夕凪は太陽に、狡猾な恋をする。
青春を、否定することはしない。
思い出は平等に美しい。きっと大人になって、今の高校生として日々を紡ぐ自分を思い返して、僕は「青春だったな」と笑うだろうから。
青春を否定したら、今の自分を否定することになるから、それはしない。
……でも、人を好きになる気持ちが分からないというのは、ひとつ事実だった。
色恋沙汰に理解が及ばない。僕が誰かを好いたとて、それは一瞬だから。
永続的を追いかけるような青春の中で、僕はそれを掬ってみるが、どれも零れ落ちていく。
人を好きになれないわけじゃない。人を好きになり続けられないのだ。
たとえば僕は、高校一年の時、同じクラスの女子と付き合った。
僕は確かにその子のことを好きだったし、その子も僕のことを好きだった。
が、たった数週間後、ほんの数回のデートしかしていないというのに、僕は一方的に別れを告げてしまった。
──飽きた。
それが理由だった。
くっつき合って、手を繋いで、それが嬉しくてたまらないはずだったのに、だんだん煩雑になっていった。
彼女は泣いた。
僕はそれを見ても何も思わず、涙や、それに反射する世界のことばかり考えていた。
涙は、綺麗だったような気がする。
たとえば僕は、高校二年の時、違う高校の女子と付き合った。
電車通学の僕は、いつも彼女と同じ車両に乗った。
僕と同じく読書好きらしい彼女に興味があって、ある暑い夏の日、僕はついに話しかけた。
好きな作家の話、高校の話、夏の話…。
独特な感性を持っている彼女の話はどれも面白くて、コンテンツは平凡なんだけれど、装飾品が綺麗だった。メタファーや語彙から、彼女の知性が覗いた。
それがとても魅力的に映った。
僕から交際を持ちかけ、僕から交際を断ちきった。
──飽きた。
やはりそれが理由だった。
独特な感性に魅了されているだけなら、彼氏彼女という肩書きは要らない。
そう思って付き合うのを辞めよう、これからもその感性には触れたい、と言ったら、彼女らしくない感情的な言葉が飛び出してきて、僕は失望した。
──できるわけない。ふざけないで。
そういうわけで、僕はそれ以来誰とも付き合っていない。自分が恋愛に向いていないことを痛烈に自覚したからだ。
とはいえ、自分が間違っているとは思わない。
寧ろ正解寄りな考えをしていると思うんだけれど、周囲の恋愛に対する価値観というのは、依存や惑溺が前提にある所為で、僕の考えはまるで受け容れられないのだ。
恋愛が出来ないというよりは、しないようにしていると言う方が正しいのかもしれない。
人を好きになる気持ちが分からない、人を好きになり続けられないというより、依存や惑溺を前提とする一般論ベースでのそれとなると、僕は俄然不器用になると言う方が、たぶん正しい。
*
夏風が妙に心地よかった。
それだけじゃない。青空だって見事で、荘重、美麗、そんな言葉でしか表せない僕のボキャブラリーを恨むくらいには、美しい夏の夕方だった。
梅雨の晴れ間。
七月上旬、梅雨明けを目前に、今日は昨日までの雨とは打って変わって、今年一の猛暑日となっていた。
──梅雨明けと、言って良いんじゃなかろうか?
