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苦手な方はご注意ください。

『チカちゃんは甘やかされたい』 ――異世界で幼女転生した元おじさん、看板娘として人生謳歌中!

作者: まぴ56

この物語は、会社を潰して人生のどん底を味わったおじさんが、ある日突然、異世界の少女の姿になって転生(というか転送)されるところから始まります。


剣も魔法もない小さな辺境の町。そこで彼が(いや、彼女が)出会ったのは、ひとりで酒場を営む少女・リーネ。

優しくて、ちょっとおせっかいで、誰かを想って頑張る彼女の隣で、元おじさんは少しずつ変わっていきます。


これは、戦ったり、冒険したり、世界を救ったりする話ではありません。

ただ、「居場所がなかった人が、居場所を見つけるまで」の、ちいさな百合のお話です。


読んでくれて、本当にありがとうございます。

 近嵐晋作ちからし・しんさく、五十五歳。

 剣道五段、柔道四段、空手四段、合気道二段。

 武の道を極めた男。かつて“武の鬼”と呼ばれ、会社では“地獄の管理職”とさえあだ名された男は、その日、電車のホームに立っていた。


 背筋はまっすぐに伸びていた。革靴は古く、スーツはくたびれ、ワイシャツの襟は黄ばんでいた。

 その手に持っているのは、一本の花束。退職祝いの名残。重たいが、軽い。三十三年間の社畜人生の重みには遠く及ばない。


 最後の肩書は、大手小売企業「タブン・ナンカ・Eホールディングス」経営統括部部長。

 だが今、その名刺に意味はない。会社は事実上、破綻した。


 ──晋作は、会社を潰した。


 いや、正確には、“潰れるのを止められなかった”というのが正しい。

 晋作は、ステルス値上げや利益至上主義の経営方針に反対していた。だが幹部たちは聞く耳を持たなかった。長年の信頼も通じず、口を開けば煙たがられ、部下は顔色をうかがい、上層部には“過去の人間”とレッテルを貼られた。


 結果、利益は一時的に上がった。しかし数ヶ月後、顧客は離れ、SNSでバッシングが巻き起こり、株は暴落。

 「経営判断の失敗」は、晋作のような“古い人間”に押し付けられた。


 そして、今日──晋作は“諭旨退職”という名のクビを言い渡された。


 「あなたのような昭和体質の人材は、もう組織に要りません」


 そう言われて。


 それでも晋作は、怒らなかった。

 泣かなかった。ただ、深く頭を下げた。

 そして最後に言ったのだ。


「……迷惑をかけた。すまん」


 



 


 駅のホーム。

 アナウンスが流れる。


 「快速電車が通過します。黄色い線の内側までお下がりください――」


 時計は、午後五時三十八分を指していた。夕焼け空は、錆びたような色をしていた。


 晋作は考えていた。

 この先、どう生きればいいのか。

 五十代。独身。親は他界。家族もおらず、友人もいない。


 会社にすべてを捧げてきた結果、何も残らなかった。

 “なぜこんな生き方しかできなかったのか”――そんな後悔だけが、脳内をぐるぐると巡っていた。


 その時、視界の端に一人の若者が入った。


 頬がこけ、目の下にクマを作った痩せた男。二十代だろう。

 彼は足取りもおぼつかないまま、まるで夢遊病者のようにふらふらと黄色い線へと近づいていた。


 ――その目を見た瞬間、晋作は直感した。


 (……こいつ、自殺する気だ)


 電車の音が迫っていた。轟音が近づく。目の前を巨大な鉄の塊が突っ切ろうとしていた。


 晋作の身体が動いた。


 



 


「おい!!」


 腕を伸ばす。

 反射でも、考えでもない。これは昭和の“反骨”だ。

 生き方を失敗したかもしれない。でも、誰かの人生を救えるなら、もう一度、生き方を選びたかった。


 彼は若者の腕をつかみ、渾身の力でホームの内側に放り投げた。


「くそっ、重てぇ……!」


 体格差のある若者を救った代償は、大きかった。

 晋作の体が、そのまま前へ──線路に、落ちていった。


 ――ガタン。


 運転士と目が合った。

 あまりにも一瞬で、あまりにも鮮烈で。


 晋作は、静かに微笑んだ。


「……すまないな。迷惑をかける」


 その一言を残して、白い光に飲み込まれた。


 



 


(闇だ。終わりなき闇。音も、匂いも、すべてが遠い)


 その中で、誰かが笑っていた。


『おお、来た来た。おつかれさーん』


「……貴様は?」


『あー、冥土の神じゃないよ。どっちかっていうと、“再振り分け担当者”。お前さん、今まだ処理中』


「処理中だと……?」


『まぁ、死んだのは確定ね。電車にぐちゃぐちゃにされて。スプラッタ通り越してスープだった。』


「……その報告、必要か?」


『いらないよな、うん。でも言いたくなったんだ、悪い』


「……ふん。なら早く成仏させろ。終わった命だ」


『ん~……ちょっと待った。実はお前さん、“ポイント”高いんよ。』


「ポイント?」


『人生最後に、他人を助けて死ぬって行為、これ高ポイント。魂、かなり輝いてた。いや~、冥界でも噂になってたね。“やたらガチムチのオヤジが若者を救って電車に突っ込んだ”って』


「誇らしいが、死んでることに変わりはない」


『まぁまぁ。……でさ、最後の最後に呟いてたじゃん。“小型犬にでもなりたい”って』


「……聞いてたのか」


『聞いてた聞いてた。そんでね、思ったの。“小型犬じゃなくてロリにしといた方が面白い”って』


「貴様……ッ!!」


『うん。ロリにしといた。小柄で、黒髪ロング。おっとりでもなくツンツンでもなく、素直になれない無口系。清楚な見た目に、やや凶暴な口調。お前そのままよ』


「ふ、ふざけるな! わしは男だぞ!!」


『知ってるよ。でも、今回はちょっと趣向を変えてね。“魂の未練に応じた再生成”ってシステムを使ってます。』


「そんな機能あるのか……」


『あるよ。あと、シークレットサービスもつけといた。サービスだから。感謝しろ』


「……うぅぅ……」


『なぁ、チカちゃん』


「呼ぶな!!!!!!」


『“甘えたい人生だった”って願っただろ? ……今度は、甘えて生きてもいいんだぞ』


 


