暁の鏡
ざぱん、という音が遠くに聞こえた。それはある一瞬からくぐもった音に変わり、同時にひどく冷たい水が体を押し包み熱をさっと奪っていく。深く沈んでいく感触が全身から感じられ、水面に昇っていく気泡が耳朶を叩く。耳の奥に感じる痛みが煩わしい。
負った傷から血が大量に出ているのだろう。体が芯から冷えていき、体が軽くなっていくような錯覚を覚える。薄く開けたままの目に映る澄んだ水と月明かりを揺らす水面の波が血に染まり見えにくくなっていった。黒い煙のようにも見える自分の血がとても欝陶しく思える。
と、先程まで感じていた耳の痛みが感じられなくなったことに気付く。どころか、聴覚もない。
徐々に現実感が薄くなっていくのを面白く思いながら、俺は全身を弛緩させ、目蓋を閉じた。
世界が闇に包まれた。
‐§‐
風が吹けば砂埃が舞う。ところどころに生える草は背が低く、歩行に何の支障もきたさない。歩に合わせて背中を叩く剣の感触にも飽きが入ってきた。
この剣はいままでも幾多の山賊襲撃時に応戦しそれを退けてくれた、頼れる相棒だ。だが長年を供にした剣と言えども長旅の退屈しのぎは専門外である。
足が棒になるほど歩き続けたさきに町が見えたときは、持て余していた暇から解放されると思うと格好悪くも諸手を挙げて叫びだしたいほどだった。
その三日強の旅もここまで。俺は町の出入口を警護する番兵に許可証を提示して町のなかに入った。
町のなかは活気付いていて、目の前には長い通りが貫いている。向こう側の出口が見えた。この通りは町を真直ぐ二分しているらしい。
「おや、いらっしゃい。旅人かい?」
「……どうも」
お上りさんよろしく辺りを見回していた俺に通り掛かった恰幅のいいおばさんが気安く声を掛けてきた。
「若いのにまあ。宿屋ならそこの看板下がってるだろう? あそこが一番近い店だよ」
そこまで言うと彼女は身を寄せ、内緒話をするように声を潜めて続けた。
「でもあそこはちょっと料理が雑だよ。向こうの通りにある宿屋のほうが料理も美味いし値段も良心的でお薦めだね」
そう言うと、自分で言ったことが面白かったのか大声で笑った。手に持っていた籠から黄色で縦に長い楕円形の拳ほどの大きさがある果実を取り出し、俺にくれた。新鮮な、見るからにうまそうな果実だ。
「あ、ありがとうございます」
「なあに、礼を言われるほどのことじゃあないさ。それじゃあゆっくりしていっておくれ」
去ろうとするおばさんに俺は慌てて呼び止め、尋ねた。
「あの、この町で一番近い酒場はどこです?」
酒場? と小さく繰り返したおばさんはにっこりと笑って近くの古びた木造家屋を指差した。俺は彼女に重ねて礼を言い、そちらに向かう。
それにしても、この町は俺のような旅人にも親切で、いい町だ。見回した感じとしてはあのおばさんだけでなく町の人みんなが彼女のように穏やかで優しい性格をしているのが分かる。
いい町に巡り合えた、と気を良くした俺は鼻歌混じりに酒場の扉を開ける。そこには久しぶりに連絡を寄越した旧友の姿があるはずだ。
暗い店のなかは質素で、隠れ家のような雰囲気を演出している。俺は店内に足を踏み入れながら辺りを見回す。と、早くも奥の暗がりに奴の姿を見つけた。
奴はこちらに気付くと手を振って俺を呼ぶ。
「あ、来た来た。おぅい、マデロ、こっちだよ」
その、年の割に子供っぽい声と口調は間違いなく奴のものだ。変わりない友人の様子に、俺は思わず笑みを浮かべる。
「おす、カズマ。当たり前だが、変わりないな」
「そういうマデロは少し逞しくなったんじゃない? 腕なんかこんなに筋肉質になっちゃって」
そう返すカズマの表情は見えない。なぜなら彼は頭から爪先まで、全身を深紅の精巧な装飾が施された漆黒の鎧に包み込んでいるからだ。
彼は話したがらないが、顔に傷跡があるそうだ。仮面や包帯では怪しいため全身ごと隠したらしい。
「にしても、よく手入れされてるよな、その鎧」
「まあね。父さんの遺品だし、鎧一式は高いから」
「はは、違いない」
そうして俺たちは久しぶりに話し込んだ。途中酒の一つも頼まないのはカズマの顔のことがあるからだが、店からしたらいい迷惑だろう。
店の客が大体入れ替わった頃、ふとカズマが片紐の切れたバックパックから小型の鏡を取り出した。
「昨日、こんなものを拾ったんだ」
「なんだ? 古い鏡だな」
俺はカズマからその鏡を受け取り、まじまじと眺めた。と、隅に血が染み付いているのに気付く。
驚いてカズマを見ると、カズマは深く頷いた。
俺は慎重に鏡の裏に刻まれた文字を読み取る。擦り切れているうえ文字も文法も現在と大分異なる古語で書かれていたが、大まかな意味は辛うじて解読できた。
「どうやら呪具みたいだ。暁の鏡っていうらしい。黎明とともに何かを呼び寄せるとか、禍を統べるとか、そんなことが書いてある」
恐ろしげな内容だが、どうやらそうそう使えるものでもないらしい。
カズマは少し俯き深く考えるような様子を見せた。
「何かを呼び寄せる……。何かって、なに」
「俺が知るか。呪具なんて俺の専門じゃねえ」
言い捨てた俺をどことなく呆れたような様子で眺めたカズマは、溜め息混じりに言った。
「そっか。古語が読める知り合いなんて君くらいしか心当たりがなかったのだけど、君にも分からないか」
落胆したふうのカズマを見て、俺はふいに疑問を持った。
「カズマ。こんなものを調べて、どうする気だ?」
「別にどうする気もないけど……気になるんだ。胸騒ぎがするっていうか……」
カズマは上手く言葉に出来ないらしく、そこで言葉に詰まった。俺はそうか、とだけ返し、“暁の鏡”を彼に手渡した。カズマはなにやらヤバそうなものであることは解ったからか、幾分か慎重な手つきで鏡をバックパックに戻した。
その後、いよいよ飲み客で酒場が混んできたので、俺たちは店を出た。空は赤く染まっている。
俺の傍らに立つ二メートル近い漆黒の鎧は目立つ。先程から注目を一身に集めている。当人は慣れたもので、面覆いのスリットから動揺の色を欠片も見せない声を寄越した。
「そろそろ宿屋を探したほうがいいんじゃないかな」
「そうかもな」
聞けば、数日前から滞在しているカズマは例のおばさんが言っていた町の出入口から一番近い宿屋を取っていたらしい。
俺は遠慮なくおばさんのもたらした情報の真偽を確認する。
「飯? うーん、確かに他より特別美味しくはなかったかも」
カズマの「美味しくない」は俺の「不味い」だ。
「そうか、じゃあおばさんの言っていた宿屋を探してみようぜ」
「うん、いいよ。でもマデロ、当てはあるの?」
カズマの問いに俺は苦笑で応える。まあ向こうの通りにある宿屋とだけは聞いているから、適当に探せば見つかると思う。
不安そうなカズマを伴って例の宿屋があるらしい通りに入る。しばらくその通りを歩いてみて、その心配は杞憂だと解った。
その通りに宿屋は一つしかなかったからだ。通りに置かれた看板を見て、カズマが小さく息を吐いた。
「確かに、こっちの宿屋のほうが安いね」
「そりゃいいな、財布が助かる」
俺は軽口で返し、宿屋の扉を開けた。石壁と板張りの床が暖色の照明に照らされている。落ち着いたいい雰囲気の宿だ。帳場には誰も居ない。
カズマが俺に続き、俺は奥に居るだろう人を大声で呼んだ。
「すんませーん」
「はいはいはいな、いらっしゃい。おや、旅人さん、本当にきてくれたね」
奥から出てきたのは恰幅のいいおばさんだった。まさしく町の入り口で出会い、良くしてくれたおばさんだ。やられた。ここは彼女の店だったのか。
不覚を取った俺と、俺にニコニコと笑いかけるおばさんを交互に眺めていたカズマは呆れたような声で呟いた。
「酒場で聞いたときからそんな気がしてたけどね」
おばさんは室内にかかわらず完全装備のままのカズマを見ても何も言わず、宿泊の手続きをして相部屋をあてがった。料金はさらに値引きしてくれたので、すっかり機嫌を良くした俺はベッドの上であぐらをかき剣の手入れをした。
向かいのベッドでカズマは大剣を手入れしている。
「なあカズマ」
「なに、マデロ?」
お互いに顔を上げずに言葉を交わす。開けた窓から吹いた夜風で明かりが少し揺らめいた。
俺は手を伸ばして窓を閉めた。
「お前、明日からはどうするんだ?」
カズマは一瞬手を止めたが、すぐにまた手を動かし始めた。俺も剣を磨くのを再開する。
「僕はカナンに向かうよ。あそこには大聖堂もあるくらいだから鏡のことも何か分かるんじゃないかな」
「そうか」
と、部屋の扉がノックされた。立ち上がり、扉を開いてやる。三角巾を頭に巻いた少女が盆を持って立っていた。夕食を持ってきてくれたらしい。
彼女から盆を受け取り、礼を言う。
「ありがとう」
「いえ。食後は食器を廊下に出しておいてください、後で回収します。ごゆっくりどうぞ」
そう言ってお辞儀をすると少女は去っていった。
いい匂いをさせている温かそうなそれらの料理を部屋の真ん中にある卓袱台に乗せる。
早速箸を取る俺にカズマが声を掛けた。
「さっきの娘、可愛かったね。おばさんの娘かな?」
「さあな。ああ見えてプロの暗殺者かもよ」
俺の冗談にカズマはあはは、と笑った。
ちなみに彼は人前で絶対に兜を外さないため、飲食を一切見せない。それは俺も例外ではなく、大抵俺が夜の散歩などをしている間に食事を行う。
確かに飯は美味かった。
‐§‐
朝、夜明けとともに起きた俺は室内で軽くストレッチをした。カズマも丁度起きだしており、二人で外に出て、軽く打ち合い稽古をした。負けたけれど。
宿に戻った俺たちは、丁度起きてきたらしいおばさんと会った。
「あらマデロ、早いねえ」
「お早うございます」
「おはようございます」
