スンマの森 2.
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ブシュウウウッ…………!!
香炉からピンク色の何かが噴き出てくる。
いつもよりその射出する勢いは数段強く、香炉を手に持っていたゆうき君が思わず「うおっ」と驚いていた。
香炉から噴き出たピンク色の流動体は急速に人型を形成して固まっていき、やがて魔人としての私、ヒカリの姿が現れ、定着する。
「お呼びいただきありがとうございます、ご主人様♡」
今の私のご主人、ゆうき様にご挨拶する。
魔人となった私の容姿は、基本的には人間の姿の時と変わらないのだけれども、全身の素肌の色が元よりも浅黒い褐色に変化している。また、膝から先の両足は煙のように流動的な形でユラユラと宙に浮いていて、その根本は香炉に繋がっている。まるで、アラビアン・ナイトの物語に出てくるランプの魔人のような姿だ。
両手をピンと下ろして気をつけの姿勢を維持して、時々しゃっくりするように身体を前後に揺らしながら、ご主人様から出される命令を待っている。
香炉の持ち主、ご主人様に仕えてその願いを叶えるように義務付けられている魔人……それが今の私。なんだけど……。
現れた私の姿を見て、ご主人様はなんだか小首を傾げている。
何やら違和感を覚えているようだ。
「うーん……?
なんかいつもと雰囲気が違う気がする……?」
……彼がそういう理由は自分でもなんとなく分かる。
普段、魔人化した時の私の姿は、ベリーダンスと呼ばれるアラビアの踊り子のような装いへと強制的に変化させられる。これは謂わばこの香炉に備わった仕様みたいなものなのだが。
……今日の私が着ている衣装、いつもよりすごく面積が小さい気がする♡
胸元を隠す布地は部屋着のパーカーと同じピンク色で、腰回りを隠している布地はスウェットと同じ薄グレーっていうのは普段通りなんだけど……。アラベスク風の縁取りみたいな装飾を除いたら見た目的にはほとんど水着とか下着とかと変わらない♡
その分、左腕にはめられた金色の腕輪の存在感が相対的に増している。その腕輪の中心には、赤色の宝石のようなものが輝いていた。
あと、太腿を覆ってる薄グレーのヴェールなんていつもの倍くらい透けちゃってて、もう何を隠してるのか分からない♡
なぜこんな格好になっているのか自分でも分からない。現在の精神状態が反映されてしまっているのだろうか?
実際、ゆうき君を捕まえようとした勢いのまま魔人の姿にパッキングされちゃったせいで、ずっと息が荒い状態が続いてる♡
鼻息でフェイスヴェールがバッサバサはためいたり、息を吸う時にいつもより火照り気味な顔に布地がビターって貼りついちゃってる♡
これもう外してしまった方が呼吸が楽なのでは?
それに、照明を照り返すほど艶めいた肩周りから肉つきの良い腰周り、太腿に至るまで、いつもよりも皮膚がパンパンに張り詰めてる感じがする……♡
あと、さっきから私の心の声、語尾にずっとハートマークが付いちゃってるんだけど、これは香炉の仕様なんです♡
魔人にされちゃうと、ずっとこうしてハートマークが予測変換みたいに勝手に付いちゃうんです♡
別に、魔人の姿に拘束されてることで何か変な気分になっちゃってるとか、そういうんじゃないんです♡
本当なんです♡信じてくださいぃ♡
傍目にも息が荒かったり火照ってたりする感じは明らかなようで、ゆうき君は心配そうに話しかけてくる。
「えーと……ヒカリ、もしかして今日は調子悪そう?
