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屋上庭園  作者: 深瀬静流
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前編

 この屋上から麻衣が転落し、悠と一緒にそれを見ていた耀子が翌年行方不明になった。雅子は娘を失った悲しみで平常心を失い、百合子は狂気のように耀子を探して心を病んだ。そして、悠が来るのを待っていたように、死んだはずの麻衣が屋上庭園に現れた。麻衣が見せる幻影の町には行方不明の耀子がいた――本文より――


◆◆◆◆屋上庭園の悲劇◆◆◆◆


 駅前にある七階建てのマンションは、駅を利用する人には見慣れた風景の一部だったが、初めて目にした人は屋上を見上げたとき、森のように茂っている緑に驚くことだろう。

 ビルの屋上に庭をつくるという発想がなかった当時、それはきわめて奇異に映った。高いビルの屋上に土を盛って木を植える。そんなことができるのか。排水はどうするのか。重量にビルは耐えられるのか。木は育つのか。嵐や台風のときなど、浅い土に根を張った木が持ちこたえられるのか。

 素人なら誰でも頭に浮かぶ懸念材料を笑い飛ばすように、七階の屋上のフェンスには樹木の緑が盛り上がっていた。

 マンションのオーナーの田崎修三は、病弱な七歳になる一人娘の耀子ようこのために、自分が住んでいるマンションの最上階の屋上を庭園に作り変えた。小学校の校舎が収まってしまうほどの広さの庭園は、子供が喜びそうな迷路のようなつくりになっていて、いたるところに工夫が凝らされていた。

 行き止まりかと思うと隠れ家のような東屋があったり、小さな滝が出現したり、滝から流れる小川がつくる池には魚も泳いでいた。

 樹木があり水場があれば当然小鳥たちもやってくる。その庭は、やがて豊かな自然を形成していくことになる。

 その庭を設計し、造園したのは、庭師の吉井雅子だった。雅子の父は造園業を営んでおり、雅子も当然のように造園の道に進んだ。庭師として多くの庭を手がけたが、屋上庭園の仕事は今回が初めてだった。

 マンションビルを建設した建設会社の設計技師に屋上を改築してもらい、積載重量を計算してもらってから、軽量用土の工夫や持ち込む園芸用材の選別など、たいへんな努力の末に完成させた仕事だった。

 夫と死別していた雅子は、工事の期間、自宅があるF市を離れて二人の子供とともに工事現場でもあるマンションの一室を借りて住んだ。八歳になる娘の麻衣と、六歳の息子のゆうの春休みが工事の期間と重なって都合がよかった。

 屋上で雅子が赤木造園の従業員達と仕事をしているあいだ、麻衣と悠は、階下の田崎家で田崎夫人にあずかってもらっていた。夫人の田崎百合子は、話す声も挙措もおっとりとして上品な女性だったが、夫の修三は、細身ではあるが力強さのある快活な男性だった。

 百合子に似ておとなしい耀子と、活発な麻衣は、正反対の性格だったが気が合ったとみえてすぐに親しくなった。悠は幼稚園児だったので麻衣においていかれがちだったが、かわりに耀子が姉のように世話をやいた。工事が終わってF市に帰る頃には、姉の麻衣よりも耀子の方に懐いていた。

 それが起きたのは、三ヶ月後の六月のことだった。屋上庭園のメンテナンスのために雅子は子供たちをつれて田崎家を訪れていた。

 庭園の庭木や草花は順調に根付いて生育していた。百合子の希望で植えた杏の木の根の張りぐあいが気になっていたが、前日はひどい嵐だったにもかかわらず、倒れることなく枝葉を茂らせていたので雅子はほっとした。

 幹の直径が十五センチほどの杏だったので、定着がよければ実をつけるだろうとおもっていたが、残念なことに、実はつけたものの昨夜の嵐で全部落ちてしまったという。

「来年は杏のジャムをいっぱい作って、吉井さんのところにも送ってあげましょう」と、百合子は笑っていた。夕方になって、そろそろ帰る時刻になっても、麻衣と悠は耀子と共に屋上から降りてこなかった。雅子は呼びに行こうとしてソファから腰を浮かせた。

「まだいいじゃありませんか。お夕飯を食べてからお帰りになればいいわ。耀子も喜ぶし、主人ももうすぐ帰って来ますから。ね、そうなさいよ」

 百合子に言われて雅子は浮かした腰をおろした。年の近い百合子に親しく誘われると、雅子もそうしようかという気になった。子供たちは庭で遊び呆けているのだろう。それなら自分も、もうすこしのんびりしていこうかとおもった。

 美しい調度品で飾られた豪華なリビングルームで、百合子と雅子は夕飯はなににしようかと話していたころ、屋上では、耀子と悠が青ざめて凍り付いていた。

 逢魔が時。

 日が沈むか沈まないかの、まだ明るさが残っている夕方を、そのように表現することがある。東の空は暗いのに、西の空には重い茜色の残照が居残っていて、時間が止まったように空は動かない。そよりとも風が吹かず、草木は静止画のように動きを止め、あたりは異常な静寂に満ちている。見慣れた景色。馴染んだ場所。それなのに、不気味で息さえ細めてしまう。異なる世界に紛れ込んでしまったのではないかと、恐怖が背中に這い登ってくる。そんな逢魔が時に囚われた屋上庭園で、耀子と悠は震えることも忘れて杏の木を見つめていた。

 小低木で屋上のフェンスを取り囲み、人工的な金属を隠した庭は、地上の公園となんら変わらなかったが、耀子と悠は、ここが七階の屋上だということを忘れてはいなかった。木で目隠しされたフェンスに向かって枝を伸ばしている杏の木に、昨夜の嵐からまぬがれた杏の実が一つ、細い枝の先で揺れていた。

「やめて。麻衣ちゃん。お願い。危ないから、やめて」

 耀子は震える小声で囁いた。怖くて大きな声が出なかった。

「お姉ちゃん。木から降りて。あぶないよ」

 悠も泣き顔で懇願した。杏の木に登った麻衣が、フェンスのほうに伸びている枝に身を乗り出そうとしていた。麻衣が伸ばした指の先には、黄金色に輝く杏の実が誘うように揺れていた。元気な子供なら、思わずもぎ取ってしまいたくなる誘惑に満ちていた。

 届きそうで届かない距離を詰めようと麻衣の体がまた伸びた。細い枝が大きくしなって沈んだ。

 風が無かった。音も無い。暗いけど、まだ麻衣の姿は薄闇の中に見ていた。麻衣は笑っていた。

「だいじょうぶだよ。とってあげる。あとちょっとだから。そうしたら、耀子ちゃんにあげるね」

 そういって、麻衣は少しだけ苦しそうに顔を歪めて果実を掴んだ。

「いらないのに。危ないから、やめてっていっているのに。麻衣ちゃん。麻衣ちゃん」

「お姉ちゃん!」と、悠が声を張り上げたとき、止まっていた時間が動きだし、いきなり風が強く吹いた。地上の車の騒音も暴力的に耳を襲った。薄闇に浮かび上がっていた麻衣の姿が消えていることに気がついたのは、数秒後のことだった。


 悠は混乱の中にいた。周りで大人達が大きな声で騒いでいた。雅子の金切り声が悠の薄い鼓膜を刺した。何人もの男の野太い声が交差し、救急車のサイレンと回転する赤色灯にめまいがした。

 路上で毛布をかけられた姉の小さな体。アスファルトに広がる血溜まり。道路の排水溝の溝に挟まっている杏の実。

 恐怖が徐々に悠の全身を包み込んだ。しかし、ぶるぶる震えている六歳の悠を抱きしめてくれる大人はいなかった。だいじょうぶだよ。これは、みんな、悪い夢だからねと、耳元で囁いてくれる大人はいなかった。

 麻衣の葬儀には田崎夫妻も参列した。憔悴しきった百合子の蒼白な顔が印象的だった。修三は百合子を支えるように腕を掴んでいたが、目が充血して、わずかな間に頬がくぼんでいた。泣き疲れて放心状態でいる雅子よりも、田崎夫妻のほうが麻衣の死をいたんでいるように傍目には映った。

 骨上げのとき、悠は母の不可解な行為を目撃した。誰も気がつかなかったようだが、二人一組になって箸を使って遺骨を拾いあげるとき、喪服の着物の袖が遺骨の上にかからないように、さりげなく手を添えた左手で骨の一部をつまみ上げ、雅子はすばやく袖にたくし込んで隠したのだ。小さな悠の目の高さだったから目撃できた行為だった。悠の断続的な記憶は、後日の大雨の夜に繋がっていく。


 雅子は、田崎に返し忘れていた庭園の倉庫の鍵で、深夜、屋上に忍び込んだ。屋上には居住者が利用するエレベーターとは別に、地下駐車場から直接上れる業務用のエレベーターがあった。七階のフロアに住んでいる田崎夫妻に気づかれることなく屋上庭園の資材倉庫に上っていって、ドアの鍵を開けて庭に出られるようになっている。悠は黄色い幼稚園の雨カッパを着せられて、雅子に手を引かれて倉庫から庭園に出た。

 庭園のところどころにガーデンライトが設置してあったので、深夜でも足元に困ることはなかったが、降りしきる大雨で照明は手で覆われたように明るさが半減していた。

 悠はカッパを着せられていたが、雅子はカッパは着ていなかった。傘もささず、叩きつけてくる雨の中に入っていった。悠もこわごわと雅子のあとについていった。置いていかれるのが怖かった。雨の中に入ったら、カッパに打ちつけてくる雨の重さと冷たさに泣きたくなった。たちまち前髪が濡れ、顔が濡れた。「お母さん」と、悠はか細い声で呼びながら雅子を追った。

 雅子は杏の木の根元にしゃがみこんでいた。全身ずぶ濡れで夢中で手で土を掘っていた。雅子の丸くなっている背中の筋肉が、土をひとかきするごとにうねって動くのを、悠は薄気味悪く見つめていた。

 土を掘っているのはわかったが、背中を向けているので、雅子がなにをしようとしているのかは、よくわからなかった。真っ青な顔で、目を吊り上げて、白目をむき出した恐ろしい形相の雅子が、ポケットから白い小さなものを取り出して、杏の木の根ものとに埋めたのがかすかに見えた。

「呪ってやる。田崎家の幸せを、呪ってやる。麻衣を殺した耀子を、呪ってやる」

 母の呪詛は悠を怯えさせた。母を怖いと思ったことなどない悠だったが、雅子が立ち上がって振り向いたとき、危うく悲鳴を上げるところだった。

「悠。耀子という名前を忘れちゃだめよ。麻衣を殺した子のことを、覚えておくのよ」

 ちがうよ。そうじゃないよ。お姉ちゃんは、枝から落ちたんだよ。あぶないから、やめてって、いったのに。だから耀子ちゃんは、なにもわるくないんだ。

 心の中で母に抗議する悠の手を、雅子は土で汚れた手で強く掴んだ。倉庫に向かって走る。倉庫に入って鍵をかけ、エレベーターに向かいながら鍵をポケットに入れようとした。ポケットに入れたつもりだったのだろうが、雅子は気が高ぶっていて鍵を落としたことに気がつかなかった。雅子がエレベーターのボタンを押しているうちに、悠は落ちた鍵を拾ってカッパのポケットに入れた。悠はポケットの中で鍵を握りしめた。

 この鍵がなければ、お母さんは庭園には入れない。お母さんを、こんな怖いところに近づけたらだめだ。

 幼い悠は、手のひらが赤くなるほど強く鍵を握りしめたのだった。




◆◆◆◆帰ってこない娘◆◆◆◆


 麻衣を失って一年が過ぎた。

 雅子は花束を抱いて田崎が住むマンションの前にいた。

 日が沈むか沈まないかの、まだ明るさが残っていている夕方。東の空は暗いのに、西の空には重い茜色の残照が残っている。時間が止まったように空は動かない。たたずむ雅子の横を、人が避けながら行き過ぎていく。車道を走る車の流れ。横断歩道をわたる人々の靴音。騒音は満ちているはずなのに、音は雅子の意識を滑っていく。

