二人だけのフォークロア 3.
3.
「なるほど、香炉ねぇ……」
僕は、彼女が持って帰ってきたそれと、領収書を見比べていた。
出張の多い彼女に代わって、世帯内の家計については僕がまとめている。
今年は引っ越しのためにキャッシュが出ていくことが多かったこともあり、二人とも大きな買い物をせず節制してきた。
これくらいの出費は、自分たちへのご褒美として見ても可愛いものだ。
領収書をクリアファイルに収納し、改めてテーブルの上の香炉に視線を向ける。
一見しただけで随分上等な物のように見える。
これ一つを置いただけで、居間全体が華やいだ気がする。
「なかなか良い買い物をしたみたいだね」
「えへへー♪」
彼女は、片手を頭に当てて得意げに胸を張っている。
そういう、あざとくなりそうな仕草一つ取っても様になるのは彼女の人柄によるものだ。
ちなみにその服装は、上はピンク色のパーカーに下は薄グレーのスウェットという、お馴染みの部屋着姿である。
その緩い服装の上からでも、彼女のスタイルの良さが見てとれる。
ちなみに僕の服装は言うと、ネイビーのトレーナーに黒のスウェットを合わせて部屋着にすることが多く、今日もその格好をしている。
「あ、あとお菓子も買ってきてるから、一緒に食べよ」
「おーいいね」
自分の部屋に菓子の包みを取りに行った彼女を待つ間、卓上の香炉を手に取って観察してみる。
見れば見るほど、本当によくできている。
デザインも勿論のこと、本体と取っ手の継ぎ目など、ディテールにも全く違和感がない。
表面の模様まで、まるで全体を一度に成型したかのような精巧さだ。
こんな上物、国内はもちろん現地の相場からしても破格ではないか?
よっぽど安い素材でも使っているのだろうか。
だんだんと、その香炉が醸し出す雰囲気に、僕も当てられてきた気がする。
『これを擦ると一つ願いが叶うらしいよ?』と言いながら、もったいつけたように鞄の中から取り出した時の彼女のしたり顔を思い出し、また笑ってしまう。
まさか、香炉の精が出てくる訳でもあるまい。
ふと、『おっと、香炉を擦ってみたら、可愛い彼女が美味しいお菓子を持って来てくれたぞ?願いが叶った!』などという、しょうもない茶番を思いついた。
時々、そういうふうにふざけ合うことがあるのだ。
ちょうど、彼女が部屋から出てきたので、香炉をそちらの方向に向けて擦ってみた。
──その時。
「ひゃあっ!?」
一瞬、彼女の身体がフワリと宙に浮いたかと思うと、なんと僕の持つ香炉、その開いた大きな口の一つ、そこへ足先から頭までシュルルルルと吸い込まれていった!
現実的にはあり得ないことだった。
吸い込まれる際の彼女の身体は、まるで気体か液体かのように流動的な動きを見せ、体躯よりもずっと小さなその穴の中へ流れ込んでいた。
カートゥーンでも見ているかのような。
次の瞬間には部屋の中から彼女の姿が消え、彼女が履いていたスリッパだけがフローリングに残された。
僕の手元の香炉を見ると、その本体は、彼女が着ていた部屋着のパーカー、それと同じピンク色に鮮やかに染め上がっていた。
また下の方、底面の脚に当たる部分は、彼女が履いていた薄グレーのスウェットと同じ色に染まっている。
目の前で起きた出来事を、脳が認識できていない。
僕はその場で固まったまま数回瞬きしていただけだったが。
やがて我に帰り、慌てて彼女が吸い込まれていった香炉に呼びかける。
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと!?
ひかり?!