香炉の中でゆっくりしてようか?」
「いえっ、全然大丈夫でございます……♡
もう全然、私自身に問題はございませんので、一切ご遠慮なく、ゆうき様の願いをお聞かせくださいませ……♡」
「あ、そうなんだ……。
まあ、具合が悪いとかそういうんじゃないのなら良かったんだけど」
彼は若干訝しがっている風ではあったが、魔人化した私が彼の意に沿わない言動を取ることはできない以上、調子が悪い訳ではないという私の返答も嘘ではないのだろうと結局は納得したようだった。
もうっ♡誰のせいでこんなことになってると思ってるのぉ♡
ゆうき君に勧められるままテーブルを間に二人向かい合うように椅子に座り込む。
とりあえず一服ということで彼が淹れてきたコーヒーを各々啜りながら、ゆうき君の命令に耳を傾ける。
「……残念ながら、今日の試験の出来はボロボロでした。
ひかりにも色々配慮してもらってたのに、申し訳ない。
で、もう一つ申し訳ないことを言わせてもらうと、今日の分の復習は今日のうちに片付けとこうと思うんだよね。
でも僕が勉強している間ヒカリにじっと待ってもらってるのも申し訳ないからさ……」
言いつつ、彼は鞄に入れられたファイルの中からA4型の紙を何枚か取り出しテーブルの上に広げ始めた。
なんか嫌な予感がする……。
「……この間教えてあげた内容のおさらいということで、ヒカリには今日はこの二問の解き比べをしてもらおうと思います。
結局、会社で受けるように言われてたこの間の試験は落ちてたんだよね?
また今度リベンジするんでしょ?
せっかくの機会だし、この時間を利用して勉強を貯金しておこうよ」
ゆうき君は微笑みを浮かべながら「これが解き終わったら今日は願いは成就ってことで」と問題用紙をこちらに差し出してくる。
ええええええぇ?!
どうじてそんな゛ひどいことずるの゛ぉ……♡
こんな精神状態で簿記の問題なんかまともに解けるわけないでしょぉ♡
「僕が思うには、簿記というものには癒し効果があると思うんだよね。
数字が出揃って精算表の貸借が一致した爽快感とか、価値移転計算をし終わって完成した勘定連絡図の造形美とかさ……。そういうのって、普段なかなか味わえないようなスッキリ感があるんだよ。
でも、残念ながら簿記の問題ならどれでもそういうスッキリ感が得られる訳じゃない。作問者のセンスや美意識、それらが重ね合わさってはじめて、この世にそうした美しい問題が産み落とされるんだ」
もう、この人ずっと何言ってるのか全然分かんない♡
簿記やってる人って皆こんな感じなの?
「僕の言ってることはなかなか説明しても理解してもらえないだろうから、今日はサンプルとして『解いても全然スッキリできない問題』と『解いたらすごくスッキリできる問題』と、二種類用意してみました。
前者と後者、それぞれ順番に解くことによってここまで説明してきた感覚をヒカリにも実感してもらいたいと思います。
さっきから様子を見ていると、ヒカリは色々溜め込みすぎて悶々としてるみたいだからね。これを解き終えられたら、当期純利益と繰越利益剰余金の当期増価額が一致した時みたいにものすごくスッキリできるはずだよ」
「…………かしこまりました」
どのみち、魔人化した今の私には彼の言う事に逆らう選択肢はないわけで、諦めて彼の言う通りにペラ紙数枚に印刷された問題を片づけてしまうことにする。
本当、なんでこんなことに……♡
近所のヤ◯ダ電機で買ってきてからしばらく埃を被っていたパールピンクの電卓を部屋から引っ張り出してくる。
テーブルに戻ると、向かい側の彼はタブレットに解答速報を表示させて、早くも問題に集中する体勢に入っていた。
……まぁ、彼のこういう真剣な表情を見放題というのも、なかなか悪い気はしないけれど♡
さて、彼から渡された二問はどちらも工業簿記のものだった。それぞれ違う論点が問われてるのだが、特にマニアックな処理が要求されているわけでもないので、これなら私の知識量でもテキストを確認しつつ多少時間を掛ければ最後まで答案は埋められそうだ。
