二人だけのフォークロア 5.
5.
やはり、その香炉は魔人化能力を何度も使うことができるようだった。
その日以来、僕は一緒に家にいる時に、ひかりを定期的に魔人化させて楽しむようになった。
いけないことをしているという自覚はあったが、魔人化した時の彼女の色っぽい雰囲気はどうしても頭にこびりついて離れず、その誘惑に打ち勝つことは難しい。
不意に明後日の方向を指差し、彼女の注意を逸らせる。
「あっ!あんなところに文化センターが!」
「えっ、どこどこ?」
今だ!
その隙に香炉を手に取り、彼女の背後に向けて、香炉を擦る。
「ひゃあっ!」
予定通り、彼女は香炉にヒョロロロロと吸い込まれていく。
よしよし上手くいった。
思わずニヤリと笑みが溢れる。
もう一度香炉を擦ると、だんだんお馴染みになりつつある魔人姿の彼女が現れる。
「お呼びいただきありがとうございます、ゆうき様♡」
両腕を下へ真っ直ぐに伸ばした気をつけの姿勢をしていて、身体の前面、形の良い双丘の盛り上がりが強調されている。
ピタリと閉じた両太腿の先、流動化した脚が煙のようにクネクネと揺れている。
そして両目には、例によってハートマークが浮かんでいた。
「本日は何をお望みでしょうか」
その普段とは異なる事務的な口調が、僕の中の背徳感のようなものをくすぐる。
「えーと、今日はね……」
最近の僕は、『今日は何をお願いしようかな』などと考え事をするのが、すっかり日々の楽しみになっていた。
今日はあれにしよう、と考えていた内容があったので、それを唱えようとしたのだが。
ふとその瞬間、片付けておかなければならない仕事が残っていることを思い出してしまった。
まずい、あれは明日までに仕上げなければならないものだった。
「ご、ごめん。やっとかなきゃいけない作業があるの、忘れてた!
だから、ちょっと待ってて。
今から大急ぎで片付けるから、待ってる間、何か自分の好きなことをしてて。
本当にごめん!」
「かしこまりました」
彼女はなんでもないような様子で返答する。
二人の時間を無駄にするのは勿体無い。
僕は急いで自室から居間へノートPCを持ってくると、作業を開始した。
僕がテーブルで作業をしている間、彼女は居間のテレビにゲーム機を接続し、マ◯オカートをして遊んでいた。
ルームシェアを始めるにあたって、中古のゲームソフトをいくつか大人買いしたのだ。
彼女はいつの間にか脚を実体化させていて、ソファの上にちょこんと正座をしている。
アラビア風衣装の色っぽい女の子がコントローラーを握って黙々とゲームをしている光景は、なかなかにシュールなものであった。
今僕がしている作業自体は、さほど難しくはない単純なものだった。
なので、彼女と時々雑談を挟むくらいの余裕はあった。
「そういえば、マ◯オの映画を製作してるって、噂があるよね」
「え、本当、ですか?」
ゲームに集中しているからなのか、敬語がちょくちょく飛びかけている。
「目的と手段が逆転してしまったメディアミックス作品みたいな、◯ソ映画にならないといいですけどね」
「ちょ、言い方!」
その口調でいきなり毒舌を吐かれると、どうしても笑ってしまう。
一応補足すると、この頃はその映画について何一つ情報が出ていなかった時期なので、この会話は後年公開される映画の内容とは全く関係がないことを、申し添えておく……。
「いやいや、正直そういう作品も僕は案外好きだけどね。
誰かと一緒にツッコミ入れながら観ると結構面白いし」
そう言えばその頃は、巷でサメ映画が流行り始めた時期でもあった。
カップルで観る人は少ないのかもしれないが、前に彼女とそういった類の作品のDVDを見た時はなかなかに楽しめた。
「では、ゆうき様の本日の願いは、『私と一緒にサメ映画を観る』でよろしいでしょうか?」
「いや、そこまではないかな」
「うふふふ……」
顔はポーカーフェイスを維持できていたが、その声色には笑いが乗ってしまっている。
彼女との雑談でリラックスしたおかげか、作業は思ったより早く終えることができた。
改めて、“ヒカリ”に今日の願い事を伝える。
「じゃあ今日は、僕と一緒に簿記の勉強をしてもらおうかな」
僕は、居間の本棚にしばらく置きっぱなしになっている某出版社の三級テキストを掲げて言った。
「……承りました」
「ん?今、嫌そうな顔しなかった?」
「しておりません、喜んでやらせていただきます」