おーい!おーい!」
返事はない。
揺すってみると、先ほどまでは何も入ってなかったはずなのに、内部に何か入っているのが分かる。
蓋を開けてみると、中ではピンク色の液体のような物が渦巻いていた。
しかし、彼女のパーカーと同じその色以外には彼女の姿形、その面影は見当たらない。
急いで洗面台に栓をして、香炉の中身を取り出そうとするが。
香炉を傾けても傾けても、しまいには完全に上下逆さにひっくり返しても、中から液体は溢れてこない。
まるでスクリーンに投影された映像を見ているかのような。
何が何だか、全く分からない。
混乱した頭で、ふと、昔見たアニメ映画のことを思い返す。
もしかして……いや、まさか……。
居間に戻り、テーブルの上に香炉を置き直す。
そして、ピンク色になったその本体を、もう一回擦ってみる。
すると。
ブシュウッ!と、香炉の穴から、ピンク色の気体か液体かが噴き出てきた。
そして、それは僕の目の前で急速に凝集していき、やがて人型を形成し始めたかと思うと、そこに僕の見慣れた顔を顕現させた。
「お呼びいただきありがとうございます、ご主人様……♡」
普段ほとんど見せない厳かな語り口を伴って現れたのは、僕の彼女、ひかりだった。
「なんでも一つ、願いを叶えて差し上げましょう」
しかし、その姿は先ほどまでと大きく様相が異なる。
ベリーダンスと呼ばれるアラビアの踊り子のような装いをしていて、その生地は部屋着のパーカーやスウェットと同じピンク色と薄グレーの布地でできている。
フェイスヴェールで下半分を隠した顔、その表情を読み取ることはできない。
ただ、よくよく見てみると、その両目にはハートマークが浮かんでいる。
また、全身の素肌がいつもよりも浅黒く、褐色に近付いている。
その肢体から、妖しい色香を隠しきれず発露していた。
そして何よりも、膝から先、その両足は流動的な形のままで、宙に浮いてユラユラ揺らめいている。
しかして、その軌跡をなぞっていくと、彼女が吸い込まれた香炉へと辿り着く。
なんなんだこれは?
CGか何かを使ったドッキリかとも考えたが、それにしては、目の前の光景にはリアリティがあり過ぎた。
一瞬のうちに起きた非現実的な出来事に、僕は呆気に取られながら彼女に尋ねる。
「え……?
あのぉ、ひかりさん、だよね……?」
仰々しい言葉遣いで、彼女は答える。
「今の私は、ゆうき様に仕える香炉の魔人、“ヒカリ”でございます」
一体どういうことだ。
時々、ひかりから畏まった態度で話しかけてきて、茶番を仕掛けてくることはあるにはある。
しかし、目の前の彼女はその変化した姿も相まって、あまりに堂に入り過ぎている。
別人になったかのような。
それに、“香炉の魔人”、とな?
僕は手に持ったままだった香炉に目を向ける。
まさか、この香炉は、人間を魔人に変える道具だとでも言うのか?
それならもしかすると……。
「じゃあ、僕が願いを一つ告げて、それをヒカリが叶えてくれたら、君は人間に戻れる、ってこと?」
「その通りでございます。
逆に、ゆうき様が願いを口に出されず、あるいは唱えられた願いが叶っていない状態ですと、私はこの状態のままでございます」
当たり前の事のように彼女は言う。
……なるほど、僕が何か一つ願いを告げてそれを叶えてもらえれば、彼女は元に戻れるようだ。
とりあえず、彼女の無事を確認するために、早く元に戻さねば。
しかし、咄嗟に「願い事を唱えろ」などと言われても、なかなか思いつかないものだ。
しかもなるべく、この場ですぐ、簡単に実現するような願いでなければならない。
うんうんと頭を悩ませているうち、出張から帰ってくるたびに『脚が凝った〜』と言いながらカーペットに寝っ転がる彼女の様子が思い出されてきた。
そういえば、今日はまだ、脚を揉みほぐしてやっていないではないか。
「よし、じゃあ、願い事。
ヒカリの脚を揉みほぐさせてよ。
今日、帰ってきたばかりで疲れてるでしょ」
やや間を置いて、ヒカリは返答する。
「……承りました」
その顔はポーカーフェイスを貫いており、内心を読み取ることはできない。
ともあれ、願いは受諾された。
僕は、動きやすいように袖を捲る。