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モノクロメッセージ

作者: 田代有紀

 底意地の悪い、これはきみへの手紙。俺にしかわからない文字で書かれた言葉の真意を、きみは俺が帰ってくるまで知らないのだろう。だってそれは俺にしか伝えられないものだから。これは弱虫な俺が生んだ結果。もしきみが覚えていてくれるのなら、その時は、勇気を出そうと思う。

 

 

 三月の終わり、吐く息はまだ白く、道端には雪が残っている。コートの裾をはためかせ、わたしは自転車で緩やかな坂道を登っていた。幼馴染との待ち合わせ場所は坂の一番上の、小さなこの町を見渡せる高台の上だ。息を切らせて登りきった坂の上、枝だけの桜の木に寄り掛かって、彼、鳥羽奏亮(とばそうすけ)は待っていた。

「待った?ごめんね」

別に、今来たとこ、と短い返事が返ってくる。奏亮はわたしが押している自転車に目をやり、呆れたように訊ねた。

「なんで坂道なのに自転車乗ってくんの」

実はここに来る前、うちの畑でとれたニラと玉ねぎの入った箱を販売所まで届けてきたところだったけれど、わたしはしれっと嘘をついた。農家の我が家が少々コンプレックスだったのだ。

「下り坂なら速いから」

「あーそう、怪我すんなよ」

 くだらないやりとりをしてから、わたしは本題を思い出した。今日の目的はお互いの進路発表だ。昨日まで奏亮はピアノの全国コンクールに出ていて、家に籠りきりか会場に行っているかのどちらかだったので会う機会がなかったのだ。わたしも奏亮のコンクールの地区予選の結果発表の頃まで受験にかかりきりだった。

「別に近況報告なら家の裏でもよかったのに」

「緊張から解放されたら広いところに出たくなるんだよ」

 奏亮はそう言いながら町の方に顔を向けた。ごちゃごちゃとした古い住宅街、最近開発され始めた新しい家の並ぶ地区、少し寂れた商店街、小さいころみんなで遊んだ公園、わたしと奏亮の家、そういうものが三月の薄い日の光に照らされて海まで続いている。

「で、希望(のぞみ)はどこ行くの」

 突然話題を振られたわたしは一瞬、言うのを躊躇った。

「峰岸市の、農大」

「ああ、あそこ。前から親父さんが推してたとこだよな」

 わたしの家は父親も祖父もその前の曾祖父も代々農家をやってきていた。父の子に生まれたのはわたしと妹だったため、家族会議で散々もめた結果、わたしが農業系の大学に行くことで収まった。

「行きたくないなあ、そもそも農業なんて興味ないし」

 本当は絵が描きたかった。やるつもりもない農業の道への進学は、親の意向と金銭的な問題だった。芸術系に進ませるには、低収入な農家の我が家では授業料が払えなかったのだ。それでもそこから脱する方法がなかったわけではなかった。方法はただ一つ、上位三名に奨学金の出るコンクールに絵を応募して三位以内に入ること。結果からいうと、わたしは落選した。だからどうやっても諦めるしかなかったのだ。

 奏亮が、桜の木を見上げながらわたしを宥めるように言った。

「まあそう言うなって。大学行ったら楽しいこともあるよ、きっと」

 そうだ、とわたしは奏亮に目を向けた。

「奏亮はどこ行くの?」

奏亮は一瞬言いづらそうな、苦い顔をした。あともうともつかない声で唸って、小さな深呼吸。それから口を開いた。

「プラハ」

 ようやく鳴き始めたへたくそなうぐいすの声が、わたしたちの間にできた空白を埋めた。


 なにそれ、というかどこ。どこから突っ込んだらいいのか。わたしは切れた思考回路を繋ぎ合わせて必死に言葉を返そうとしたが、結局餌を待つ金魚のように間抜けに口をぱくつかせただけだった。わたしは餌ではなく答えがほしい。