俺は何故か名前を覚えられたらしいが、ともかく俺とカズマは挨拶をした。おばさんは柔和に目を細め、朝食が出来たら部屋に運ぶ旨を伝えてきた。
それに了解し、俺たちはひとまず部屋に戻る。その途上、カズマが振り返って窓を見た。
「どうした?」
俺の質問に答えずカズマはしばらく黙って窓を見つめていた。が、俺に向き直り首を左右に振る。
「……いや、なにか見られてるような気がしたんだけど、気のせいみたいだ」
カズマの言葉に俺は顔を歪ませる。俺のなかで嫌な予感が頭をもたげた。
「なんだそれ、気味悪いな」
「そうだね。でも気のせいだと思うよ、もうなんでもないし」
急に跡形もなく消えたのが不気味なんじゃないか、とカズマに告げると俺は部屋に向かう歩みを進めた。
部屋に戻ってしばらくすると、扉がノックされた。
出迎えてみれば案の定三角巾を頭に巻いた少女が盆を持って立っていた。盆を受け取り、礼を言うと彼女は昨日と同じことを言い、去っていく。
無愛想な娘だと思うが、振り返るとカズマが妙な顔をしていた。いや、兜をしている彼の顔が見えるわけはないけれど、雰囲気で。
「なんだよ?」
「いや、マデロとあの娘を長時間二人きりにして遠くから眺めていたいな、と。君達は見てて面白いよ」
意味は分からなかったが面白くないことを言われているということだけは分かり、俺は眉をひそめた。
そして早く飯を済ませ、食卓をカズマに譲る。そして俺は伸びをしながら立ち上がり、扉に向かった。彼を一人にするためだ。
と、彼が俺の背中に声を放ってきた。
「じゃあ、しばらくしたら大通りで待っていてよ」
「ああ、解った」
そう返しつつ俺は部屋を出た。普段は俺が時間を見計らって宿に迎えに行くのだが、このように適当な待ち合わせの形を取るのも珍しいことではない。
宿屋の二階から下りると、おばさんと会った。彼女は他の客に朝食を届けるところらしい。
「おや、もう出るのかい? もう一泊くらいすればいいのに」
「まあ、それは次の機会にでも」
俺は苦笑して当たり障りのない返しをした。ひどく残念がりなおも引き止めようとするおばさんをいなして俺は表へ出た。
カズマが来るまでの間に俺は食料などを購入して旅立ちの支度を整える。その後は購入した果物片手に店をあちこち冷やかして回った。
農産物は小麦やなんかが山と積まれている。コーヒー豆なども多く売られていた。綿織物がなかなか安かったので、着替えも一着購入してしまう。
そんな調子で財布の紐も固くブラブラしていると、
「やあ、やっと見つけた」
後ろからカズマが声を掛けてきた。俺は振り返り、苦笑する。
「お前も支度終えたのか、早いな」
「マデロを探しながら店を回ったからね」
カズマはバックパックを肩に掛け、右腰からは四本の水筒が下げられている。バックパックにもたくさん水筒が入っているはずだ。重い鎧姿でいるのはそれだけ水分を必要とする。
「マデロも一緒にカナンに行くよね?」
「まあな、予定もないし」
それに、俺が近くに居ることを知って、カナン行きを遅らせてまで合流するような友とこんなに早く別れるつもりもない。
カナンまでの道程は一日二日で着くような距離ではないが、今度の旅は退屈する心配もない。俺はいい気分になって町の出口に向かって足を踏み出した。
「なあ兄ちゃん、あんた酒場にいたヤツだよな」
「え? そうだけど……あなたは?」
が、カズマが誰かに呼び止められた。俺は振り返ってカズマに話し掛けた人物を見る。
短髪で浅黒い肌をした青年だ。整った顔立ちながら鋭い目付きは狡猾な烏を連想させ、口は不敵な笑みを形作っている。
カズマと知り合いでもないようだが、この目立つ風貌だ。向こうが酒場で見かけて、覚えていても不思議ではない。
「俺はサリット。あんた達、もう出るのか?」
「まあね。いい町だし、本当はもう少し居たいんだけど用事があるんだ」
カズマはサリットを見下ろしてそう告げた。サリットは頷き、腰に吊したカバンを締めなおした。
「なあ、俺はカナンに行くんだが、途中まで一緒に行かないか?」
「えっ、僕達もカナンに行くところだったんだ。そうだね、一緒に行こうか」
カズマは快諾し、俺に目配せした。まあ、別に断る理由もなし、俺は頷いて同意の意を示す。
サリットはにぃと笑うと先頭を切って歩き始めた。俺たちは苦笑して、彼の後を追う。
町を出て、荒野を歩いていると不意にサリットが俺を振り返り尋ねてきた。
「なあアンタ旅人だろ? 今までどんなところを旅してきたんだ?」
「あ? そうだな……、いろんなところを見てきた」
急な質問に驚きはしたもののそれだけは答え、俺はゆっくりと今まで見て回った町を脳裏に巡らせた。
「海に面した町も見たし、水に恵まれて町中に水路を巡らせているところもあった。逆に、水に恵まれすぎていて工業排水で汚してしまっているところもあったし、そうだ、深い山のなかに少数の集落なんてのも見たな。彼らは迫害にあって山林の中に追いやられたらしいが、なんだか幸せそうに暮らしていたよ」
サリットはしばらく黙っていたが、笑みをこぼして口を開いた。
「いろんな物を見てきたんだな。……羨ましいね」
そう言うサリットには、どこか暗い陰があった。何か嫌な過去でもあるのかもしれない。俺はそれに触れないように返した。
「まあ、楽しいことばかりじゃないがな」
金の工面が大変だ、と苦笑する。サリットは楽しそうに笑った。
と、向かう先の道端に人が倒れているのが見えた。服装は薄汚れていて、今や遥か後方のあの町へ向かう途中に行き倒れたふうであった。
彼に気付いたサリットが俺とカズマを交互に見る。俺はカズマと互いに目配せし、頷き合った。
行き倒れたふうな人の脇を、俺たちは一瞬たりとも歩を緩めずに通り過ぎる。
「あ……!? おい、助けないのかよ!?」
「サリット君、ダメだよ立ち止まっちゃ」
カズマが慌てたように言うが、もう遅い。立ち止まったサリットにつられて俺たちは止まった。
倒れていた男がすぐさま立ち上がり、サリットに隠し持っていた刃を向ける。駆け寄ったカズマがバックパックを捨て、大剣を抜き放ち男を牽制しつつサリットを守る。
俺も剣を抜きつつカズマ達のもとに走る。その間にも辺りの物陰から続々と倒れていた男の仲間らしき人々が各々武器を構えて現われていく。
囲まれた。総勢六人もの男たちが輪を描いて俺たちににじり寄る。
混乱しながらもダガーを構えているサリットが困惑気味な声をこぼした。
「おい、これは……?!」
「追い剥ぎ、だね」
籠手を擦らせて小さく音を立てながら大剣を構えるカズマがそれに答えた。また一歩、賊が輪を狭める。
背中合わせの陣形を保ちつつ、俺はカズマの後を引き継いだ。
「怪我などを装い旅人の足を止めさせ、その隙を突いて襲うっていうやり方がいまの流行りらしいぜ」
「じゃあ、あれは……。二人とも、ゴメン……」
己の過ちを悟ったサリットは苦々しく謝る。ダガーを握り直したのだろう、革のグローブが擦れる音がした。
と、急に一人が俺に飛び掛かってきた。その手にはナイフが煌めく。
「うわっ、と!?」
ナイフでの斬撃は半身を引いて躱し、再びの斬撃は剣でなんとか弾く。カズマが援護しようとしたらしいが、他の奴らも一斉に襲い掛かってきてそれどころでは無くなる。
ナイフの男と後から襲ってきた湾曲刀の男の二人を相手取った俺は死ぬ思いだった。湾曲刀を弾けばナイフが襲ってきて、恐怖にはらわたを捻らせながらも必死に鍔でナイフを跳ねる。
かと思えば湾曲刀が再び斬り掛かってきて泣きそうになりながらも剣を打ち合わせ斬撃を止めるとすぐに弾いた。当然のごとくナイフが剣の前を踊る。
「マデロ! 大丈夫!?」
早々に二人を切り捨て、戦闘不能に陥らせたらしいカズマがナイフ男を斬り付けた。俺はカズマに感謝しつつ、湾曲刀の斬撃を逸らして受け流すと二の腕を斬り付けて太股も切り裂く。これで戦闘の続行は絶望的なはずだ。
サリットは、と振り返ると、彼が相手の刀使いの肩にダガーを深々と突き刺して撃退したところだった。
「……はあ…っ……」
サリットは男からダガーを引き抜き、振って血を払った。賊はそれぞれ庇い合いながら逃げていく。その五つの背を俺は安堵とともに見送っていた。
「怪我は? 大丈夫?」
「大丈夫だ」
俺はカズマにそう答えた。サリットにも怪我は無さそうではある。
カズマは安堵の溜め息を吐き、大剣を収めて振り返った。
「あれ?」
カズマが頓狂な声を上げたのはその直後だ。
薄汚れた布でダガーの血を拭っていたサリットが辺りを見回しているカズマに顔を向け、尋ねる。
「どうした?」
「いや……、バックパックが……」
困惑気味な声のカズマを聞いた俺は僅か眉をひそめたが、直後には記憶が重大な予測を吐き出した。
――囲まれた。総勢六人もの男たちが輪を描いて俺たちににじり寄る――
――賊はそれぞれ庇い合いながら逃げていく。その五つの背を――
『六人』で囲まれたが、『五人』で去った。つまり襲撃自体は本来は陽動で、交戦中に荷を奪うのが目的だったのだろう。
「――……やられた」
俺は思わず呟いていた。どうやら二人も同じ可能性に思い当たったようだ。
俺は溜め息を吐き、気持ちを切り替えると顔を上げた。
「しょうがない、いったん町に戻って食料やなんかを調達……」
「取り返そう!」
俺の言葉を遮ってカズマが大声で言った。サリットも目を丸くしたが、彼は俺と違って突然の大声に驚いただけのようだ。
俺は慌ててカズマに言う。
「おい、何言ってんだ? あの賊を追う意味はないだろ。確かに散財は惜しいだろうが……」
「違うよ、あの鏡だ! 壊されたり、売り払われたりしないうちに早く取り戻さないと!」
俺は一瞬言葉を失う。なぜそんなにあの鏡に執着するのだろうか?