 その言葉のあと、意識が落下していった。

 風のように。落ち葉のように。ふっと、地面へ吸い込まれていくように。


 



 


 目を覚ましたとき、彼は──彼女は、草の上に寝転んでいた。


 風が吹いていた。草木が揺れ、小鳥がさえずる音が遠くで聞こえる。

 空は青く、高く、雲は絵の具のように広がっていた。


 その視界に、誰かが入った。


 金色の髪。赤い瞳。白い肌。柔らかな声。


「……あら? こんなところに、女の子?」


 彼女は、夢を見るように瞬きした。

 そして自分の手を見た。小さな、小さな指先。


 違う身体。違う人生。――でも、もう“悪くないかもしれない”と思えた。


 



 



 草の匂いがした。風が吹いた。どこかで小鳥が鳴いていた。

 それは、あまりにも静かで、あまりにも穏やかな目覚めだった。


 チカちゃんは、いや――元・近嵐晋作は、ゆっくりと目を開けた。


 視界に飛び込んできたのは、どこまでも澄んだ青空。濁りのない、まるで絵の具のような色だった。

 白い雲が一つ、風に流されて形を変えていく。ああ、そうか。雲というのは、こんなにゆっくり流れていたのか。


「……ああ。夢……じゃないのか」


 呟いた自分の声に、チカちゃんはぎょっとした。

 鈴の音のように高く、どこか無垢な響きがあった。間違いなく、これは自分の声ではなかった。


 目を細める。手を上げてみる。

 細くて、柔らかい指。まるで陶器のような白い肌。軽い。軽すぎる。


 胸元に視線を落とすと、そこには何もなかった。ぺたんこだ。

 スカートの裾が風に揺れ、太ももが無防備に露出する。


「……ふざけるな……!!」


 怒鳴り声が、草原に響いた。小鳥たちが驚いて一斉に飛び立つ。


 まるでギャグのような状況だが、本人は至って真剣である。


 チカちゃんは、草むらの中で身体を確認しながら叫んでいた。

 身長は百三十センチあるかないか。髪は腰まで伸びた黒髪ストレート、前髪ぱっつん。目元は鋭いが、顔立ちはあまりにも愛らしい。


 どう見ても、少女。しかもロリ。


「ぐ、ぐぬぬぬぬぬ……!! この身体はなんじゃ……!」


 神の声が脳裏に響いた気がした。「ロリにしといた!」という愉快そうな口調が、今でも耳に残っている。


「これが“甘えたい人生”の成れの果てか……いや、しかし、だとしても限度があるじゃろうが!」


 チカちゃんは草の上で叫びながらじたばたした。スカートがめくれそうになるたびに、慌てて抑える。


 小さい。軽い。そして、かわいすぎる。

 武の鬼と呼ばれた昭和の漢が、今や転がるロリ美少女である。


 


 そのときだった。草むらの向こうから、小さな声が聞こえた。


「……あれ? 女の子……?」


 顔を上げたチカちゃんの目に、まるで陽だまりのような存在が映り込んだ。


 ――金髪。

 透き通るような金色のツインテールが、太陽の光を受けてきらきらと輝いている。瞳は宝石のような赤。純白のブラウスに、黒のスカート。胸元には赤いリボン。エプロンをつけているのに、どこか気品があった。


 まるで絵本の中のヒロインのような少女が、そこに立っていた。


「こんなところで寝てたら、風邪ひいちゃうよ? ……だいじょうぶ?」


 声も、柔らかかった。耳に優しい。

 だが、チカちゃんにとっては脅威である。なにせ、己の姿が今これなのだ。


 しどろもどろになりながらも、なんとか返事をする。


「な、名前……か……近嵐晋作ちからし・しんさくだ」


 静かに、はっきりと。

 自分の名前を、自分の声で言う。その響きが、この世界にも確かに届いた。


 少女──リーネは、少しきょとんとしてから、小首をかしげた。


「ちからし、しんさく……? ……ごめん、ちょっと呼びにくいかも」


 言われて、晋作はわずかに眉を寄せた。だが、次の瞬間──


「うん、じゃあ! チカちゃん、だね!」


 ぱあっと、リーネが笑った。


「……チカ……?」


「うんっ! “ちからし”の“チカ”で、チカちゃん。かわいいし、ぴったり!」


 勝手に名付けられた。しかもロリネームである。


「な、なぜそうなるッ!! わしはれっきとした大人の──」


「チカちゃん、よろしくねっ!」


 満面の笑顔とともに、手を差し出すリーネ。

 あまりにまぶしくて、反論の言葉が喉に詰まった。


 ──こうして、“チカちゃん”が誕生した。


「チカちゃん、よかったら、私の家に来てくれる? ここからすぐのところに、私がやってる酒場があるの」


「……さかば?」


 聞き慣れない響きに、チカちゃんは首を傾げた。だが、その言葉に続けてリーネは弾むように笑って言う。


「うん! 【レストラン風と花】っていうの。看板娘……というか、いまは私がオーナーなの!」


「……そんな若いのに?」


 ふと疑問が口をついて出た。いや、どう見ても自分と同じくらいの歳──十歳そこらの少女が、ひとりで店を?


 リーネは少しだけ目を伏せ、それから顔を上げて、静かに言った。


「うん。……お父さんとお母さんがね、昔やってたお店なんだ。でも、二人とも病気で……何年か前に亡くなっちゃったの」


 チカちゃんは、言葉を失った。


 あまりに明るく言うその声が、どこか痛々しく思えた。


「だから今は、私がやってるの。小さなお店だけど、ちゃんとご飯も作れるし、部屋もあるし……チカちゃん、ひとりなんでしょ?」


 その一言に、チカちゃんの肩がぴくりと揺れた。


「……見りゃ分かるか。こんな森の中で、子どもが一人で寝てるんじゃ、な」


「うん。最初、倒れてるの見つけた時びっくりしたよ。ケガしてないかって、何度も確認して……ほんと、無事でよかった」


 リーネはそう言いながら、草の葉っぱを払うように、そっとチカちゃんの肩に手を置いた。


「あのね。……私、もう家族って、増えないものだと思ってた。でも、さっき会ったとき、チカちゃんのこと見た瞬間……なんだか、ほっとしたの。ひとりぼっちじゃないかもって思えた」


