。
「素直に教えてあげればよいのでは。王太子殿下はアレッタさまを愛しておられると」
いまだ渋い顔をして言うレーヴィをフロールは鼻で笑う。
「馬鹿ね。そんなこと、わたくしから伝えたらつまらないではないの」
「しかし──」
「あなたって本当に馬鹿ね。レーヴィには想い人がいないのかしら。そういうことは、わたくしの口から言うべきことではなくってよ」
ふふ、と無邪気に笑うフロールにレーヴィは目を見開く。
「わたくし、これでもお兄さまを敬愛しているの。お兄さまが伝えていないことを妹のわたくしからアレッタさまに伝えることは、お兄さまにとってはとても屈辱的で、情けないことなのではないかしら? わたくしは殿方の気持ちなんてこれっぽっちもわからないけれど、わたくしとよく似た思考のお兄さまの気持ちならなんとなくわかるわ」
いつもアレッタでライニールを揶揄っているフロール。それを心底楽しんでいるようにレーヴィの目から見えたが、それはライニールが許せる範囲でのことだったのだと、今さらながらに気づく。
「お兄さまにもアレッタさまにも幸せになって頂きたいの。そのためなら、わたくしはなんでもするわ。それに……お二人の間にお子が生まれれば、わたくしの存在は不要になるものね」
慈愛に満ちた笑みはまるで本物の天使のようで、フロールの笑みに見慣れているはずのレーヴィも一瞬見惚れた。
だが、慌てて最後の台詞を否定する。
「殿下の存在が不要になる事など…」
「あら、気を遣わなくても結構よ。この国はとても平和だし、隣国にきな臭い動きもない。だから無理にどこかに嫁ぐ必要もなく、お兄さまにお子が生まれればこの国は安泰。わたくしの存在は必要なくなる──」
「殿下…」
「ああ、勘違いなさらないで。別に嘆いているわけでも自棄になっているわけでもないわ。そうならばわたくしは自由。誰に嫁いでも文句は言われない──そうでしょう?」
「……は」
思いがけないフロールの言葉にレーヴィは固まった。
フロールの先ほどの言葉を何度も反復し、その意味を理解すると焦った顔をしてフロールを見つめた。それにフロールは面白そうな笑みを返す。
「ま、まさか殿下には想い人がおられるので…?」
ずっとフロールの傍にいながら、彼女の想い人にレーヴィはまったく心当たりがなかった。
(だ、誰だ…!? 誰に嫁いでも文句は言われない、と殿下は仰った……と、いうことは、今のままでは結ばれることのないお相手ということか!?)
必死に心当たりを脳内で当たるレーヴィに、フロールは天使の微笑みを浮かべて答えた。
「──内緒」
「……は?」
何の事だ、とレーヴィは一瞬考え込み、先ほど自分が問いかけた質問の答えだと、数秒遅れで理解した。
「今は、ね」
「今は、と仰いますと…?」
「いつか、否が応でもわかるわ」
「はあ…」
複雑そうな顔をするレーヴィにフロールはただ楽しそうな笑みを返す。
レーヴィがなんとなく気まずい思いをしていると、ノックがされ、それにフロールが答えると勢いよく扉が開かれた。
「フロール!」
「お兄さま?」
いつものライニールにしては些か慌てた様子で、それをフロールはさも不思議そうな顔をして見つめる。
ズカズカと足音を立ててフロールにライニールが近づくのと同時に、レーヴィはそっと下がり、気配を消す。
「おまえ…アレッタに何を言った!?」
近づいてくるなりそうフロールに詰め寄ったライニールに、フロールは困った顔をする。
「わたくしには何の事だか…」
「惚けるな! アレッタが男爵令嬢に詰め寄っていたと、私の耳に入ってきた。あのアレッタがそのような行動に出るはずがない。お前が唆したんだろう!?」
感情を露わにして問い詰めるライニールをフロールはすっと目を細めてみたあと、にっこりと笑った。
「まあ、心外ですわ、お兄さま。唆したなど…わたくしはただ、困っている彼女に助言をしただけです」
「助言だって?」
「ええ、そうです。わたくしはただ彼女に助言をしただけ。その助言を実行するかどうかは彼女が決めること──わたくしは強要などしておりません」
疑わしそうな顔をするライニールにフロールは笑みを崩すことなく告げる。
「そもそも、彼女がそんな行動を取らなくてはと思うほどに追い詰めたのはどなたなのでしょうか。わたくしを責める前にご自分の行動を振り返ってはいかが、お兄さま?」
「なに…?」
「頭の良いお兄さまですもの。なぜ彼女があのような行動を取ったのか、おわかりになっておられますでしょう。……まさか、ご自分の婚約者のことが見えてないなどとは仰りませんよね?」
「……」
にこにこと笑みを浮かべて遠回しにライニールを責めるフロールと、ライニールの間には吹雪が見えるようであった。
「お兄さま、アレッタさまを守りたいのなら、きちんと手を回してくださいませ。中途半端にしているからアレッタさまが傷つくのです。あのままのアレッタさまで良いのなら、あのままのアレッタさまがあなたの傍にいられるように居場所を作って差し上げなくては」