 風が無かった。湿った空気が重い。星が一つ二つ出ていた。でも、まだ夕方。雅子は首が折れるほど頭を傾けて上を見上げていた。マンションの屋上から、はみ出るように濃い緑が茂っている。雅子の真上にあるのは杏の木だ。胸に抱いていた白いダリアの花束を、杏の木の真下にあたる足元に置いた。その場所をじっと見つめた。唇が震えてくる。もう一度上を見上げた。

 逢魔が時。

 暮れそうで暮れない、あわいの時。空は動きを止め、草木は静止画のように動かず、人や車は動いていても無音の世界。止まった時間の中で、自分だけが浮き上がっている。

 雅子は息をするのも忘れて、魅入られたように、はるか高みにある杏の葉叢を見つめた。

 葉の中から、麻衣の目が雅子を見下ろしているような気がした。雅子はよく見ようと瞳孔を広げた。枝を押しのけて麻衣が顔を出した。麻衣は少し苦しそうな表情をしていた。「お母さん」と、雅子を呼ぶ声が聞こえたような気がした。雅子は両手を大きく上に伸ばした。

 受け止めてあげる。だいじょうぶ。お母さんが、今度は受け止めてあげる。

 涙があふれ出た。どんなに怖かっただろう。どんなに痛かっただろう。かわいそうに。わたしの麻衣。

 一年が過ぎても、悲しみは少しも癒えていなかった。雅子は麻衣を迎えるように両手を広げて笑みをうかべた。


 耀子の帰宅が遅かった。百合子は何度見たかわからない時計を振り返った。電子時計なので秒針の音は聞こえないはずなのに、確かに時計の針が動く音が聞こえる。それが自分の心臓の音だと百合子は気がつかなかった。どくどくと脈打つ早い鼓動が体中に響いていた。

 ベランダから見える西の空は暗い茜色だ。灰色と黒い雲の片側からこぼれてくる残照は、一年前の屋上庭園の事故を思い出させた。あの日も、こんなふうに、不気味なほど静かで空がどんよりと赤かった。

 百合子はぶるりと身震いした。ますます不安が募り、悪い予感に締めつけられた。今日は小学二年生の遠足の日で、耀子は朝から不機嫌で遠足に行くのを嫌がっていた。

 もともと体が弱い子供だったが、麻衣の転落事故以来、頻繁に発熱して学校を休んでばかりいた。夜もうなされるので、そのたびに百合子はおろおろして耀子を過剰にいたわった。

 修三は、百合子の繊細さが耀子の不安定な精神と共鳴して、いっそう悪い結果になってしまうのではないかと考え、耀子を甘やかさないように強く百合子を叱った。そのせいもあって、百合子はぐずる耀子を半ば追い立てるように玄関に押しやったのだが、小さな肩にピンクのリュックサックを重そうに背負った耀子は、「お母さん。ほんとに、おなかが痛いの」と、蚊の泣くような声で訴えた。

 修三に甘やかさないように言われていたこともあり、百合子は強い態度で玄関ドアを開けて耀子を外廊下に押し出した。儚げな少女だったので、泣きそうな顔で見つめられると百合子は動揺した。やはり今日の遠足は休ませようかと迷いだした。子供は敏感に母親の逡巡を見抜く。耀子は、憐れを誘うように背中を丸めてお腹を押さえた。

「ほんとうよ。お母さん。ほんとうにお腹がいたいの。それに、お熱もあるみたい」

 襟に白いリボンがついたピンクのTシャツを着た耀子の顔色は、ふだんならピンクが映えて顔色も良く見えるのだが、今朝の耀子はピンクを着ていても顔色がさえなかった。そのことに気づかない百合子ではなかったが、心を鬼にして耀子の背中を押した。

「耀子ちゃん。遠足ですもの、行けばきっと楽しいわ」

「でも、山を登るなんて、歩けるかどうか、わかんない」

「低いお山ですもの。麓までバスで行って、ロープウエイで登って、展望台の広場でお弁当を食べて、ケーブルカーで降りてくるのよ。一年生にだって行けるお山よ。二年生の耀子ちゃんが登れないなんて、一年生に笑われちゃうわよ」

 百合子は揺れる心をなだめて耀子を送り出したのだった。その耀子がまだ帰ってこない。学校に電話することも忘れて、百合子はエレベーターで一階に下り、エントランスを走り出た。

 マンションの前の歩道に、白いダリアの花束が置かれていた。重い茜色の西日に染まって、白いダリアはくすんだ赤に見えた。百合子は背中に氷を入れられたように身震いした。

 今日は麻衣ちゃんの命日。雅子さんが来ていたのだ。

 百合子はがたがた震えだした。不吉な予感は確信にかわっていた。



 白兎山しろとやまは耀子が暮らしているT県と隣のN県にまたがった低山だった。標高は562メートルで、麓からロープウェイで登ることができ、山頂駅には売店や水洗トイレ、自動販売機などが設置されていて、ベンチとテーブルがある展望広場になっている。

 ロープウェイ山頂駅からは歩いて三十分ほどで頂上に着くのだが、勾配があり、ちょっとした登山気分が味わえるので、二年生の遠足は毎年白兎山と決まっていた。

 頂上からは住宅やビルが密集している市街が一望できた。目を東側に向ければ麓に湖があって、湖から流れる川は県境を越えてN県の市街地に伸びていた。

 湖にはキャンプ場があるので、頂上からでもバンガローが並んでいるのが小さく見えた。駐車場はほとんど埋まっていて、車の屋根が太陽を反射してキラキラ光っていた。

 耀子は青ざめた額に手をかざして日差しを遮った。眩しくてたまらない。よけい頭が痛くなる。冷たい汗が額に滲み出てくる。ロープウェイ山頂駅を降りて山道を遅れがちになりながら懸命に登った。

 頂上で集合写真を撮ってから小休止になったので、水筒の水を飲んで飴を口に入れたら少し気分がよくなった。このぶんならなんとかなるだろうとおもい、先生には何もいわなかった。昼食はロープウェイ山頂駅の広場に戻ってとることになっていたので、全クラスで二クラスしかない生徒たちは、一組から順番に下って行った。

 耀子は二組だったので一組のあとに続いて降りていったが、歩き出したらまた気分が悪くなってきた。しだいに遅れがちになり、気がつくと先生と生徒たちはおしゃべりをしながらだいぶ先を下っていた。ハイカーとすれ違うたびに、生徒たちが「こんにちは」と挨拶する元気な声が聞こえてくる。

 山頂駅まで歩いて三十分の下り坂なので、迷う道ではなった。そのはずだった。山道を、耀子は腰を落としながら慎重に下って行った。道なりに蛇行したカーブに沿って下れば、ほどなく山頂駅に着く。そのつもりだった。

 登山の経験がない人にはわからないかもしれないが、実は山には登山道ではない道がたくさんある。山の中に踏み込んでできた草の踏み跡を山道と間違えて、次々と人が歩いていくうちに、初めは細かった道が、やがて立派な山道になってしまうのだ。間違った道に入っていって、歩いて行ったら道が無くなっていたというのなら間違えたとわかるのだが、引き返したときに、また脇道があったとしたらどうだろう。国土地理院の地形図が手元にあれば登山道ではないと確認できるのだが、二年生の遠足で国土地理院の地図を用意する生徒がいるだろうか。耀子が熱っぽい体を持て余して少しの間しゃがみこんでるあいだに耀子だけが取り残されていた。

 おおぜいのハイカーが登りと下りを交差していくなか、耀子は疲れた顔でとぼとぼ歩き出した。

「頑張って。みんな、先に行っちゃったわよ」

 髪がほとんど白い元気な年配の夫婦のハイカーに声をかけられた。標高は低い山だったが、麓から登る登山道がいくつかあり、そこから登ってくるハイカーが頂上で合流するため、耀子が歩いているところは目抜き通りの賑わいだった。わずかな時間に何人ものハイカーに声をかけられた。初めは返事をかえしていたが、疲れが増すので下を向いたまま頷くことにした。

 クマザサを踏みしめた細道があったので、何も考えずにその道に入って行った。クマザサの幅の広い濃緑の葉の美しさに見とれながら、山の奥に続いている道を進んで行った。木漏れ日の斑模様が、クマザサの艶のある葉に落ちて揺れている。ブナやコナラの隙間に生えている若木の細い枝が、樹間を吹き抜けていく風に揺れる。

 静かだった。どこかで小鳥が鳴き交わしていた。薄暗い山の中を、耀子は無心に歩いた。歩けば歩くほど登山道から遠ざかっていくことに気がつかなかった。

 サラサラとこぼれていた陽光がしだいに少なくなって暗くなってきた。これから昼食なのだから、夕方ではないはずだ。おかしいと思ってまわりを見回して立ちすくんだ。

 深い山の中だった。道だと思って進んでいた足元は、すでにクマザサもまばらになっており、大きく伸びたシダの葉や低木の絡み合う枝が地を覆い尽くしていた。

「せんせーい。みんなー」

 耀子は呼んでみた。近くの木で、がさっという音がしたので上を見たら、サルが五匹、すばらしい跳躍で枝から枝に飛び移り、耀子の頭上を去って行った。サルがあんなに長い距離を飛ぶものだとは知らなかった。動物園のサルと違って、とても猛々しくて力強い跳躍力を怖いとおもった。

 先生やクラスの仲間を呼んでも返事がないので、仕方なく来た道と思われる方向に歩き出した。地面を覆っている草や木やシダ類が、戻る方向がこれで正しいのか判断を鈍らせる。でも、じっとしている気にはなれなかった。こんな山の中に一人でいるのは耐えがたかった。

 歩いているうちに、草の根元のほうが折れているのを発見した。何かが歩いた跡だった。身長の低い子供の目線だったから見つけることができた獣道だった。道を見つけることができたうれしさに、耀子の足は速くなった。早く、早く。早くみんなに追いつきたい。

 登山道を外れたら山は凶器と同じだった。整備された登山道でさえ、どんなアクシデントにみまわれるかわからない。天候の急変。落雷。落石。滑落。たとえ低山でも、遭難するときは遭難する。ハイカーで混雑している目抜き通りの登山道から外れただけで、山は不注意な登山者に牙を剥く。神宿る神聖な山を邪魔するなとばかりに、迷いこんだ登山者を翻弄する。

「あっ」、とおもったときには、草に隠れた谷に足を踏み外して背中から転落していた。

 空中に体が浮いていた。密集した枝葉のわずかな隙間から、目に沁みる空の青さが覘いていた。何かに掴まりたくて夢中で手を伸ばしていた。宙を掴む自分の手を見て耀子は驚愕した。その手には杏の実が握られていた。

 急に暗くなった。夜が訪れそうな暗さだ。風がやんだ。湿度の高いねっとりとした空気が絡みつく。なんて蒸し暑いのだろう。おくれ毛が肌に張り付く。暗いけど、まだ見える。あの枝の先で揺れている杏の実がはっきり見える。

 食べるには早いけど、きっと、すごく酸っぱいだろうけど、でも、わたしがとってあげる。耀子ちゃん。物静かで、お人形さんみたいにかわいい。

 悠ったら、耀子ちゃんにべったりだ。しかたないか。耀子ちゃんはわたしと違ってやさしいから。

 今度耀子ちゃんに会えるのはいつかな。お母さんの仕事のときに連れてきてもらわないと会えないんだもの。もっと一緒に遊びたいのに。

 もうちょっと。あと少しで手が届きそう。でも、枝が細いから、怖いな。折れないよね。だいじょうぶかな。でも、もうちょっと。もうちょっとで手が届く。もうちょっとだけ、先に進めば……。

 ぐらりと麻衣の体が反転した。手には杏の実が握られていた。落ちて行く。浮遊感で気が遠くなる。風を切って体が落ちて行く。耳の中で血液が音をたてて駆け巡っている。心臓が胸を突き破る勢いで拍動している。空が暗い。でも、まだ夕方。暮れそうで暮れない、逢魔が時。怖い。怖いよ! お母さん!