「……」


「だから。お願い、ね? いきなり連れて行こうとしてるって思われるかもしれないけど……困ってる子を見て、ほっとけないんだ。私、誰かに甘えてもらえるのが、うれしいの」


 リーネの声は優しかった。まるで、冬の朝に差し込む日差しのように。


 チカちゃんは、少し口を開けたまま、言葉が出てこなかった。


 ──この子は、本気で心配してくれている。

 ただの好奇心じゃない。責任や義務でもない。

 自分の居場所を、少しだけ広げてくれようとしている。


「……ふん、分かった。そこまで言うなら、甘えてやる」


「ほんと!? よかったぁ……!」


 ぱあっと、花が咲いたようにリーネが笑う。


「じゃあ行こっか。冷たい風も吹いてきたし、スープ作ってあげるね」


 チカちゃんは小さく頷いた。


 この世界で、最初に差し出された手。

 それを握るのに、思ったよりも時間はかからなかった。


「貴様、年はいくつだ……?」


「えっと、十七!」


 若い。若すぎる。十歳ほどのチカちゃんから見れば、お姉さんであるが、元おじさん的には娘に近い。


 無邪気な笑顔が、やけに胸に刺さる。


(ああ、これは……)


 ――この世界、非常にやばい。

 でも、たぶん、優しい。


 



 


 リーネの家は、町の入り口にある小さな煉瓦の家だった。

 木製の看板に、ややへたくそな手書き文字で【レストラン風と花】と書かれている。


「はい、ここが私のお店!」


「……かわいらしいな。いや、建物が、じゃぞ?」


 チカちゃんは慌てて言い足す。

 リーネは「ふふ」と笑ってドアを開けた。


 ──リーネの家についたチカちゃんは、玄関の扉を開けた途端、ふわりと鼻をくすぐる甘いハーブの香りに足を止めた。


 床は木造で、靴を脱ぐと足に優しい感触が広がった。中は広くはないが、丁寧に掃除された様子が伝わってくる。飾られたドライフラワー、木製の家具、すみずみにまで“手の温もり”があった。


「まずは……お風呂入ろっか!」


「お、おふろ……?」


 言葉の響きに、チカちゃんの眉がぴくりと動いた。


 いや、冷静に考えれば当然の流れだ。見た目は小さな女の子なのだ。森の中で眠っていたせいで、服も土と葉っぱまみれだし、髪も乱れている。


「ほら、スカートも泥で汚れてるし。温まったほうが風邪ひかなくてすむよ?」


「……むぅ」


「ふふ、大丈夫。服は私の子ども時代のがあるから。サイズも、たぶん合うよ!」


「貴様は何を持ち出そうとしておるのか……!」


「べつに変な意味じゃないよ!? 普通にお風呂入って、普通にパジャマ着るだけ!」


 チカちゃんはしばらく葛藤していたが、リーネのあまりに悪気のない笑顔に押され、やがて観念したようにため息をついた。


「……仕方ない。許可する」


 



 


「うわぁ……広っ」


 脱衣所の扉を開けると、そこは驚くほどしっかりした造りだった。石造りの浴槽に、白い蒸気がふんわりと立ち上る。木の壁、天窓から差し込む薄明かり、湯気に溶けたハーブの香り。


 リーネはタオルを用意しながら、笑顔で言った。


「温泉まではいかないけど、薪で沸かしてるから体の芯まであったまるよ。……一緒に入る?」


「っ……!?」


 チカちゃんの顔が、一瞬で赤く染まった。


「ばっ、ばかっ、そういうのはだなっ、せめて段階を踏むべきで……!」


「ふふっ、じゃあ一緒に入ろっか」


「聞いておらんのか貴様は!!」


 リーネはくすくす笑いながら、先に湯船にちゃぽんと入った。小さな背中。細い肩。けれど、その水面越しの姿は、どこか堂々としていて、美しかった。


 チカちゃんもやがて、渋々といった風情で肩まで湯につかる。


「……んく。あつい……けど、わるくない」


「でしょ? この時間、好きなんだ。……誰かと並んで湯に入るのって、すごく安心する」


「……ワシは、ずっと一人だった」


「そっか……でも、今は?」


 チカちゃんは、肩まで湯に沈みながら、ぽつりと呟いた。


「今は、隣に……おぬしがいる」


 リーネが、すこしだけ驚いたような顔をした。


 それから――にこ、と彼女は微笑んだ。


 浴室には、湯の音と、ふたりの小さな息遣いだけが漂っていた。


 



 


 湯上がり、ふわふわのパジャマに着替えさせられたチカちゃんは、ソファの上で完全に電池が切れていた。


「……なんなんだこの異世界……」


 湯船は香草入り。湯加減は完璧。リーネは背中まで流してくれた。

 何もかもが、丁寧で、やさしくて……そのせいで、自分の“孤独な人生”が余計に思い出される。


 ふと、涙が浮かびそうになる。

 自分は、誰かにこんなふうに扱われたことが、あっただろうか。


 上司には叱られ、部下には恐れられ、親には死なれ、恋人も作らず、ただひたすら“仕事”を続けてきた。


 誰かに甘えたことなど、一度でもあっただろうか。


 リーネが毛布を持ってきて、そっと掛けてくれた。


「はい、これ。ちょっと夜は冷えるかも」


「……ありがとな」


 ぼそっと口にしたその言葉に、リーネが驚いた顔をした。


「ううん。チカちゃんが来てくれて、私もうれしいよ」


「……ばか。うるさい。……黙れ」


 顔が、熱かった。湯冷めではない。


 ――なぜか、心臓が跳ねた。


(……悪くない、かもしれん)


 チカちゃんは、小さく目を閉じた。

 この世界が与えてくれるものを、もう少しだけ受け取ってみたくなった。


 甘やかされるというのは、こういうことなのか――と。


 



 



