9話 ノア
「町に行きたいです」
ジルダはトイニに、こう持ちかけた。
その彼女は、ジルダの目の前で包帯を作っているところだった。
トイニがジャバルの薬師であることはジルダも聞いていたが、会話をしているだけではいまいちピンとこなかった。
船に来てから知ったことだが、トイニは五十代半ばらしい。ジルダは初対面のとき、それよりも二十歳は若く見ていた。なんせ肌つやがよく、健康的で美しい顔をしている。
何か秘密でもあるのだろうかとジルダは考えはしたが、人の事情なので聞かないでおいた。
「あー、ちょっと待ってね」
まだ作業の途中だったからか、トイニは今裂いている白い布を一旦最後まで片付けようとしていた。
ジルダはジャバルの船に来てから自由に過ごしている。船の中の部屋なども案内してもらい、自分に関係のある場所は早めに覚えるようにしていた。今いるのは、薬師トイニの仕事場である医務室だ。
案外広めに作られた医務室は、仕事上怪我をする可能性のあるジャバルの団員には必要不可欠な場所だろう。
船内での行動はある程度自由だったが、ジルダはまだ船から出て港町を歩いたことがなかった。あまりジャバルから離れて人の多いところにいくのは危ないからだ。
ジルダの町であった、闇商人に拉致されそうになったときのようなことが起きては大変である。
だからジルダはしばらくは船の中で大人しくしていた。といっても、こんな大きな船はジルダにとって初めてなので、最初のうちは船の中にこもったままでも十分楽しめた。
しかし、船の上から見える町を見ていると、少し興味が湧いてしまうものだ。
そこはジルダが住んでいた町よりも大きく、港町だからか、外からやってくる物や人で賑わっている。
人混みが好きではないジルダでも、どうせ近くの船にいるのなら、町くらい歩きたい。
それで、トイニに相談しに来た。
もちろんジルダはただ外出の許可を貰いたかっただけなのだが、せっせと作業するトイニを見ていて、つい口を出した。
「手伝いましょうか」
薬や医術にはあまり詳しくないが、先ほどからトイニがやっていることを見ていて、包帯作りなら自分でもできる気がした。
「ありがとう、でも大丈夫よ。もう終わるから」
よく見れば、トイニが持っている布が最後の一枚のようだ。
本人の言う通り、ジルダが見ている横でまもなく作業は終了した。
トイニはできた包帯を棚にしまいながら、話を始める。
「それで、なんだったかしら?ああ、町に行きたいのね」
「少しだけ見てまわりたいんです。行ってもいいですか?」
全て棚に収め終えたトイニはジルダの前に戻ってきて、頬に手を当てて考える。
「うーん、さすがに一人では行かせられないかなぁ」
「そうですよね……」
ジルダは少しがっかりして視線を下げる。トイニはそれを見て、にこっと笑った。
「一人では、よ。ジャバルの誰かがついていれば大丈夫」
「え、いいんですか?」
「何日も船の中にしかいられないのは私でも嫌だもの。それに、ジルダに町に行くことを禁止したら、軟禁みたくなっちゃうでしょう?」
「さすがに私はそうは思いませんけど……」
「町に行きたいなら行ったらいいわ。ジャバルの誰か暇そうな人に声をかけてみて」
ジルダは頷いたが、すぐに考える。暇そうな人などいるだろうか。
自治集団として、毎日人を危険から守ったり、悪事を取り締まっている人たちだ。
いつも船の中にいるのはトイニのような薬師、それから料理人やあとは外部から来たジルダくらいだ。腕っぷしに自身のある団員たちは毎日忙しいのか、朝早くにそれぞれ出かけて行ってしまう。
ただ暇つぶしに外に行きたいだけのジルダのために時間を割かせてしまうのは、少し申し訳ない気もする。
(やっぱりやめようかなー)
そう思っていると、トイニはまた新たに作業を始めていた。今度は何やら粉状の薬の分量を計っている。
「トイニさん、薬師は一人しかいないのですか?」
ふとジルダが聞いてみると、トイニは少し苦笑いを浮かべて頷いた。
「私は昔からここにいるのよね。もう何十年も一人でやってるけど、診るのはジャバルの人たちだけだから、一人でもまわせるのよ。ただ、確かにそろそろ後継ぎがほしいかしらねぇ」