サリットが代わりに尋ねてくれた。
「鏡? その鏡って、そんな大切なもんなのか?」
「うん。よく分からないけど、取り戻さなきゃいけない。なんだか胸騒ぎがするんだ……!」
そう言うカズマは今にも駆け出しそうなほど焦っていた。サリットはいまいち分かってなさそうではあったが頷いて同意した。
「そんな大切なもんなのか。分かった。引っ掛かった俺のせいでもあるしな、手伝うぜ」
「助かるよ、ありがとう」
完全に奪還ムードの二人に、俺は慌てて待ったを掛ける。
「おいおい、あんな鏡一個にそこまでするか!? そもそもどこへ行ったかも分からないのに……」
俺の言葉にカズマは頷いた。だが、揺るがぬ意志のもと俺に言葉を返す。
「それでも取り返したいんだ、あの鏡だけは。怪我人ばかりだから、そう遠くには行ってないはずだよ」
無理してついてこなくても構わない、とまでカズマは念を押した。サリットは既に行く気のようで、再びダガーを構えている。
俺は根負けして、頭を掻き回し荒っぽく声を出した。
「しょうがねえな、分かったよ! 連中は向こうに向かっていったぞ」
俺は見当違いの方向へ行こうとしていたカズマ達を引っ張り、歩きだした。
カズマはこの展開を予想していたらしく、特に驚くようすも見せなかった。
「ありがとう、マデロ」
答えるのはどうにも癪だったので、俺は聞こえない振りをした。
サリットはカズマのそれより大きい声で俺に言う。
「あんた、見た目に反して実はいい人だろ?」
明らかに無理があったがそれでも俺は聞こえない振りをした。
サリットは声を出して笑っていた。
‐§‐
はたして、カズマの見立ては当たっていた、と思われる。
俺たちが連中が向かった方向にしばらく歩いていくとその先には粗末な廃屋があったのだ。
ひとけは無く、最近使われた形跡はないが、逆に長年放置されているような気配もない。つまり山賊が使われていないように偽装した、連中の隠れ家の可能性があるということだ。
俺たちは三人揃って木陰に隠れて、廃屋の様子をうかがっている。サリットが小声で聞いてきた。
「居そうか?」
俺は目と耳を凝らし、少しでも情報を得ようとするが、物音の一つもしない。かと思えば微妙に中に人が居るような気もするのだ。
結論を言えば、
「……微妙だな」
どっちつかずのままでいることに痺れを切らしたサリットが俺の肩に肘を立て頬杖を突く。もう片方の手では抜き身のダガーを弄んでいた。
「なあ、やっぱり俺が様子を見てこようか? コソコソしてばかりだから分かるもんも分かんねぇんだよ」
万が一ダガーを取り落として俺の足に刺さったりしないかと背筋を冷やしながら、サリットを諫める。
「相手がボウガンの一つでも用意してたら、不用意に近づく途中で死んじまう」
「でも、居たらの話だろ? 今んとこ居るかどうかは五分なんだから可能性で言えば、居る可能性からボウガンを持ってない可能性も考えると死ぬ可能性は低くなるだろ」
理知的に話を進められ、軽い頭痛と脳内回路の混乱を感じながらも俺は納得させられかけた。
周囲を警戒していたカズマが助け船を出してくれる。
「でも死ぬ可能性が無くなるわけじゃない。危ないのはダメだよ」
「そ、そう。そうだぞ、サリット」
尻馬に乗った俺をカズマが呆れた目で見てる気がする。俺は汗ばんだ背中に張りつく服を指でつまんではがした。
サリットは返事もせずぼうぜんとカズマを見上げている。
「? ……サリット、どうした?」
俺の質問には答えず、彼は俺の後頭部に頭突きをよこした。俺は身を隠していた木の幹に額をぶつける。
ダブルの痛みに悶絶する俺を余所にサリットは怒ったように小声で叫んだ。
「アホか、俺らは! カズマが居るじゃねぇか!」
「僕?」
突然自分の名を出されてカズマは困惑気味に自分を指差した。
サリットは深く頷く。
「カズマならボウガンの一つや二つ、少なくとも軽傷で済むだろ」
「そっか、そういえばそうだね」
カズマは感心したふうに言った。俺もそれは盲点だった。なかなかいい目のつけどころをしている。
カズマはがちゃがちゃと鎧を音立てながら廃屋へと無造作に歩いていった。
「僕は下手に隠れても無駄だから逆に堂々といったほうが自然だしね」
そしてカズマは廃屋に辿り着くと、全く堂々と「こんにちはー、誰か居ますかーっ?」と声を掛けながら廃屋のなかを覗いた。
と、直後。
「え? うわっ!」
カズマが大きく飛び退いた。それまで彼が居たところには鎧通しが閃く。
俺は何を思うより前に弾かれるように駆け出した。
「カズマ!」
「マデロ、居た! こいつらだ!」
カズマの声を聞きながら俺は剣を抜いて、鎧通しを構えているあの時倒れていた男を阻む。
男はすぐに鎧通しを振って俺に斬り掛かってきた。俺は剣でそれを弾こうとする。
が、男は鎧通しを剣にぶつけるようにして剣を弾くと自身は小さく回転し
(フェ、
素早く体勢を立て直し俺に突き出した。
イント!?)
虚を突かれた俺は反応できなかった。そんな曲芸のような動きは予想もしなかった。
窮地を救ったのは、当然ながらカズマだった。
「マデロ!」
いつのまにか抜き放っていた大剣で短刀を防いでくれる。俺はその隙を逃さず剣を振って男の右腕を斬り裂く。ついで左の太股も切り裂いた。これでろくな動きはできないはずだ。
「助かったよ、カズマ」
「いいよ、別に」
息の調子から微笑んだだろうことが分かった。つられたように俺も笑みを浮かべる。
ガン、という何か重いものが鉄板に落ちたような音がしたのと、それに反応した俺が顔を正面に向けたのと、廃屋からもう一人ダガーを持った男が飛び出してきたのは全て同時だった。
「っ、!?」
一撃目を防いだのは、ほとんど奇跡だった。驚いて反射的に振り上げた剣が男のダガーと当たって斬撃を逸らしたのだ。
男は素早く二撃目のモーションに入っている。その動きは持ち上げられた俺の剣の死角、脇腹を狙うものだった。
だが、その軌道は途中で止められた。止めに入ったカズマに男が狙いを変えたためだ。
「マデ……ぐっ!」
ダガーの振りを予備動作に代えて繰り出した蹴り、その爪先はカズマの鎧の隙間を見事に捉えていた。カズマは思わず膝を突く。
俺は一瞬で沸騰した怒りも交えて本能的にタックルを敢行していた。肩口からぶつかられた男は蹴りの直後ということもあり簡単に態勢を崩した。
ところが俺はそれ以上に態勢を崩しており、男が体勢を立て直したとき俺はまだ中腰の体勢だった。
「ぃ……やば……ッ」
今からどう動いても待ち合わない、ダガーを切っ先にしたアッパーカット。顎の下から脳天まで一気に貫かれる予感に俺は背筋を凍らせる。
「マデロ!」
何か大きな影が空から降ってきて、金属光沢が煌めいた。男が呻き声を上げたが俺は顎に一撃食らい、大きく仰け反る。喉元の近くにも痛みが走った。
何歩か後ずさると男が手首を抑えて傍らの人影を獰猛な目付きで睨んでいた。 傍らに立つのは、サリットだった。ダガーが血で濡れているのを見ると、上から飛び降りざまに男の手を斬ったのは彼だろう。彼はダガーを振ると見せ掛けて当て身をし、男を気絶させた。
「無事かい、マデロ?」
「あ、ああ。ありがとう」
サリットにはそう返しつつ俺は顎を撫でた。ぬめりとした感触に驚いて手を見ると指に血が付いていた。だが怪我はしていないのでおそらく男の血だろう。
次に、痛む喉元を指で無造作に抑えた。瞬間、痛みが走りびくりとする。そっと触れてみると浅い怪我をしているようだ。サリットが男の手を斬ってダガーは取り落としたものの、それは切っ先を俺に引っ掛けていたらしい。
「二人とも、怪我はない?」
カズマが男に蹴られた辺りを撫でつつ苦しそうに尋ねた。サリットも俺も大丈夫だと答える。そもそも一番大丈夫でないのはカズマだろう。
「お前はそっちの木陰で休んでろよ」
「でも」
「でもは無しだ。ほら、行ってこい」
俺は有無を言わせずカズマを追いやった。カズマは助けを求めるようにサリットを見たようだがサリットは肩をすくめ、
「マデロに賛成、カズマは休んでおきなよ」
二人に言われたカズマは諦めて木陰に向かった。
俺はそれを見届ける事無くサリットと目を合わせ、廃屋の中に入る。
中は暗く、窓や隙間から差し込む日差しには舞い上がる埃がたくさん見えた。壁にもたれるように座っているのは五人、俺たちを襲撃した奴らのようだ。包帯に血を滲ませている彼らは入ってきた俺たちを睨むものや、一瞥して目を逸らすものなどがいた。
決して長居したい場所ではない。俺たちは足早に奥へ向かった。そこにはすでに空になった鞄等が散乱しており、カズマのバックパックもその中にあった。
俺たちは顔を見合わせ、中身を確認する。水を含む食料はすでに全て抜かれていたが、医療キットを除いた日用品は全て手付かずだった。
つまり、“暁の鏡”はそのままそこにあった。
ひとまず安堵に胸を撫で下ろす。
「取り敢えず、これは持って帰るとして他はどうするんだ?」
サリットに言われ、俺は何気なくバックパックを閉じてから見回した。確かに空と思われた鞄のうちいくつかはこのバックパックのように日用品はそのままのものがあった。だが、
「放っておけ。俺たちの目的はあくまでこれだけだからな」
俺はそう言うとずいぶん軽くなったバックパックを背負って引き返す。サリットはどことなく安心したように笑って、後に続いた。
廃屋から出ると、淀んだ空気から解放されたようで辺りの空気がやたらと美味く感じられた。
木陰で休んでいたカズマは立ち上がり、こちらに歩いてくる。
「あったぜ、鏡」
