第7話
グレイヴは夜に紛れ、一人王都を後にした。
彼は騎士の証である鎧を脱ぎ、代わりに軽い旅装をまとった。
腰に帯びられたのも、長く重い騎士剣ではない。カイの私室から持ち出された、彼の遺した細身の長剣。
彼は、『騎士グレイヴ』で居続けることを否定した。
これは『騎士』の任務ではない。
手記に挟まれていた手書きの地図。
彼は『騎士』としてではなく、ただ『カイの友』として、そこへ向かうことを選んだ。
遺髪をまとめていた指輪を右手にはめ、姿を隠すようにマントを羽織った。
「――カイ」
鏡に映る姿は、どことなく、緋色の友を思わせていた。
数日後、グレイヴは地図が示す峠の入口へと臨んでいた。
そこは王国の兵士でさえ、野盗を恐れて忌避するような、人里から距離を置かれた場所。
獣道のような山道を登り、地図に記されたいくつもの岩の印を越える。
視界は突如、不意にひらけた。
そこには、簡素に整えられた、小さな集落が存在していた。
子供たちが走りまわり、その傍らでは笑いながら、女性たちが草をまとめる。守るように、木剣を構えた男たちが訓練の型を繰り返している。
彼らがまとうのは、王国の軍服でも、かと言って隣国の軍服でもない。
それは普段着と何も変わらない、簡素で実用的な衣服だった。
グレイヴの顔が一瞬ほころぶ。
王都の民衆のような、抑圧された感情ではない。そこには、人間らしい豊かな感情が感じられた。
それは間違いなく、『英雄』のみせたわずかな油断。しかしその油断は一瞬にして断ち割られた。
「止まれ」
背中にあたる固い感覚。
――近づきすぎたか
自覚しても、すでに遅い。
グレイヴは、抵抗する意志がないことを示すために、ゆっくりとその両手を上げた。
「貴様は――」
背後から覗くように男が告げ、わずかに振り向いたグレイヴと視線が合う。
「騎士グレイヴ!」
背中にあたっていた感覚が去り、男が脇で木剣を構える。
その構えに既視感のようなものを感じ、グレイヴは両手を上げたまま体を回して、男と正面からまっすぐ向き合う。
「おやめ、アッシュ」
かかった声は、集落の中からだった。
いつの間にかそこにいた一人の老女が、木剣を構えた男を諌める。
彼女は杖をついていたが目付きは鋭く、それは、グレイヴの体を一気に射抜いた。
「通すんだ。カイ様が守ったお客人だよ」
――カイ様
その呼称に一瞬グレイヴがたじろぎ、アッシュと呼ばれた男は剣を下げる。
グレイヴの疑念が確信に変わる。
――カイだ。
アッシュの剣の独特の構えは、そしてその剣を下げる動作は、彼の傍らにいた友の姿を思わせていた。
老女はグレイヴを、集落の中心にある建物の中へと案内した。
彼女は厚く編まれた草の敷物へ深く座り、グレイヴは向かい合うように、それよりいくらか低い、同じような物へ座る。
彼の背後では出入り口を守るように、アッシュが柱に寄りかかっている。
やがて、老女は静かに語り始めた。
「あなたがここに来るのは知っていました。英雄グレイヴ」
「やめてください。私は英雄などではない。大切な友さえ守れなかった――、ただの愚か者です」
グレイヴは、顔を上げることができなかった。
この老女はカイを『カイ様』と呼んだ。そしてアッシュの剣は在りし日のカイを思わせた。
カイが、この集落で特別な人間であったことは、すでに否定のしようはなかった。
「そうですか。ですがカイ様はあなたに遺志を残された。あなたが、自身の残した種子をその成長まで見守るようにと」
その言葉に、グレイヴは一気に顔を上げる。
「なぜ、それを――」
「カイ様は私達の恩人です。長引く戦火に家を追われ、行き場を失った私達に、いるべき場所を与えてくれました。そして、この馬鹿らしい現実を終わらせると、私達に誓ってくださいました」
「カイが――」
「そして、そのために得た真実が、ご自身の生を保ったままでは、決して花開くものではないということも」
「――!」
グレイヴは身を乗り出していた。
呼吸の仕方さえもわからなくなるほどの激しい動悸が、彼の全身を激しく揺すった。
老女は一度グレイヴを見て、そして両目を閉じると静かに言った。
「――真実。それは、王国の闇です」
「カイ様はたしかに、『鉄の爪』の情報を流されました。ですがそれは断じて個人的な利のためではない。カイ様は『鉄の爪』の放棄を目論んでおられたのです」
グレイヴは胸元へと爪の先を立てたまま、目を大きくして顔を上げた。
「放棄――?」
「そうです。王国には、隣国との戦いを利益として、あえて戦線を維持しようとするものがおりました。カイ様は『鉄の爪』の価値を無にすることで、戦争の早期終結を、可能にされようとしていたのです」
「まさか、そんな――」
「信じられないのは無理はありません。しかし、カイ様は、私達にこれを残されました。いつか、自分を継ぐものはここに来ると」
そういって老女は懐を探り、引き出したものを手のひらに乗せるとグレイヴに対し差し出していた。
姿勢は前傾、呼吸も荒いまま、胸を抑えたグレイヴは見る。
「指輪――」
それは今、彼の指にはまる小さな指輪と、そっくり同じものに見えた。
「カイ様は、すべての抵抗を放棄するとおっしゃっていました。自身が真実を語れば、あなたもまた、その連名として罰せられると」
グレイヴは前傾姿勢のまま、肘の内側へと顔をうずめた。
心のなかで激しく、何度も友の名を呼んだ。
自分が騎士として守り通した『秩序』が、いかに歪んだものであったか。
『反逆』の罪を背負って逝った者が、いかに国を思う忠臣であったか。
その最期まで貫いた信念が、どれほど強く、自分を守るために築かれたものであったか。
彼は傍らの、細身の剣を握りしめた。
その冷たい感触だけが、自身がまだ生きている、生かされているという、唯一の錨のように感じられた。