そう言いたくなるほど雨の気配はもう無くて、梅雨を思わせるものといえば、若干雨の匂いが残るアスファルトくらいのもの。
懐古と言ってもいいほど、梅雨の雫は遠い昔のことのように感じられた。
しかし天気予報を見てみれば、今夜からまた降り始め、明日から二日連続でまた大雨が降った後、それでようやく梅雨明けだろうということ。
……雨はもともと嫌いじゃないが、梅雨に関してはもはや好きの部類だった。
燦々と照る太陽のために、夏のスタートピストルのように、雨がざあざあと降る。
それは何とも芸術的な美しさを孕んでいるように思えたから。
が、それが終わるとなると、少し寂寞のようなものを感じた。
スクールバスで駅まで運ばれ、その駅から今度は路線バスに乗り、僕の住む長閑な漁港街に着くのは、ホームルームが終わってから一時間ほどしてからになる。
さすがに傾きだした太陽は、悠々と泳いでいた空のプールに、オレンジを揺蕩わせる。
海沿いを歩くと風が少し冷たく、汗ばんだ首筋にそれが当たると若干の寒ささえ覚えて、僕は夏に溺れる。
そのまま弓なりになっている海沿いを歩き続ければ、やがて鄙びたバス停が見えて、僕は歩き疲れるとよくそこに座って休憩をした。
──が、今日は、そこに先客がいた。
麗らかな黒髪を後ろで束ね、所謂ポニーテールにしている少女。
瞳は透き通るようだが、しかしたしかに黒色で、二重の目元からは儚さを感じる。
口元にはつねに微笑があって、しかし微笑と言ってもそれには可変性があり、さきほど僕を捉えた時の微笑にはいくぶん驚嘆が滲んでおり、今、立ちすくむ僕を見つめる微笑には、いくぶん凪ぐような静謐が滲んでいた。
背丈は平均よりだいぶ小さいようで、全体的には儚さや淡さを覚える見た目だが、その小さな体躯からはあどけなさを感じた。
「夕凪──」
僕は思わず、そんな言葉を口に出していた。
ちょうど今、海は夕凪。彼女の浮かべる微笑のような静謐。
まるで彼女自体が海のように思えて、無意識のうちに声を発していた。
「……はい」
彼女は返事をした。
夕凪、と言われて、返事をした。それは疑問形ではなくて、たしかに応答だった。
返事のうち、はい、という応答を引き出した僕の言葉。
夕凪、それは──名前、だろうか。
「夕凪…?」
僕は先程の自分の言葉を反芻する。
とはいっても、それは完全な反芻ではなくて、自分の言葉を確認するような、そして彼女の反応を確認するような、疑問形の反芻。
「夕凪」
彼女は淡々と答える、僕の疑問形に、僕と全く同じ言葉で答える。
夕凪という言葉でのみ会話をする僕らは、まるでボール遊びをする猫のようだった。
「正しくは、夕凪と書いてゆな、ですが」
彼女の微笑が少し姿を変えた。
今度は楽しげな、笑窪の見えるほど深い、そんな微笑。
「夕凪、ですか」
「はい、夕凪です」
彼女のそれは、まるで名前じゃない。
というのは、何と言うか──所謂人に対して命名されるような、そういう名前じゃない。
概念…。彼女は、夕凪という、概念。
彼女は、夕凪なのだ。夕凪そのもの。言ってしまえば、まるで彼女には人間味がなく、寧ろ彼女自身が『夕凪』そのものであると言われた方がまだ肯けた。
「いい、名前ですね」
「どうも。君は?」
彼女の微笑が一瞬深海のような深さ、強さを帯びた後、今度は興味の色を滲ませた。
喩えるならそれはイエローで、彼女の纏う雰囲気とはまるで異なる、溌剌を覚えさせる色彩だった。
「陽輝。太陽が輝くと書いて、陽輝です」
「君も、素敵な名前。今日が、似合ってる」
彼女は微笑をそのままに、何故だか若干の寂しげな色を覗かせたような気がした。
──何で、そう思ったんだろうか。
分からないけれど、今日が似合っている、即ち今日のような晴れの日が似合う、と褒めてくれた彼女の表情は、これまでの純粋な微笑ではなかった。
水面だけを掬えば透明だが、しかし水の色自体は濁っているような。
喩えば、入浴剤を放ったバスタブ。初めて彼女の纏う色が、複合的になった。
「でも、夏は嫌い。晴れも、青空も、太陽だって」
夕凪は少し冷え冷えするような、アンニュイな風を吹かせる。