 麻衣の恐怖が耀子に乗り移っていた。屋上庭園から墜落した麻衣の思念と耀子の意識が重なり増幅されて圧倒的な恐怖に息が止まった。

「たすけて。お母さん」

 叫んだ耀子の声が麻衣の声に聞こえた。精神に亀裂が入った耀子の意識は、地に叩きつけられる前に途切れていた。




◆◆◆◆めぐり合わせ◆◆◆◆


 遊漁承認証の腕章が腕からずれていたので、塩田健一は渓流竿を脇に挟んで腕章を直した。

 白兎川の本流は春に放流した魚のほとんどが釣られており、残った魚はスレてしまって、なかなか針にかからない。アマゴを狙って白兎川の支流を遡ってきたのだが、釣果がないまま時間切れが迫っていた。

 キャンプ場に残してきた家族は、一緒にキャンプを楽しむどころか川に入って釣りばかりしている塩田に不満をつのらせていた。怒られてもしかたがないと開き直って、ようやく取れた有給休暇に土・日の休みを足して、キャンプ場の渓流で釣りをしてごすことにした。

 妻と二人の娘達はキャンプ場、自分は釣りをと欲張ったのだが、欲張りすぎたかもしれない。一人で遊んでいる塩田に、妻と娘達はそうとう腹をたてていた。

 帰る時間が迫っていたので、遅れたらどんなことになるか考えただけで恐ろしい。なにせ塩田は、四人家族の中でたった一人の男性だったから、女たち三人にやり込められると旗色が悪かった。十歳の真美はまだ子供でご機嫌がとれたが、十二歳になる長女の留美は、すっかり母親の肩をもってドキッとするような冷たい目つきをするときがある。妻の千賀子がする目付きと同じだった。性格も似ていてきつい。嫌なところが似てしまったと、塩田は足場の悪い浅瀬から出た。

 両側に急な崖が迫っており、岩場の隙間に木が挟まったように生えていて、つる性の葉が絡まりあい、水ぎわの周りはシダ類や苔が繁茂していた。時刻はそろそろ十二時だ。キャンプ場に戻って家族と一緒に昼食をすませて荷物を車に積み込んだあと、自宅までの二時間の運転が待っている。あしたから会社かと思うと塩田はぐったり疲れを覚えた。

 アブが音を立てて体にまつわりついてきたので、頭にかぶった防虫ネットの隙間を手で押さえた。うまくアブが遠ざかってくれたので、竿や折りたたみ式の玉網などを片付け、残った餌のミミズを足元に捨てた。ミミズはまた石の隙間にもぐっていくだろう。

 クーラーボックスが置いてあるところに行って、忘れ物がないかあたりを見回したときだった。藪になっている崖の隙間に花が咲いているのが目にとまった。

 緑の濃淡の景色のなかで、ピンク色の花はやけに鮮やかだった。山の中で咲くピンク系の花といえばレンゲツツジかミツバツツジ、それにシャクナゲ、シモツケソウあたりか。そのくらいしか塩田にはおもいだせないが、それらの花は一叢で咲いていることが多い。塩田が見たのは、藪の中の小さな点だった。塩田はそれ以上の興味を持たずにデイパックを背負って釣り道具一式を抱え、沢を下流に向かって歩き出した。

 泣き声がした。か細い子猫の鳴き声だ。塩田は足を止めてあたりを見回した。こんな山の中に子猫がいるのだろうか。山といっても六百メートルにも満たない観光地のような低山だから、ひょっとして車で来た人が、生まれた子猫の始末に困って捨てて行ったのかもしれない。こんな山の中に捨てられたらカラスのいい餌だ。つかのま塩田は迷って足を止めた。

 子猫を拾って帰ったら、娘たちは喜ぶかもしれないが、妻の千賀子はどうだろう。動物嫌いというわけではないが、「よけいなことをして、世話がたいへんなのに」と言って、顔をしかめそうだ。娘たちがペットを飼いたいといってもがんとして許さなかったくらいだ。

 頭を振り振り、塩田はキャンプ場に戻るべく下流に向かって歩き出した。また、泣き声が聞こえた。気持を滅入らせる憐れな声だ。今にも命が消えてなくなりそうな細い声に、塩田の足が止まった。このまま知らんふりをして帰ったら、きっと後悔すると思った。とにかく子猫をキャンプ場まで連れて帰って、キャンプ場の人に相談してみようとおもった。だれか、飼ってくれるひとがいるかもしれない。そう思い直して、泣き声のするほうに戻って行った。

 泣き声は、さきほどのピンクの花が咲いていたあたりから聞こえていた。足元をおおっている潅木に分け入って、枝に掴まりながら急な斜面を登っていった。細い枝や茨に服や肌を引っ掛けながら登ると、花だと思っていたピンク色が布の一部であることに気がついた。襟に白いリボンがついたTシャツだった。近づいていくと、水色のズボンもある。なんだろうと思って、邪魔な枝をどけてみたら、子供が泥だらけになって仰向けに倒れていた。

 目を閉じて口をむすんで、まったく動かない少女は、閉じた唇の隙間から細い声を息のように吐き出して泣いていた。泥だらけの全身は、あちこちに赤黒い塊ができていて、血が凝結していた。

 草の中から、音もなく斑模様のヘビが這い出てきた。糸のような舌を動かしながら、ズボンから出ている足首の素肌に近づいて行くのをみて、塩田は腰を抜かしそうになった。マムシだった。小さなヘビだが咬まれたら猛毒で命を落とす。夢中で枝を折って、その枝でマムシをすくうようにして遠くに投げた。

 塩田の行動は早かった。少女を抱き起こして背中に担ぐと、木を支えに斜面を降りた。いったん河原に下ろして声をかて怪我の具合をみた。骨は折れていないようだったが、側頭部に裂傷を負っていた。

「おい。しっかりするんだ。おじさんの声がきこえるか」

 大きな声で呼びかけたら、少女はうっすらと目をあけた。

「よかった。気がついたか」

 少女は、茫洋とした目付きでまず空を見た。そのまま周りをながめて顔をしかめた。

「山の中だよ。きみは、山の中に倒れていたんだ」

 声に引っ張られるように塩田に焦点をあてた少女は、大きく目を見開いて、肺が破れたのかと思うほどの大声で泣きだした。

「だいじょうぶだ。もう、だいじょうぶだからな」

 デイパックを背負って、その上に少女を担ぎ上げた。竿やクーラーボックスなどの釣り道具を掴むと、塩田は少女を落とさないように、必死で沢を駆け下りた。荷物をたくさん抱えていたので、子供とはいえ重くて苦しかったが、そんなことにかまってはいられなかった。

 キャンプ場に駆け込んだ塩田は、管理事務棟に少女を運び込んだ。簡単にわけを話して、少女を病院まで車で運んでくれるようにたのむと、中年の男性職員は車のキーをとって外に出て行き、すぐにワゴン車を管理事務棟の前につけてくれた。職員に少女を託して家族のところに行こうとしたら職員に止められた。

「どこへ行くんですか。あなたも付き添ってください。こっちに預けっぱなしにされても困りますよ。遭難者なんでしょ。子供だから、親に連絡もしなければならないし。この子、名前はなんていうんですか」

「名前ですか」

 塩田は、事務室のソファに寝かせた少女の肩に手を置いて腰をかがめた。

「名前は、なんていうんだい。お父さんの名前は? 電話番号は?」

 少女は困ったように首を横に振った。その表情がみるみる不安で歪んでいく。塩田はもう一度名前を尋ねた。

「名前だよ。きみの名前だ」

「わからない」

「わからないことはないだろう」

「わからない」

「何がわからないんだ! 真面目に答えなさい」

「わ、か、ら、ない」

 わあああっ、と泣きだした少女のようすに、塩田と職員は顔を見合わせた。塩田は嫌な予感がした。職員も同様だったらしいが、塩田より年長だった職員は、とりなすようにう塩田に目配せした。

「動転して何がなんだかわからなくなっているんでしょう。頭が混乱しているんですよ。とにかく病院へ。あなたも同行してください」

 塩田は頷いて、千賀子の携帯電話に電話を入れた。

「千賀子、俺だよ」

「パパったら、なにをしているのよ。お昼はとっくに過ぎちゃったわよ。わたし達は、先に食べちゃいましたからね。荷物も全部車に積んだし、あとは清算して帰るだけよ。あしたから仕事だって言ったのはパパなんですからね」

 いきなり千賀子の甲高い声が耳に突き刺さった。塩田は千賀子にも簡単に事情を説明して、これから子供に付き添って病院に行くと告げた。すると、千賀子は猛然と怒り出した。

「どうしてパパが行かなきゃいけないの。そんなのはここの人たちに任せておけばいいのよ。病院に一緒に行ったりしたら、帰る時間が遅くなるじゃない。放っておきなさいよ」

「それが、子供の様子がおかしいんだよ。名前も言えないんだ。頭を打ったらしくて怪我をしているから、もしかして脳に影響が出ているかもしれない」

「それならなおのこと、かかわちゃだめよ。ここの人達に病院に連れて行ってもらって、警察に連絡してもらえば、子供の親が飛んでくるわよ。いまごろ、親御さんも心配して警察に駆け込んでいるでしょうし」

「そうなんだけど、でも、それが」

 塩田は、自分の服の裾を掴んで、縋るように泣いている少女にため息をつきそうになった。服を掴んだ手を離したら、溺れて死んでしまうと思い込んでいるような必死さだった。体も髪も服も泥だらけで、ところどころ血を滲ませている小学校低学年くらいの少女の、喉が破けるような泣き声は、塩田の心を震わせた。塩田は口の中でもごもごと言い訳をして千賀子との電話をきった。少女を抱き上げて管理事務棟の前に止めてあるワゴン車に乗り込んだ。

 町の総合病院で診察を受けている間に警察官がやってきた。身元がわかるような荷物か持ち物がそばに落ちていなかったかと訊かれたが、塩田の記憶ではそれらの物は見当たらなかった。もしかしたら、周りをさがせばあったのかもしれないが、塩田も動転していて、そんなことには気が回らなかった。だから、ありのままを警察官に話した。そうすれば、警察のほうで捜してくれるとおもった。

 診察がすんで出てきた少女は、着ているものは泥だらけのままだったが、髪や顔、手足はきれいにしてもらっていた。寂しげな顔立ちだったが整った目鼻立ちは、両親が美しい男女であろうことが想像で来て、塩田はちょっと感心した。子供なのに、はかなげな美しさがあり、将来はさぞ美しい娘に成長するだろうと予感した。

 医師の話では、体のあちこちに打撲と擦過傷があったが骨折はしておらず、落下の途中、枝に当たったりして衝撃が和らいだのがよかったのだろうとのことだった。

 脳のMRIの結果も出ており、脳に異常はなかったが自分の事に関しての記憶は消えていた。しかし服を着たり、指示通りに動いたり、計算ができたりするので、日常生活に支障はないということだった。

 脳の専門ではないのだがと前置きして医師が話してくれたのは、強い恐怖やトラウマを受けたりすると、人生の一部、または全部を思い出せなくなるという。これを『解離性とん走』というのだが、だいたい数日ぐらいで自然に治るとのことだった。専門科を受診するように言われて塩田は暗たんとした。

 少女は片時も塩田から離れようとしなかった。服の裾を指の関節が白くなるほど握り締めている。混乱し怯えている姿は憐れだった。

 警察官が、親が見つかるまで一時保護所で預かるといってくれたので、警察に任せて帰ろうとしたが、激しく泣いて塩田にしがみつくので、つい親が見つかるまで自分が預かると言ってしまった。塩田の住所と電話番号を控えた警察官は、所轄の交番に戻って行った。

 交番に戻った警察官は、必要な書類を作成して本部にファックスで送信したが、隣の県に在住している田崎修三の捜索願いと合致することはなく、各々の県がそれぞれの手続きに従って処理された。

 塩田は、キャンプ場から高速道で二時間かかる自宅へ向かって、黙々と車を走らせた。助手席で失神したように眠っている少女の頭が、ゆるいカーブのたびに揺れた。荷物を積んだワゴン車のうしろの座席で、ひとかたまりになっている千賀子と留美と真美は、これ以上ない不機嫌さで助手席と運転席を睨んでいた。

 インターを降りて、ビルや住宅が密集した町並みを信号につかまりながら走った。夕暮れが濃くなってきた空に、自衛隊のヘリコプターが三機、隊列を組んでゆっくり基地のあるほうに飛んで行く。早く子供の親が見つかるといいがと思いながら、うしろで怒りを溜め込んでいる妻にため息がこぼれた。もしかしたら自分は、どんでもないおせっかいをしたのかもしれないとおもった。