 異世界生活、二日目。

 近嵐晋作――改め「チカちゃん」は、フォークに敗北していた。


「はい、チカちゃん。フォークの使い方、わかる?」


「……こんな不安定な道具で、何をどう食えと言うのだッ!!」


 リーネの作ったサラダを前に、チカちゃんは眉間にしわを寄せていた。

 小さな手ではうまく力が入らない。指が滑る。レタスが皿から逃げ、トマトが回転し、ニンジンはスプーンで押しつぶされた。


「やはりこの世界には箸が存在せんのか……不便な国だ……」


「そっか、日本ではお箸だったんだね。うちの町にはないけど……竹はあるし、作ってみようか?」


「……くっ、情けない。ワシはこんなことで手も足も出んとは……」


 フォークを握ったまま、チカちゃんは小さく肩を落とした。


 元・剣道五段、元・大企業幹部が、今はレタスと格闘している。

 その姿は、あまりにも無力で、あまりにもかわいらしい。


 リーネは、思わずくすっと笑った。


「……くすっ」


「笑うなッ!」


「だって……チカちゃん、ほんとに可愛い」


「貴様ァァァァァァ……ッ!!」


 



 


 午前中いっぱい、チカちゃんは酒場の手伝いに挑んでいた。


 まずはテーブル拭き。これはなんとかなるかと思いきや──


「ぬぉッ!? 水が……ッ!!」


 雑巾の絞りが甘く、水滴がテーブルからこぼれ落ち、近くにいた老紳士の膝を濡らしてしまう。


「す、すまんッ!!」


「いいよいいよ、チカちゃんががんばっとるだけで和むわ〜」


「誰が“和み系マスコット”じゃァァ!!」


 


 次に皿洗い。これはイケる、と思った。が──


「おぉッと!? うぉぉおおお……ッ!!」


 石鹸の泡に滑って、見事に顔面スライディング。

 皿を一枚割り、頬に泡を付けたチカちゃんは、床に突っ伏して呻いた。


「ぐぬぬぬ……またやった……ッ!」


「大丈夫!? こっち来て、タオル取ってくるね!」


「……ぬうううう……」


 抱き起こされるたびに、屈辱と共に沸き上がる温もり。

 なぜだか、居心地が悪くないのが悔しい。


 


 そして配膳。運命の時が来た。


 両手で皿を持ち、慎重に運ぶ。片足を引いた瞬間――イスの足にひっかかった。


「わああああああああ!!」


 パンが飛び、スープが空を舞い、悲鳴とともにチカちゃんが床に倒れた。


「……泣いちゃった!?」


「な、泣いておらんッ! 目に、目にスープが入っただけだ……ッ!」


 



 


 リーネは、終始笑顔だった。


 チカちゃんがどんなに失敗しても、怒らない。責めない。

 むしろ嬉しそうに「だいじょうぶ?」「もう一回やってみよっか」と声をかけてくれる。


 そのたびにチカちゃんは、顔を真っ赤にしながら叫ぶ。


「なぜそこまで甘やかす!!」


「だって、チカちゃん頑張ってるもん」


「ワシは……もっと叱られるべきじゃろうが……!!」


「じゃあ、次失敗したら、“ちょっと叱って、でもすぐ抱きしめてヨシヨシ”してあげる」


「結局甘やかしじゃろうがァァァ!!」


 


 そのやり取りのたびに、リーネの笑顔は柔らかくなる。

 そして、チカちゃんの胸の奥にも、なにかが積もっていった。


 安心。温もり。信頼。

 自分が“いていい”場所があるという、ただそれだけのことが、こんなに胸を熱くするなんて。


 



 


 夜。営業が終わり、ふたりだけのまかないタイム。

 リーネが作ったシチューの湯気が、テーブルの上でほのかに揺れていた。


 一口、スプーンを運んだ瞬間。


「……うまい……」


 ぽろりと、涙が頬をつたった。


「……こんなに、あたたかい食事……いつ以来だったか……」


 チカちゃんはスプーンを握ったまま、動けなかった。


「会社の飯は、冷えたパックのカレーだった。自販機のブラックばかりだった……味なんて、覚えてない」


 リーネはそっと手を伸ばして、チカちゃんの手の甲に触れた。


「……がんばってたんだね、チカちゃん」


「なあ、リーネ……ワシは、異世界でも、結局まともに働けんのかもしれん」


「うん。たしかに、ドジだし要領も悪いし、ちょっと気難しいよね」


「お、おぬしな……!」


「でもさ。誰かのために働こうとしてる。失敗しても、ちゃんと“ごめんなさい”って言える。それって、とても大事なことなんだよ」


「……ふん。騙されんぞ」


「うそついてないもん」


 


 リーネの笑顔が、やたらと胸にくる。

 褒められるたび、頭を撫でられるたび、自分がどんどん“ちいさく”なっていく気がした。


 



 


 その日の締めくくり。掃除の時間。


「次はお掃除ね。ホウキとモップ、どっちがいい?」


「む……ホウキだ。長物なら任せろ」


「そういうのだけは自信あるんだね!」


「“だけ”とはなんじゃ“だけ”とは……!」


 ホウキを手にしたチカちゃんは、まるで刀を構える剣士のようだった。

 その動きは美しく、正確で、何より早かった。床は瞬く間にピカピカになり、棚の上の埃も綺麗に取り払われた。


 リーネが手を打って喜ぶ。


「すごい! 私より全然うまい!」


「ふふん。ワシは武道家じゃからな。ホウキも武器のうちよ」


「じゃあ、これから毎日お願いしようかな。チカちゃんの担当、決定!」


「うむ。任せておけ」


 


 ――“得意”があるって、うれしい。

 その小さな自信が、チカちゃんの胸をほんのりと温めていた。


 



 


 夜更け。ふたりでリビングに座り、カモミールティーを啜りながら、薪ストーブの炎を見つめる。


 リーネがぽつりと呟いた。


「ねぇ、チカちゃん。ここで、ずっと暮らしていくのって……どう?」


「……そんなこと、今はまだ……」


「……うん、だよね。でもね。チカちゃんが来てから、毎日がすごく楽しくて」


「……」


「このお店は、パパとママが遺してくれたんだ。昔は笑い声でいっぱいだったの。私、あの頃に……もう一度戻れた気がするんだよ。チカちゃんが来てくれて、少しだけ、過去が救われた気がするの」


 リーネの声は、少しだけ震えていた。

 それは、ずっと一人で頑張ってきた子の声だった。


「……やめろ、そういうのは」


「え……?」


「……泣くじゃろうが、ばか」


 チカちゃんの目から、涙が一粒こぼれた。


「ほんとはワシ……会社を潰したとか、冷酷だったとか、いろいろ言われて……もう、誰にも感謝なんぞされることはないと思っておったんじゃ……」


 リーネは静かに、そっと、チカちゃんの頭を撫でた。


「よしよし、チカちゃん。偉い偉い」


「ううっ……ぐすっ……うわああああああん!!!」


 ソファに埋まって泣きじゃくるロリ美少女を、リーネは優しく抱きしめた。

 それはまるで、ずっと求めていた“救い”のようだった。


 チカちゃんの魂が、静かに溶けていくような夜だった。


 