「プラハってさ、チェコの首都ね。ドイツの近くの」

「ごめん、全然わかんない」

 社会ほどわたしの嫌いな教科はない。地理の成績は最下位だった。

「まあ、ヨーロッパの右の方だと思えばいいよ」

長い付き合いで説明しても無駄だと知っている奏亮は、簡単にそう言うに留めた。

「ピアノで?」

「まあね」

 奏亮のピアノの腕は国内の若者でも有数だというのは知っていた。小さいころから何日も学校を休んで世界のあちこちを飛び歩いたり、コンクールに出たりしているのも。それでも留学なんて予想外だった。

「いつから?」

「明日」

 冷たい風が吹きつけた。

「明日?」

「そう」

あした。二十四時間後、彼はこの町のはるか上にいる。

「いつから決まってたの?」

「去年の六月」

 わたしがコンクールに落選して、受験勉強を開始したころだ。そのころから受験方式の違いで出始めた合格者たちは肩身の狭い思いをしていたわけだが、奏亮もその中にいたのだ。高校は一緒だったがクラスも違ったし、三年になってからはほとんど会話もしなかった。だから知らなくても当然なのだが、それでもこれは、急すぎだ。

「なんでもっと早く言ってくれなかったの、明日なんて」

 すごいねとか頑張ってねとか、おめでとうとか、そういう言葉をかけなくてはいけないのに、唇はまったく思い通りに動いてくれない。それなのに、奏亮はごめんと小さく言ったきりだった。青い空の果てに、橙色が差し始める。

「帰ろう」

 わたしは頷いて自転車のストッパーを外した。緩い下り坂を押して歩こうとした途端、横から伸びてきた手がハンドルを握った。

「貸せよ、それ」

有無を言わさず、奏亮は自転車の左側に立って押し始めた。


「年末には帰ってくるから」

「うん」

「でもクリスマス休暇かな、日本みたいに冬休みって感じじゃなさそう」

「ふうん……」

 帰り道は、奏亮が思い出したようにぽつぽつと話し、わたしは黙り気味だった。いつもとまるで逆な構図はそう長くは続かず、坂を下り切ったころには双方とも黙ってしまった。

 無言で歩く帰路はやけに遠く感じた。靴が鉛でできているのではないかと思うほど重く、足が進まない。家に帰れば今日という日が終わってしまうような、そんな気がした。

「じゃあね」

 別れの挨拶を驚くほど簡単に交わし、わたしは奏亮から自転車を受け取って家の前で別れた。


 家に帰った途端、どうしようもないほど力が抜けた。手を伸ばしたものはみんな、この手をすり抜ける。落選したのも、第一志望に落ちたのも努力が足りなかった自分のせい、どうしようもないことを諦められないのも自分のせいだ。そんなことはわかっている。

 出て行ってやると思った。東京の方の大学に行って、こんな古臭い考えの田舎なんて飛び出してやると。けれど、絵は描けなかった。東京の大学にも行けなかった。わたしに差し示された未来は、片田舎の地方大学への進学だった。

 クラスの半分は東京へ進学、仲の良い友人は東京で一人暮らし。その上、奏亮は遠い異国へ旅立とうとしている。みんなみんな、わたしの大切なものは、わたしを置いてはるか遠くへ行ってしまう。

 目指すものが違うなら同じ道は歩めないと、わかっていたはずだった。今更ながら孤独が身に染みた。

「のんちゃん、ごはんだよ」

 妹が呼んでいた。わたしはいらないと答え、そのまま布団にもぐりこんで、気づかないうちに寝てしまった。


 その夜、不思議な夢を見た。わたしは誰かと道を歩いていた。わたしの町の、駅へと続く道。車、花壇、坂道、いつも行く本屋。そういうものが妙に現実感を持って再現され、わたしたちを通り抜けていく。気づけばわたしは切符も買わずに改札を抜けて、電車を待っていた。