「造花のようでね。本来忌避したいはずのそれが、夏という枕詞の幻想に惑って、そんなはずのない不可説的な美しさを湛えるから」
造花。幻想、不可説的な、美しさ。
彼女らしい遠回しの否定の言葉は、どんなものより刺々しく思えた。
「そもそも、拡大解釈の美麗は皆、嫌い。
外的要因によって輝く、月のようなそれらに、魅力は感じない」
彼女はぽつりぽつりと、言葉を零し始めた。
──ふと空を仰ぐと、銀の雫もまた降り始めていた。
夕凪は座っていたベンチに空白を作り、そこをぽんぽんと手で叩く。
ありがたくそこに座らせてもらって、先程よりいくぶん距離の近くなったまま、彼女は続けた。
「どう思う? それ自体が美しいわけじゃないのに、別の働きかけによって美しくなるって、狡いと思わない?」
僕は雨を見ながら、考えた。
夏という美しいもののお陰で、夏の空や風やそれら情景は美しいと言われる。
たしかに、夏のお陰でそれらまで美しいと言われて、情景のことを狡いと言うことも出来るかもしれない。
しかし夏の空や風やそれら情景のお陰で、夏も美しいと言われているわけだ。
月だって太陽が美しいから美しいわけだし、月が美しいから太陽も美しい。
それは相互作用であって、単一的な考え方でそれを括るのは、どうもナンセンスに思えた。
「……君、すごい」
それを言うと、夕凪は感嘆とした表情で僕に言った。
「──ねえ」
夕凪は刹那、僕にぐっと顔を寄せた。
睫毛と睫毛がくっつきそうなほど、鼻先が触れあいそうなほど。
彼女の息づかいを、僕は肌で感じた。
「教えて──君が知りたい」
彼女の声が、鼓膜を経由せず直接脳に注ぎ込まれる様。
彼女の放った言葉には、イエローを湛える興味どころでなく、半ば強制さえ滲んでいた。
僕が肯くしかなかったのも、その色に目を奪われてしまったからである。
──また、雨が降り出していた。
まだ、そこまで強くない雨脚。
暫は、止みてありしが、梅雨の漏り。虚子の俳句を思い出す。
彼女の微笑は、今までで一番生き生きとしていて、それは喩えるなら、野生であった。
*
彼女──夕凪との付き合いはそこに起点を置く。
僕を教える、というところから始まったこの関係は、たぶんただの友人という型には収まらない。
友情とは大抵が受容の連続だが、僕たちのこれは、彼女の知的好奇心によってのみ支配されている。
そこに受容や妥協と言った情けはなく、彼女の知識欲が失せた瞬間、僕らの関係は爆ぜるのだ。
だから、きっと僕たちは友人ですらない。
その日からほとんど毎日、夕凪とあのバス停で話した。
梅雨が明けて夏が来て、やがて一学期が終わって夏休みが来ても、朝八時くらいに出向けばそこに夕凪はいた。
あるいは一度帰って夕方また話しに行くこともあった。その方が、夕凪らしかったから。
僕は夕方の夕凪の方がやっぱり好きで、それは至極当たり前のことであろう。
会話は、基本的に他愛ない。
序盤は、この関係の基盤にある僕を知りたいという知識欲によって促され、いくらか自分語りを強いられる。
それが済めば世間話になって、内容は、たぶん主婦がする井戸端会議と大して変わらない。
夕凪が自分語りをすることもあって、たとえば、彼女は僕と同い年だが学校に行っていないことがわかったり。
その理由は、とある男子にされた乱暴であることが分かったりと、彼女は見かけによらず生々しさ──ある種の写実性と言ってもいいけれど──の中に居るのだとわかったり。
僕は偉そうに、人間味がないとか、概念だとか形容したけれど、実際の夕凪は人間でしかないということがわかってくると、僕と夕凪の間に流れる空気はいくぶん弛緩した。
あるとき、それは夏休みの中頃だったから八月十日あたりだと思うけど、夕凪は僕を家に招いた。
いつも朝八時から行われる会話は、だいたい九時くらいに終わる。その日も恙なく会話が行われて、携帯電話の時計が8:35あたりを示したところで、彼女が口を開いたのだ。
「今日、家に来てよ。どうせ帰れど、お互い独りぼっちでしょ」
──まあ、その通りではある。