 



 その朝、リーネは珍しく眉間に皺を寄せていた。

 カウンターで帳簿を見つめるその目は、いつものきらきらした光をどこか失っていた。


「……今日も、全然お客さん来ないなぁ」


 昼過ぎになっても、テーブルの上には誰もいなかった。

 窓から差し込む陽光は穏やかで、風に揺れるカーテンがやさしい音をたてていた。にもかかわらず、店内には沈黙だけが漂っていた。


 チカちゃんは、小さな足をぶらぶらさせながらカウンター席に座っていた。

 手に持っているのは、ほんのり甘いミルクティー。少しだけ砂糖が多めになっている。リーネが好意で作ってくれた“子供向け”だ。


 そのミルクティーをひとくち飲み、じっとリーネの表情を観察していた。


「……リーネ」


「うん?」


「……経営状態、正直に教えろ」


「えっ……いきなりどうしたの?」


「気づいとった。……ここ一週間、仕入れ量が減っている。まかないの量も、微妙に少ない」


 リーネはぎくりと目を見開いた。


「チカちゃん、細かいとこまで……」


「ワシは一応、元“企業戦略本部長”だぞ。数字の匂いには敏いんじゃ。あと、食い意地も張っておる」


「うぅ……はい。たしかに経営難です」


 リーネは俯いて、小さく笑ったような、苦笑いのような表情を浮かべた。


「……この店ね、昔はもっとにぎやかだったの。私のパパとママがやってた頃は、夕方になると席が埋まって、毎日わいわいしてて……」


「ほう」


「でも……パパとママが事故で亡くなって。私、一度この町を離れたんだけど、どうしても戻りたくて。お店だけは残しておきたくて……でも戻ってきたら、町の人も減ってて、あの頃の常連さんたちもほとんどいなくなってて……」


 リーネの声がだんだんと細くなっていく。


「……でも、それでも、諦められなかったの。パパとママの“思い出”じゃなくて、私自身の“今”にしたかったんだ」


 チカちゃんはしばらく黙っていた。

 カップのミルクティーをじっと見つめ、やがて静かに言った。


「リーネ。ワシに……時間をくれ」


「え……?」


「昼の時間帯を貸せ。営業は止めん。ただし、ワシが“プロデュース”する」


「ぷ、プロデュース?」


「リーネ、おぬし、悪くない料理を作る。しかし、それだけでは店は回らん。問題は……“戦略”じゃ」


 



 


 その日から、店に変化が起き始めた。


 まず手を付けたのは、看板メニューの再構築。


 チカちゃんは棚から在庫を全部引っ張り出し、原価表をメモにまとめ、仕入れコストと保存性を考慮して、“利益率の高いメニュー”を新たに組み上げた。


 「地元野菜と香草のスープ」「炭焼きチーズパン」「ハーブ入り雑穀クッキー」


「素材は近くの農家から直接買い付けじゃ。仕入れ価格は半分、品質は倍」


「すごい……なんでそんな交渉できるの?」


「昔、スーパー五十店舗の調達部と殴り合いした経験がある」


「殴り合い!? 経営ってそんなバトル形式だったの!?」


「生き残るためには、戦いに備えよ。それが“商い”というものじゃ」


 


 次に手を入れたのは、内装。

 木箱と麻布を使い、店内の一角に“お惣菜バスケットコーナー”を設置。焼き菓子や瓶詰めハーブティー、手づくりピクルスなどが可愛らしく並べられた。


 レジ横には、チカちゃん手書きの「看板娘おすすめ」POPが置かれた。


「女性客と子供連れを狙え。リピート率と口コミ力が高い。マーケティングの要じゃ」


「なんかすごい……本当にプロみたい」


「ワシは元幹部じゃ。伊達に会社を潰しておらん」


「そこ自慢するところじゃないよ!」


 


 さらに、チカちゃん自身が“ちび看板娘”として店頭に立った。


「らっしゃいらっしゃい!! 今日のスープは春キャベツたっぷりじゃぞッ!!」


「かわいい~~~~~~~~~~!!!」


「チカちゃんが立ってるだけで人が吸い寄せられてるんだけど!?」


「……世も末じゃな……」


 



 


 数日後。

 昼の時間帯だけで、売上が一気に倍増した。


 かつて来なかった主婦や旅人、子供連れの若い家族まで来るようになった。

 リピーターが増え、午後の時間には「ちょっとだけティータイム」という利用も目立ち始めた。


 リーネは驚きつつも、どこか寂しそうな表情で呟いた。


「……なんか、すごいね。チカちゃんがいれば、きっとこの店、もっともっと大きくなるよ」


「……それがどうした?」


「いや、うれしいんだけど……ちょっと、怖いなって」


「……なぜ」


「……だって、チカちゃんはいつか、帰っちゃうかもしれないから」


 


 その言葉に、チカちゃんはミルクティーのカップを静かに置いた。

 沈黙が流れる。遠くで風鈴の音が揺れる。


「……ワシは、元々……誰にも甘えず、誰にも頼らずに生きてきた。ずっと……一人だった」


「……」


「でも今……この小さな町の店で、おぬしに怒鳴られて、笑われて、泣かされて……それが、思いのほか……心地よい」


「チカちゃん……」


「ワシも、怖いんじゃ」


「え……?」


「このぬくもりを、失うのがな……」


 リーネはそっと、チカちゃんの小さな手に、自分の手を重ねた。


「そっか……同じなんだね。私も、怖いの。チカちゃんがいなくなるのが、想像できない」


「……おぬしがこんなに素直な声を出すとはな。……油断ならん女じゃ」


「ふふっ」


 



 