俺はバックパックをカズマに差し出す。カズマははた目にも分かるくらい安心して息を吐いた。
「本当によかった……。ありがとう、マデロ、サリット」
「おいおい、俺たちに礼を言うのは変じゃないか? まあ、だからといって連中に礼を言うのはもっと変だろうけど」
カズマは笑って、そうだね、と言うとバックパックを肩に掛けた。サリットが決まり悪そうに言う。
「ゴメンな、カズマ。俺のせいで……。食料は全部取られたから町に引き返さないといけないし」
「まあ、それくらいは仕方ないよ。もう気にしてないし、サリットも気にしないでいいよ」
カズマは笑って言う。サリットはぎこちなく笑ってみせた。
俺は二人の肩を叩き、よく言えば気持ちを切り替えて、悪く言えば空気を読まずに朗々と声を張った。
「じゃあ、早いとこ帰ろうぜ。今日はもう日が傾いてきたから、また明日改めて出発だな」
二人は俺を見て頷いた。そして誰からともなく町へ向かって歩きだした。
‐§‐
サリットとは町中で分かれ、俺たちはおばさんの宿屋に帰ってきた。首筋に包帯を巻いた俺に驚いたようだが、軽傷と聞いて安心したようだった。
取り敢えず部屋をあてがわれ、追い払われるように俺たちは部屋に向かった。
剣の手入れを終えた頃、部屋の扉がノックされる。
俺はまた夕飯かと思い、案の定扉の前に居た三角巾の少女に疑いもなく挨拶をした。
ところが彼女はその挨拶にムッとした表情を見せ、俺を押し退けるとズンズンと部屋に入ってくる。カズマも驚いていた。
「え、ちょっと?」
「座って」
戸惑う俺を怜悧な目で射すくめ、短く要請する。そのあまりの威圧に俺は思わず従ってしまった。あまり柔らかくもないベッドに腰掛ける。その時やっと彼女が持ってきたのが夕飯ではなく救急箱であることに気付いた。
慣れた手つきで俺の包帯をほどくと救急箱から消毒液やガーゼを取り出しテキパキと処置をした。包帯はガーゼを抑える程度。
「何をしたの?」
「へ?」
処置を終えて鋏などを片付けながら三角巾の少女は静かな声で言った。いきなりのことで俺は間抜けな声を上げてしまう。
彼女は意外に整った顔を上げ、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「何をしたの?」
「なにって、まあ……」
状況の説明を求めていることに気付いた俺は情けない気分になりながらことの顛末を話すことにした。
話の所々でカズマに補足を入れてもらいつつ彼女に聞かせる。黙って聴いている姿に、些かやりにくさを覚えた。
話の途中、彼女は思い出したようにカズマの容体を聞き、脇腹の怪我を聞くや胸当てを外すよう厳命し、まごつくカズマを威圧で圧倒して手早くあざになっていたそこを手当てする。
手当てをしながら話を聞いて、俺の話が終わったのはカズマの処置が終わる頃だった。
話が終わった後、カズマの手当てをしながら、彼女は冷淡な表情のまま
「バカじゃないの」
一言。
包帯を巻く手に力が入ったのか、カズマが身をよじって悲鳴を上げた。
「いたた、痛いって!」
「あっ、ごめんなさい」
彼女はパパッと手当てを終わらせると立ち上がり、俺とカズマを見ながら嘆息一発。
「追い剥ぎの本拠地に乗り込むなんて無謀もいいとこだわ。なんて危ない真似をするの、あなたたち」
いや、俺は反対したし、そのことも話して聞かせたけど、俺も同罪?
しかもカズマの代わりの利かない大切なモノだから取り返しに行った、って言ったよな?
不満そうな気持ちが顔に出てたのか、彼女は澄ました顔で俺を見て、言う。
「なにか間違ったことでも言ったかしら?」
「……………………………………、いいえ」
俺は彼女から目を逸らして答えた。
彼女はもう一度溜め息を吐くと、呆れたふうに首を軽く振ってから、腰を曲げ救急箱を持ち上げた。
「もうそんな無謀なことはしないでね」
「気を付けるよ」
自嘲気味に俺は答えた。俺は本来そんな危険なことに首を突っ込む酔狂な輩ではなかったはずだ。
と、彼女が部屋を出てから最後の言葉が『忠告』ではなく『お願い』だったことに気付き、顔を上げる。
閉まった扉ごしに階段を下りていく音が聞こえた。
「僕の見立ては当たったみたいだ」
カズマが唐突に言った。
「やっぱり、君たちは見ていて面白い」
うんうん、ともっともらしく頷きながら。俺はなんとなくムッとして、ランプを吹き消すと寝転がった。
疲労からか、俺はすぐに眠りに落ちた。
……夕飯を食うのも忘れて。
‐§‐
情けないことに、俺は朝になっても夕飯を抜いたことに気付かなかった。
気付いたのは、三角巾の少女が朝飯を持ってきて、かつ彼女に指摘されたときだった。
盆を持った彼女に挨拶して、受け取ろうとしたとき妙な笑顔とともに急に言ってきた。
「お腹空いてるでしょ」
「あ?」
確かに空いているが、改めて言われたことに首を傾げた。そんなに飢えているように見えたかと思い、つい頬を掻く。
そのようすを見た彼女は堪えきれないというふうに笑い、俺に盆を渡しながら言った。
「昨日夕飯を届けにきたらもう寝てるんだもの、驚いたわ」
多めにしておいたから、という言葉まで受けて俺はようやく気が付いた。
ばつが悪い思いで俺は盆を受け取る。型通りの言葉を告げると、彼女は笑顔で去っていった。
頭を掻きながら俺は盆を机に置き、箸を取る。
カズマがまた妙に生暖かい眼差しを向けていることに、俺は気付かないふりをした。
飯を食い終わった後、俺はカズマのバックパックを持って出た。彼の代わりに調達を済ませてしまおうという話になったからだ。
当然、金は後でカズマに取り立てる。
「おや、もう行っちまうのかい?」
「ええ、お世話になりました」
おばさんが帳場に居たので、挨拶をする。おばさんは意地の悪い顔をして頬杖を突いた。
「いや、話が違うんじゃないかい?」
何の話か分からなかったので、俺は眉をひそめて彼女に向き直った。
「一昨日、次泊まる機会にはもう一泊していくって言ってたじゃないか」
すぐには分からなかったが、思い出した。
一旦出発した日の朝、そんな話を彼女としたのだった。俺は頭を抱える。
「勘弁してくださいよ、今回は特例でしょう……?」
本気で参った声を出した俺に満足したのか、彼女は快活に笑った。
「冗談だよ、そりゃもちろん分かってるさ。次この町に来たときは絶対にここを使っておくれよ」
「……ええ。ぜひ、そうさせてもらいます」
俺は力なく返した。本気で困った俺はどうやら大馬鹿らしい。
話し声が聞こえたのか、帳場の奥から三角巾の彼女が現われた。そこは厨房になっているのだろう、洗い物をしていたらしく腕まくりをしている。泡の付いた手を前掛けで拭って、おばさんと並ぶ。
「あら、もう行くの?」
その言葉に俺とおばさんは同時に笑った。おばさんと同じことを言ったのだ。
「マヤ、あんたも私に似てきたねぇ」
「母さん? なにが?」
感慨深そうに呟くおばさんと、訝しげにそれを見る三角巾の少女、名前はマヤというらしい。
それにしても、と俺は二人を見比べる。おばさんは愛敬のある顔つきではあるが、良くも悪くも普通のおばさんだ。
なのにマヤは、服装や態度のせいかあまり目立たないが結構な美人である。看板娘の役割は十二分に果たせそうだ。
コレからこの顔が生まれるのか……。人間って不思議。
「あれ、マデロ?」
「あ、カズマ」
長話が過ぎた。俺は苦笑しつつバックパックをカズマに返す。
帳場の母娘も出立する空気を悟ったらしく、見送りの態勢に早変わりした。マヤが口を開く。
「ねえ……」
「ん?」
「次この町に来たときも絶対ここに泊まってよ」
俺は小さく笑った。おばさんも目を細めている。
俺は軽く腕を振って、一言で返した。
「当然」
カズマを促し、宿屋を出る。旅人としていろんな宿屋を利用したがここほど“楽しい”宿屋は無かった。
俺は振り返って、看板に書かれた名を目に焼き付けた。洒落た名前だと思う。
それは古語を無理矢理カナ表記に直した名前で、古語の意味は、
「――おかえり、ね」
カズマが俺を待っていることに気付き、俺は慌てて駆け寄った。誤魔化しついでに話し掛ける。
「そういやよ、鏡に傷とかついてなかったか?」
「うん、大丈夫だった。運が良かったのかな?」
そんな他愛もない話をしながら調達を済ませ、町の出口へ向かう。そこには既にサリットが待っていた。
俺たちを見つけたサリットは寄り掛かっていた壁から背を離すと無言で俺たちに歩み寄ってくる。その眉は心なしか逆立っていた。
「悪い、待たせたか……ァッ!?」
「待たせ過ぎだ、大ボケ野郎!」
サリットはいきなり脳天チョップを放った。あまりの威力に俺は大きく仰け反る。頭を押さえ、痛みのあまり何も言えない俺に代わってカズマが謝った。
「ごめんね、遅れて」
「全くだ。どんだけ暇を持て余したと思ってんだよ」
そう言いながらサリットはカズマも蹴る。ガン、という音はしたものの、圧倒的に俺より威力が低い。
額を押さえる俺は少なからず理不尽を感じるが、表には出さなかった。それが大人というものさ。
「サリット、ホント悪かった。そろそろ出発しよう」
「そうだな」
「そうだね」
サリットはニイと不敵に笑って、カズマは頷いてそれぞれ答えた。
俺たちは町を後にする。
旅は至って順調だった。追い剥ぎに遭うこともなければ、雨降りにも砂嵐にも竜巻にも遭わなかった。
三日目から徐々に地形が変わっていき、背の低い狐色に枯れた草が一面に生えていたはずがいつのまにか青々とした草が広がる草原になっていた。