 一緒にいた誰かは後から改札を抜けてきて、丁度来た電車に乗り込んだ。

「じゃあね」

 それを合図に、電車が静かに動き出した。まるでドラマの一シーンみたいに、わたしは走り出す。次の瞬間、電車は茶色い塗装の古い形に変わり、客席の開いた窓から奏亮が顔を出した。追いかけたわたしが何を叫んだのか、わたしにもわからなかった。奏亮の声も、わたしの耳には届かない。走るわたしの目の前で灰色のホームが途切れた。沈む視界に、彼の伸ばした手がほんの一瞬映った。

 切れたホームが私の道で、高速で走りぬける電車がみんなの道。わたしは落ちながらそれを見ていることしかできないのだろうか?


 落ちる夢を見るときの、奇妙な浮遊感で目が覚めた。目覚まし時計は午前十時二十四分を指していた。一体何時間寝ていたのだ。これだけ寝て誰も起こしにこないなんて珍しい。わたしはひとり首を捻り、昨日から変わっていない服を見て、昨日自分がどうやって寝たかを思い出した。

 着替えを持ってシャワーを浴びようと廊下に出ると、開け放されたサッシの向こうから父親が顔を出した。庭掃除だろうか。

「お、起きてきたか。ちょっと待てよ」

 父親が軍手を外し、ポケットから取り出したのは一万円札二枚。そんな大金をそんな扱いでいいのか。

「これで往復、足りるだろ」

二万円をわたしのシャツの上に落とし、父は軍手をはめなおしている。わたしは寝起きの、回らない頭で思わず問いかけた。

「往復って、どこの」

「どこって、空港だよ。となりの奏ちゃん、今日出発なんだろ」

 そうか、今日が昨日の明日か。けれど、どんな顔で会えばいいのだ。頑張れとすら言えなかったわたしだ。今日会ったら最悪のことしか言わなさそうだ。

 二万円を返そうと手にしたわたしの顔を、父は真正面から見据えた。

「お前には、うちの都合でいろいろと諦めさせた。それは悪いと思ってる。だけど、大事なことを見失うのは違うぞ」

父はくるりと背を向けて、草むしりを始めた。


 大事なこと。わたしは考え考え服を脱いだ。

 奏亮の留学が決まったのが六月。わたしの落選は六月、文化祭の後だ。落ちたことを、奏亮はたぶん知っていた。イベント後、受験に向かって加速する雰囲気の中、ただでさえ自分の行先は言いづらかったはずだ。さらには落ち込んだわたし。その落ち込んだ気分のまま、夏を越えて、秋を過ごし、冬を迎えた。そこにほんの少しでも、奏亮が真実を告げる隙があったのだろうか。

 シャワーヘッドからわたしの頭へ、勢いよく飛び出してきたのは外気で冷やされた氷のような水だった。

 目が覚めた。


「あんたまだいたの?早くしないと間に合わなくなるよ?」

 いまだかつてないほどの速さで風呂から上がり、タオルを頭に掛けたまま廊下へ飛び出したわたしを見て、母が言う。わたしは飛びつくように訊ねた。

「飛行機出るのって何時っ」

「聞いてないの?千恵子さんは三時半って言ってたけど、出国手続きとかあるから二時過ぎにはゲートの中じゃない?」

 残り時間はあと、三時間と少し。わたしは父からもらった二万円を財布に入れると、必要最低限のものをかばんに詰めてパンを片手に家を飛び出した。


 同じ電車になんか乗れなくてもいい。同じ道でないのは知っていた。ホームから見ているだけでいい。けれど、この声が届かないのはいやだ。せめてわたしがいたことを、ほんの少しでいいから覚えていてほしい。


 空港まではここからバスと特急電車の乗り継ぎで二時間半だと、携帯電話のディスプレイに表示された。調べた電車の出るホームに駆け込んで、わたしは奏亮の携帯に電話を掛けた。返ってきたのは型にはまった女性の声だけ。そうか、日本から出るのならもう携帯電話はいらないのか。