 その夜、町に小さな異変が起きた。


 旅人の一人が、興奮気味に語る。


「隣町の村に、魔王軍の使い魔が現れたってさ。村の食料庫が襲われたらしい」


 店内の空気が一気にざわつく。


「まさか、この町にも来るのか……?」


「でも、こんな辺境にわざわざ……」


「それを言うなら、隣町もそうだったろうが」


 不安が連鎖する。リーネは、カウンターの下で拳を握っていた。


「……でも、この町は、守らないと」


「そのために必要なのが、客と金と、……看板娘じゃろ?」


 横から、いつもの澄ました声。

 チカちゃんが、脚を組みながらニヤリと笑っていた。


「ワシを誰だと思っておる」


「……ちびロリおじさん?」


「違うわァァァァァァ!!!!」


 常連たちの笑い声が、少しだけ重たい空気を吹き飛ばしていった。


 



 


 それは、春の昼下がりのことだった。

 柔らかな陽光が窓から差し込み、店内の木の床を優しく照らしていた。

 外では小鳥のさえずりが聞こえ、風は心地よく、まるで物語の中にいるような静かな時間が流れていた。


 リーネとチカちゃんは、仕込みの真っ最中だった。


「今日もスープの仕込みお願いね。ニンジンとセロリ、刻んどいてくれる?」


「任せろ。包丁は扱えんが、武道家に野菜を斬らせたら右に出る者はおらん」


「ちょっと何言ってるか分かんないけど……はい、手は気をつけてね!」


「心配無用!」


 チカちゃんは両足をしっかり踏み込み、まな板の前に構えを取る。

 目線は真っ直ぐ、手には包丁──ではなく、武器として構えるようにしてセロリに向かう。


「流し目ッ、正中線ッ……必中の間合い──見切った!!」


 ――ザシュッ!!!


「やりすぎ!! セロリが粉砕された!!」


「ぬおおおおおおおおおおおお!! やわらかすぎるんじゃこの野菜!!」


 砕け散るセロリ。舞い上がる葉。茫然とするリーネ。

 そんな馬鹿馬鹿しくも平和な時間の中だった。


 ――ギィィ……


 古びた扉が軋みを立てて開いた。


「……いらっしゃいま――」


 リーネの声が途切れる。


 ドアの向こうから入ってきたのは、黒いローブに身を包んだ三人の男たちだった。

 目元には陰のある光。腰には刃物、手には杖。

 背中には、翼に蛇を絡ませた紋章──魔王軍のものだ。


 一瞬で、空気が凍った。


「……ここが、例の店か?」


「ガキひとりで回してるって話だが……なるほど、なるほど」


「なんだ、子供の遊び場か? いい潰しがいがある」


 男たちは、わざと大きな足音を響かせながら店内に踏み込んできた。

 テーブルを乱暴にずらし、椅子を蹴飛ばし、無遠慮にカウンターに近づく。


 リーネは一瞬、怯んだように見えたが、すぐに息を吸い込み、カウンターを飛び越えて彼らの前に立った。


「やめてください! ここは……私のお店です。乱暴は、やめて……!」


 言葉を選びながら、しかし必死の顔で叫ぶリーネに、男の一人がニヤリと笑った。


「……お嬢ちゃん、俺たちに指図していいと思ってんのか?」


 腕を伸ばす。リーネの肩を掴もうと、無遠慮な手が迫った――


 ガシィッ!!


 鈍い音がして、その手が止まった。


 見ると、男の手首は、小さな少女の手に掴まれていた。


「……誰だ、お前?」


 男が見下ろすと、そこにいたのは、黒髪ぱっつんの少女――チカちゃんだった。

 怒りの火を宿した瞳で、じっと男を睨み上げていた。


「離せ、チビ――ぐっ!? うぎゃああああああああ!!」


 次の瞬間、チカちゃんは男の手首を反時計回りにひねり上げ、肘関節を極めた。

 関節が逆方向にぐにゃりと折れ曲がり、男は悲鳴を上げて地面に崩れた。


「手を出すな。店主はこの町の“看板”じゃ。看板に泥を塗る奴は、看板ごと叩き折る」


「てめぇ……ただのガキかと思ったら!」


 残りの二人が杖を構える。

 リーネが咄嗟にチカちゃんを庇おうとする。


 ――その瞬間だった。


 バタン、と扉の向こうから走ってきた老人の声が響く。


「リーネ!! 逃げ――!」


 常連のグレッグ爺さんだった。

 しかし、その言葉と同時に、魔物の一人が店の前に置かれていた木製の看板を思いきり蹴り飛ばした。


 ゴン!! という重い音。

 リーネの両親が遺してくれた、あの看板が、地面に転がった。


 ――その音で、チカちゃんの中で何かが、静かに、確実に、切れた。


 



 


 時が止まったようだった。


 視界は鮮明に、空気は澄み、音はゆっくりと歪んで聞こえる。

 チカちゃんの中で、かつて死んだはずの“昭和の武”が目を覚ました。


 数々の試合、道場での稽古、喧騒の中の静寂。

 己を律し、他者を守るために磨き続けた技と意志が、再び血を巡った。


「……てめェら、今、“看板”を踏みやがったな」


「はァ?」


 チカちゃんは、背後の調理場から箒を手に取った。


 その姿は、まるで剣士。

 小さな手の中に握られた竹製の箒が、凶器のように鋭く見えた。


「看板というのはな、ただの板じゃねェんだよ」


 風が吹いた。


「そこに立つ“名”は、客と共に生きた年月だ。誇りだ。信頼だ。亡き両親の形見だ。それを――」


 シュン!


 瞬間移動したかのように、チカちゃんの姿が消える。


 そして、スパン!


 箒の柄が、魔物のひとりの眼球に叩き込まれた。


「グハッ!?」


 悲鳴。目元から噴き出す血。


「軽々しく、踏みにじるなってんだよ、このクズ共がァァァァッ!!」


 もう一人が杖を振る。しかし遅い。

 チカちゃんはその腕を受け流し、合気道の型で軸を崩す。


 バギン、と音を立てて、男の膝が逆に折れた。


「ぎゃあああああああああ!!!」


 最後の一人がチカちゃんに突っ込んできた。

 体格差は歴然。しかしチカちゃんはひるまない。


「ふん!」


 腰を沈め、間合いを読み、箒の先端を金的に突き上げた。


 ――ボゴッ!!