地域によって気候が違うせいらしいが、俺たちにとっては単にカナンへ近付いたしるしに過ぎない。
「なあ、あれがそうじゃないか?」
ふいにサリットが地平線を指差して言った。バックパックからジャイロコンパスを取り出していたカズマが顔を上げる。俺もサリットの指す方向を見た。
確かに地平線に点が小さく見える。おそらくあれがカナンだろう。
「ふぅ、この分なら明日には着くだろうな」
俺が頷きながら言い、水筒を傾けて口の中を湿らせる。カズマも俺の見立てに同意して呟いた。
「順調でよかった」
それから俺たちはカナンがもう少し大きく見えるまで近付いて、その日は野宿をした。月明かりと満天の星空が綺麗な空だった。
翌日も、起きて朝食を取るなり歩きだした俺たちは昼前にカナンの外れに入った。ぽつぽつと民家を見るようになり、中心へ向かうにつれその密度は多くなっていく。
途中の警邏に許可証を見せ、カナン特有の入町切符を切ってもらう。安全面の配慮かららしく、宿屋をとるときなんかに必要となるらしい。
町の中央に入ると今までとガラッと感じが変わる。
道は煉瓦敷きになり、家々も立派なものだ。人々は身なりも整っていて、俺は旅人とはいえみすぼらしい自分の格好を少々恥ずかしく感じた。
と、サリットが一歩離れて手を振った。
「俺はこの町に入るとソッコーで行かなきゃなんねぇトコがあるんだ。楽しかったぜ、また逢えたら酒でも飲もう」
「ああ? そうか、忙しいことだな。またな」
「またね」
俺たちの別れの挨拶を聞くなり、サリットは足早に去っていった。その背はすぐに人込みに紛れて見えなくなる。
旅人の別れとはいつもこんなものだ。あっさりし過ぎかもしれないが、出会いと別れそのものと言える旅人にはこのくらいがちょうどいい。
俺たちにも俺たちの用事があることを思い出した俺は、人目を引きまくる傍らの漆黒の鎧に尋ねた。
「カズマ、これからどこに向かうんだ?」
「うん、教会に」
教会、という言葉に俺は眉をひそめた。
この町はなんとか言う世界宗教の大聖堂があることで有名な聖地だ。そんなところまで来て他の宗教の教会に行くとは、いまいち理由にピンと来ない。
カズマは俺の質問の機先を制した。
「まあ、行けば分かるよ。僕個人としての理由もいくらか含んでるし」
個人的な理由、ということは信仰しているのだろうか? 宗教の信仰はときとして旅人に不利に働くことを知らないはずもないだろうが……。
まあ、行けば分かるというので、黙って付いていくことにする。
賑やかな表通りを歩いていたら、カズマは路地を曲がり、日陰になってひんやりとした路地裏をすいすいと歩いていく。俺は取り敢えずただついていった。
「もうすぐだよ」
カズマはそう言うが、寂れたこの裏路地には建物の裏口などしか見当たらず、ひょっとしていかがわしい宗教に感化されたのではと心配になってくる。例えば……、日の光を嫌うような宗教とか。
などと考えているとカズマが急に立ち止まり、ぶつかりそうになった。
カズマは振り返り、俺に言う。
「着いたよ、マデロ」
そう言って右手を指し示した。素直にそちらに顔をやると、
「…………」
教会の前に旧が付きそうな老朽化した建物だった。枯れたツタが壁面を這っているし窓ガラスはほとんどが割れていて、なんというか、とても『出そう』な雰囲気である。
「入ろうか」
「あ、ああ……」
カズマは平然として両開きの扉に手を掛ける。
本当に大丈夫なのだろうか。なにやら先程から動物のような鳴き声がなかから響いているのだが……。
カズマは構わず片側のみ扉を開けた。同時に一拍遅れて中に声を放る。
「みんな、久しぶり! 分かるかな、僕だよ、カズマだよ!」
しばしの静寂の後、中から弾けるような歓声が響いた。これは、子供の声だ。
「カズマにーちゃんだ! 久しぶり!」
「わぁ、この人がカズマにーちゃんなんだ! 凄い、かっこいいー!」
中から幾人もの子供たちがカズマに駆け寄った。わあわあ、きゃあきゃあと凄い騒ぎだ。カズマは困ったように、しかしそれ以上に嬉しそうに自分を囲む子供たちを撫でている。
そのようすから俺は警戒も心配も取り払った。子供好きのカズマらしい。
と、遅れておじさんらしい声も聞こえた。
「カズマ君、よく来てくれた。久しぶりだね、何年ぶりかな。三年、いや四年ぶりかな?」
「四年ぶりです、マートックさん」
カズマはマートックというらしい人に笑って答えた。子供もおじさんも、誰も俺の位置からはカズマが壁になってよく見えない。
カズマは子供たちをいくらか押しやり、一歩教会の中に入ってからマートックさんに尋ねる。
「サラは元気ですか?」
「ああ。至って健康、元気そのものだよ。ついでに言えばハッピーも元気だ」
良かった、とひどく安堵したふうにカズマは笑う。俺は全く話が掴めないが、サラとやらはカズマが世話になった人だろう。
と、カズマを囲んでいた子供たちの一人が、カズマが一歩動いたために俺に気付いたらしい。カズマの足の影から顔を覗かせる。
その子供の顔を見た俺は凍り付いた。
「お、おじさん、だれ?」
怯えたふうに尋ねるその子の顔には、真っ黒な傷跡が描かれていた。顔の右半分を覆うようにうねる模様は、時折うごめいて――。
その子に反応して次々と顔を覗かせた子供たち、その全員の顔には絡み付いた蛇のような黒いうごめく模様が描かれていた。
「出てけッ! ここから離れろ、二度と近付くな! この、悪党め!」
それらの子供の一人が木の枝を持ってカズマの脇を擦り抜けてきた。その子の一喝に俺は我に返る。
ゆっくりとその子供を眺め、目が合うと子供は一瞬たじろいだ。睨まれたと思ったのだろう。しかし彼は持ち直して枝を構える。
「……ふ、」
俺は口の端が笑みの形に釣り上がるのを抑えられなかった。剣を鞘に収めたまま、目の前に杖のように突き立てる。
「ふ、ふふふ。言ったな、小僧……悪党だと?」
にぃ、と口を釣り上げ睨みを利かせる。子供はもう二歩ほど後退りするが、果敢に枝を構え直した。勇ましく睨み返してくる。
呆然と振り返ったままのカズマを囲む子供の一人が叫んだ。
「だめっ、カルロ! 危ないよ!」
その子をキッカケに口々と逃げて、だの危ない、だのと叫ばれる。しかしカルロという子供に引く気配はない。むしろやる気が増したようだ。
「いくぞっ、だあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
枝を振りかぶって走ってきた。俺は鞘で枝の斬撃を軽く払う。
カルロは一歩下がり間を取ると、再び一気に突っ込んできた。俺はその足を軽く払ってやった。その子は転びそうになり、観客の子供たちが悲鳴を上げる。
一息に踏み込んで、転ぶ前にカルロという子を掴み上げるとカズマに放り投げる。カズマは慌てて彼をキャッチした。
危ないなあ、と言おうとしたらしいカズマを遮って、よく通る女性の綺麗な大声が聞こえた。
「すみません、うちの子が迷惑を! ごめんなさい、どうか許してやってください!」
驚いて俺は声のしたほうを見る。金髪碧眼の少女だった。彼女は深緑色のセーターにケープを羽織り、タータンチェックのスカートを穿いていて、両手には一杯に膨れた紙袋を抱えている。
俺は、
「サラ!!」
突然歓喜一杯の様子で叫んだカズマに驚き、
「カズマ君!?」
目をいっぱいに見開いて叫び返す少女に度胆を抜かれた。
俺は思わず絶叫する。
「お前ら、何?!」
‐§‐
教会のなか、ろくに日の光も差さない室内は薄暗かった。しかしその中にはたくさんの人が居た。まさしく老若男女が揃っている。
そしてその誰もが、顔や腕、足、胴など体のどこかに不気味にうごめく模様がある人々だった。
彼らはその傷のせいで人々に忌避され、差別を受けている。それ故にこのような場所で人目を避けて暮らしているのだ。
「“カーシド”、か」
俺は思わず呟いた。長椅子に腰掛けているのは俺とカズマとサラだけだ。
カズマは静かに俺をたしなめる。
「その呼び名は止めなよ」
「ああ、すまない。あの傷を見たのは初めてでな、驚いた」
俺が思わず呟いたカーシドとは差別用語だ。あの傷跡は呪いだとして、彼らは呪われた人々だと罵ったために生まれた言葉。
「でも、驚きました。貴方がカズマ君のいつも言っていた“マデロ”さんだったなんて……」
「見えないでしょう?」
サラの微笑んでの言葉に俺は苦笑で返した。カズマが俺を美化して話しただろうことは見当がつく。
サラも思わず頷きかけ、慌てて謝った。カズマは苦笑してフォローを入れる。
「でも、別に嘘は一つも話してないよ。マデロは優しい人だし」
「嘘はなくとも誇張ならてんこもりなんだろ?」
俺は揚げ足を取った。俺はそんな優しい人間じゃないし、少なくとも見た目は優しくない。
分かりやすく言うと、子供が一目で悪党だと思うくらいには、優しくない。
「でも、カルロと遊んで下さったじゃないですか」
サラにまでフォローを入れられた。というか、何で俺がフォローを入れられなければならないのだろう。
「あれはあの子で遊んだんですよ。脅かしたりして」
言葉通り、子供で遊んだ俺は子供達からはものの見事に嫌われている。カルロは彼らのヒーローみたいな子だったらしく、そのヒーローをいじめたのだから当然だろう。
なおも食い下がろうとする二人に笑顔をくれると、俺は話を本題に戻した。
「カズマ、そんなことはいいから、暁の鏡について聞かなくていいのか?」
「そうだった。サラ、これなんだけど……」
カズマはバックパックから暁の鏡を取り出すと、サラに見せた。
