1.疲れがとれないお年頃
ご都合主義です。暇つぶしになればうれしいです!
「あー、つかれだぁあ」
狭い玄関に倒れこむ。
肩と腰は鉛のように重く、目はパリパリに乾いている。
なんなら心もバリバリに乾いている。
調香師として働くこと十数年、明日からお盆だというのに今日も終電帰りだ。
(今回の案件、きっついわー)
依頼主は、IT領域でトップクラスの大企業。
なぜ香りの依頼をと首をかしげたが、とにかく金払いがいいからと上司が調子に乗って引き受けたのが間違いだった。
そのオーダー内容は、初恋の香り。
依頼主曰く、春の雪のように儚く、夏のソーダのように淡く、秋の海のように切なく、冬のミルクのように温かい香りだと。
(初恋……ってなに?!)
頭を抱える私を横目に、Z世代の後輩は「先輩の初恋は昭和時代スか?!そんな昔のこと覚えてないスよね!お疲れっス」と定時で帰り、上司は「俺は加齢臭に近いと思う、あ、盆明けまでになんか考えといてね」と耳の裏をこすりながら早々に家族旅行へ飛び立った。
この休み中に、なにか打開策を見つけなければ、とため息がもれる。
(まぁ、お盆って言っても何もすることないからいいんだけどね)
友だちはみな結婚して家庭があるし、実家もすでにない。
もちろん恋人もいない。いや、恋どころか、社会人になってデートした記憶すら曖昧だ。
入社した時はまだ珍しかった調香師という仕事だが、これがなかなか忙しい。
独自に香料を開発したり、ときには珍しい香料を探しに世界中を飛び回り、と充実した日々を送っていた。
20年近く休みなく駆け抜け、お客様から感謝されればやりがいを感じるし、達成感もある。
だけど、少し何か、物足りない気がするのはなぜだろう。
(結婚とか、家庭とか、そういうんじゃないんだよな)
空虚の正体に向き合う気力もなく、頭を振る。
「酒だな、よし私に足りないのはアルコールだ」
生ぬるい玄関の床からなんとか身を起こし、冷蔵庫へ直行する。
「とりあえず、ただいまのビール!ってお前も空っぽか…」
がらんどうの冷蔵庫を、うつろな瞳で抱きしめる。
このまま寝るかと少し悩むが、やっぱり飲まなきゃやってられんと疲れた身体に活を入れ、着古した部屋着に袖を通し、財布をつかむ。
サンダルを引っかけ、いそいそと早足で向かったのは、ひとつ先の角にある馴染みの酒屋だ。
「いらっしゃーい!あら、お久しぶり」
明るい蛍光灯の元、年齢不詳の店主が迎えてくれる。
「こんばんはー」
「あららお疲れ顔かしら?こんな時間までお仕事だったの?働きすぎてない?」
「まぁ、明日からお休みなので」
「ふぅん……なら、ちょうどいい日本酒入ってるわよ!香りも味も最高よこれ」
仕事柄、匂いが残らないよう平日は飲まないようにしているが、酒は大好きだ。
特に日本酒は香りも味も良い、最高のご褒美!
店主に薦められるまま、1週間分の酒とつまみをたんまり買いこみ、ほくほくで店を出る。
(これで心置きなく引きこもれる。どんな香りの日本酒かな)
おまけにもらったスルメイカをハムハムと噛みながら、胸に一升瓶を抱えなおすと、まん丸の月が目に入った。
(おー、満月。久しぶりにみたな。……てか、あんなに月って大きかったっけ?)
少し怖くなるほど近くて大きい。
満月に魅入られながらズルズルと歩いていると、セーラー服を着た女子高生に追い抜かされた。
夏の夜風に、長い髪がサラリとなびく。
(この香り、新作シャンプーか。甘くない青っぽい桃の香り、苦労したな。)
自分が手掛けた香りに街中で出会うと、ついつい顔がにやけてしまう。
(ありがとうねー。って、こんな夜遅くに……受験生かね)
それとなく制服の後ろ姿を見守っていると、突然少女が悲鳴を上げ、道端に倒れこんだ。
「どうしました!?」
変質者でも出たかと慌てて声をかけ、駆け寄る。
「ちょっ、えっ、なにこれ!なんか足がつかまれてるみたいな」
「足?」
よく見ようとしゃがみこんだ途端、目の前が光でおおわれた。