フロールがアレッタに助言をしたきっかけは、今日の出来事があったからではない。
フロールが助言をするより前からアレッタはルフィナを責め立てていたのだ。
…とは言ってもそれは見ていて笑ってしまうほど弱々しく、だったが。
それをたまたま通りかかったフロールが丸く収め、今はアレッタを“立派な悪役”になるように点数をつけ、指導するようになった。
気弱なアレッタが誰に言われるわけでもなくそんな行動を取ったのは、ライニールの行動に傷ついたからに他ならない。このままでいたら自分の居場所──ライニールの婚約者という立ち位置がなくなってしまうと恐れたから、行動に移した。
「わたくしを責める前にご自分の行動を反省なさいませ、お兄さま。あなたは大切な婚約者の何をみていらしたの?」
フロールの容赦ない一言にライニールは目を見開く。
そしてしばらくフロールとライニールは無言で睨み合い、不意にライニールが視線を逸らし、近くにあったソファーに力なく座り込んだ。
「まあ、みっともなくってよ、お兄さま」
辛辣な妹の言葉にライニールは顔を顰める。
「…こんな心を抉る言葉を放つおまえが、“心優しい王女様”だと国民から慕われているとはな…」
「お褒め頂き光栄ですわ、お兄さま。お言葉ですが、わたくしはわたくしに相応しい役を演じているだけ。人にはそれぞれ相応しい役というものがあり、わたくしは皆の望むようにその役を演じているだけですわ。親しい身内の間くらい、素の自分でいたいのです」
「…確かにな…」
情けなく笑うライニールにフロールも素の笑みを見せる。
ライニールとフロールは言い争いの絶えない兄妹だが、決してその仲は悪くない。
「…すまない、フロール。おまえに八つ当たりをしていた」
「まあ! お兄さまが殊勝だわ…明日は槍が降るのかしら」
「フロール…」
じとっと睨むライニールにフロールはにこっと無邪気な笑みを浮かべて「冗談ですわ」という。
「おまえの言う通り、私がしっかりしなければな。彼女が彼女のままでいられるように」
「ええ。頑張ってくださいませ、お兄さま」
「ああ」
容姿も性格も似た者同士な兄妹が微笑み合う。
それはまるで一枚の絵画のような場面だった。
「…しかし、おまえ、アレッタで遊んでいるだろう」
微笑み合いながら告げたライニールの言葉に、フロールは否定も肯定もしなかった。
そんなフロールにライニールはため息をつき、背後に気配を消して控えている護衛に話しかける。
「レーヴィ。君という存在がありながら…なぜフロールの暴走を止めない」
「恐れながら、私の言葉で殿下をお止め出来るとは思えません」
「まあ、酷いわ、レーヴィ。それではまるでわたくしがじゃじゃ馬のようではないの」
「否定はしません」
「まあ!」
酷い、酷いと大袈裟に言うフロールにレーヴィは困った笑みを浮かべる。
普段はどこか人形じみた印象のある妹の、年相応の言動にライニールは自然と笑みを浮かべる。
ライニールとフロールは似た者同士。だから彼には妹の気持ちがわかっていた。
妹が誰を想っているのかも。そして、その想いを叶えるために行動していることも。
その行動の一環が──迷惑な事に──アレッタに対する助言だということも。
(…いつかフロールの想いが通じたら、その時は私も一肌脱いでやろう)
普段には憎まれ口ばかりのフロールだが、それでもライニールにとっては可愛い妹──本人の前では絶対に言わない──でもある。
そんな妹が幸せになれるように秘かに手助けをしてやるのも悪くはない。
(まあ、フロールの想いが通じたら、の話だが。…望みはなくもないだろうが、さてどうなるか…)
それを見守るのも、面白い。
ライニールにこっそりと人の悪い笑みを浮かべて、じゃれ合っているフロールたちを眺めた。
なにかと忙しいライニールは言いたい事を言えて満足したらしく、軽い足取りで公務へ戻って行った。
困った兄だと、呆れ顔でライニールを見送ったフロールは、ふと、自分の護衛が何かもの言いたげな視線を自分に送っていることに気づいた。
「…なにかしら、レーヴィ」
「いえ…」
「言いたいことがあるのなら、はっきり言ってちょうだい。わたくしとあなたの仲でしょう?」
にっこりと有無を言わせない笑みを浮かべて言うフロールにレーヴィは視線を彷徨わせた。
しばらくそうしたのち、覚悟を決めたようにフロールを見つめる。
「…殿下の想い人の件ですが…」
「ああ、そのこと」
「私には心当たりがまったく思いつかないのですが…その…殿下の想い人というのは、私も知っている人物で…?」
「あらあらあら…」
フロールは目を丸くしたあと、悪戯な笑みを浮かべる。
「そんなにわたくしの想い人が気になる?」
揶揄うように問いかけたフロールに、レーヴィは生真面目な顔をして頷く。
フロールは性格に難があるとはいえ、レーヴィが忠誠を誓う主なのだ。その主が慕う相手がどんな人物なのか、気にならないわけがない。
レーヴィがフロールと出会ったのは今から五年ほど前のこと。