 その後、記憶を失った少女は、千賀子から、山で拾ってきた子供だから拾子しゅうこと名づけられて、塩田一家と暮らすことになる。



 田崎修三が警察から帰ってみると、登山服姿の百合子がナップザックを背負ってマンションのエントランスから出てくるところだった。修三と百合子は、互いに走り寄った。

「警察はどうでした。耀子ちゃんの消息は」

 修三の腕に手を掛けた百合子に、修三は首を横に振ってみせた。

「だめだったよ。あれから一ヶ月もたつのに、警察は何もしてくれない」

 休日のたびに警察に出向いて行って、進展がないかきいていた修三だったが、毎回失望して帰ってくることの繰り返しだった。百合子は動揺するようすも見せずに頷いた。

「警察は事件にならなければ動かないところですもの。同じ年頃の身元不明者の死体が出ていないということは、耀子ちゃんは生きているということよ。修三さん。わたしは白兎山に行ってきます。こんどはルートをかえてみるわ。お食事は冷蔵庫の中に用意しておきましたから、それを召し上がってね」

 神経の細い百合子のどこに、こんな強さがひそんでいたのか、修三は驚きを隠して百合子の腕を掴んだ。すっかり痩せてやつれているのに、百合子の瞳は異常なほど光っていた。

「もう歩きつくしただろう。このひと月、ほとんど毎日のように山に行っているじゃないか。耀子は、山にはいないよ」

「いいえ。まだよ。見落としている道があるのよ。草の根を掻き分けてでも、手掛かりを探してみます。リュックも、お帽子も、水筒も、見つかっていないのよ。耀子ちゃんを見つけないと」

「今でも山の中にいると思っているのか。警察も、消防団も、ボランティアの人たちだって、あんなに一生懸命、何日も探してくれたのに、見つからなかったじゃないか。もう山にはいないんだよ」

「じゃあ、どこにいるの。ねえ、教えてちょうだい。耀子ちゃんは、どこにいるの!」

 狂気めいた瞳で百合子は修三に詰め寄った。

「落ち着いて。百合子」

 歩道を行き交う人々が、怪訝な面持ちで夫婦を見ていたが、修三は百合子しか目に入らなかった。今にも倒れてしまいそうなほど痩せてしまった百合子を強く抱きしめた。あらがう百合子をさらに強く抱きしめる。

「百合子。僕はお腹が空いたよ。それに、すごく疲れているんだ。温かいものが食べたいんだよ。冷蔵庫の冷たいものではなく、百合子が作ってくれる、温かいものが食べたいんだ。ねえ。百合子」

 百合子をやさしく揺すりながら、あやすように耳元で囁くと、百合子の強張った体から徐々に力が抜けて行った。

「そう、温かいもの。何がいいかしら」

「なんでもいいよ。百合子がつくってくれるものなら」

 こみあげてくる涙を飲み込んで、修三は百合子をエントランスに導いて行った。



 修三の戦いは、耀子を探すことだけではなかった。日に日に憔悴して行く百合子を支えることが、いつのまにか耀子を探すことより重要になっていた。巣から落ちたひな鳥を、餌を咥えた親鳥が探し回るように、百合子は寝る間を惜しんで耀子を探し続けた。

 いつしか季節はめぐり、耀子が行方不明になってから一年がたとうとしていた。

 六月のことだった。マンション下の歩道に白いダリアの花束が置かれていた。買い物から帰ってきてそれに気づいた百合子は、真っ青になって部屋にとびこみ、リビングの修三に取りすがった。

「雅子さんが来たんだわ。麻衣ちゃんのお命日で、去年と同じ白いダリアの花束を道に置いて行ったのよ。修三さん。あの花束を捨ててきてちょうだい。わたし、あの花束が怖いの。耀子ちゃんがいなくなったのは、きっと、麻衣ちゃんの祟りなんだわ。麻衣ちゃんが、あんな死に方をしたから、耀子ちゃんを恨んで連れて行ったのよ」

 何かにとり憑かれたようなことを言い出して百合子は泣きだした。

「なにを言い出すんだ。麻衣ちゃんとは何の関係もないよ。花はすぐ捨ててくるから」

 ソファから腰を上げた修三を百合子は引き戻した。

「修三さんは見たことないの? わたしは見たわ」

「なんのことだ」

「屋上のお庭よ。出るのよ。麻衣ちゃんが」

「ばかなことを」

「ほんとうよ。夕方、暗くなるころ、麻衣ちゃんがお庭に出てくるのよ。遊び相手を探しているみたいに、ふわふわ歩いているのよ」

 気は確かか、と言おうとして言葉を飲み込んだ。被害妄想だ。麻衣があのような死にかたをしたから、気に病んでそんな妄想をしてしまうのだ。そのことを、どのように百合子に理解させたらいいのか、修三は困惑した。

「あのね」と、百合子は声をひそめて、二人しかいない広いリビングを窺うように見回した。

「あのね、わたしね。麻衣ちゃんが転落したとき、とっさに、うちの耀子ちゃんじゃなくてよかったとおもったのよ。そんなことを思うなんて、なんてひどい人間なんだろうと動揺して、すぐにそんな考えは追い払ったけど、でもね、修三さん。わたし、ほんとうに耀子ちゃんじゃなくてよかったって、胸を撫で下ろしたのよ」

 恐ろしい秘密を打ち明ける子供のように、百合子は上目遣いで修三を見つめた。罪悪感が混じりあった感情の大半を占めているのは、死んだのが耀子ではなったという安堵だった。それを修三は責めることができなかった。親なら、誰でも思う本音だとおもった。しかし、たとえ本音であっても、一瞬にせよ他人の不幸でよかったと胸を撫で下ろした贖罪の代償は、徐々に百合子の心を蝕んでいった。

「出るのよ。杏の木のところに……」

 修三にしがみついて恐怖と罪の意識を共有しようとするように、百合子は唇を引きつらせて笑った。

「お願い。杏の木のところに、お宮を建立してちょうだい。麻衣ちゃんの御霊を鎮めるのよ。雅子さんもお招きしましょう。ね。修三さん」

 修三は無言で百合子の狂気じみた黒い瞳を見つめ返した。




◆◆◆◆雅子の戸惑い◆◆◆◆


 受話器を通した百合子の声は、雅子が記憶している声の調子より甲高く聞こえた。もっとゆっくり話す人だったはずだ。おっとりしていて、物腰や表情に育ちのよさがうかがえる、感じのよい人だった。しかし耳に伝わる声は、妙に神経に刺さった。でもそれは、思いがけない人からの突然の電話のせいかもしれなかった。雅子は百合子からの電話に緊張していた。

「麻衣ちゃんが亡くなって、今年は三回忌だったんですのね」と、百合子がいった。雅子はなんと返事をしていいのかわからずに黙っていた。麻衣のこを百合子と親しく話す気にはなれなかった。

「白いダリアの花束が置いてあったので、雅子さんがいらしたのだとわかりました」

 マンションの前の歩道に、亡き我が子への花束を置くのは迷惑だという電話なのだろうかと警戒した。そうだとしたら、言い返してやろうとおもった。雅子の心の中では、いまだに耀子への憎しみと、子を失った悲しみが渦巻いていた。

「雅子さん。じつは、屋上庭園の杏の木の前に、小さな外宮そとみやを建立したんですの。もっと早く思いつけばよかったんですけど、うちも、いろいろごたごたしていたものですから」

「外宮。なんですか、それ」

「麻衣ちゃんの御霊をおなぐさめするお宮のことですわ。それと、行方不明になった耀子ちゃんが、無事に帰ってくることを願ってですわ」

「……耀子ちゃんが、なんですって?」

「あら、うちの耀子ちゃんは、去年の七月に白兎山に遠足に行ったまま、帰ってこなかったんですよ」

 うふふ、と百合子が笑った。いかにも楽しいことを仲間同士で話すときのような声の調子だった。雅子はぞっとした。

「いなくなって、ちょうど一年たつんですの。警察からは何も言ってこないし、探すところも尽きてしまって、ほんと、耀子ちゃんたら、どこに行っちゃったのかしら」

「百合子さん」

 気がふれているのかと思った。笑いながら話すことではないからだ。

「それでね、雅子さんが置いて行った花束を見ておもい立ったんですの。そうだ、麻衣ちゃんが亡くなった原因の木のところに、お宮を建てようって。毎日必死にお参りすれば、神様が耀子ちゃんを返してくれるかもしれないとおもって。ねえ、そうでしょ。ねえ、雅子さん」

 雅子は、持っていた受話器をまじまじと見つめた。耀子が行方不明。あの、幸せを絵に描いたような一家が、不幸のどん底にいる。雅子は胸苦しいまま受話器を耳に戻した。

「それでね、雅子さん。神主さんに来ていただいて祝詞をあげていただいてから、わたくしたち夫婦と雅子さんで簡単なお食事でもと思っているのですけど、ぜひおいでいただけないでしょうか。もちろん、悠ちゃんもご一緒に。ね」

 行く必要があるのか。行かなければならないのか。麻衣の御霊を慰める? 行方不明になった耀子が無事に帰ってくるように?

 雅子は混乱した。百合子はなにを言っているのだろう。耀子の行方不明と麻衣の御霊とどんな関係があるというのだ。

 はっとした。去年の六月、大雨の夜に庭園に忍び込んで、杏の木の根元を掘りながら、『呪ってやる』と呪詛したことを思い出した。

 まさか、そんなこと。わたしが耀子ちゃんを呪ったから耀子ちゃんが行方不明になったというのか。そんなこと、あるだろうか。

 雅子は震えだした。青ざめていくのがわかった。百合子は、何でもないことのように軽い調子で話しているが、子を失った恐ろしさは誰よりも理解できる。耀子は生きているのか。がたがた震えそうになって、雅子は床にしゃがみこんだ。

「雅子さん。ぜひいらしてください。ご一緒に、麻衣ちゃんのご冥福と、うちの耀子ちゃんの無事を祈ってください。お願いしますわ」

 雅子は頷いていた。行かなければならないとおもった。もしも自分の呪詛のせいで、耀子の身に災いが及んだとしたら、なんとしても無事を祈らなくてはならないとおもった。

 当日雅子は姿見の前で黒の七分袖のワンピースを着て悠の前に背中を向けてしゃがんだ。

「悠。背中のファスナーを上げてちょうだい」

「うん」

 八歳になった悠は、母親の服のファスナーをつまんで引き上げた。なにを着ていけばいいのか悩んで、礼服ではない黒のワンピースを着ることにした。祭事なので、神様の前にだらしない服装で参列するのは失礼になるとおもい、そうかといって黒の喪服では耀子がこの世にいない人のように受け取られかねないので避けた。選んだワンピースは、式典にも着ていけるフォーマルなデザインだった。

 前日に雅子から耀子のマンションを訪れることをきかされていたので、悠もこれからどこへ行くのかは理解していた。白い半袖のシャツに子供用のネクタイをしめ、紺のスラックスをはいて改まった格好をさせられた。

 二年前の麻衣の事故は、幼い悠の心にも大きな傷を与えていた。夜中にうなされることはもちろんだったが、高いところを異常ほど恐がるようになった。ブランコや滑り台のように、たいして高くないところでも嫌がった。無理に立たせると、震えだして泣くのが常だった。いつになったら心の傷がいえるのか、悠の成長を待つしかないだろうと雅子は思っていた。

 これから田崎家を訪れて、屋上庭園で行われる外宮そとみやの祝詞式に悠を参加させて大丈夫だろうかと一抹の不安を抱きながら、雅子は悠をともなって車で出かけて行った。

 二年ぶりに再会した田崎夫妻は、二人ともすっかり変わっていた。健康的で快活だった田崎修三の髪には白いものが増え、まだ三十代の後半だというのに声が沈み、笑い顔にも覇気がなくなっていた。それにもまして変化が激しかったのは百合子だった。やつれを隠すために濃い化粧をして笑顔をうかべているが、目は笑っておらず、絶えず唇の両端が細かく震えていた。八月だというのに長袖の銀ねず色のワンピースを着ていた。襟元の真珠のネックレスは鎖骨の窪みを際立たせ、スカートからのぞいている足は骨のように細かった。痛々しさに雅子は目を逸らすところだった。なんとか笑みを作って挨拶をすませ、悠の肩を引き寄せた。