何とかできているが、一人では確かに大変そうだった。ジルダが医務室に顔を出した時から、トイニはずっと忙しなく動いている。
(手伝うことなら出来るけど、後継ぎにはなれないなあ)
ジルダは一時的にここにいる身だ。あまり肩入れするのはよくないだろう。
「トイニさん」
「なあに?」
トイニは慎重に計量しつつも、相変わらずの優しげな声で返す。
「……いえ、なんでもないです」
ジルダは言いかけた言葉を呑みこんだ。
ヴィタリと何か取引きしているのではないか。そう聞きこうとしたが、やめた。
トイニは優しい女性だ。自分の問いかけによって困らせたくない。今これを聞いてしまえば、なんとなくこの柔らかい空気を壊してしまいそうな気がした。
それは、今やることではない。
「あら、気になるじゃない」
おどけた口調でトイニは言った。やはり五十を過ぎているようには見えないが、落ち着いた雰囲気は長年の人生経験を感じさせた。
そろそろ医務室を出ようとジルダが腰を浮かせたとき、入り口の扉がガタッと開いた。
「トイニさん、ちょっとかすったー」
そう言って部屋に入ってきたのはノアだった。トイニに腕を見せると、肘の近くに切り傷がある。
ノアは平気な顔で擦り傷だと言っているが、意外と深い。
「何をしたの?」
「練習で剣の手合わせしてたら、ちょっと刃がぶつかっちゃって」
「縫う羽目にならなくてよかったけど、気をつけてちょうだいね」
トイニがまたかというように言い、ノアは素直に返事をして手当てを受ける。早速、さっき作った包帯が役に立ったようだ。
慣れていると怪我の一つもこういうものなのかと、ジルダはじっとその様子を見る。ジルダも、フォスラトで食器を割ってしまったときなどは手を怪我をすることがあるが、今のノアの怪我に比べるとそれほどでもない。
(痛み鈍ってるのかな)
するとノアはジルダの視線に気がつき、包帯を巻かれている最中の腕をトイニの方に差し出したまま、顔をジルダに向けた。
「やあ。こんなとこで何してるの?」
「ちょっと話をしに来てました」
「へえ、話し相手ができてよかったね、トイニさん」
「そうね。ここには大体、怪我人しか来ないものね」
そう言って、釘を刺すようにノアを見るトイニ。ノアは、しれっと目線を逸らしている。
素早く包帯を巻き終えると、トイニは何かひらめいたようにポンと手を叩いた。
「さっきまで剣の練習をしてたってことは、時間があるのね。ノア?」
「うん、そうだよ。任務が終わったばかりだから、夕方までは何もない」
「それならさ、ジルダと一緒に町に行ってくれないかしら。ちょうど今、その話をしていたのよ」
明るい口調のトイニが、ジルダを見る。
終わったばかりのノアの任務というのは、ジルダの町での任務のことだろう。ジルダを探し出し、ついでに闇商人を捕らえる。確かにそれはもう完了していた。
トイニの提案はジルダにとって好都合だったが、やはりどこか遠慮してしまう。任務が終わりせっかくの休日だというのに、付き合わせてしまっていいのだろうか。
「うん、いいよー」
ジルダの考えとは逆に、軽い返事が聞こえてきた。
ジルダは思わずノアを見返すが、普通ににこにこしている。初対面の時からそうだが、この人は本当によく笑う。
「……ありがとうございます」
少し戸惑いつつも、ジルダは二人にお礼を言った。
「あ、町に行くなら」
急にトイニが紙切れを取りだし、羽ペンでさらさらと何やら書き始める。
書き終えた紙をさっと乾かし、ノアに渡した。
「明日くらいに自分で買いに行こうと思っていたけれど、ちょうどいいわ。頼まれてちょだい」
紙には、医務室で必要な備品などの一覧が書かれていた。
ジルダにもだんだん分かってきていたことだが、ノアは爽やかな青年だった。そしてどうやら、人と話すのが好きらしい。
髪色で目立ちたくないようで、頭から外套を被ってはいたが、トイニのおつかいで寄った店先にてちょくちょく店員に声をかけている。
外へ出たものの町の中を一切知らないジルダは、ノアについてきてもらっているというよりは、ノアに誘導されているようなものだったが、土地を知らないので仕方ない。
むしろ、話好きなノアが上手く話題を振ってくれたので、ジルダは町散策を楽しんでいた。
