第二話
夏休み初日。小鳥はまだ太陽が昇りきらない頃に家を出た。身体が完全に起きるまで、海沿いの道をのんびりと走る。身体が温まってきたところで、徐々に脚の回転を上げていった。
昨日高等部の自転車部員たちと走った方とは反対側に向かう。しばらく行くと、ヒルクライムにちょうどいい、傾斜のきつい峠道が待っている。頂上には海を見渡せる小さな公園がある。他の自転車乗りが来ていたら、競争してみるのもいいかもしれない。
海沿いから離れて峠道に向かう。潮の香りが薄れると共に、草木のにおいが強くなってきた。道はわずかに上りになっているが、ペースを落とさずに走り続ける。
目の前の傾斜がきつくなったとき、一度止まって坂を見上げた。自分以外は誰もいない。少し残念だったが、気を取り直してペダルを踏み込んだ。
ロードバイクを軽く左右に振りながら、身軽に急坂を上って行く。学園前の地獄坂よりは傾斜が緩いが、この坂のほうが距離が長かった。
長い坂の中腹辺りで、一度道が平坦になったところで、補給のおにぎりを食べた。ボトルの水で流し込んだところで、後ろに気配を感じて振り向いた。
後ろから、白を基調とした格好の自転車乗りが迫っていた。体系は小柄で、身長はおそらく小鳥と同じくらいである。白色の自転車乗りは、ふっふっとリズミカルな呼吸音を残して小鳥を追い抜いていった。
――坂じゃ負けない。
給水ボトルをホルダーに戻し、ギアを重くして追走を開始した。全身の力で重たいペダルを踏み、加速していく。白色の自転車乗りの背中が、迫ってくる。渾身の力でペダルを踏み込み、白色の自転車乗りの背後にピタリと付いた。
「捕まえた」
白色の自転車乗りを風除けにして上って行く。頂上までおよそ百メートル位のところで前に飛び出した。仕掛けた小鳥に反応して、白色の自転車乗りも加速する。
一瞬相手の顔を見た。小鳥と同い年くらいの女だ。
――女に負けてたまるかよ。
ギアを数段軽くし、高回転で一気に駆け上がる。徐々に女との差が開いていく。
残り二十メートル。傾斜が地獄坂と同等になった。重くなったペダルを必死で踏み続ける。 わずかずつだが、女が後ろに迫って来る。全身の力を振り絞って、ペダルを踏み込んだ。
道が平らになり、脚が軽くなった。しばらく惰性で進んで小さな公園に入った。ロードバイクから降りて、ベンチに座る。渇いた喉にボトルの水を流し込んだ。
海を眺めながら休んでいると、さっきの自転車乗りがやってきた。
「……あのぅ……隣、座っていいですか?」
「あ、どうぞ」
小さなベンチの反対側を勧める。小鳥は目の前の自転車乗りを観察した。
少女は小柄で、背は小鳥と同じくらい(少し悔しい)。肌は自転車に乗っている割には白く、艶やかだった。髪は長くてさらさらしている(小鳥と同じくらい。少し悔しい)。整った顔立ちをしていた。身体は細く、男子に人気が出るタイプだ。
しばらくお互いに黙っていたため、小鳥が話しかけてみた。
「僕、藤井小鳥。中三。君は?」
「安達久音といいます。同じ中学三年生です」
「ここらじゃ見ない顔だけど、どこから来たの?」
この辺りの自転車乗りの顔はほとんど知っているが、この少女は初めて見る。
「この前引っ越してきたばかりなんです。風が丘学園の近くにある祖父の家から来ました」
「あれ? じゃあ転校生って君?」
「え? ああ、もしかして風が丘学園の人ですか?」
「うん。……でも、まさか転校生がロードバイクに乗ってるとは思わなかったよ。しかも女の子だなんて」
「わたしも、自分以外にロードバイクに乗ってる女子がいるとは思いませんでした」
「え……? い、今、いったい何て……」
「ロードバイクに乗ってる女子がいるとは思いませんでした」
「…………僕、男なんだけど……」
「え?」
「こんな顔だけど、男なんだ」
「ええ!?」
久音が勢いよく身をを乗り出して、小鳥の顔を見つめてきた。
「女の子じゃないんですか? 顔こんなにかわいいし、名前だって女性名だし……」
「よく言われるんだよ。一見かわいい貧乳娘にしか見えないって」
「へえ……お肌もこんなにすべすべなのに……もったいない」
しばらくの間、小鳥はほっぺをむにむにともまれていた。
「むにむにですねぇ……あ、ごめんなさい。つい……」
「いや、べつにいいよ」
美人にほっぺをもまれるのは、悪い気はしない。
「わたし、また明日もここに来るんで、一緒に走りませんか?」
「うん。いいよ」
うれしい誘いだった。二人で走ったほうが楽しいし、同じ中学生でロードバイクに乗っている仲間ができたのは純粋にうれしい。
これが、久音との最初の出会いだった。
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