「悠。ご挨拶なさい」

「こんにちは」

 悠は教わったとおり、夫妻に向かって挨拶した。

「まあ。悠ちゃん。大きくなったわね。たしか八歳になったのよね。もう二年生ね。うちの耀子ちゃんがいなくなったのも二年生のときだったのよ。早いわねえ。すぐに大きくなっちゃうわねえ」

 百合子がはしゃいだ声で悠に笑いかけ、頭を撫でた。悠が怯えたように身を引いたので、雅子は失礼にならないように、そっと悠を抱き寄せた。

「では、屋上に行くとしますか」

 修三が雅子を玄関の廊下のほうにいざなった。雅子と目があったとき、修三は悲しそうな笑みをうかべて、雅子を安心させるように頷いてみせた。

「用意はできていますのよ。神主さんがお待ちになっていますので屋上に行きましょう」

 そういって百合子が廊下の先の突き当たりのドアをあけると、階段が屋上に続いていて、室内と外を仕切るドアを開ければ庭園だった。

 雅子は庭を見て息を飲んだ。庭は荒れていた。剪定や刈り込みをすることもなく伸びた木は茂りに茂り、低木も野生のように枝を絡ませて成長していた。カラフルなレンガを敷き詰めた歩道には、雑草がレンガのつなぎ目を割りかねない勢いではびこり、隠れ家のようだった洒落た東屋は色褪せて錆が浮き、クモの巣で白くなっていた。

 きれいな水が流れていた滝や小川はポンプを止めてしまったために水が干上がり、枯葉やゴミが溝を埋めていた。植え込みの日陰の土には、小さな穴がいくつもあいているところをみると、コガネムシの幼虫が羽化した穴のようだ。このぶんだと夕方になれば夏の虫が鳴きだすだろう。虫がいるということは野鳥もくるということだ。手入れをしない庭は、このまま野生に帰って朽ちて行くのだろうかと雅子は暗澹とした。

「雅子さん。こっちよ」

 百合子に声をかけられたて、そちらのほうに歩いて行った。ひとまわり太くなった杏の木を見たとき、雅子はめまいがした。心臓がドキドキしだして息苦しくなった。二年前は嵐で落ち残った果実の最後の一つが、あの枝の先に生っていたのだ。無意識のうちに雅子は杏の実を探していた。

「実がならないんですよ。あれ以来」

 なんでもないように百合子が言って杏の木を見上げた。あれ以来とは、麻衣のことをさしているのか、耀子のことをさしていているのかよくわからなかったが、雅子は百合子の言動の一つ一つを不快に感じた。杏の木の前には、高さが1メートルほどの檜作りの立派なお宮があった。

 狩衣と烏帽子に身を包んだ老齢の神職が、集まった全員に向かって「神様を呼びおろします」と言ってから外宮に向き直った。

 御幣ごへいを振って祝詞の奏上が始まると、頭の芯がしびれるような厳かな神職の声に支配されていった。田崎夫妻と雅子は、目を閉じてその声に心をゆだねていた。美しい旋律を刻む大和言葉の祝詞が、あたりの気配を清めて行くようだった。

 悠は庭の様変わりした佇まいに気をとられていた。幼いので、二年前の記憶は明瞭ではないものの、この庭はとても美しく、子供心をくすぐる楽しい仕掛けがあちこちにあって、時を忘れる庭だったはずだ。

 耀子はこの庭で犬を飼いたいといっていた。姉の麻衣は、わたしなら、ニワトリとウサギとヤギを放し飼いにするなと言って悠と耀子を笑わせた。ぼくは、このお庭の空を網で囲んで、インコをいっぱい放したいと言ったのだった。

 子供が夢を叶えることのできる子供だけの庭。出来上がったときは、ほんとうにうれしくて、三人で夢中で遊んだのに。

 悠は目に違和感を覚えて瞼を擦った。眼球の表面に薄くて白い布を貼り付けられたような感じがした。雅子や田崎夫妻や庭の緑がうすぼやけて見える。神主の祝詞の声が、古井戸の底から聞こえてくるような遠い声に変化していた。

 悠はもう一度目を擦った。空気が陽炎のように揺れている。すると杏の木の蔭から少女がふわりと現れた。少女は半透明だった。

「お姉ちゃん」

 悠の呟きは神主の祝詞に消されて大人達には聞こえなかった。麻衣は悠を誘うように庭の奥に向かって動いた。足があるんだ、と悠はおもった。悠の心の呟きが聞こえたように麻衣が顔だけで笑った。

「お姉ちゃん!」

 うれしくなって、麻衣のあとを追って走り出した。雅子と田崎夫妻は目を閉じて神主の祝詞に集中している。誰も悠に注意を向けていなかった。

 雑草がはびこるレンガの歩道は、何箇所か枝分かれしていた。東屋への道、滝へ出る道、今は干上がっているが、魚が泳いでいる池へ通じる道などがある。庭が完成した当時は、親の目を盗んで、レンガ道ではない植え込みの中に入り込んで、勝手に秘密の小道を作って遊んだりした。でも今は、悠の背丈を越える低木が密集していて入っていけない。しかし、白い影のような麻衣は何の抵抗もなく、溶け込むように低木の中に入って行った。悠も思い切って茂みの中に頭から突っ込んで行った。前をふさいでいる枝を払いながら麻衣のあとを追った。

「お姉ちゃん。まってよ」

 ずんずん先を行く麻衣に呼びかけた。麻衣が立ち止まって悠が追いつくのを待った。悠が横に並ぶと、フェンスの向こうの景色を見るように無言で促した。なんだろうと思って枝の隙間から首を伸ばした悠は、眼下に広がる街の景色に首をかしげた。

 めずらしくもない景色だ。しかし、見ているうちに別の景色が街の上にかぶさり、二重写しのようになった。驚いて見ていると、カメラのレンズのピントが合うように、一つの場面に集約されていった。

 悠が見ている景色は、戸建ての二階家だった。カーポートがあって塀の周りに花壇がある庭で、悠と同じくらいの年齢の少女が、ジョーロで花壇に水をまいていた。

 はかなげな少女は、細い肩を震わせて泣いていた。背中まで伸びた、すこし赤みがかっている栗色の髪のせいで、少女はよけいに色白にみえた。ジョーロの水がなくなると、カーポートの横の水道から水を汲み、また花壇に水をまき始めた。

「あれは……耀子ちゃんだ」

 呟くと、麻衣がうれしそうににっこりした。

「どして耀子ちゃんは、あんなところにいるの。あそこは、どこなの」

 理由を知りたくて、悠は麻衣に振り向いた。

「悠。悠、どこなの!」

 雅子の大声が悠をはっとさせた。悠は枝を掻き分けてレンガの歩道に戻った。雅子が駆け寄ってきて、きつく悠を抱きしめた。

「お母さんのそばを離れちゃだめでしょ」

 血相を変えて叱る雅子に、悠は、「お母さん、あそこに」と、藪になっている植え込みを指差して、耀子のことを教えようとした。祭祀は終了したらしく神主の姿はなく、田崎夫妻が歩み寄ってきた。

「雅子さんたら、悠ちゃんはお庭にいるんですもの、どこにも行くわけないじゃありませんか。ねえ、悠ちゃん」

 百合子が笑いながら悠の頭を撫でようと手を伸ばしてきたので、雅子は自分の体に悠を引き寄せて百合子の手が触れないようにした。あからさまな態度だったので、悠は少し驚いて母親を見上げた。百合子は気にするふうではなかったが、百合子の様子がおかしいことは悠も感じていた。修三が一歩前に出て雅子に向き合った。

「下に食事の用意ができていますからどうぞ。百合子、雅子さんをお連れして。僕はお供え物を片づけてから下に降りるから」

 修三が控えめにそういった。百合子を気づかっているようにも、雅子の取り乱したようすをいたわっているようにも見えた。しかし雅子は、食事を辞退して、逃げるように屋上をあとにした。

 雅子に強く手を握られてエレベーターに乗った悠は、スラックスのポケットにもう片方の手を入れて、スチールの鍵を握り締めた。二年前、雨の夜に雅子が落とした屋上庭園の鍵だった。かえそうと思って持って来たのだった。

「あのね。お母さん」

 悠は庭で麻衣に会ったことを話そうとして雅子を見上げた。

「なに」

 雅子は怒ったようにエレベーターのドアを睨みつけていた。

「あのね。手が、痛いよ」

 何があってもこの手を離さないというように、強く握り締めていたことに気がついて雅子は手を緩めた。

「ごめん悠。ここには、もう二度と来ないからね。こんな嫌なところ、二度と来ないから」

 何かを無理やり飲み込むように雅子がいった。悠は、ポケットの中の鍵を握り締めた。

 お姉ちゃんがいたよといったら、お母さんはどんな顔をするだろう。耀子ちゃんも見たよといったら怒るだろうか。

 悠は黙って小さな胸に収めておくことにした。これは、ぼくの秘密。そして、ずっとまえの嵐の夜のお母さんことも秘密だ、とおもった。

 耀子をみたことはしだいに忘れていったが、屋上庭園の鍵は結局悠の手元で長い年月を過ごすことになる。



「拾子。いつまでお花に水をやってるの。お使いに行ってきなさい」

 塩田千賀子が縁側の網戸越しに拾子しゅうこを怒鳴った。拾子は、はっとして我に返った。ジョーロで水をまきながら、ぼうっとしていた。一瞬だったが意識を失っていたのかもしれない。誰かに見られているような気がして振り向いたが誰もいなかった。

 ああ、また夢を見ていたのだとおもった。無意識に左のこめかみの傷を撫でていた。三センチほどの傷だ。山で転落したときにできた傷だった。幻覚のようなものを見たり、目を覚ましているのに白昼夢を見たりするのは、この頭の怪我が原因なのだろうか。塩田に連れられて脳神経外科で見てもらったが脳に損傷はないといわれた。心理的なものだろうということだったが、拾子には一年前から遡っての記憶がなかった。

 塩田が山で拾ってきた子供だから拾子と千賀子に名前をつけられて、塩田家で暮らすようになって一年が過ぎた。養護施設にあずけるように千賀子に強く言われて、塩田もいったんはそうしようと思い施設に連れて行ったものの、拾子が泣いて塩田の服を掴んで離さないので、仕方なく自宅につれて帰った。当然我慢できないのは千賀子であり、塩田は拝み倒して拾子の養育里親になることを承諾させた。養育里親になれば公費から生活費、教育費、医療費が支給されるし里親手当も支給される。状況によっては所得税法上の扶養控除が受けられる場合もある。

 拾子の年齢がわからなかったので、学力テストを受けさせてみたら、小学二年生で習う漢字や算数ができたので、二年生のクラスに入れられて現在は三年生だ。

 捨て子の里親になって、きのどくな子供を育てていると近所に自慢して吹聴してまわっている千賀子の行いはほめられたものではなかったが、それで千賀子の虚栄心が満たされるならと塩田は見ないふりをした。しかし、近所でも学校でも肩身の狭い思いをしている拾子にしてみれば辛いことだった。

 自分のほんとうの名前も知らなければ、どこに住んでいたのかもわからない。拾子と呼ばれるたびに、自分は親から捨てられた子供なのだと悲しくなった。千賀子の意地悪や、留美の嫌がらせも、しかたがないことと諦めた。でも真美は拾子には優しかった。千賀子や留美のいないところで、こっそり髪飾りをくれたり、のけ者扱いされて食べさせてもらえなかったケーキを取っておいてくれたりした。千賀子や留美がいるところでは拾子に冷たくしたが、それは真美なりの処世術だと子供心にわかっていた。

 ジョーロを物置に置いてから、拾子は千賀子から買い物のメモ書きと財布とトートバックを持たされてスーパーに向かった。八月の午後は、アスファルトを焼き、陽炎が揺らいでいた。住宅が並んでいる道を、拾子はうなだれながら歩いた。向こうから、小学校のプールを終えて帰ってきた小学生の一団がやってきた。拾子のクラスの子供たちだった。拾子は急いで路地を曲がって身を隠した。子供たちは真っ黒に日に焼けてふざけながら遠ざかって行った。