「ぴぎゃああああああああ!!!!!」


 男はその場で白目を剥いて崩れ落ちた。


 



 


 沈黙が訪れた。


 転がる三人の魔物。泣き叫ぶようなうめき声。

 チカちゃんは、箒を手にしたまま、静かに息を吐いた。


「――これが、ワシの“掃除”じゃ」


 リーネが呆然と立ち尽くしていた。


「チカ、ちゃん……?」


 チカちゃんはくるりと振り返り、いつものようにニヤッと笑った。


「看板娘は、店だけじゃなく“看板”も守るもんじゃろ?」


 そして、看板を拾い上げ、袖で優しく拭った。


「……直せば、また立つ」


 涙ぐむリーネに、チカちゃんは箒を肩に担いだまま、照れ隠しのように言った。


「……泣くな。ワシはただの“元おじさん”じゃ」


「ううん……“うちの看板娘”だよ」


 そうして二人は、夕陽の差し込む店内で、ひっそりと笑い合った。


 



 


 その夜。

 酒場には、町の人々が自然と集まっていた。


 照明はいつもより少しだけ明るく、テーブルには焼きたてのパンと煮込みスープが並んでいる。

 春の夜風が窓をゆらし、暖炉の火は柔らかく揺れていた。

 あの一件があったとは思えないほど、空気は穏やかで、あたたかく、そしてにぎやかだった。


「本当に、チカちゃんが追い払ってくれたのか……?」


「しかも、あのちっこい体でだぞ? いやマジで、何者なんだあの娘は」


「看板娘、つえぇ……」


「強い上にかわいいとか、なんかもう人生にごめんなさいって感じ……」


「いや俺もう毎日来るわ……心が洗われる……」


「ワシ、孫と同い年くらいの子しか勝たんって決めてたけど、今日からチカ派に改宗するわ……」


 そんな声が、次々とテーブルを飛び交う。

 誰もが笑っていた。安堵と祝福、そして新しい“伝説”を語り合うように。


 ――まるで、何事もなかったかのような夜だった。


 でもそれは、誰もが“守ってくれたもの”を知っていたからこそ、のことだった。


 


 グレッグ爺さんは酒を片手に、チカちゃんの方へとふらりと近づいてきた。

 にやにやした顔は、いつもより三割増しで悪ノリ感にあふれている。


「おいチカ。あの戦い様……ただもんじゃねぇな。なんだお前、武神の生まれ変わりか?」


「ただのロリじゃ」


「嘘つけ!」


「ほんとうに“ただのロリ”なんじゃ!!」


「いやいや、あれは“ただのロリ”の動きじゃなかっただろ!?」


「うるさいッ!!」


 グレッグは腹を抱えて笑い、チカちゃんは頬をぷくっと膨らませる。


 リーネが横から、微笑みながら言った。


「チカちゃんは、“うちのロリ”なんです!」


「貴様はなんでも自分のものにしたがるッ!! その態度、まるで悪徳商人じゃぞ!!」


「えへへぇ~、でも、もう手放さないもん!」


「おのれぇぇぇ……!!」


 そのやり取りに、周囲の客たちからまた笑いがこぼれる。

 あの日守られた店。守られた町。そして、守ってくれた“誰か”。


 その中心にいる小さな背中に、誰もが自然と感謝を込めていた。


 



 


 営業後。

 片付けも終わり、店内の空気がようやく静かになった頃。


 夜風が外の草を揺らす音が、ほんのかすかに聞こえていた。

 リーネとチカちゃんはカウンター越しに座り、今日の終わりの紅茶を飲んでいた。


 ややくたびれたテーブル、少しゆがんだ椅子、でも、それが今はとても心地いい。

 静けさの中で、リーネがぽつりと呟いた。


「……ありがとう、チカちゃん。本当に、ありがとう」


 その声には、飾り気も気取りもなく、ただ、まっすぐな気持ちが詰まっていた。


「……守らせてもらっただけだ。おぬしが泣くと、なんか胸がざわつくからの」


「ふふっ、それ、照れ隠しでしょ?」


「うるさい。ワシはそういう器用なタイプではない!」


 リーネは笑って、でも次に続けた言葉は、少しだけ真剣だった。


「……ねぇ、チカちゃん。これからも、ずっと一緒にいてくれる?」


 チカちゃんは、一瞬だけ視線を泳がせ、そっとカップをテーブルに置いた。


 その手は、小さくて、ふるえてはいなかった。


「……さぁな。未来のことなんて、ワシにも分からん」


 リーネは、少しだけ寂しそうに目を伏せた。


 けれど、次の瞬間――


「でも、今は?」


 リーネの問いに、チカちゃんは静かに微笑んで答えた。


「今は……ここにいる。ここが、ワシの居場所じゃ」


 そう言って、チカちゃんは初めて、自分からリーネの手を握った。


 驚いたような表情のリーネに向かって、視線をそらしながら小さく言う。


「ほら、……たまには、ワシの方からも甘えてやる」


「……っ」


 リーネの目が、少し潤んだ。


 小さな手と、小さな手。


 そのぬくもりは、ほんとうにささやかなものだった。

 でもそこには、これまでに培ってきた日々の重みと、たしかな“絆”があった。


 誰にも甘えられなかったおじさんが、

 誰かを信じることが怖かった少女が、

 いま、互いにぬくもりを分け合っていた。


 ここは、強くなくてもいい世界。

 がんばりすぎなくても、誰かが隣にいてくれる世界。


 それが、今のチカちゃんにとって――“本当に生きていたい場所”だった。


 



 



 あの夜から数日が経った。

 春の風は柔らかくなり、花々は咲き誇り、町の人々の足取りもどこか軽やかだった。


 壊された店の扉は、近所の大工さんたちが「お礼代はいらん」と言って、朝から夜まで作業して直してくれた。

 踏み潰された看板は、リーネとチカちゃんが一緒に磨いて修理……と思いきや、気合を入れて新しく作り直した。


 白い木の板に、リーネが描いたカラフルな花々。

 そして真ん中には、太く、やや丸っこい文字で、こう書かれていた。


 『レストラン 風と花と……チカちゃん』


「……おい。ワシの名前が入っとるじゃろうが」


「えへへっ、だってチカちゃんはもう、うちの“看板娘”だからっ!」


「“風”と“花”のあとにワシじゃぞ!? 明らかに浮いておる! バランス考えろ!」


「バランス? ううん、私はこの順番が一番しっくり来るなあ」


「どこの感性じゃ!!」


 



 


