1話 訓練開始
「あたしが動きだして三秒したら来い」
「さ、三秒……」
ジルダは信じられないといった顔でサラを見る。
「それはさすがに私が有利すぎませんか……」
ジルダがまだ話している最中にも関わらず、サラは音も立てずに姿を消した。
ジルダは呆気にとられて立ち尽くしていたが、はっとしてすぐに頭上を見上げた。すると、生い茂る木々の枝を器用につたっていく女の赤い髪があった。
ジルダは急いで三秒数え、すぐさまサラを追って走り出す。
「サラさん、上はずるいです!」
ジルダは一生懸命足を動かしながら、空に向かって叫ぶ。
まるで猿のように身軽なサラは、下の方の枝まで移動すると、そこから跳び上がって地面に降りてきた。
下の枝といっても、地面からはそこそこ距離がある。
一体彼女の身体能力はどうなっているのかと、ジルダは感心しつつ呆れていた。
現在、ジルダとサラが何をやっているのかといえば、『追いかけっこ』という名の身体訓練である。
先日、ジルダはジャバルに入団した。
その翌日から早速、サラによる厳しい訓練が始まったのだった。
ジャバルで仕事をする上で、体力は必要不可欠である。さらに、なにかしら戦ったり自分を守る術があれば尚良い。
ジャバルは自治集団であるため、仕事をする上で危険な場面に遭遇することが多々ある。
ジルダもつい最近、サラに同行した任務先で監禁され、危うく目玉をほじくり出されて殺されるところだったので、護身の必要性はよく分かっている。
とはいえ、いきなりジルダに戦えと言ってもさすがに無理な話なので、サラの指導のもと、まずは体力づくりから行なっているわけだ。
その訓練の難易度は、初日から少しずつ上がっていた。
最初は船の上や部屋の中でもできるような個人的な運動だったが、だんだんと訓練の場は外へと移っていった。
今やっている『追いかけっこ』も、その一つである。逃げるサラを、ジルダが追いかけ捕まえる。
遊びとしては簡単なことだが、訓練としてはかなり難しい。
先ほどまで三秒を甘く見ていた自分を殴ってやりたいと、今になってジルダは思っていた。
地面に降りてきたものの、サラの速度は衰えない。それどころか、単純に走るだけになった分、容赦なく加速していく。
ジルダは背の高い後ろ姿を見据えたまま、へこたれずに手足を動かし続けた。
ジルダが正式にジャバルに加入してから、もう半月以上が経っていた。
最初は数メートル走っただけでへとへとだったジルダも、今ではまだついていけるようになった方だ。
サラのしごきを毎日受けているだけある。
走っている二人の距離は、縮まることなくどんどん開いていく。これでもサラは手を抜いているのだが、ジルダにはこれが全力だ。
とはいえ、サラの目的はジルダに捕まえてもらうことではない。もちろんそれができればかなりの強者だが、つい最近鍛え始めた少女が敵う相手ではない。
これは、持久力が大事なのだ。
疲れても、どんなに追いつけなくても諦めずに走り続けさせることがサラのねらいである。
訓練初日のジルダなら、まずここまで走り続けることはできなかっただろう。
今は追いかけっことすら呼べないくらいの差がついているが、進度としてはまずまずだ。
ジルダが汗をかきながら走っていると、ずっと前にいるサラがちらっと後ろを見る。
そして、速度をかなり緩めてきた。表情からも余裕がうかがえる。
だからといって簡単に捕まえられるとはジルダも思っていないが、その隙に力を振り絞って足の回転を速める。
当然、その分サラの背中は近くなった。
サラは顔を前に向け、ジルダのことを気にせずに飄々と走っている。
それを見ているとジルダは、どうしても追いついてやりたいという意地がわいた。
(この調子ならいけるかもしれない!)