微笑みを湛えていたサラの表情が一瞬で真剣なものに変わる。
「これは、祭具ですね」
「祭具?」
おうむ返しに聞く俺に頷くとサラは慎重に鏡を手に取った。
「おそらく、禍を鎮めるために用いられたのではないでしょうか?」
サラは情報や説明を求めるように俺とカズマを交互に見た。俺は自分の知っていること、読み取ったことを正直に全て白状する。
それを聞いた彼女は顎に手をやり、黙考する。
そして、おもむろに口を開いた。
「マデロさん、この文字が刻まれた年代がいつか分かりますか?」
「え? えーっと、多分ですけど、百二、三十年前のものかと」
戸惑いながらも答える。考古学者じゃないので違う可能性も十分あります、と付け加えておいた。
しかしサラは首を振る。
「私も、確かではありませんが一応そういう目利きができます。マデロさんの意見は、私の考えと一致していました。おそらくこれは百二、三十年前に刻まれたのでしょう」
ですが、と彼女は続けた。ルーペのようなものを使って鏡面を見つめる。
「ですが、鏡これ自体はそれより遥か前に作られてるようなんですよ。つまり、文字は後から刻まれた可能性があります」
俺とカズマは顔を見合わせた。
サラはルーペを傍らに置くと、顔を上げて言い放った。
「もしかしたら、ただの祭具じゃないのかも知れません」
‐§‐
もう少しよく調べてみるというサラに鏡を預けたカズマは、その間俺ともども子供たちの相手をするよう頼まれた。
しかし子供たちから嫌われている俺が相手など出来るはずもなく、もっぱらカズマが遊び相手をして俺が離れたところから彼の目の届かないところの子供を見守ることになった。
「こんちは」
なのでそれが俺に向けられたものだとは思わなかったのだ。子供、それも女の子の声だった。
「あら、無視するの? イマドキの大人って感じ悪いのね!」
「……あ?」
その声があまりにも俺へと叩きつけられるものだったので、俺は周囲を見回して、その時初めてその少女が俺の真ん前に立っているのに気が付いた。彼女もまた額からこめかみにかけて黒い傷跡がある。
「俺に言ってんのか?」
「そうよ、他に誰か居るのかしら。幽霊さん?」
少女はぷりぷりと怒ったふうにいう。俺は頭を掻いて、謝った。
「悪かったな、気付かなかった」
「いいわ、特別に許してあげる」
尊大に少女は告げた。俺は返事に窮し、どうも、とだけ返す。
少女は俺の横に来ると、俺と同じように壁によりかかった。
「おじさんって、見掛けによらずいい人ね」
唐突にそんなことを言った。
「カルロが勝手にケンカ売ったのに軽くあしらったじゃない。サラは慌てて勘違いしてたけど。あのコもあわてんぼうね」
そのお姉さんのような物言いに俺は苦笑する。彼女はカルロと同じくらいでたった五、六歳なのだ。
「最近カルロはいい気になってガキ大将を気取ってたから、いい経験になったんじゃない? 助かったわ」
「そりゃよかった」
「みんな悪党だとか言ってるけど、それに文句言わないのはいい人の証明よね。英雄が英雄たるための悪役を演じてくれて、ありがと。損な役回りだけど」
「まあな」
話し半分で聞き流してるのだが、構わず彼女は話し続ける。しかもその内容は変に深い気がする。
幼い頃は女の子のほうが大人だっていうのは、どうやら本当のようだ。
少女は少し黙ると、俺を見上げて言った。
「ねぇ」
「ああ?」
対して、俺は彼女をちゃんと見返しもせず、気のない返事をする。
「おじさん、もしかしてサラに惚れた?」
「……は?」
俺は少女を見下ろす。彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべるでもなく、真剣な表情で俺を見上げていた。
「サラはいいコだし、お人形さんみたいに可愛いからね、みんな惚れちゃうの。だから、おじさんもそうなんでしょ?」
真摯な眼差しを向けられ、俺は苦笑が浮かぶ。
彼女の頭を軽く叩きながら返した。
「いや、まあいいコだとは思うけど、惚れてはいないな」
「どうして?」
「どうして、って……」
返事に困った俺は、何故か不意に頭に浮かんだマヤの姿から言い訳を閃いた。
「俺には好きな人が居るからね」
気が抜けたように少女はポツリと言う。
「所帯持ちなんだ」
「いや、それは違う……けどもういいか」
なんとなく疲れた俺は力なく笑いながら溜め息を吐き、説得を諦めた。
と、見る先でカズマを囲む群れのなかで押されたのだろうか、子供が一人転んでしまった。大声でわんわん泣きだす。
「あらら、転んじゃった」
「行ったほうがいいんじゃないか、『お姉さん』?」
俺がそう言うと、彼女は驚いたふうに目を丸くするが、嫌そうに溜め息を吐いて
「しょうがないわね、やっぱり私が居ないとみんなダメなのよね」
と、言い訳がましく言い残すとその泣いている子供に向かって駆けていった。
その背を見送ると、俺は壁によりかかったまま頭の後ろで手を組んだ。
日が暮れる頃、俺とカズマは教会の二階にある小部屋の前に居た。
カズマが古ぼけた扉をノックする。
「サラ、入るよ」
カズマが扉を開いた、その途端に埃がブワッと襲い掛かってくる。カズマは構わず、俺は手で埃を払い除けようと無駄な努力をしながら入室する。
室内は細長く、左右には本がギッチリと押し込められた本棚。正面には使い物にならない窓と、デスクがあった。その上にはランプと大量の紙が散らばっており、デスクの周りには本が積まれている。サラはそこで調べものをしていたようだ。
カズマの来訪に気付くと振り返って椅子から立ち上がり、その拍子に本の山を蹴ってしまい山が崩れる。
カズマはサラに近寄ると本の山を抱え上げ、本棚にしまい込みはじめた。どうやら何度かこの部屋に来たことがあるらしく、本をしまう手は探ってはいても迷いがない。
というか、カズマはこの暗いなかで面覆いをしているのに、よく本の背表紙の文字が読めるな。
カズマが片付けながら片手間に尋ねる。
「どう、なにか分かった?」
「ええ、まあ。この鏡、かつては呪具だったのかもしれません。途中で逸話や伝承が途絶えて、後世に効果だけを利用して祭具として使われ始めたのではないでしょうか。文字はその頃刻まれた祭具としての利用説明なのでしょう」
サラはそう答えながら本の山を一抱え持ち、カズマ同様に片付けはじめる。そのついでのように説明を続けた。
「鏡というのはこの辺りの地域では、古くから月や太陽か精神にまつわる儀式に使われます。呪具としてでも祭具としてでもそれは変わりません。その線で調べてみたんですけど、気になる文献がありました」
言い終わると同時にサラは手持ちの本を仕舞い終え、デスクの上にある紙を一枚とった。
二人が片付けているので手伝った方がいいかと思うがどこに何を入れればいいのかまるで分からず手持ち無沙汰に立っていた俺と、二つ目の山を取りにデスクのそばに来たカズマはその紙を見る。
その文献を書き写したのだろう、サラの丁寧な文字が規則的に並んでいる。だが学薄い俺には読めない語句も多かったため、読むふりにとどめた。
やがてカズマが顔を上げた。
「……この鏡は『傷跡』に関係するかもしれない、ってこと?」
「ええ。確証はありませんが、私はそうではないかと思っています」
二人は俄かに黙り込む。『傷跡』とはここの人達が持つような黒い模様のことだろう。それに、この鏡が何らかの形で関わっているというのか。
俺は机のうえの鏡に目をやった。ランプに照らされた鏡に映る灰色の俺が、静かに俺を見返していた。
突然、傍らから黒い腕が鏡に向かって伸ばされ、俺は飛び上がらんばかりに驚いたが、よく見ればそれは小手をつけているカズマの腕だった。
カズマは鏡を取ると、サラに気遣うような声を出した。
「サラ、悪いけれどこの鏡は僕が持っているよ。なんだか嫌な予感がするんだ」
サラはしばらく物欲しそうな顔で鏡を見ていたが、ふっと表情を緩めると顔を上げる。カズマの面覆いを見つめて、その隙間の向こうにあるはずのカズマの目を見つめて、言った。
「カズマ君がそう言うならそうしてください。でも、明日も必ず持ってきてくださいよ、まだ調べ終わってないんですから」
「分かった、約束するよ」
カズマは微笑んだふうに返した。サラも微笑む。
さて、と言ってサラは気持ちを切り替えると、俺とカズマの背を押して部屋の出口に向かう。
「ほら、暗くなる前に宿屋を見つけたほうがいいですよ。生憎とこの教会はもういっぱいなんです」
「ああ、うん。分かったから、押さないでよ」
カズマは困惑気味に文句を言いながら歩くたびにきしむ階段を下り、広間に出た。
そこでは子供たちが固まって遊んでいる。それにはカルロ達よりずっと大きな子達も入っていた。その真ん中からは、何か、動物の悲鳴のようなものが聞こえる。
「あら。もう、みんなったらまたハッピーで遊んでますね」
サラはそれを見て怒ったふうに膨れながら彼らの方に歩いていく。
みんなはサラに気付くと動揺したのか少し動いた。すると、みんなが動いて出来たその隙間から猫がひょいと飛び出した。
それを見たカズマは驚いたように呟く。
「あ、あれハッピー? 大きくなったなあ」
ハッピーとかいう猫は歩み寄りかけたサラを擦り抜け、一直線に俺たちのほうに……いや、カズマに駆け寄った。
「はは、よしよし」
カズマは片膝をついて猫を撫でる。猫は少し痛そうに鳴いた。
「なんだ? なんかカズマに懐いてるな」
「うん、捨て猫だったのを僕がいくらか世話したからだと思う。そもそもここに辿り着いたのも、逃げたハッピーを追い掛けてたときなんだ。その知り合った縁で、カナンを出るときにここに預かってもらった」