よく考えればジルダは兄や先生の夫以外の男性とあまり話したことがないのだが、ノアとはあまりそういうことを気にせずに話せていた。
彼が、壁がなく親しみやすい性格をしているからだろうか。
十九歳という歳の割に口調がどこかあどけないのもあるかもしれない。
昼食は、町の中にある店で食べることにした。ノアが、せっかくだからそうしようと言ったのだ。
そのうえジルダは、食事代までノアに持ってもらった。
「なんか、色々と申し訳ないです」
「なにが?」
分かっているのかいないのか、ノアは早速食べ始める。さっき、お腹が空いていると言っていた。
ノアがどんどん食べるので、ジルダも食べ始める。
食べたことのない南方の料理だったが、これが結構美味しかった。
「わあ、おいしいですね」
ジルダが口元を綻ばせていうと、ノアは嬉しそうに頷いた。
その様子はどこか、喜ぶ犬を思わせる。
「でしょ。俺が生まれた地域のほうの料理なんだ」
少し辛味があるのが、南方の料理の特徴である。ジルダはよく知らないが、ノアがそう説明した。
つまり、ノアはヴィカトス南方の出身だということである。たしかに肌の色は浅黒いが、それが生まれつきかは分からない。
ジルダは少し気になって、質問した。
「ジャバルにはいつからいるんですか」
「よく覚えてないけど、十くらいかな。子供の時からいたから」
結構長い間いるようだ。ジルダが十歳のころといえば、ちょうど元長男関係で嫌なことが起きたときだ。
思い出しそうになったが、ジルダはさっさと頭の中から例の出来事を追い出す。
「随分と長いこといるんですね。家を離れて寂しくないですか?」
「寂しくないよ。まあ、俺には身内がいないからさー」
「え?」
ジルダは食べていた手を止める。ノアがあまりにもけろっと言うので、一瞬、聞きまちがいかと思ってしまった。
「孤児なんだ」
ジルダはどう言えばいいか困った。その様子を察したのか、ノアはくすっと笑って続ける。
「流行病だったんだ。生まれ育った村が小さいところでさ、村人のほとんどがその病で亡くなった。俺の家族も皆、それにやられた。あっけなかったなあ」
口調はあっけらかんとしていたが、どこか遠い目をしていた。
気にしていないように見えるが、心が無傷だったわけではないだろう。
ジルダは、何も言わないまま俯く。
どうにも無神経な質問をしてしまったようだ。
「配慮がなかったです……ごめんなさい」
ジルダは、ノアのような話し上手ではない。だから、謝ることしかできなかった。
ノアは向かい側に座るジルダを見る。彼女の身長は同年代の少女たちと同じくらいのはずなのに、今はとても小さく見えた。
「ジルダ、顔を上げて」
落ち込んだジルダが、そっとノアに目を向ける。優しい灰色の瞳は、ジルダの左目の色によく似ていた。
「正直、村にいた頃よりも、ジャバルに拾われてからのほうが記憶が濃いんだ。人のためになる仕事はやりがいがあるし、いい人にもたくさん出会った。俺にとって過去は過去だから、こうやって普通に話したんだ」
ジルダは無言のままノアを見つめる。根が明るいというのは、こういう人のことを言うのだろう。これまでのジルダのまわりにはあまりいないタイプの人間だった。
「明るいですね」
「唯一の長所だから」
「それに、よく笑います」
「師匠の教えだ」
そう言ってノアは白い歯を見せた。
それから、思い出したように言う。
「あ、そうだ。敬語やめない?」
ジルダはぼけっとしていた。突然の話題転換に、二人の間で少し時差が生じた。
「ノアさんは年上じゃないですか」
「その『ノアさん』ってのもちょっとなあ。ジャバルには、俺に敬語で話す人なんていないから、違和感ある」
「私はジャバルの人ではないので」
「そう言われちゃうと、ちょっと寂しいな」
そう言ってノアは、子犬のようにジルダを見る。時々見せるこの顔は、無意識にやっているのだろうか。それとも、特技か何かなのだろうか。
とうとう、ジルダはノアの押しに負けた。
「敬語じゃなくていいって言うなら、普通に話します」
「うん、そうしてくれ」
ノアはにこにこしている。やっぱりよく笑う人だと、ジルダはその性格を少し羨ましくも感じた。