ジルダは目を光らせると、さらに速度を速めてサラの背後に迫る。そして、目の前にある腕を掴もうと目一杯手を伸ばした時だった。
「甘いね」
小馬鹿にするような声とともに、サラが地面を蹴る。
つい前のめりになっていたジルダの頭上を、手もつかずに軽々と飛び越えると、すたっと背後に着地した。
「わっ!」
言うまでもなく、ジルダは勢いよく土の上に倒れ込んだ。
地面にうつ伏せたまま顔だけを上げると、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた顔が目に入る。
ジルダは何も言わずに悔しさを噛みしめると、すぐに起き上がった。
「必死になりすぎだ。分かりやすくしかけてやった罠にしっかりと引っかかりやがって」
「あと少しで追いつけると思ったんです……」
土で汚れた不満げな顔を見て、サラはくっくと笑う。
近頃、サラは楽しそうだ。
年下をこてんぱんにするのがよほど楽しいのだろうか。
「もう一回やるか」
「その前に、少しだけ休憩させてください」
ジルダは上がった息を落ち着かせながら言った。
一方で、あれほど動いたのにサラは普段通りだった。
サラの身体は、よく鍛えられている。
細い身体にみえるが、それは鍛え抜かれて引き締まっているからである。腕や脚も、しっかりと筋肉がついている。
代わりに余計な脂肪が一切なく、そのせいで胸まわりが寂しいことについてはジルダは黙っておく。
「余計なこと考えてないか?」
サラが目を細めて聞いてくる。
ジルダは顔と服を払いながら至って真面目な顔をした。
「いえ、サラさんには無駄がないと思っていただけです」
「ふーん」
「おかげで、訓練にも無駄がないです」
ジルダはほんの少しの皮肉を込めて言った。
日々抜かりなく励んでいるのだから、このくらい許されるだろう。
サラはジルダの言葉を聞くと、口の端を上げたまま腕を組んだ。そして身をかがめてジルダの目線に合わせる。
「そうだろう。おやじには、しっかりあんたを見るように言われてるからな」
そう言って顔を離し、また愉快そうな目をする。
(どうりでここ最近、サラさんに任務が回ってこないわけだ)
サラが半月もジルダに付きっきりなのは、頭領のダンの意向もあったのだと、ジルダは今さら気がついた。
「ここに来たのはあんたの意志だろ」
「そうですよ。だから全然、苦なんかじゃないです」
サラに煽られ、ジルダは両手にぐっと力を入れた。
「サラさん、もう一回お願いします!」
「はいはい」
実に面白いといった顔で、サラはもう一度逃げ役にまわった。
「今日はまた一段と汚れてるね」
会って早々はっきりと言ってくれるのは、銀髪の青年ことノアである。
日が暮れてジルダたちが船に戻ったところで、ちょうど出くわしたのだった。
ノアはジルダとサラを見つけるなり、笑顔で駆け寄ってきた。そこにないはずの揺れる尻尾が目に見えるようだった。
「追いかけっこしてて」
ジルダがそう言うと、ノアはなるほどと笑った。意外にも、意味が通じたらしい。
「あれは大変だ。サラ相手じゃ、なおさらだな」
「ノアでもそうなの?」
少し興味があってジルダが尋ねると、ノアは横目でサラを見た。そしていつもとは少し違う、含みのある笑みを向ける。
サラはそれを、気怠げにやり過ごしている。
ジルダは二人を交互に見て、首を傾げるだけだった。
「昔は結局一度も追いつけなかったけど、今ならどうだろうな。サラ、久々にやってみるか?」
「子犬とじゃれてる暇はないな」
「え、犬?」
ノアはぽかんとした顔で、サラを見つめる。
その隙にサラは、すたすたと歩み去っていった。
「急に犬がどうしたっていうんだ?」
未だによく分かっていないノアに、ジルダは笑いを堪えていた。それから何度も犬について聞いてくるノアをごまかし、思っていたことを言った。
「サラさんは、昔から凄いんだね」
するとノアは、表情を和らげる。
「そうだな。上には上がって言うけど、サラにはいろんな面で敵わない。俺は、今よりも小さいときから何かと世話になってるし」
「へえ、長いんだね」
「俺がここに来たときにはとっくにいたからなぁ、あの人」
「そんなに前から?」
ノアがジャバルに来たのはだいたい十歳頃だったと、以前にジルダは聞いている。となるとそれは今から九年ほど前のことになる。
その時すでにサラがいたとすると、サラは十年以上はジャバルにいるということだ。
(あれ、サラさんって何歳だ?)
そういえばジルダは聞いたことがない。
自分の歳を言う機会がそもそも少ないのだし、ジルダから尋ねる必要もない。
見かけからして二十過ぎだということは分かるが、若干サラは年齢不詳な中世的な顔立ちをしているので、推定が難しい。
そこでジルダは、ノアに聞いてみる。
「サラさんは今いくつ?」
すると、なんとノアまで首を傾げたのだった。
「さあ……」
「知らないの?」
ノアは頬を掻きながら、微妙な加減で頷いた。
「気にしたことなかったから」
「そういうものかなぁ」
「あ、でも」
ノアは、何か思いついたように手を叩く。ジルダは期待のこもった目で見た。
「俺がここに来た当時のサラは、今のジルダよりも若かったような気がする」
ということは、それほどノアとは歳が離れていないのかもしれない。
「気になるなら本人に聞いてみればいいよ」
あれこれ考えていたジルダに、ノアは明るく言う。
ジルダとしては少し気になった程度なので、なんとしてでも突き止めたいわけではない。だがせっかくなので、今度聞いてみようかと思った。
話をしているうちに、夕食の時間になりつつあった。厨房前の台に、大皿が並べられ始めている頃だろう。
ジルダも部屋に行こうかと思っていたところ、ノアが言った。
「これから晩飯?」
「そうだよ」
すると、その純粋な瞳をにこやかに細めた。
「それなら一緒にどう?」
「わあ、いいね!」
ジルダも嬉しそうに頷く。
ジルダは、ノアと話しているといつも心が和む。大きな理由としては、その圧倒的子犬感だろう。
そのため、一緒に夕食をとるのは大歓迎だ。
一人で部屋にこもって食べるよりもずっと楽しいだろう。
「晴れてるし、船の上にテーブルを出すか」
「そうだね。あ、ルースも誘ってみる?」
「お、名案だ」
話が決まると、二人は足取り軽く医務室へ向かう。
間もなくして、無表情で小柄な少年も加わった。