 拾子はスーパーに向かって歩き出した。買い物のメモの多さを見ると、帰りのバッグが重くなりそうでため息がもれた。帰れば風呂の掃除がまっている。でも、それを終えてしまえば、夕飯までは少し時間があるから夏休みの宿題をやれる。拾子は滴る汗を肩でぬぐって足を速めた。




◆◆◆◆母の確信◆◆◆◆


「修三さん。ほら、見て」

 外から帰ってきた百合子が、流れる汗を拭いもせずに手にぶら下げたものを修三にみせた。ソファで新聞を読んでいた修三は、百合子が見せようとしていたものには目もくれず、キッチンに飛んで行って冷たい水に氷を入れ、新しいタオルを出して百合子のところに戻ってきた。

「こんな暑い時間にどこまで行っていたんだ」

 タオルで百合子の顔の汗を拭いながらコップを差し出すが、百合子はうるさそうに水を押しやって、指にかけた透明なビニール袋を目の高さにかかげて見せた。水が入っているビニール袋に、赤い金魚が二匹、涼しげに泳いでいた。

「耀子ちゃんにお土産よ。喜ぶわよ、あの子。かわいいでしょ」

「金魚鉢はどうするんだ」

「そのコップでいいわよ」

 氷の入ったコップに金魚を入れようとするので慌てて止めた。

「だめだよ。百合子。水道水を一晩置いて塩素を飛ばしてからでないと、金魚が死んでしまうよ」

「まあ、そうなの」

「かしてごらん。ひとまずサラダボールにでも移しておこう」

 キッチンからガラスの器をとってきて金魚を移した。

「耀子ちゃんのお部屋へ持って行くわね」

 金魚が泳ぐガラスの器を持って耀子の部屋に向かう百合子のあとを、修三もついていった。耀子の部屋に入って、修三は軽く目を見張った。娘の部屋が色とりどりの物であふれていた。消息をたった当時は八歳だったが、五年たてば十三歳になってる。耀子の部屋は修三が知らないうちに百合子の手によって様変わりしていた。

「いつの間に中学の制服を注文したんだ」

 壁にかかっている中学の制服に触れながら修三は百合子を振り返った。

「いやだわ。三月に決まっているでしょ。耀子ちゃんがいつ帰ってきてもいいように、準備しておいたのよ。お洋服だって、ほら、下着だって、みんな揃っているわ」

 金魚を学習机の上に置いから、百合子は窓のそばの箪笥の引き出しを開けて見せた。

ジュニア用の女の子の下着がきれいにたたんでしまわれていた。

「中学生になったのよね。どんな女の子に成長しているかしら。会いたいわ。耀子ちゃん」

 そっと下着を撫でながら百合子がつぶやいたとき、修三の携帯電話がなった。仕事関係の電話だろうと思って耳に当てたら警察からだった。

「はい。田崎修三は私です。わかりました。これから伺います。ええ。家内は置いて行きます」

 電話をきった修三の顔つきが強張っていた。百合子は箪笥の引き出しを乱暴に閉めた。

「警察なのね。耀子ちゃんが見つかったの? わたしも行きます」

「いや。そうじゃないんだ。身元不明の女性が保護されたと連絡が来ただけなんだ。僕が一人で行ってくるよ」

 まさか身元不明の溺死体だとはいえなかった。警察も溺死体は遺体の損傷が激しいので、奥さんは来ないほうがいいでしょうと言ってくれたくらいだ。百合子は連れて行けなかった。しかし表情が一変した百合子は、すでに玄関に向かって走っていた。

「百合子」

 修三は車のキーと財布を掴むと急いで百合子を追いかけた。警察に向かって車を走らせながら、修三の心は乱れていた。二年前にも同じように警察から電話がかかってきて二人

で警察に駆けつけた。

 耀子だったらどうしようという恐怖にさいなまれながら、二人でしがみつきあうように遺体安置室に入って行ったものだ。耀子ではなったときの安堵感と虚脱感。百合子は耐えられるだろうか。こんどで二度目になる試練に、百合子の精神は折れてしまうのではないだろうか。隣に座って前方を見つめている妻の横顔を、修三は怖いものを見るように盗み見た。

 警察に着いて、係官に案内されて遺体安置室に向かった。年配の係官は、震えている百合子に目をとめてから、修三に向かって首を横に振ってみせた。遺体は見せるなという意味だった。

「百合子。ここで待っていなさい。僕が行ってくるから」

「奥さん。そうしなさい。ご主人に任せたほうがいいですよ」

「いいえ。いいえ!」

 係官が言ってくれたが、百合子は頑なだった。自分の目で確かめなければ、どうにも納得できないのだろう。修三は諦めて係官に小さく頷いた。

 修三は百合子を支えるようにして安置室に入った。身長が150センチほどの遺体が目に飛び込んできて修三は思わず顔を背けた。あまりにひどい姿だった。とても正視できるものではなかった。異臭も放っていた。それなのに百合子は瞬きもせずに食い入るように遺体を観察していた。

「修三さん。中学一年生の女の子の平均身長は151.8センチなんですって。このご遺体は何センチですか」

 遺体に顔を向けたまま、百合子はそばで控えていた係官に尋ねた。

「145センチです。血液型はO型。歯の治療痕はなし。年齢は八歳から十五歳の間。死因は腐敗が激しいために不確定。田崎さんから失踪届けが出ているので確認のためお知らせしましたが……」

「耀子ちゃんもこんなに大きくなっているのだわ。お家にあるお洋服のサイズでは小さいわ。わたしったら母親なのに、娘の服のサイズもわかっていなかったなんて。お洋服を買い替えなくては」

「百合子。なにを言っているんだ」

「修三さん。耀子ちゃんは生きているわ。この人は耀子ちゃんではありません。耀子は生きているのよ」

 異様に黒目を光らせて、百合子はほっとしたように唇に笑みを浮かべた。

「どうして娘さんじゃないとわかるんですか。具体的に教えてほしいんですがね」

 係官がバインダーのファイルにボールペンの先を当てながら訊ねた。

「わたしにはわかります。だって、母親ですもの」

 確乎として言い切った百合子に、修三と係官は顔を見合わせた。修三には娘であるのか、他人であるのか、まったく確信が持てなかった。それほど遺体は損傷していたし、当時八歳だった耀子の姿に、十三歳に成長した耀子の姿を重ねるは難しかった。

 修三は係官に首を横に振って見せた。それだけで係官は了承してくれた。修三のDNA細胞を採取して、二人は帰途についた。遺体のDNAと照合して、後日結果を知らせてくれるということだった。

 マンションへ向かう車のなかで、百合子は無言を通していた。放心したように前方を見ていた。顔色は青ざめ、膝の上で組んだ指がふるえ続けていた。その夜、百合子は、睡眠導入剤の力を借りて眠った。

 修三は、眠れぬまま耀子の部屋で時を過ごした。百合子が整えた十三歳になるの耀子の部屋は、失踪したときの幼さの上に、無理やり五年間の歳月をかぶせたような不自然さだった。

 修三は腹の中に湧き上がってくる苦い感情を持て余した。いっそのこと、耀子の遺体が発見されればいいとおもった。そうすれば、どっちつかずの苦しみから解放されて、自分も百合子も、心から耀子の死を悲しんで、区切りをつけることができる。そう思う一方で、ほんとうに耀子の遺体を見せられたらと思うと身震いした。恐ろしかった。今日見た溺死体の腐乱死体が甦る。あんな姿で耀子が発見されたら、正気でいられるだろうか。楽になりたくて、一瞬でも耀子の死を願った自分に、修三は自分の弱さを知ったおもいだった。

 一ヵ月後、警察から電話があって、DNAの鑑定結果は、耀子ではないと判明したのだった。




◆◆◆◆友人の提案◆◆◆◆


 二十七階にあるホテルのバーに行くと、すでに友人達はテーブルで歓談していた。静かな音楽と会話が奏でるざわめきが心地よくて、修三はこのバーを気に入っていた。広いガラス窓の向こうには晩秋の街のネオンがきらめいている。二ヶ月に一度ぐらいの割合で、大学時代の気が置けない友人たちと会う機会を設けていた。学生時代を懐かしんでの交友というより、それぞれ違う業種の職場で活躍している友人達と交わることで、いい刺激を受けたり情報を得たりすることができるので、修三はこの集まりを楽しみにしていた。しかし、耀子のことがあってからは、欠席することが多くなっていた。学生時代から特に親しかった小島が、わざわざ電話してきて「たまには出て来い」というのでやってきたが、来ればやはり心が弾んだ。

 奥のコーナーのソファに集まっていたのは六人で、彼らは笑顔で修三を迎えた。みんな耀子のことを知っている親しい連中だった。知っていて、よけいなことや、でしゃばったことを言わないやさしさがあった。

 修三はステンカラーコートを脱いでソファのはしに置くと、笑顔になって友人達を見回した。みんな中年太りがはじまっているのか、顔が丸くなっているのがおかしかった。

 IT関係の会社を学生時代に立ち上げて忙しくしている山本という男が、修三に酒を進めながら、今度子供が生まれるといって笑うので、周りから祝福とひやかしがあがった。修三も笑いながら、「四十一歳のときの子供か」というと、「俺は一年浪人しているから、田崎より一つ上の四十二だ」と言った。

「四十二といえば本厄だな。厄年の子供は厄を払ってくれて、いい子が生まれるというから、楽しみだな」

 修三がそういうと、山本はうれしそうに笑った。話題は子供の話しになり、家庭の話しになり、友人達の噂話になったり仕事の話になったりした。世間一般の中年の世間話だったが、友人達の愚痴やからかいに、久しぶりに笑い声を上げた。修三の事情を知った上で、ごく普通に接してくれるのがうれしかった。

 一時間ほど飲んで山本たちは帰っていったが、修三を誘った小島が、もう少し飲もうというので残ることにした。二人だけになると小島は場所をカウンターに替えた。ウイスキーのオンザロックのグラスを揺らしながら、はじめて心配そうに修三の顔を見た。

「だいじょうぶなのか」

「なんとか」

 修三は口元に笑みをうかべて返事をかえした。

「無理をすることはない。俺とおまえだけだ」

「うん」

 小島は出版関係の編集の仕事をしていた。今日集まった友人達の中では痩せているほうで、文人らしい長髪と洒落たファッションが小島を年齢不詳の男に見せていた。眼光は鋭いが、小島のやさしさを修三はよく知っていた。

「手掛かりはぜんぜんないのか」

「ふしぎなことにまったくだ。失踪人を探すプロにも頼んだがだめだった」

「インターネットは危険だしな」と小島は、グラスの酒で唇をしめらせた。

「そうなんだ。うっかりネットに情報を流したら大変なことになって収集がつかなくなる」

「奥さんはどうしている」

「百合子は……」

 口ごもってしまった修三に、小島は「飲めよ」と酒をすすめた。グラスの中で動く氷が、悲しいほど澄んだ音色を奏でた。

「ビラを配ってみたらどうだ」

 小島がいった。

「なに?」

「シンプルな方法だが、世間に耀子ちゃんの記憶を埋もれさせないために配るんだ。五年前に行方不明になった子供を捜していると人々に訴えるんだ。子供を探している親がいることを知ってもらうんだよ」

 修三は返事をしなかった。やれることは全部やった。捜索願いをだしているから、今でも身元確認のために警察に足を運んでいるのだ。これ以上、なにをどうすればいいというのだ。

「ビラだと!」

 ふざけるな、といってやりたかった。小島が身を寄せてきた。

「印刷屋に頼んでもたいした金額じゃないよ。この街の駅を、最寄り駅から順番に配っていくんだ。この町が終わったら、隣の町だ。この県が終われば、さらに遠くの県まで配るんだ。諦めずに、日本中に配って耀子ちゃんの手掛かりを探すんだ。俺が印刷屋に安くするように掛け合ってやるよ」