家族がいるとはいえ、夏休みを家族と過ごすなど小学生じゃあるまいし、かと言って友人と青春謳歌に出かけるわけでもない。
肯く理由はなかったが、肯かない理由はもっとなくて、僕はあまり悩むことなく一度だけ、しかしとても深く肯いた。
彼女の家は、件のバス停から十分弱歩いたところにあった。
漁港から少し離れ、高台を登った先──というか途中。
望街坂と名付けられた、眺めの良い坂の入り口を左に曲がって、少し行ったところ。
なぜか予想は出来ていたんだけれど、彼女の家は周りの家と比べてかなり大きい。
場合によってはたぶんお屋敷とさえ言えて、外観はどこかジョサイア・コンドルを彷彿とさせる、相当豪華な作りをしていた。
「なに、立ちすくんでるの?」
「いや、ごめん。立派な家だなと思って」
「そう? 私はこの家が嫌いだけど」
夕凪はどこかに鬱屈の芽を出していた。
微笑のない表情を見るのは久々で、しかしそれでも無色透明なわけじゃなく、深海のような濃いブルーがそこには見えた。
「大丈夫、私の他に人はいないから」
──急激に、鬱屈の花が咲く。
無理矢理作ったというような微笑が覗いて、見たことのないような花が、サディズムで、傲慢で、卑屈の色を湛える花が咲く。
僕は何も答えることが出来ない。息をのんだが、しかしそれは感動なわけがなく、寧ろ絶望や堕落に似ていた。
玄関はホールになっていて、優雅な花やヴェドゥータ、現代アート的なオブジェクトなんかが飾られている。
「靴、脱いで」
夕凪に促されるまま履きつぶしたスニーカーを脱ぎ、スリッパに履き替える。
歩くには、当たり前だが大理石で出来ていると思しき床を踏みしめなくてはいけない。
しかしどうも憚られて立ち尽くしていると、夕凪がどうしたの?という視線をこちらに配り、リビングに繋がる扉を開けているので、心の中で謝罪をしながらやや急ぎ足で夕凪の方へ歩く。
リビングは、おそらく僕の家のそれが三つは入ろうか、というくらい広かった。
家具もいちいち豪華で、ソファなんか五人はゆうに座れそうなほど大きい。
夕凪はそれに腰を下ろすと、あの日のように──初めて会った凪の日のように──自分の隣を手でぽんと叩き、座って、と無言で僕に促した。
「失礼、します」
「なんでそんなに硬くなってるの?」
「いやだって、豪邸もいいところじゃんか」
「君は──そんなことでビクビクするような人だっけ?
私の中での君は、どんな家だろうがふんぞり返ってくつろぐような、そんな傲慢な人なんだけれど」
「心証悪いね」
──夕凪は、どこか勘違いをしている。
僕を、僕だと思っている。
本当の僕とは、『僕』を被って強く見せているだけの、道化師でしかないのに。
繕った、その偽装の部分を。僕がそうしようと思って偽装している部分を、あまりに純粋に、ありのまま僕と受け取られてしまったら。
夕凪は知らないだろうが、僕はこんなことで罪悪感を覚え、自業自得に苦しむような、幼稚な人間なのだ。
……しかし、それをありのままに言うのは、きっと僕じゃない。
ぎゅっと口を噤んで、夕凪を見つめる。
「……ねえ、恋って、なんだと思う?」
唐突にそう言うと、夕凪は笑む。
微笑とまでは行かない、しかし無表情でもない。
その挟間で蝋燭の灯のように、ゆらゆら揺らめきながら。夕凪は、僕の瞳孔の奥を──もはやそれさえ貫いて、僕の物理的な奥にある何かを見つめていた。
──僕は沈黙のヴェールを被る。
何も返さなかった。何も、返せなかった。
「質問、変えよっか?」
彼女はそう言うと一度だけ息を吸って、吐き出すと同時に言葉を紡いだ。
「好きだよ、って言ったら、君はどうする……?」
──胸が、ぎゅうっと押し潰されるような、そんな感覚。
心が痛い。苦しい。辛苦がそこにあるわけではないが、僕はそれを感じずにはいられない。
明滅し、意識が朦朧としているかのように朧気な視界。
そんな中でも、夕凪の微笑だけははっきりと見える。
その微笑は、泣き出しそうな、或いはもう涙の一滴二滴をこぼしているのかもしれない、悲壮感の色を浮かべていた。それはたぶん、透明色だ。
「君のせいでっ……何もかもが綺麗に見えるじゃんかっ…!
