奈落の入口
ニールは渋々ながらも俺たちの決断を受け入れ、別れを告げた。彼の背中が森の闇に消えるのを見送ってから、俺たち三人は改めて向き合った。リゼルの仲間二人は、怪我をしたリゼルを守りつつ、情報回収までを任務としていたため、ここで待機することになった。
「私たち三人が先行する。慎重に、だが迅速に動くぞ」
リゼルは脇腹の傷が痛むのをこらえながら、低く指示を出した。彼女の目は、夜の闇に慣れた獣のように鋭く光っている。
俺たちは松明の炎を絞り、音を立てないように闇の中を進んだ。リゼルが先頭に立ち、慣れた足取りで獣道を辿る。彼女は、先遣隊のわずかな痕跡や、戦闘の跡を正確に読み取りながら進路を選んでいた。
森の奥に進むにつれ、空気の冷たさとは違う、底知れぬ湿気が肌にまとわりつくようになった。そして、奇妙な唸りが、地面を通して振動となって伝わってくる。
「これが魔力の高まりか……」
マーティンが耳元で囁いた。その声には、恐怖ではなく、久しく忘れていた種類の高揚感が混じっていた。
やがて、巨木が途切れ、視界が開けた場所に出た。
そこに、それはあった。
「……これが、『大穴』」
俺は思わず息を飲んだ。
目の前には、隕石でも落ちたかのように、森の地面が大きく抉り取られた巨大な穴が開いていた。その直径はゆうに五十メートルを超え、縁は不規則に岩肌が剥き出しになっている。底は闇に閉ざされ、松明の光すら届かない。そこからは、強い腐敗臭と、かすかな金属の匂いが立ち昇っていた。
その穴の縁には、戦闘の凄惨な跡が残されていた。折れた剣の破片、散乱した矢、そして――血溜まり。
「ここが、最初の激戦地だ」リゼルが顔を歪ませた。「先遣隊は、ここで最初の眷属と遭遇した。奴らは、穴の底から湧き出してくる」
俺は目を凝らして穴の底を見つめた。何も見えない。ただ、穴の縁から立ち上る魔力の濃さに、全身の毛が逆立つ。
「報告書は、奴らが持ち込まれた物資と一緒に、この穴の中に引き込まれた可能性が高い。深部の反応が強すぎるため、隊長は報告書を回収し、撤退する予定だったはずだ」
リゼルは細いロープを岩にしっかりと結びつけ、装備を確認した。
「マーティン、お前はロープの確保を頼む。ジーンズ、お前は先行して、俺の足場を確保してくれ。降りるぞ」
マーティンは無言で頷き、ロープの端を己の屈強な体に巻き付けた。彼は俺たち二人の命綱だ。
俺は槍の石突を穴の縁に突き立て、ロープを掴んだ。深淵を覗き込むような暗闇が、俺の眼下に広がっている。
「いいか、光は最小限だ。音を立てるな」
リゼルが低く警告する。
俺は息を止め、まず一歩、穴の中へ踏み込んだ。冷たい岩肌が、指先にざらつく。松明は足元を照らす程度に絞り、その光が周りの岩肌に影を踊らせた。
垂直に近い岩壁を、ロープと槍を頼りにゆっくりと降下していく。マーティンの「よし」という低く短い声が、上から時折届く。
降り始めて数分。穴の内部は、異様な静寂に包まれていた。聞こえるのは、ロープが岩を擦る音と、俺たち三人の荒い息遣いだけだ。
その時、松明の光が、降下中のリゼルの足元で、何かに反射した。
「止まれ!」
俺が警告を発するのと、リゼルが動きを止めるのは同時だった。
松明の光をわずかに強め、その物体を照らす。それは、先遣隊の隊員が身に着けていたはずの、銀色の鎧の破片だった。その破片は、何かに噛み砕かれたようにひどく歪んでいる。
そして、その鎧のすぐ下に、岩壁にめり込むように突き刺さった、一本の短剣があった。
リゼルはロープを伝い、その短剣を回収した。短剣の柄には、先遣隊の紋章が刻まれている。
「隊長の短剣だ。この周辺に、報告書があるはずだ」
彼女が慎重に周囲を探る。その時、俺の足元で、小さな、だが確かな何かが動いた。
砂利が擦れるような、甲殻質の硬い音。
「マーティン、上から来るぞ!」
俺が叫ぶより早く、穴の壁の影から、巨大な鎌のような前脚が、松明の光の中に飛び出してきた。
「グルルルルッ!」
それは、体長二メートルを超える、黒く硬い甲殻を持つ魔物だった。体表は粘液で光り、四つの目と、獲物の肉を切り裂くための鋭い牙を持っている。『貪食の眷属』の偵察兵だ。
「チッ、見つかったか!」
マーティンが上から叫びながら、ロープを固定し直す音が聞こえた。
リゼルが素早く短剣を構えるが、体勢が悪い。俺は槍を構え、迫りくる鎌脚を迎え撃った。
一瞬の静寂の後、槍と甲殻がぶつかる激しい金属音が、暗い穴の中に響き渡った。