「金なんか、どうでもいいよ。そのくらいの金ならあるよ。だけど、そんなことをしたって」

「奥さんのためだよ」

「えっ」

 小島はきつい目付きで修三の目の中を覗きこんだ。

「耀子ちゃんのために活動していることが、もしかしたら、奥さんの心を安定させるかもしれないだろ」

「どういうことだ」

「何もせず、じっとしていることが、どんなに辛いことか、おまえだってわかるだろ。おまえには仕事があるから、家を出て会社に行って仕事に集中してしまえば忘れられるが、家にいる奥さんはそうではない。いつも頭のどこかにこびりついていて、気持ちが休まるときがないんだ。奥さんに話してみろよ。ビラくばりなんか嫌だっていえばそれでいいし、やるといったら、配りきれないほどのビラを印刷して、奥さんに仕事のかわりに配らせればいいんだ。少しは気が晴れるし、希望につながるかもしれない」

 悪い考えではないとおもった。精神安定剤無しでは過ごせなくなってしまった百合子を思い浮かべながら酒を口に含んだ。こんどは酒の味がした。久しぶりにうまいとおもった。またグラスの中で氷が鳴った。涼やかで可憐な音だった。

「ありがとう小島。百合子に話してみるよ」

 礼をいうと、きつかった小島の目がやわらかくほぐれた。

 帰宅した修三から話をきいた百合子は、大きく頷いた。さっそくビラを大量に注文して、百合子のビラ配りがはじまった。修三も仕事が休みの日は百合子とともに駅前に立った。行方不明になった当時の八歳の写真の横に、十三歳に成長したらこのような顔つきになっているだろうと予想される顔をプロに製作してもらってコンピューター処理した画像を並べた。

 夫婦の地道な努力は配る範囲を広げていき、ビラを配り続けて、いつしか五年の歳月が流れていた。




◆◆◆◆空港◆◆◆◆


 百合子と修三は今日もビラ配りのしたくをしていた。新しく刷り上ったビラには、失踪した当時の耀子の写真の横に、十八歳になった耀子の予想画をコンピューター処理した画像が印刷されていた。

 十八歳の耀子は、百合子にも修三にも似ているように見えた。修三の髪は銀髪になり、そのせいか四十八歳にしてはふけてみえた。品の良い面立ちに疲れと苦悩が滲んでいた。同い年の百合子は、修三よりもさらに老いてみえた。髪は染めているし化粧も丁寧にしているが、目がくぼんで頬骨がでた容貌には、若かったころのふっくらとした美貌が消え、骨ばった手でビラをわたそうとすると、ぎょっとしたように人が避けてしまうのが痛々しかった。しかし百合子は、そんなことには頓着せず、痩せた体のどこに体力があるのかと思うほど熱心にビラ配りに励んでいた。

 小島に勧められてビラを配り始めてから五年。よく五年も気力が持続するものだと思いながら、百合子が、もう諦めたと言わないかぎり、修三はこの単調で空しい作業を続けるつもりだった。百合子が力尽きて耀子を取り戻すことを諦めたときが、修三の気持ちも終結するときだった。今では、耀子への愛情というより、百合子への愛惜のほうが強かった。生きているのか死んでいるのかわからない耀子より、大切な百合子を守ること。今の修三にはそれしかなかった。

「百合子。ビラは車に積んだよ。出かける用意はできたかい」

「修三さんは行かなくてもいいのよ。わたしは一人でも慣れているから大丈夫。たまにはお休みの日ぐらい、家でゆっくりしてちょうだい。修三さんが過労で倒れてしまったら大変ですもの」

 使い込んだデイパックを背負いながら百合子は玄関に向かった。修三もショルダーバッグを肩に掛けて後に続く。

「きみこそ家でゆっくりすればいいのに」

「きょうはね、空港に行ってみるつもりなの。新幹線の駅前は配ったけど、空港には行っていないことに気がついたのよ。ばかだったわ。空港なら、もっと遠くまで範囲が広がるのに、近くばかりに目が行ってしまって」

「空港で配るなら、許可はとったのか」

 靴を履きながら修三は訊ねた。

「ええ。ターミナル内はだめだけど、バス発着所だったらいいって言ってくださったわ。でも、配る人の人数とビラの内容を聞かれたうえで、時間は二時間までですって。現地の警察のほうにも連絡してありますからだいじょうぶよ。修三さんが行ってくださるなら助かるわ。いつもの二倍は配れるから」

 手際のよさが、百合子がこの作業にすっかり慣れていることをうかがわせた。修三の運転で空港まで二時間の距離だった。昼食を済ませてから家を出てきたので、目的地のバス乗り場に着いたのは午後の三時近かった。

 地方の国際空港なので土地に余裕があり、空港のまわりにはゴルフ場が点在していて緑が豊かだ。住宅も増えてきているが、住宅が密集しているのは空港の西側の一角だけで、田舎らしい風景の平坦な土地が広がっている。車から降りたら晩秋の風が冷たく感じられた。

「百合子、コートは持ってきたか」

「ええ。もう十一月ですもの。薄手のコートを持ってきたわ。修三さんは?」

「僕はジャケットがあるから平気だよ」

 駐車場に車を置いて、チラシが入っている紙袋を持って、二人はターミナル本館前のバス発着所に向かった。キャリーケースを引いた空港利用者がおおぜい歩いていた。二人はさっそくビラを配り始めた。旅の疲れもあってか、ほとんどの人が素通りして行った。

 百合子が、「娘を探しています。お願いします。娘をさがしています」と言って、行き交う人々の体の前にビラをもっていくのだが、無視されるのはいいほうで、なかには邪険に手を跳ねのける人もいた。はらはらしながら百合子を見ていた修三は、大柄な男に乱暴に押しやられて尻餅をついた百合子に駆け寄った。

「だいじょうぶか。百合子」

「へいきよ。こんなのには慣れているもの」

 百合子は修三の手をうるさそうにどけて立ち上がった。

「拾子! ぐずぐずしないで早く来なさい」

 うしろのほうで、神経質そうな女の怒鳴り声がした。自分の娘をあんなに意地悪そうに呼ぶ母親もいるのだなと思いながら、百合子はビラ配りを続けた。修三も百合子のそばで、「娘を探しています」といいながら配り続けた。



 ビラを配っている中年女性を突き飛ばした男を、拾子しゅうこは睨みつけた。なにも突き飛ばすことはないとおもった。痩せて思いつめた表情の女性は、娘を探しているといっていた。助け起こした男性は夫なのだろう。妻おもいの優しそうな男性だった。夫婦で娘さんを探しているのかと、つかのま足を止ていた。

「拾子! ぐずぐずしないで早く来なさい」

 千賀子に呼ばれて、慌ててあとを追った。千賀子と留美はすでにリムジンバスに乗り込んでおり、真美がリムジンバスのまえで拾子が追いつくのを待っていた。真美と拾子が乗り込むとリムジンバスは走り出した。

 真美の隣の座席に落ち着いて、拾子はぐったりと目を閉じた。後ろの席の留美も無言で目を閉じている。留美の隣の千賀子は、頭痛がするのか苦しそうに顔を歪めていた。無理もなかった。

 塩田健一が中国に赴任したのが二年前だった。任期は三年ということで日中合同開発事業の系列会社に出向したのだが、あと一年で日本に帰ってこられると家族が喜んでいたやさきの訃報だった。

 黒竜江省のほうに社用で出かけていた塩田は、完成したばかりの橋を車で渡っていた。前日に大雨が降ったせいで、かなり水かさが増していて、水は橋脚を超え、橋の本体の一部を濁流が濡らしていた。

 塩田は水かさが気になったが、運転している中国人社員はそのまま走行して行った。水かさは引くどころかますます増水し、ちょうど車が橋の中ほどにかかったあたりで車体が濁流にのみこまれてしまった。後続の車も同じように大河に流されて行った。あっというまの出来事だった。

 塩田と同じ車に同乗していた日中合同会社の中国人社員二名と運転していた中国人社員一名も命を失った。助かったものはいなかった。

 会社から連絡を受けた千賀子は、受話器を握り締めてへたり込んでしまった。居合わせた拾子が電話をかわってメモを取り、いったん電話をきって、大学に行っている留美と真美に連絡をした。駆けつけた娘達は千賀子を取り囲んで、なにがなんだかわからずに泣き出した。

 事態を取り仕切ったのは拾子だった。拾子も、頼りにしていた塩田の死に大きく動揺していたが、千賀子は泣くばかりだし、留美と真美もうろたえるばかりで相談にならなかった。

 本社の総務の社員とともに、拾子も含めた塩田の家族は、中国の黒竜江省に塩田を迎えに行き、今、帰国したばかりだった。これからリムジンバスでJRの駅までいって、新幹線で帰宅する。塩田の遺体は総務部の社員が自宅まで搬送してくれることになっていた。自宅に着いたら、一休みする暇もなく葬儀の準備が待っている。

 拾子はバスのなかで目をとじて、ささくれた神経が静まってくれるのを待った。これからこの一家はどうなってしまうのだろう。塩田を失って、どうやって生活して行くのだろう。留美と真美は来春大学と短大を卒業して就職することになっているから、拾子が心配することはないのかもしれないが、わたしはどうなるのだろうとおもった。

 進学させてもらえるのだろうか。そこまで考えて、拾子のとじた瞼から涙が溢れ出した。心の中で「おとうさん」と、塩田を呼んでいた。

 拾子には八歳までの記憶が無かった。山奥の渓流に釣りに来ていた塩田が、泥まみれになって山の中に倒れている拾子を見つけて連れ帰ってくれた。塩田が山から拾ってきた子だから「拾子」と千賀子に名前をつけられて育てられ、十年になる。

 千賀子は優しくなかったが、塩田は優しかった。自分の実の娘の留美や真美よりも、記憶を失って心もとない拾子を気づかってくれた。塩田がいなかったら耐えられなかっただろう。支えにしていた塩田を失って、はじめて拾子は悲しみに飲みこまれた。

 塩田がかわいそうだった。二年も家族のもとを離れて異国の地で仕事をし、事故で命を落とした。遺体が川岸にあがったから日本につれて帰れたが、そうでなかったら、塩田は

異国の大河を果てしなく流れていったのかもしれない。運がよかったと、本社の総務の係長はいっていたが、なにが運がいいのか、拾子にはわからなかった。川に飲み込まれても、なんとか川岸に泳ぎつくことができてはじめて、運がよかったといえるのだとおもった。

 悔しさがこみ上げてきた。あんなにやさしかったひとが、あんなに真面目で家族おもいだった人が、なぜ死ななければならなかったのか。わたしがどんなにおとうさんを必要としていたか。悔しくてたまらない。

 飛行機から下ろされた遺体は専用車で自宅に向かっている。家に着いたら、眠っている塩田を揺さぶって、起きてと叫んでやろうとおもった。おとうさんが、わたしを山から拾ってきたのだから、最後までわたしのめんどうをみてといってやりたかった。

 リムジンバスの中で、拾子は泣きながら強い睡魔に襲われた。ほとんど眠っていないし、神経が疲れることの連続だったので、その激しい睡魔は魔力のようだった。

 頭の芯がしびれるような睡魔の隙間で、ああ、またこの感覚だとおもった。繰り返し見る夢の前兆だった。じきに、森が見えてくるはずだ。緑濃い樹の匂いとむせ返る土の匂い。明るいのに、もやがかかったように樹間が霞んで見える。鳥のさえずりもなければ風も吹かない。動いているのか、止まっているのかわからない時間の狭間。足元の虫さえ息を潜めているようだ。

 わたしはいつも、この森の中をさまよう。森の中なのに、化粧レンガの細い道が続いたり、擬岩石でつくった滝があったりする。でも滝の水は涸れ、池に水はなく枯葉が溜まっているばかり。夢の中だということがわかっているので、不自然なところがあってもなんともおもわない。だから、この先に東屋があることを知っている。わたしは、この東屋が好きで、東屋の中のベンチに腰をおろして、トロトロとした時間を過ごす。目が覚めるまで、何時間でも……。ほら、東屋の屋根が見えてきた……。

 拾子は視界を邪魔している枝を持ち上げてぎょっとした。いつもの東屋のベンチに、端正な若者が横顔を見せて座っていた。組んだ膝の上に本を広げて熱心に読んでいる。美しい黒髪が若者の額にかかり、うなじの白さが、はっとするほど清潔だった。