 腕時計の秒針を睨み付けて待つわたしの前に、電車が滑り込んでくる。夢では落ちたホームを蹴って、わたしは電車に飛び乗った。


 音楽家の両親とは、プラハに行く途中に立ち寄るミュンヘンで落ち合うことになっている。日本からプラハまでの直行便はないので、どうしても中継が必要になる。それが今回はミュンヘンだ。

 行ってらっしゃいなんて送ってくれる人はいない。別にそれでもよかった。イヤホンを耳にさして、ランダム再生を押した。メモリの中身はほとんど弾く予定か、弾いたことのあるのクラシックだ。流行りの曲は抜いてきた。八か月も日本を離れれば、あっという間に引き離されてしまうだろうから。それに、故郷を思い出して落ち込んだ気分にはなりたくない。

「あいつ、元気になればいいけどなあ」

 夢を叶えようと踏み出した自分と、その橋を外された彼女。外されたなんて、思うこと自体が間違っているのだろう。それは彼女に対して失礼だ。

「橋なんて、なければ作ればいいんだよ」

そう言ってあげたかったけれど、それを自分が言うのはなんだか違う気がした。そもそも彼女なら、自分でそれくらい見つけるだろう。

 橋なんて、なければ作ればいい。いつか絶望した時思い出そう。空港のガラス窓から、誰かの想いを乗せて空を目指す飛行機が見えた。


 到着まであと何分。旅行に行くわけでもない自分が、旅行客に混じってバスに乗っている。考えてみたら滑稽だったが、そんな考えはすぐに消えた。

 たったひとり、異国の地へ旅立つ彼は、何を考え何を思っただろう。夢に向かって飛ぶのなら、怖くはないのだろうか。わたしの夢はあの日終わってしまったから、叶えるための切符を手にした人の気持ちはわからない。でも自分だったら、はるか大地を見下ろして、そこを暖かかったと思うだろう。冷えていく翼で空を越えられるか、不安に思うだろう。

 わたしはまだ生ぬるい、中途半端な暖かさの中にいる。慣れた土に抱かれた古い巣の中で、たった一羽空を飛ぶ鳥に嫉妬したのだ。一日たって、冴えた頭の今ならわかる。昨日までの、何も言えなかった自分は、結局自分のことしか見えていなかったのだ。こんな自分なら、絵筆を執る資格はおろか、大地を耕す資格すらないだろう。

 だからどうか、間に合って。後ろへと流れていく時と景色を見つめながら、わたしは獲物を狙う猫のようにバスの止まる瞬間を待った。


 光を反射して煌めく空港の床、広い天井、人を分けている整備員。そんなものは全部無視して、わたしはたったひとりの姿を探した。数百人では済みそうにないこの中からひとりを見つけ出すなんて、はたしてできるのか。行先は、確かミュンヘン。わたしは近くにいた整備員に訊ねて、その便の客がまだゲートの向こうへ行っていないことを確認した。

「誰かお探しですか?」

 訊ねられて、わたしは頷いた。非常手段、できたら使いたくなかった。それでも。どうしても、きみに一言が言いたい。言えなかった言葉を、ちゃんと伝えたい。だからわたしは、決断した。


「随分と大胆なことしたね」

 奏亮は呆れたように肩をすくめた。

「受験越えたら性格変わった?」

わたしはもとからこんなものだと思う。

 案内所に行って、放送で呼び出してもらったのだ。ただし、彼の名誉のためわたしが迷子になったということで。普段のわたしなら絶対にやらなかっただろう。案内所のお姉さんには笑われた。奏亮には怒られるかもしれない。全部覚悟の上だった。