本当かいな。
一瞬だけムスッとした表情を浮かべたような……。
口で言ってる内容と、声色とが噛み合っていない気がするが……。
彼女の会社では資格の勉強が社員に推奨されていて、その取得状況が人事考課にも一部参考にされるという。
今、彼女が会社から取るよう求められているのは簿記の三級だった。
原価計算や利益計算の感覚を営業担当にも身につけてほしいという意図があるのだろう。
僕も大学時代に簿記の勉強をある程度習得済みなのだが、その時の知識は今の仕事に大いに役立っている。
そのため簿記の基本的知識は腐りにくいということを知っているのと、彼女には若干金銭感覚にルーズな部分があることもあり、簿記の勉強に時間を割くことには賛成だった。
その方がきっと、彼女が考えている今後のキャリアにおいても、良い影響をもたらすはずである。
普段の彼女だと仕事の疲れを言い訳にして勉強から逃げてしまうので、この機会を利用して勉強をさせてしまうこととした。
「………………」
「………………」
居間には、鉛筆を走らせる音と電卓を叩く音のみが響いている。
彼女は、その長い黒髪が邪魔にならぬよう、一つ結びにして後ろに下げていた。
服装はベリーダンスのままだったが、テーブルに垂れ下がってしまうので、フェイスヴェールは取り外していた。
向かい側に座る僕も、より上級に挑戦したいと思っていたところなので、テキストの内容をかいつまんで彼女に教えてあげた後、自分の勉強を進めている。
「あのー……、ゆうき様?
そろそろ休憩いたしませんか?」
不意に彼女が話しかけてくる。
「何言ってんの、まだ始めたばかりじゃん。
今日は、このページの問3まで解き終わったら“成就”ってことでいいから」
「……はい」
観念したように、彼女は卓上の問題集に向き直る。
簿記の初歩は最初に基本的な考えを身につけるまでは大変だが、そこさえ乗り越えればあとは数をこなすだけでどんどんレベルアップしていけるものなので、なんとか頑張ってみてほしい。
目の前の彼女の顔には、ポーカーフェイス越しに、ムスーっとした表情が浮かんでいるような。
ふとそれを見つめているうち、学生時代の時の気持ちが甦ってきた気がした。
研究室に配属されたばかりの頃は、こんな生活を送ることになるなんて、思いもしなかった。
当時の僕に『君は将来、一つ屋根の下、香炉の魔人となった彼女と一緒に簿記の勉強をすることになる』と伝えても、間違いなく信じないだろう。
不思議なものだった。
問題を解くことに集中している彼女のその可愛らしい小麦色の顔は、当時に劣らず、いやむしろさらに魅力的になっているように見えた。
僕の視線に気付いたのか、表情はそのまま、彼女は顔だけこちらに向けてきた。
「どうかなさいましたか?」
見慣れたはずのその顔に、僕はドキドキしていた。
「……なんでもない。
コーヒー淹れてきてあげるよ」
胸の高鳴りを気取られてしまいそうで、僕は思わずテーブルから立ち上がり流し台に向かった。
二人分のカップを準備しながら彼女の方を振り返ると、一生懸命に電卓を叩くその顔が目に映った。
てっきり、この間は彼女がいつもよりも露出の多い格好でマッサージを受けていたから、ドキドキしたのかと思っていた。
しかし、今日のように色気のないシチュエーションでも、彼女の姿にときめき始めている自分がいた。
果たして僕は、誰でもない彼女本人にドキドキしているのだろうか、それとも香炉の魔人というペルソナを纏った彼女の虚像部分にドキドキしているのだろうか、だんだん分からなくなりつつあった。
あるいは、その両方か?
もしかしたら、魔人としての彼女の姿を通して、僕は彼女が元々持っていた魅力を再発見しているのかもしれない。
だとしたら、あの香炉に感謝しないとな。
彼女の真剣な表情越しに、テーブルの上に置かれたそれを見やる。
言い出しっぺがサボっていては面目が立たないので、僕は淹れ終わったコーヒーを両手に、テーブルへと戻っていった。
ちなみに、その昔コーヒーは中東地域で特によく飲まれていたそうで、そこから『アラビアン・ナイト』の最初期の翻訳者の一人が出した著書によって、ヨーロッパへ紹介されたという。
そんなことを思い出しながら飲んだコーヒーの味には、それまで以上の奥行きが感じられた気がした。
あるいは、それは目の前の彼女と、一緒に飲んだおかげかもしれないが。