へえ、と俺は頷く。こんな寂れた場所をカズマが知ってるのは偶然見つけたからってわけだ。
そういえば、ここに入る前に聞こえた鳴き声はこいつに似てた気もしてくる……と思い返して気付いた。
「そういや、この教会はなんで窓があんなふうに割られてんだ?」
傷跡を持つカーシドがこんなに隠れ暮らしているのがバレて暴動でも起きたのだろうか。
と、俺のその疑問に答えたのはサラだった。
「それは、子供たちがはしゃぎ過ぎて……。私たちはお金がないので直せないんです」
と、俯き加減で恥ずかしそうに。俺は決まりが悪く曖昧に笑った。
まあ……、俺が心配したようなことじゃなくてよかった。うん。
「さて、そろそろおいとましようか」
猫を放したカズマが立ち上がりながら言った。離れようとしない猫をサラが抱える。
玄関にくるとカズマはサラを見つめた。サラも猫を抱っこしたままカズマを見つめ返す。
「それじゃ、また明日。まだ少し早いけれど、……いい夢を」
「ええ、また明日。あなたを神がいつでも見守っていることを祈っています」
サラの遠回しな言葉はつまり『神の加護がありますように』って意味だろう。
そしてカズマはサラの後に続いていた人々にも別れの挨拶をした。口々にまた明日、と返される。そしてみんな『後は見送るだけ』という顔をしてカズマを見ている。
えーと。
俺はどんな面で別れを告げればよいのだろう。むしろここは、カズマが彼の友人と別れを告げたってことで俺は適当に微笑んで立ち去ればいいのだろうか。
と、ある種間抜けなことで数瞬懊悩していた俺に声が掛けられた。
「おじさんも、またね」
見れば、サラの脇に例のお姉さんぶった女の子が居た。その後ろからカルロがあんな奴になんか挨拶するなとかなんとか彼女を説得している。
俺は苦笑して片手を上げた。
「ああ、またな」
俺が言うなり、カズマが俺を促して歩き始める。
カズマは全員に温かく見送られ、俺はそのお姉さんぶった女の子に見送られて教会を後にした。
寂れた裏路地を通って表通りに出る。日はすでに傾いており、煉瓦敷きの広い通りは赤く染められていた。
「さて、宿屋はどこかな。そうだマデロ、入町切符はなくしてない?」
俺はカバンを手のひらで叩いて示し、ひとつめの質問に答えた。
「宿屋なんか知らん。俺はカナンには来たことねぇ」
俺の言葉にカズマは驚いた。
「本当に? なんで?」
「メジャーすぎる町だからな。観光が用意された町を見ても楽しくないだろ」
俺の言いようにカズマは失笑、あまのじゃくだね、と言った。俺はあえて言及せず、いつか噂に聞いたことを尋ねた。
「確かカナンって綺麗な湖があるんだろ?」
「うん。色々と観光向けに手が加えられてるけど」
じゃあその近くの宿にしようか、とカズマは歩きだした。俺はとりあえずついていく。
思いのほか湖は遠く、辿り着く頃にはすっかり日が暮れた。頼りない月明かりだけが辺りを照らす。
煉瓦敷きに整備され、柵も設けてある湖畔をのんびり歩いていると、人影が建物の影から現われた。それは手にカンテラを持っているが、逆に陰影が濃くなり顔はよく見えない。
「……おい」
始めは誰だか分からなかったが、声を聞いて誰だか分かった。彼は手に提げているカンテラを持ち上げて俺たちを照らした。
「サリットじゃないか! どうしたのさ、こんな夜中に?」
カズマは尋ねたが、サリットは反応も薄く淡々と答える。
「二人に用があって、探してたんだ。悪いけど俺についてきてくれ」
そう言うと、彼は俺たちに背を向けて先導するように歩いていった。俺たちは顔を見合わせて、明らかに様子のおかしいサリットを不思議に思いつつも、ついていくことにした。
‐§‐
月の照らす湖畔を歩くこと数十分、サリットは開発中らしく立入禁止の柵を無言で通り抜け、コンテナや機材が山と積まれているところまで来てようやく足を止めた。
俺は目的地に着いたらしいことを感じ取り、サリットに尋ねる。
「こんなトコまで連れてきて、なんの用だ?」
サリットは振り返らぬまま、感情を見せない声で返した。
「たいした用事じゃない。ただ、カズマの持つ“暁の鏡”を俺たちに譲ってほしいだけだ」
「なんだって! どうしたんだい、急に?」
俺は目を剥いた。驚いたのは俺だけではなく、カズマもサリットに尋ねる。だが、彼は答えない。
俺は剣の柄に手を掛け、周囲への警戒を高めつつサリットの背中に声を放る。
「二つ尋ねたい。どうしてサリットが“暁の鏡”のことを知っている?」
殊更に隠してたわけではないが、確かにサリットには暁の鏡のことは教えていない。どころか、カズマが鏡を持っていることは知ってても、それが暁の鏡という名であることも、ましてや呪具や祭具であることも知らないはずだ。
「……………」
サリットは答えない。
尋ねているが俺は一応の予想ができていた。
おそらく、彼は酒場での俺たちの会話を盗み聞きしていたのだろう。あそこで語られた情報があれば調べることもできたはずだし、鏡が彼らの探していたものだとすれば、なおさらのことだ。
無言を貫き通すサリットに、俺は無駄と分かりつつしかし尋ねていた。
「『俺たちに』譲ってほしい、と言ったな。誰に言われた?」
サリットは答えない。感情の色を見せない無機質な声で尋ねるだけだ。
「鏡を、譲るのか、譲らないのか。どっちだ?」
風が吹いた。雲がかかり、月明かりが阻まれる。灯りはサリットの持つカンテラだけになった。
カズマは静かに胸当てに手のひらをやり、諭すような気遣うような声でサリットの求めに答える。
「ごめん。君が何のためにこれを欲しがるのか分からないけれど、譲ることはできない。これの持つ嫌な感じは君にも牙を剥くかもしれないから」
「……そうか。いや、カズマならそう答えるような気がしてた」
サリットはそう呟きながら、初めてこちらを振り向いた。その顔はつらそうに歪められている。
サリットはカンテラを高く掲げると、
「でも、悪いな。次はお約束の展開だ」
地面に叩きつけ、割り砕いた。
明かりが消え周囲が暗闇に包まれる。俺はカズマに手を伸ばし、手探りで背中合わせになった。背後で金属同士が擦れる音がして、カズマが大剣を抜いたらしいことを知る。
俺たちの周りに人が集まったらしく、すり足の足音が溢れる。
「マデロ……」
「気にすんな、とにかく生きて帰るぞ」
カズマに言い返すと、俺は剣を抜き、構える。
カズマはもう話し合える状態でない事を知りつつも、懲りずに暗闇に向かって声を放りつづけた。
「この鏡をどうしてそこまでして欲しいんだい!?」
当然、返る答えはない。
俺はカズマの背を肘で叩き、無言のままカズマからバックパックを受け取る。
直後、周囲多方向から地面を蹴る音が聞こえた。鋭く舌打ちすると俺はやみくもに剣を振った。手元さえ見えない闇はまるで抵抗のない墨のなかを泳いでいるような錯覚を俺に与える。
運良く剣が何かに当たり俺は無事に立っている。どうやら凌げたらしい。
向こうも見えないのか、味方への相打ちを恐れているらしくあまり仕掛けてこない。
「くそったれ、邪魔な暗闇だ……!」
俺は毒づきながらも、暗闇に乗じてバックパックから手探りで取り出した鏡を懐にしまうと、バックパックをカズマに返す。
と、そのとき空を覆う雲が途切れ、月明かりが差し込んできた。辺りが淡い光に浮かび上がる。
夜目の利く俺に相手の姿が見えるように、おそらく相手もちゃんと夜目が利くのだろう。相手の衣裳は黒装束で、夜中の行動を目的としているらしいことがよくわかるからだ。
ざっと見たところ周りには七、八人居て、その誰もが反りの入ったダガーを構えていた。
「カズマ、逃げろ!!」
相手が行動を取るよりも前に、俺は疾風のように飛び出した。先程通ってきた道を塞ぐ相手と切り結ぶ。
「マデロ、恩に着る! どうか生きて!」
カズマは鎧とは思えない俊敏さで俺の開いた血路を駆け抜けてゆく。すれ違いざまに硬いバックパックで俺と鍔迫り合いをしていた相手の後頭部を打った。相手は当然、昏倒する。
「その男はいい! 鎧を追え!」
誰かが大声で言った。残された六人のうち四人がカズマを追う。カズマには悪いが追っ手を阻んで生き残る自信はないので、横目で見送った。その中にはサリットも居た。
俺を始末するために残った二人に目をやる。どちらもダガーを構えている。
「嫌だね、俺はただの旅人だぜ? 剣士でもなんでもねぇ。人死には嫌なんだが、殺すつもりでいかないと生き残れそうにないな」
俺は呟いたが、無論相手は答えない。
俺は仕方なく、地面を蹴って突っ込んだ。相手はダガーを構え、二人がかりで迎撃しようとする。
片方のダガーを剣で払い、もう一人が振るった斬撃を身を低くすることで躱す。ついでにショルダータックルをぶちかまして、走りの勢いを殺した。
せっかく剣で払ったのにもう体勢を整えやがった相手を見てこれは死ぬかも、と思いつつ剣を思い切り逆袈裟に振った。
「っがあぁぁっ!」
相手の断末魔の恐ろしさに総毛立ちつつ、もう一人の方も腕を斬り付けた。その拍子に相手はダガーを取り落とす。
相手の足にも斬撃をくれると、俺は殺した相手のそばに居たくない一心で身を翻し一目散に逃げた。
走る先には、カズマとサリットが居る。
俺が辿り着いたとき、そこに立っているのはすでに三人だけだった。カズマと全身黒装束の男が対峙しており、サリットは離れた位置から冷めた目で二人を見ている。
俺に気付いたカズマが、大剣を引きずるように持ちながらも声を張る。