「……怒ってる?」

 そうっと見上げると、奏亮は笑っていた。

「なんで怒るんだよ。びっくりしたけど嬉しかったよ。誰も見送りなんていないと思ってたからさ」

 そろそろ周りの視線が痛くなってきた。あっちへ行こうと奏亮がトランクを引きずって歩きだす。

 空港の窓の縁に、わたしたちは並んで座った。奏亮が肩掛け鞄の中を覗き込みながらぽつりと言った。

「あーそれからさあ……渡したいものあるんだけど」

「何?」

しばらく、鞄を探る間の沈黙の後、奏亮は諦めたように息をついた。

「ごめん、トランクの中だ」

「じゃあ今度でいいよ、年末には帰ってくるんでしょ?」

 もしかして、昨日渡すつもりだったのだろうか。悪いことをしたなと改めて反省する。奏亮はいいやと首を振った。

「今渡す」

トランクを開けるのかと、止めようとしたわたしの横で、奏亮は鞄から出した五線ノートにボールペンで書き始めた。たぶん楽譜だ。

「覚えてるの?」

「一応」

 何かの魔法みたいに、白い紙の上に、黒い粒が生まれていく。

「半年かけて考えたから、そう簡単には忘れない」

 メロディーを思い出すのを邪魔しないように、わたしは窓の外の風景を眺めた。離陸する飛行機、着陸する飛行機、行ったり来たりする整備員や車、見たこともない不思議な機械。そういうものがひとつとなって、空港という生き物を動かしている。音楽も、わたしの絵も、畑も、この空港も、きっとこの世界を動かす歯車のひとつ。わたしはその歯車の小さなネジのひとつにでも、なれるだろうか。役目は違っても、目的はきっとひとつなのだ。

 ふと、目の前にチョコレートバーが差し出された。

「腹の音、気が散る」

 考えたら朝から、いや起きてからパン一枚しか食べていなかった。いいのかと問うと、

「いいの。飛行機乗っちゃえば飯出るし」

という非常に簡潔な答えが返ってきた。

 隣で響くボールペンの微かな音と、来ては過ぎる人の音と、自分がチョコレートバーを噛み砕く音を聴きながら、わたしはいつか交わした言葉を思い出していた。


 一度だけ、大喧嘩をしたことがあった。中学一年の、ある日のこと。喧嘩を売ったのはわたしで、奏亮は最初呆然とそれを聞いていた。確かそれは、酒に酔った父に将来お前はうちを継ぐんだとかなんとか、わけのわからないことを言われて、わたしには絵があるのにと心の中で反発した翌日だった。

 放課後、賞を取ったと報告してきた奏亮に、わたしは八つ当たりをしたのだ。将来を約束された天才はいいよねと、そんなことを言った気がする。

 天才。はたしてそれは才能だけの問題だろうか。今になって思う。落選したわたしには、才能はなかったのだ。でも、留学を決めた奏亮ははたして、才能だけで決まったのだろうか。

 成功の天秤が、才能に対してどれくらいの努力で釣り合うのか、わたしは知らない。きっとそれは誰にもわからないことだ。だからきっと努力するのだ。


 できたよという声でわたしの回想は止まった。破った二枚の五線ノートには、びっしりと音符が書き込まれている。

「でもわたし、ピアノなんて弾けないよ」

 受け取るのを躊躇っていると、奏亮はにやりと笑った。

「主旋律だけならリコーダーだって吹けるだろ。それか、誰か友達に弾いてもらえば」

 これがどのくらいの難易度なのか知らないが、真っ黒な音符の羅列はどう考えても簡単ではない。こんなの、わたしの知っている人で奏亮以外に弾ける人なんているのだろうか。

「帰ってくるまで覚えてたら弾いてあげる」

 奏亮は言いながら鞄にノートをしまい、そこで思い出したように手を止めた。楽譜の最初の一枚を取って、そこに何かを書きつける。ローマ字で書かれた奏亮の名前のサイン。それからもう一枚、小さな紙切れを手渡した。