天使のようなお姫様だと聞いてはいたが、目の前に現れたフロールは本当に天使のように愛らしい人だった。
今日からの人に仕えるのだと、レーヴィの胸には喜びが広がった。この天使のような人を守るのが今日から自分の仕事。なんという素晴らしい役目だろう──。
そう、じーんと感激していたレーヴィにフロールはにっこりと天使の微笑みと謳われる笑みを浮かべて、レーヴィに言った。
『なんて間抜けた顔をしているの、あなた。それで本当にわたくしを守るつもり?』
天使の口から転がり出た言葉には、毒があった。
予想外の言葉にレーヴィは混乱した。まさか目の前の天使がそんな傲慢な台詞を言うなど、誰が想像出来るというのだろう。
呆然としているレーヴィにフロールは興味を失せたように視線を逸らした。
『もういいわ。……あなたも結局、他の人と変わらないのね』
フロールの以前の護衛はフロールの素の性格に失望して、去っていった。その前の護衛も、それ以前の護衛もみんなそうだった。
それからフロールは自分に付く護衛に期待するのをやめた。どうせ皆、自分の素顔を知れば去って行く──そんな諦観を抱いていた。
フロールの最後の寂しげな台詞に、レーヴィはハッとする。
例え、見た目と口から出る言葉に差があろうと、フロールは今日から自分が守るべき存在で、心から仕えるべき存在。そんな存在を目の前に間抜けた顔を晒すなど、なんという失態。
レーヴィは自分の行動を恥じ、すぐにフロールに跪いた。
『申し訳ございません、フロール殿下。私が至らないばかりにご不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ござませんでした』
跪くレーヴィをフロールはじっと見つめて、ぽつりと呟く。
『…そう言って謝るだけなら誰にでも出来るわ』
『私は誠心誠意、フロール殿下にお仕え致します』
『そう言うのも誰にでも出来るわね』
『ならば、信じて頂けるよう、努力をします』
そう言ってレーヴィは顔を上げ、不敵に微笑んで見せた。
『ですので、どうか私を見ていてください、殿下』
『……』
フロールは呆気に取られた顔をしてレーヴィを見つめた。
それはフロールが滅多に見せるのことのない、素の表情だった。
自分の間抜けた表情を初めて会ったばかりの人物に見せてしまったことが恥ずかしく、とても悔しい。
そんな内心をフロールは即座にいつもの微笑みで覆い隠した。
『…いいわ。見ていてあげる。あなたのその言葉が真実であるかどうか──』
そこから、フロールとレーヴィの主従関係が始まった。
レーヴィはその宣言通り、フロールに誠心誠意仕えた。どんなに意地悪な台詞を言っても、レーヴィは変わらずフロールに接してくれた。
それがどれほどフロールの心を救っているか──レーヴィは知らない。
今ではフロールが甘えられる唯一の存在になっていることも。
──レーヴィは気づいていない。
レーヴィはフロールと初めて出会った日の事を思い出し、小さく笑いを零す。
そして柔らかい笑みを保ったまま、フロールを見た。
「──なにを当たり前のことを。あなたは私の大切な主です。殿下が選ぶお相手がどのような人物なのか、しっかりと見極めなくては」
「…あら。わたくしに人を見る目ないと言いたいの?」
「いえ、そうではありません。ただ恋は盲目という言葉もありますので、一応念のためです。……まあ、ただ単に殿下の選ぶお相手がどのような方なのか興味があるというものありますが」
「……そう」
フロールは何を思ったのか、一瞬目を伏せたが、すぐに顔を上げる。
「そんなに心配しなくても結構よ。わたくしが想う方はあなたも良く知っている人物だもの」
「えっ」
心から驚いた顔をするレーヴィにフロールはにっこりと微笑む。
「──それに、いずれあなたには話そうと思っているわ。だからわたくしの決心がつくまで、そわそわとして待っているといいわ」
くすりと笑うフロールにレーヴィは顔を顰める。
「本当に教えてくださるんでしょうね…?」
「ええ、約束する。必ず、あなたにわたくしの想い人の名を教えると。……わたくしの約束が、信じられない?」
らしくもなく、少し不安そうに問いかけるフロールにレーヴィは首を横に振る。
フロールは約束を決して破るような人ではない。それはずっとフロールの傍にいたレーヴィがよく知っている。
「…殿下が言う決心がつくまで、お待ちしております」
「ええ。待っていて」
嬉しそうに笑うフロールをレーヴィは眩しそうに見つめたあと、すぐに生真面目な顔に戻る。
「殿下、そろそろお部屋に戻りませんと」
「ええ、そうね。このあと、公務があるものね」
フロールは頷き、颯爽と歩き出す。
それにレーヴィは影のようにそっと寄り添い、フロールのあとに続いた。
その後もフロールによるアレッタの“悪役指導”は行われた。
そして騒ぎを起こすたびにライニールは頭を抱え、レーヴィは諦めた笑みを浮かべ、フロールはころころと笑った。
そんな彼女たちがみんな幸せになれるのは、まだ先の話。