 町の空気は、少しずつ確かに変わっていた。


 事件の翌朝には、噂が風に乗って広まり、「あの店に現れたちっこい看板娘が、魔王軍の手先を三人まとめてぶちのめしたらしい」という話は、翌日には“二十人の魔物を一撃で葬った英雄”へと膨れ上がっていた。


 その影響はすぐに現れた。


 町の子供たちは店の前で「チビチカファイターごっこ」を始め、

 グレッグ爺さんは週三ペースで通ってきては「尊い……今日も尊い……」と独りごちるようになり、

 地元の新聞記者が写真を撮りに来たとき、チカちゃんは本気で泣き叫んで逃げ出した。


「撮るなッ!! ワシの顔はネットに出すなァァァ!!」


「ネットってなに!? 多分だけどそれ、この世界にないよ!?」


「魂に刻まれるじゃろうが!!!」


 


 そんなこんなで、笑い声が増え、店の中に活気が戻ってきた。


 そしてその中心には、いつも小さな“黒髪の背中”があった。


「へい、いらっしゃい! 本日のランチは“チカちゃんの極・煮込みスープ”じゃ!」


「なんで“極”とかついてんの!? また勝手に商品名を変えた!!」


「聞こえんなあァ~~~」


 



 


 ある穏やかな夜。店じまいのあと。


 リーネとチカちゃんは、店の裏から続く小道を歩いていた。

 目指すは町のはずれの小さな湖。草が生い茂り、風が静かに吹き、昼の賑やかさとは違う、静かな時間が流れている場所。


 月がまんまるく、湖面を照らしていた。


 二人並んで、草の上に腰を下ろす。星が揺れ、水音がかすかに響く。

 静かで、優しくて、なにもいらないと感じられる夜。


「ねぇ、チカちゃん」


「ん?」


「前にさ……“元の世界に戻るかもしれない”って言ってたよね」


「……うむ」


「もし、そのときが来たら……どうする?」


 風が吹いた。少し冷たかったが、頬を撫でる感触は心地よかった。


 しばらく沈黙のあと、チカちゃんはぽつりと呟く。


「……未練がないわけではない。向こうには、ワシが潰した会社も、忘れられん顔もある。部下も、敵も、家も……そういう“過去”がある」


「うん……」


「でもな。ワシが生きてきたあの世界は、正直に言えば“ひとりで戦う場所”だった。頼るのも甘えるのも許されん。強くあるしか、なかったんじゃ」


 チカちゃんは、拳を軽く握って膝の上に置いた。


「……こっちでは、そうじゃなかった。笑っていいって言った奴がいた。弱くてもいい言った奴がいた。“甘えてもいい”って、そう言ってくれる奴が……ここに、いた」


 リーネは黙って、そっと手を伸ばした。


 細い指で、チカちゃんの手を握る。小さな手と小さな手が、静かに絡んだ。


「チカちゃん。ここには、チカちゃんの席があるよ。ちゃんと空けてある。だから……いつでも戻ってきて。ずっと、ここにいて」


「ふん。……おぬし、都合のいいことばっかり言う女じゃのう」


「えっ、それってもしかして百合的な告白じゃ――」


「違うわ!!!!」


「ちぇー」


 二人の笑い声が、草原に溶けていく。


 月は優しく、湖は静かで、まるで世界ごと二人を見守っているようだった。


 



 


 その夜、寝室。


 布団を並べて、二人は静かに並んで横になっていた。

 リーネは先に布団に潜り込み、毛布を抱えたまま、チカちゃんの方を見ていた。


「チカちゃん」


「なんじゃ」


「手、つないでいい?」


「……勝手にせい」


 リーネがにこっと笑って、そっと指を伸ばした。

 チカちゃんも抵抗せず、ただ指先を受け取る。


 掌が重なる。小さなぬくもりが、確かにそこにあった。


「チカちゃん、これからも、ずっと甘やかしていい?」


「……断る理由があると思うのか?」


「ないね」


「ふふ……なら、ワシも甘えてええか?」


「もちろん」


「うむ……ふふ……よい世界じゃな」


 チカちゃんの声は、どこかくすぐったそうだった。

 リーネは、そっと彼女の頭を撫でた。


 愛おしさが、あふれ出すほどに。

 ただそこにいてくれるだけで、嬉しくなるほどに。


 


 チカちゃんは、ゆっくりと目を閉じた。


 ここはもう、仮の世界ではない。

 甘えたかった人生の“続き”を、ようやくここで歩きはじめた気がした。


 過去のことは消えない。でも、未来はまだ白紙のまま。

 だから、これからのページは、この場所で、リーネと一緒に描いていく。


 そんな気がしていた。


 



 


 翌朝。


「チカちゃ~ん、起きて~! 朝ごはんだよ~!」


「……あと五分だけぇぇぇ……」


「はいはい、いつものチカちゃんですね。かわいすぎます」


「ぬぁぁぁぁ!! やめい!!」


「ごろごろ~ごろごろ~ほら、起きないと、朝の看板娘タイム間に合わないよ~?」


「ワシは看板娘ではなーーーい!!!!!」


 


 それでも、布団の中のチカちゃんの頬は、ちょっとだけ笑っていた。


 ふかふかの枕のにおい。

 外から聞こえるパン屋の鐘の音。

 隣から届く、誰かが自分を呼ぶ声。


 


 ――これが、“甘やかされたい人生”の、ほんとうの始まり。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


最初はふざけたような導入でした。

「異世界ロリおじさん? 甘やかされたい? 看板娘って何だ?」

そんな疑問で始まったかもしれません。


でもこの話は、突き詰めるとただ一つのことを描きたかったのです。


“生きる場所”が、人とのつながりの中で生まれること。


チカちゃんは甘やかされたい――その願いの裏にあるのは、ずっと甘えられなかった、誰にも頼れなかった過去です。

リーネもまた、誰かを失い、それでも笑って日々を守ってきた子です。


そんなふたりが出会って、喧嘩して、笑って、時に泣いて、

やがて「そばにいていい」と思えるようになる。

それこそが、何よりの救いなのではないかと、私は思っています。


読者のみなさんの中にも、どこかで「しんどいな」「誰かにそばにいてほしいな」と思っている方がいるかもしれません。


そんなあなたに、この物語が少しでも“やわらかい毛布”のように寄り添えたなら、これ以上の幸せはありません。


では、またいつか。


ありがとうございました。


──作者 : まぴ先生



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