「あっちの住所の日本語ね。絶対読めないだろうと思うからさ」

 カタカナの羅列は見ているだけで嫌になる。わたしはなくさないように、メモを鞄の底にしまった。

「手紙、気が向いたら書くから。気が向いたら返事書けよ。住所はできたらアルファベットがいいけど」

一方的にそう言って荷物をまとめ、奏亮は上体を起こした。

「そろそろ行くよ。希望に会えてよかった。あやうくひとりで出発だったな」

 搭乗する人しか入れない、金属探知のゲートの前まで、わたしたちは一緒に歩いて行った。このゲートでお別れ。そう思ったら急に寂しくなった。言わなくちゃ、昨日言い損なった言葉を。口を開いた途端、奏亮が先に言った。

「そうだ、希望さ、絵描けよ。俺また見たいな、希望の絵」

 俺が帰ってくるまでに、すごいやつ一枚。いたずらっぽく奏亮が笑う。用意していた言葉はどこかにふっ飛んだ。

「描くよ。だからこれ、絶対弾いてよね」

 鞄を持ち上げると、奏亮は頷いた。ついでにうちの野菜もつけてあげる。世界レベルのピアニストには、たぶんわたしの絵一枚では足りないだろう。

 じゃあなと言いかけた奏亮の先手はわたしが封じた。

「奏亮なら、なれるよ。絶対。すごいピアニストになれる」

ありがとう、といつもの短い答えがどこか苦そうだったのは気のせいだろうか。

 ゲートに吸い込まれていく人を見ながら、奏亮はトランクを引く手に力を込めた。

 頑張って、という言葉はふたり、同時に言った。

 次会うときは、きっと今より、もっと成長している。わたしは自分に自信を持てているだろうか。奏亮はどんなふうになっているのだろうか。

 最初から全く違う道だった。それを今、さらに決定的に分かつ時刻が近づいてきている。

 奏亮がゲートに向けて歩き出した。人ごみが、だんだん彼の姿を掻き消していく。最後に列の横から顔と手だけを出して、奏亮は風に向かう一羽の鳥になった。


 空を行くきみと、地を駆けるわたし。空と大地が地平線でいつか交わる日まで、きみは翼で、わたしはこの足で、どこまでも遠く、翔けて行こう。


 

 底意地の悪い手紙の、何が一番悪いって、それは俺だけにしか読めないことだ。使える限りの音を使って表現したそれは、たとえ技術的に弾くことができても、俺が弾かない限り、決して意味を持たない。

 言いたいことはたくさんあった。きっと希望にだってあっただろう。言いたいことはいつだって、最後まで言えないままだ。言わない方がいいことも、もしかしたら言った方がいいこともあるんだろう。でもきっと俺には、言わない方がいいことの方が多い。

 ほんとうは俺は、作曲家になりたいんだよ。みんなはピアニストだって言うけれど、ピアニストを目指して損はないけれど、最終的な目標は作曲家。両親にも先生にも、友達にも希望にも、言ったことはない。いつかそう言える実力を持つ日まで、それは黙っておこう。


 どんなに遠くへ行ってもいつか、帰ってくるから。だから羽を休める場所を、ほんの少しだけ空けておいてくれないか。遠くなっていく地面を見下ろし、今この地上のどこかにいる、残していく人たちのことを思った。


 行ってきます、暖かい場所。また帰ってきます、きみのもとへ。

最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。

本作は、入学式までに何か短編を一作ということで生まれた物語です。

現代モノをあまりやらないのと長編慣れのせいで、自分にも世間的にもものすごくタイムリーな設定になってしまいました。

どうも現代設定への自分の拡散(?)が上手くいかないようです。

この季節の、この年の自分だからこそ書けるものかなと、だからこれはこれでいいのかなと思ったり思わなかったり。

とにかく、お付き合いくださってほんとうにありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 読みやすく、流れるようにすっと胸の内に入る文章だなと思いました。 どちらの登場人物も自分の人生に悩みながらも前向きに取り組んでいる部分に、なんだか、心が洗われました。 他の作品があれば、また…
[一言]  初めてコメントさせていただきます。  面白かったです。  なかなか良いところを突いてるな、と思います。    ちょっと違いますが、天才は苦労を苦労と思わないから天才だと、いつも思っています…
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