「マデロ! 無事だったんだ、よかった!」
カズマの言葉に反応して男が俺を振り向いた。つまらなそうに鼻を鳴らすその顔には、右目の周りをうごめく黒い傷跡が見える。
あいつはどうやらカーシドのようだ。
「二人でも倒せないのか? だらしがない奴らだ」
言うと、他の人より一回り大きいダガーを振る。重々しい衝突音がした。
俺をオトリに使って男に斬り掛かったカズマを彼は睥睨する。
「お前も、なかなかどうしてこうも私の神経を逆撫でしてくれる?」
「……くっ」
カズマは剣を弾いて間合いを取った。男はカズマのほうに振り向きつつ、どうでもいいことのように言い捨てる。
「サリット、お前はその男の相手をしろ」
俺は思わずサリットを見た。彼は苦虫を噛み潰したような表情を一瞬で消すと無機質な声で、はい、と答えた。そして俺に向き直りダガーを構える。
俺は剣を構え直しながら後退りした。
サリットは鋭く息を吐きながら一息に俺との間合いを詰める。何度もダガーで斬り付けてきて、俺は剣でそれを弾くものの後退は余儀なくされた。
「さ、サリット、待った待った!」
「はっ!」
「っ! ……本気?」
黙れというかのように容赦のない斬撃が俺を後退させる。ここはまだ柵が設置されてないらしく、月明かりを反射させる湖が少しずつ近くなってきた。
左右には数メートルの間を空けてコンテナがそびえ立ち、サリットに正面を塞がれているので背水の長方形リングと化している。
と、猛攻を続けていたサリットが不意に攻撃の手を緩めた。
「……ここまでくれば大丈夫か……?」
「は?」
ほうけた声を出す俺の前でサリットはダガーを持つ手を下ろした。真剣な表情で俺を見据える。
「悪かったな。俺はやつに逆らえないが、マデロとカズマを助けたい。こうしてやつから離れないといけなかったんだ」
俺は驚いて思わず剣を下ろした。サリットは剣をちらりと一瞥しただけで何もしてこない。
「これから俺たちはカズマと奴の戦ってるところに向かう。俺は大っぴらに動けないがサポートはするぜ。マデロ、湖の側をコンテナを影にして行くんだ。行けるか?」
「ああ! もちろんだ!」
俺は頷いた。やはりサリットは、理由は知らないが彼らに無理矢理協力させられていただけのようだ。
湿った土を蹴ってサリットに背を向け、駆け足で湖ギリギリまで寄る。湖とコンテナの隙間が作る狭い足場に身を入れると、コンテナの影にしゃがみ込み身を隠した。サリットが俺の後に続く。
そこから様子を窺うと、一段高く舞台のようになってるところで二人は戦っていた。カーシドの男がやや優勢らしい。
都合のいいことに、男はこちらに背を向けてカズマと戦っていた。
俺は足元に気を付けながら慎重に彼らに近付く。もし足を滑らせたりしたら面倒だ。湖は急勾配で深くなっているため、湖をほんの1メートルもいけば俺は首まで水に浸かるだろう。
「なあマデロ。俺はさ、昔捨て子だったんだよ」
唐突にサリットが昔話を始めた。俺は足を止めて彼を振り返る。
サリットは哀しげな表情をしていたが、手振りで先を行くよう促してきた。
俺は素直に前を向き先を急いだ。
「それでよ、俺は汚いことをしないと生き残れなかった。盗みや殺しは日常茶飯事だったよ」
沈んだ声での話は続く。
「俺は家なんかなかったからよ、覚えてるか? 追い剥ぎの棲んでた廃屋、あれによく似た環境で生きてたんだ。厳しかったね。雨も風も、俺たちには死に直結してたんだ」
「……サリット」
「そんな俺たちは、ルールも常識も他の人より大分違う。なあ、一つ教えてやろうか? そこでは、強者が絶対に正しい。それがルールだった。他にも、そう、他に……」
蕩々と話し続けるサリットを止めようと俺は振り返ろうとした、その刹那。
冷たい感触が背中を斜めに線を引いて走った。次の瞬間には焼けるような痛みが背中を暴れ回る。
ゆっくり加速しながら天地が回転して逆転していく視界のなか、
「『預けた背中は斬られる』なんていう言葉があるんだぜ」
悲しい顔をしたサリットが血に濡れたダガーを握って、俺を見下ろしていた。
次の瞬間には俺の視界と聴覚が水飛沫によって塞がれた。ざぱん、という音がやけに遠く聞こえた。
‐§‐
痛い。
まず思ったのはそれだった。事実、背中の傷は疼いて熱を帯びていた。あれからどのくらいの時間が経ったのだろう。カズマは無事だろうか。
俺はゆっくりと目を開けた。
窓が見えた。快晴だ。頬にあたる枕の感触や全身を包む寝具の温もりから、自分が寝ていることに気付いた。丸めた布団か何かを支えにして体を横たえているらしい。
俺は背中の傷を刺激しないよう細心の注意を払いながら、腕の力だけで起き上がった。
「マデロ! 気が付いた?」
背中の方から聞き慣れたあの年の割りに幼い声が聞こえた。振り向こうとしたら立ちくらみに似た感覚が襲ってきて、俺は眉間を押さえる。
「カズマ。無事だったか、よかった」
「心配する相手が違うよ。君のほうが僕よりよっぽど大怪我してたじゃないか」
足音が近付いてきて、椅子を引く音がする。カズマが隣に座ったらしい。
ようやく立ちくらみから覚めた俺は、カズマの声が普段と微妙に違うような気がした。だが、これは間違いなくカズマの声である。貧血で感覚がおかしいのかもしれない。
眉間から手を下ろしつつカズマに問う。
「ここはどこで、今日はい……つ…だ……? は?」
俺は飛び込んできた光景に目を疑った。
カズマは口を嬉しそうな笑みの形にしたまま俺の質問に答える。
「ここは湖近くの宿屋で、昨日のあれから一日しか経ってないよ」
カズマはそう答えてからようやく不思議そうな顔をして、次に合点のいったような顔をする。その間俺は口が開きっぱなしだ。
「いや、はは。びっくりしたかい?」
少々照れたように笑うそれは生身のモノで、いつでも装着して離さなかった鎧や兜はそこにない。代わりに、カズマの素の顔がそこにあった。
その意外にも人並みを凌駕するほど整った顔の右半分は、燃え上がるような黒い傷跡が刻まれている。
「いやもう、二重三重の意味でビックリ仰天、開いた口が塞がらんがな」
「ははは、そう?」
ひとしきり照れ笑いと驚愕の間抜け面を見せあった後、真面目な内容に話は戻った。
「昨日、お前は俺がサリットとやりあって退場した後どうなったんだ?」
その質問にカズマは頷き、一つ一つ思い出しては吟味するように話す。
「苦戦の後倒したよ。こっちも鎧の片足、膝の部分を潰されたけど。まあ結局、鎧は全部外してマデロを助けに飛び込んだけどね。鎧は今修理に出してる」
「そうか。ホント、ありがとな」
カズマは笑って応え、今度は俺に尋ねる。俺はサリットとのことを丁寧に話して聞かせた。
話を全て聞いた後でカズマは呟くように一言だけ、そっか、と言った。
ふと俺は懐を探ったが、それが無いことに気付きカズマに尋ねる。
「なあ、そういえば“暁の鏡”はどうなったんだ?」
カズマは黙ったまま窓際の棚を指差した。俺は振り向いて棚の上を見、溜め息を吐いた。
何かの拍子に砕けたらしく、鏡はほんの一片しか残っていなかった。
俺はそれを手に取って眺める。運がいいのか悪いのか、そこは『暁の鏡』の銘が刻まれた一節だった。
俺はそれをもう一度よく見ると、振り返ってカズマに手渡した。
「え?」
「それがないと困るだろ?」
俺の突然の言葉と行動にカズマは戸惑っているようだった。俺は笑いを堪えながら思い出させてやる。
「サラと約束してたじゃないか。今日も教会に鏡を持っていく、って」
「あっ、あああっ!」
思い出してこの世の終わりみたいな顔をしているカズマを見て、堪え切れず俺は声を出して笑った。
さて、と俺はベッドから降りて立ち上がる。ふらつきもせず、床を踏む感触も確かだ。俺は一人頷く。
振り返ってカズマに尋ねる。
「カズマ、俺のカバンってどこだ?」
「え? ここだけど……まさかもう出る気!?」
「さすがは俺の親友だ、分かってるじゃないか」
俺は笑いながら言って、カバンを受け取った。カズマは我に返った途端、焦って説得しはじめた。
「ちょ、何言ってんのさ。まだ傷だって縫ったばかりなんだよ? せめて一日安静にして様子を見たほうがいいよ!」
ていうか俺縫ったのか、と思いつつカズマの生身の肩を叩き、笑いかける。
「心配すんな、俺だって無茶するわけじゃない。昨日一日お前とサラを見てたらちょっとマヤに会いたくなってさ。向こうでのんびり療養するよ」
カズマは何と言って止めたらいいか分からないというふうで、オロオロとしている。俺は人の好い親友にもう一度笑うと、部屋を出るまえにキザったらしく肩越しに別れを告げた。
「んじゃ、またな。そのうちまた連絡寄越してくれ。今度こそ、一緒に酒でも飲もうぜ」
剣とカバンを肩に掛け、俺は宿屋を後にした。
〜§〜
歩に合わせて剣が揺れ、カバンを叩く。この相棒の剣は俺の命を何度となく死線から救ってくれた。
たいして整備もされていない通りを歩いていく。通りに出された看板の文字を読んだ俺は、笑みを口の端に浮かべた。
俺は顔を上げ、木の扉に手をやり、蝶番を軋ませながら扉を開いた。
「いらっしゃ……あら?」
帳場を雑巾で拭いていた三角巾の少女が顔を上げ、俺を見る。
「いらっしゃい、来てくれてありがと」
そう言って、とびきりの笑顔を見せてくれる。
俺が歩み寄ると、彼女は俺を見上げて、言うのだ。
「またなにか、素敵な土産話を聞かせてくれるの?」
これだから、旅人ってのは、止められない。
お疲れさまです。ではなく、読んでいただきありがとうございました。