最初に、彼が言うところの『スッキリできない問題』に取り掛かる。
いわゆる部門別計算の問題で、まず製品製造に間接的に貢献する補助部門費を製品製造に直接的に関わる製造部門費へと配賦したのち、最終的に製造部門費を各製品に配賦することで製品ごとの単位原価を求める。そういう趣旨の問題なのだが……。
「…………?………………?」
自分で出した答えに首を捻りながらも、解答用紙を埋めていく。全然『これだ!』という感触の得られる数字が出ないのだ。
そもそも、解答の要求単位が『万円』なのに、『割り切れない場合は最終段階で小数点以下第5位(円未満)を四捨五入すること』という計算条件が指定されているのが引っかかる。それなら最初から円単位で答えさせればいいのでは。
気持ち悪っ……♡
案の定どう計算しても割り切れないので、『本当にこれで合ってるのかな?』と不安を抱きながら解き進める羽目になる。
そのうえ自分で配布方法を考えさせる意図なのか、問題文に明瞭な指示が載っていない。が、各原価の発生態様と価値移転との因果関係が曖昧すぎて、どう処理するのが正しいのかイマイチ判断がつかない。おそらく別解が認められるものと思われる……♡
そして計算自体は小学生でもできるくらい簡単なもので、ただとにかく計算量が多く煩雑なのが尚更タチが悪い。こんなの表計算ソフトにやらせとけばいいのに……♡
あーっ、イライラするっ……♡
最後まで解き終わってもなんか虚しい……♡
全然スッキリできないぃ♡
裏返して答え合わせしてみるとほぼほぼ正解できていたのだが、だからと言って特に爽快感のようなものはなかった。
一箇所だけ、0.5円分ズレてて不正解になっていたところがあったのだが、よくよく問題用紙を見返してみると、その小問だけ『割り切れないときは円未満を四捨五入すること』と指示が追加されていた。うーん……。
モヤモヤした気分を引きずりながら、今度は『スッキリできる問題』とやらに着手する。
こちらは総合原価計算の論点だった。原料費と加工費を問題文で与えられた条件に従って製品の数量比や完成品換算量をもとに単位あたり原価(◯◯円/kg)を割り出し、完成品と月末仕掛品とに配賦していく問題である。この問題の特色として、十個近くある小問ごとに配賦方法についての指示がコロコロと変遷し、結果各小問の答えの数字がちょっとずつ変わるという仕組みになっていた。どの条件が変われば計算方法がどのように変わるのか、という点を理解できているか問う意図なのだろう。
「な、なにこれぇ♡」
解き進めていくうち、私はこの問題の恐ろしさに気づく。
小問が進むごとに、按分方法が平均法から先入先出法に、異常減損が正常減損に、減損の発生時点が特定点から工程全体での平均発生に、次々変更されていく。そのたびに単位あたり原価を出すための計算における分母の数字もコロコロ変わる訳だが……。
なんと、どの答えもピッタリ割り切れるのだ!
普通この手の問題では、論旨上、綺麗に割り切れず円未満を四捨五入した数字が最終解答となるケースが珍しくない。
しかし、今解いているこの問題は割り切れないどころか、小数点すら出てこない。どの小問も全てピッタリ円単位で答えが出てきてくれる。
ちょっ、この問題作った人、変態すぎるっ♡
美意識が高すぎるぅ♡
もしこの人とデートしたら絶対楽しい♡
そして問題文の指示に従って最後の問まで解き進め、一番最後の空欄に辿り着く。
それぞれ別途算出した月初仕掛品原価・当月着手分の原料費と加工費・追加配賦された正常減損費を足し合わせた結果、当月の完成品原価の額が導き出される。
そして最後の解答欄に『10,000,000円』というあまりにも美しすぎるクソデカ勘定が現れた。
き、気持ち良いぃ…………♡
しゅっきりぃ…………♡
爽快感と多幸感に満たされながら、ボワンと漫画チックな白い煙に包まれて、気づくと私の身体は元の人間の姿に戻っていた。