世界のこと、嫌いになっちゃうよ……君だけを、好きになっちゃう……」
声色に、愈々透明色が滲出する。
──あの日、僕が否定した彼女の自説は。
本当に美しいもののお陰で、本来美しくないものまで美しいと称されるのは、狡いと。
そして、その狡い美しさは嫌いだという自説は、まだ生き続けていたらしい。
「なんで……なんで、私と一緒にいてくれるの…?
勝手で、偉そうで、わがままな私なんかと一緒にいても、楽しくないでしょ……?」
僕の喉にはずっと何かがつっかえていて、声は出せない。
ただ目の前の夕凪を、まるで映画のヒロインのように、俯瞰している。
夕凪は、目の前のヒロインは、今、嵐だった。
「──夕凪は、どうして僕のことを好きだと思った?」
僕はようやく口を開く。
久しぶりに出した声はどこかぎこちなく、いくぶん機械的になった。
「あるいは、僕のことをどうしたい?」
夕凪は一瞬、呆気にとられたような顔をした。
彼女の予想していたいずれの返答にも合わない、別角度から切り込んだ僕の質問に、純粋に困惑しているようだった。
が、やがて少し考えると、口を開いた。
「……知りたい。もっと、もっと知りたい」
「もし、僕のことを知り尽くしたらどうするの?」
「知り尽くしなんかできない。君は、今この瞬間にも、新しい君になってる。常に知り続けないと、私は君を見失っちゃう」
僕は純粋に驚き、或いは感動した。
……僕はどうも、時間を止めていたようだ。それに、気付いたから。
「……今、僕が君のことを大して知りたいとは思っていなかったとしても──時間が進んでいれば、君のことを知りたくなる……いや知らなくちゃいけなくなる、ってこと?」
「そう。時が止まっていれば、停滞。時が進んでいれば、喪失。好きとは、そういうリスクの上に佇む、蝋燭の灯」
たとえば、今日の九時二分に生じた恋情を以て、付き合い始めたとして。
その恋情はむろん、時間経過と共に劣化し、また色褪せていく。
しかし、恋情を一時間おきにアップデートしたとしたら──?
或いは、そのアップデートの行いを『知る』と定義するなら──?
……僕は一般論ベースの恋愛に不器用なのではなくて、アップデートを怠っていただけなんじゃないのか。
そしてそれは、僕の傲慢じゃないのか。
「──ねえ、僕は今、夕凪のことを知りたいと思っている。この知識欲は、夕凪に干渉するに足るかな」
「きっと、足る。君が、私のことを知って、知り続けたいと思ってくれるなら。
君が、私のことを見失いたくない、って、そう思ってくれるなら」
──途端、この広い広い室内は、まさに凪のように静まった。
僕は夕凪を抱きしめる。
壊さないように優しく、でも拍動が伝わるくらい、強く。
腕の中で仄かな熱を帯びる静謐は、すっかり穏やかな色を浮かべている。
体温や息づかいや拍動が、僕にはなくてはならないもののように思える。
或いは、本当になくてはならないのかもしれない。
……物事にはたぶん、すべてのタイミングがばっちり合って、まるで運命かのように凪ぐ瞬間がある。
それは今だと思った。
僕はこの体温を、息づかいを、拍動を、知りたい。知り続けたい。
この凪を、もう見失いたくないから。
──見つけた。
そう思った。
夕凪は、カラフルな微笑を湛えた。
彼女の果てしないほど深い瞳孔に反射する僕は、どこか安堵したような表情をしていた。