「あなたは、だれ」

 夢の中で声をかけたとき、乱暴に肩を揺すぶられた。

「拾子。起きなさい。駅に着いたわよ」

 千賀子が手荷物を重そうに持ちながら拾子を揺り起こして、リムジンバスの出口に向かうところだった。目が覚める一瞬、夢の中の若者が振り向いた。目が合ったとおもった。澄んだ美しい目をしていた。拾子は胸を押さえた。心臓がどきどきしていた。

「拾子ちゃん。行こう」

 真美に声をかけられて、拾子もバスのステップを下りた。



「悠。本が落ちたぞ。寝てたのか」

 寺島守に声をかけられて吉井悠よしいゆうははっとした。椅子に座って膝に乗せていたテキストが足元に落ちていた。拾いながら苦笑した。

「一瞬、意識が飛んでいたみたいだ」

「またいつもの夢か」

「まあな」

 県立図書館の自習室で、期末テストの勉強をしていたのだが、いつのまにか眠っていたようだ。寺島に声をかけられて目が覚めるなんて、我ながらみっともないとおもった。

「おまえさ、いちど心療内科を受診してみろよ。おれ、ついて行ってやるよ」

 横に座っている寺島が身を寄せてきて、声をひそめながらそういった。悠は本気で笑いだした。

「よせよ。おまえはぼくの母親かよ」

「しっ。大きな声を出すなよ。自習室なんだから」

「あ。うん」

 悠は口元を押さえて肩をすくめた。寺島は野球部のキャプテンをしていて、出ると負けだった県立高校を甲子園に連れて行った学校のスターだった。もっとも、甲子園では一回戦で負けてしまったが、スターであることにかわりはない。面倒見のよい寺島は、ときどき悠を子ども扱いした。

「でも悠。おまえはいまだに高いところはだめだし、突然夢を見たりするんだろ。いまだって、おまえ、目をあけていたんだぞ」

「目をあけていた」

「声をかけても返事をしないし、そのくせ、何かに気をとられているみたいにボーとしてた。白昼夢ってやつだろ」

「そうみたいだな。夢の中で、きれいな女の子と会っていたんだ」

「おれにも紹介しろよ。その白昼夢の美女ってのにさ」

「ああ。そのうちな」

 悠は参考資料をまとめると椅子から立ち上がった。寺島は椅子にかけたまま、そんな悠をつかの間見つめた。

「なんだよ。そんなに見るなよ。気持ち悪いな」

「おまえ。やっぱり変だぞ。自分でもそうおもわないのか」

 静かな自習室にかすかなざわめきが起きた。静寂を邪魔された利用者達が、非常識者をとがめるようにこちらを見ていた。

「行こう寺島。外で話そう」

「おう。そうだな」

 図書館の自動ドアから外に出ると、急に冷たい風が襟元に入ってきた。

「十一月もあと三日で終わりだな。すぐ十二月だ。悠は決めたのか。進路」

 寺島が、ジャンパーの襟のファスナーを首まで上げて、駐輪場に止めてあった自転車に跨った。悠も隣に停めておいた自転車に乗る。二人の家は近所だった。

「まだ高二じゃないか。進路なんて、高三になってからでいいよ」と悠が笑うと、寺島は呆れた顔をした。

「のんきだな。三年になったら、進む進路で選択科目が違ってくるんだぞ」

「寺島はどうするんだ。大学へ行くのか。それとも就職するのか」

「どうするかなあ。就職するなら専門学校が有利だしな。悠はどうするんだ」

「ぼくは、家業を継ぐことになるだろうな。おじいちゃんは年だし、お母さんだって、いつまでも若くないしさ。そうなると大学は造園学科だな」

「そうか。造園学科のある大学となると、県外になるな」

「うん。仕送りしてもらえるか心配だ」

「仕送りが心配なんじゃなくて、おふくろさんが家から出してくれるかどうか心配なんだろ」

 悠は返事をする代わりに自転車のペダルを強くこいだ。すぐ寺島もあとに続く。広い二車線の車道を、悠が前、寺島が後になって走った。車の交通量は多いが道幅が広いので自転車で走っても危ないことはない。外食のチェーン店やファミレス、大型書店やコンビニなどが低層ビルの隙間に点在していて、交差点を曲がって住宅が密集している道に入る頃には日が沈みかけていた。

 塀をまわした戸建ての家が並んでいる道の途中で、寺島は手を振って曲がって行った。悠の家は塀は無く、道のふちからさまざまな種類の樹木が間隔をあけて植わっていて、人の背丈ほどの大きさから漬物石の大きさまでの庭石がごろごろ置かれていた。コンクリートで舗装したアプローチを入って行くと、築百年の平屋が威風堂々と迎えてくれた。

 裏には事務棟と倉庫があって、倉庫には建築資材や園芸関係の資材が山積になっていた。倉庫の中には小型トラックや大型トラック、伐採した枝を運ぶ塵芥収集車のほかにカーゴクレーン車も収納されている。倉庫の横には家族が使っている車を入れる車庫もあって、悠は乗ってきた自転車を車庫に入れてから家に入った。

 木製の格子戸を開けると広い土間になっていて、上がりかまちの檜廊下には、いつの時代のものかわからない古びた墨絵の衝立が置かれている。玄関を飾ってるのはみごとな松の盆栽で、この盆栽を祖父の赤木貞三は、二千万円出されても売らないといっていた。だから家業が傾いても、この盆栽を売ってしまえば自分の大学の学費ぐらいは捻出できると、悠はちゃっかりふんでいた。それに、墨か汚れかわからない年代物の衝立の絵も、落款と作者名をデジタルカメラで撮って、高校の美術教師に見せたら目の色がかわって、一度ぜひ友人の美術史家と訪問するので見せてくれないかといわれた。古いものには値がつくのかと、悠は単純に感心したが、悠自身は古いものに興味は無かった。

 家屋の外側は古めかしくても、屋敷の台所にはシステムキッチンが入っているし、家族がくつろぐ茶の間にはソファセットも置かれている。大型テレビもエアコンもあるし、風呂場もユニットバスという具合に暮らしやすくなっていた。茶の間から台所へ入って行くといい匂いがした。雅子が夕飯の支度をしていた。

「ただいま。今日は早く仕事が終わったんだね」

 テーブルの上の揚げたての海老のてんぷらをつまみ食いしながらいうと、雅子が包丁を使う手を止めずに振り向いた。

「おじいちゃんをよんできてちょうだい。倉庫にいるはずよ」

「いなかったよ」

「そう。じゃあ、まだ事務所かしら。そろそろご飯だから見てきて」

「うん」

 関東圏内で育つ樹木を整然と植えつけて育成している圃場ほばをぬけて事務棟に向かった。日は落ち、圃場は暗くなっている。とことどころに防犯用のライトはつけているが、それでも足元は暗い。悠は馴れた小道をたどりながら、雅子には言えなかった白昼夢を反芻していた。

 いつも見る森の中だった。森だと思っていた。夢だから、細かいことはぼやけているし、記憶もあやふやで確かなことはわからない。でも、子供の頃から馴染んだ夢だった。夢の中で、子供だった悠はいつも姉の麻衣を探していた。麻衣は気まぐれで、たまに姿を現すときもあったが、現れないときのほうが多かった。

 一度、雅子にその話をしたら、雅子の顔色が変わったので、いけないことだったのだと思っていわなくなった。それからは、夢は悠の秘密になった。

 中学あたりになると、森の夢をみる頻度は多くなったが、それに反して麻衣が夢の中に現れる頻度は減っていった。高校生になってからは一度も見ていなかった。麻衣の心が悠から離れたせいなのか、あるいは大人になっていく自分の心が、姉よりも日々の生活に向かっていったせいなのかはわからないが、相変わらず森の夢は見るので、いまだに自分はあの屋上庭園に縛られているのだ思った。

 それだけに図書館の自習室で見た夢は衝撃だった。夢に出てくるなら姉であるはずなのに、初めてみる人だった。儚げな顔立ちはおとなしくて目立たないが、目が合ったときの強い眼差しが印象的だった。姉以外の人が夢に出てきた。あの人は誰だろう。どうして夢に出てきたのだろう。ぼくとなにか関係がある人なのだろうか。夢を介して夢の中で出会うなんて、そんなことがあるのだろうか。まさか、実在の人物なのか。驚いて危うく声を上げそうになったとき目が覚めた。寺島に起こされていた。

 白昼夢。

 悠は首にぶら下げている鍵を服の上から握り締めた。あの屋上庭園の鍵だった。麻衣が転落して死んだ庭。呆然と立ち尽くす悠と耀子。嵐の夜に雅子が狂ったように杏の木の根元を掘っていた場所。掘りながら、雅子の口から漏れてくる呪詛の声。ねじれて暴れる樹木の枝。咆哮のような風鳴り。奈落に落ちて行くような恐ろしさ。

 悠はぶるりと身震いして、逃げるように事務棟に向かって走っていた。



 塩田健一の葬儀が終わって一ヶ月がたった。一家の主を失って、家族の混乱はまだ続いていた。あまりにも突然のことだったので、どのように心を整理をしていいのかわからないでいた。葬儀のあと、留美と真美は大学に通っていつもの学生生活に戻っていったが、千賀子の失意は大きく、何もする気がおきないようだった。

 拾子は高校に行きながら家事をこなして、なんとか千賀子を慰めようと努力したが、拾子をかばってくれていた塩田を失って、千賀子は拾子への風当たりを強くしていった。

 拾子の存在が我慢できないらしかった。もともと塩田がキャンプ場の山から拾ってきた子供だ。その子を我が家で養育すると言い出したとき、夫婦間で激しいやり取りがあった。国から養育費が支給されるからと説得されて、しぶしぶ承諾したが、塩田が亡くなってからは、千賀子の忍耐は消え去っていた。

 十二月にはいってすぐに、拾子は千賀子から呼ばれて真新しい仏壇の前に座らされた。

卓をはさんで千賀子も座布団に座った。改まった雰囲気に拾子は緊張した。進路のことについて何か言われるのかとおもった。

「あの、おかあさん。来月のセンター試験のことなんだけど」

 遠慮があって、なかなか切り出せないでいたことをいってみた。高校三年になってから、進路相談や三者面談など、いろいろあったが、千賀子は三者面談に一度も来てくれたことがなく、相談しようにも無視されてしまうので、どうしたらいいのか思い余っていた。できれば、作業療法士の学校に進みたいとおもっていた。難関だし、そもそも国家資格を取るための学校が少ないため、実際に通うのは難しいとおもうのだが、障害をもった人々の機能回復をうながす障害者支援の仕事は、我慢強い自分に向いているとおもった。拾子自身、こうして他人の厚意で大人になることができた恩をおもうと、自分も何らかの形で人々にできることをしてあげたかった。

「センター試験なんか、受ける必要ないわよ」

 予想したように千賀子の言葉は冷たかった。

「おかあさん。でも、わたし」

「パパがこんなことになってしまって、すっかり事情が変わってしまったのよ。それは拾子にもわかるでしょ」

「はい」

「それでね、来春、高校を卒業したら、この家を出て行ってほしいの」

「えっ」

 驚いて拾子は声を上げた。千賀子は平然としていた。

「この家を処分して、実家がある郷里に帰ることにしたの。留美と真美も向こうで仕事を探す予定よ。だから、おまえは一人で生きていきなさい。高校まで出してあげたら十分でしょ。荷物は少しずつ処分しなさい。わたしのほうは不動産屋をあたったり、実家に行ったりで忙しくなるから」

「そんな。おかあさん」

 おもいもよらない話に、拾子は呆然とした。千賀子は言うだけ言って部屋を出て行った。拾子は仏壇の塩田の写真を見上げた。

「おとうさん。わたし、また捨てられるの? おかあさんは、一人で生きて行けって。どうしょう、おとうさん」

 涙がこみ上げてきた。これまでの長いあいだ、一つ屋根の下で暮らしたのだ。血はつながっていなくても家族だと思っていた。まさか出て行けといわれるとはおもっていなかった。どんなかたちであれ、ずっと一緒だとおもっていた。

「おとうさん。どうして死んじゃったの。どうしてわたしを山から拾ってきたりしたの。あのまま死なせてくれればよかったのに」

 悲しさと悔しさが、怒りとともに押し寄せてきた。泣き声を聞かれるのが嫌で、拾子は声を押し殺して泣き続けた。

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