3話 犬猿
何度考えても、ヴィタリが何をしたかったのかジルダには分からない。
ただはっきりしているのは、兄が夜中に家を出て行ってしまったことだけだ。
あの夜からもう、二週間近く過ぎていた。
ヴィタリがいなくなる前、最後にその姿を見たのはジルダだった。
しかしどうして去ってしまったのか、ジルダには見当もつかない。だから、家族には何も話していない。話せることなど何もない。
(どうして何も教えてくれなかったんだ。)
ジルダが最初に思ったのはそれだった。
もしあの日、ジルダが窓の外を見ずにそのまま眠っていたのなら。ヴィタリはただひっそりと、一人でいなくなっていたのだろう。
たとえジルダがあの瞬間を見ていても見ていないにしても、ヴィタリが家を出て行ったことに変わりはない。そう思うと、ジルダは余計に悔しいような、悲しいような気持ちになった。
(お互い信頼し合ってると思ってたのに。)
ジルダは居間のテーブルに突っ伏し、ぼんやりとしていた。
近頃はそんな状態で、一日が過ぎて行く。
『どうか、寂しいなんて思わないでほしい』
去り際にヴィタリが言った言葉が、ジルダの頭の中で何度も繰り返される。
あの時は突然何を言い出すのかと思っていた。でも、今なら分かる。
「無理だよ、そんなの……」
ついジルダがこぼしたとき、目の前の椅子がガタッと動いた。
「こんなとこで哀情に浸んな。邪魔だ」
声が聞こえてジルダは気怠げに、のそのそと顔を上げる。
思った通り、テーブルの向かい側に兄がいた。
兄と言ってもヴィタリではない。もしヴィタリがいたのならば、ジルダはすぐにでも飛び起きただろう。
そこにいるのは、ジルダの兄でヴィタリの弟、ジルダよりも一歳年上のほうの兄、テオだった。
よりによってこいつか、というあからさまな表情のジルダに、テオはむっとする。
「めそめそするんなら、自分の部屋でやれよ」
「めそめそなんてしてない」
ジルダはテオを睨み返しながら椅子に座り直す。この人の前で、だらけた姿勢のままいたくなかった。
いくら一番仲の良い兄が家出したからと言って、泣くようなジルダではない。
ヴィタリがいなくなって動揺するのはジルダだけではない。もちろん、ジルダの母は大いに混乱していた。
しかし、町の医者として日々バリバリと仕事をこなしている母親は、こんなときでも休んでいるわけにはいかった。夫がいない分、家族のために稼がなければならないのだ。いつまでも息子の家出を引きずるような母でもない。
母は間違っていないとジルダも思う。子どもたちのために逞しく働いてくれているのだ。感謝してもし足りない。
しかしジルダは、今目の前にいるこの兄にはどうも腹が立った。
先程ジルダを邪険に扱ったテオは、今はもぐもぐと軽食を食べている。ちょうど学校から帰ってきたところだった。学科は違うが、こっちの兄も一応、ヴィタリが卒業したところと同じ学校に通っている。
テオはヴィタリが家出しても、顔色一つ変えなかった。ジルダにはそれが若干不満なのである。
そして、兄弟だからかヴィタリとテオは顔がよく似ている。性格は全く違うが、ヴィタリの身長を少しだけ低くすれば、テオにそっくりだ。それもまたジルダには不愉快だった。
「どうせすぐ帰ってくるだろ。また一角獣でも追いかけにいったんだろうな」
まるで他人事だ。せめてもう少し心配するふりくらいできないのだろうか。
「……冷たい人」
ジルダはそっぽを向きつつ、ぽつんと言った。ぎりぎり、テオの耳に届く声だ。
「聞こえてんだよ」
「聞こえさせたのー」
そしてまた、静かに睨み合う。
そうしていると、やがてテオがにやっと笑った。何か企んだような、そんな顔だ。
「あーあ、ジェド兄さんを思い出すよ」
不意に発したテオの言葉に、ジルダはテーブルに手を叩きつけそうになるのを堪えた。
非難するようにテオを見ると、少し感情的になりながら声を出す。
「あの人とヴィタリを一緒にしないで」
「薄情だな、長男じゃねえか」
「今は違うでしょ」
「俺は兄貴だと思ってるけど?」
ふつふつと沸いてくる怒りを、ジルダは一生懸命抑えこんだ。テオを見ると、口元が歪んでいる。ジルダをからかって面白がっているのがありありと見えた。
ジルダはふうっと息を吐き出して、気持ちを鎮める。
(こんなやつに心を乱すなんて、ばかげてる。)
ようやく落ち着くと、ジルダは冷めた目でテオを見た。がっかりしたような顔がなんとも憎たらしい。
「もう、騒々しい……」
二人で険悪な空気でいると、迷惑そうな顔で居間にやってきた人がいた。
ジルダの姉であり、一家の長女である。母と同じ医者を目指し、学校を出てからは見習いとして母が勤める診療所で働いている。
昨晩は忙しかったようで、今日の昼前にやっと帰宅してきてから眠っていた。
この様子だと、ジルダたちの言い争いで起こしてしまったようだ。
ジルダは姉に申し訳なく感じつつも、横目でテオをねめつける。
「あなたたちはすぐ喧嘩するんだから、もう少し離れてなさいよ」
「元々ここに居たのは私だよ」
「だらだらしてただけだろ」
くだらないことに、ジルダとテオは昔からこの調子だ。長女は呆れたようにため息をつき、もうひと眠りしようかと考え始める。また何か言い合いをし始めた弟妹を放置して寝室に戻ろうとしたところで、テオの声が耳に入った。
「俺はただ、ジェド兄さんのことを言っただけだ」
去りかけた姉が戻ってくる。そして、やれやれという表情でテオを見た。
「家でその名前は出さない約束でしょ」
姉の言葉に、ほら見ろと言わんばかりのジルダに対し、テオは平然としていた。
テオの口から何度も出てくる“ジェド”という名の男は、ジルダのさらにもう一人の兄であり、長子だった男である。つくづく、兄姉が多いとジルダは思ってしまう。
長子だった、と過去形でいうのにも理由がある。
この元長男は、今はもうこの家とは絶縁している。されていると言った方が正しいかもしれない。
自業自得だ、とジルダは思う。
ジェドが家を出たのは六年前。ジルダがまだ十歳だった頃のことだ。
当時十九歳だったジェドは、妖精族の娘と恋に落ちた。そして、交際を認めてもらおうと母親に話をした。母は、その交際を認めなかった。法律によって禁止されていたからだ。
法律上、妖精族との婚姻までは認められている。しかし、子どもができてしまうとそれは違反となる。
母はそれを危惧したのだった。
ジェドはあっさりと母の話を聞き入れ、妖精の少女とは別れた。……ふりをした。
ある夜中、『自分は彼女を選ぶ』という短い書き置きを残し、家を離れたのである。
裏でしっかりと計画された駆け落ちだったのだと、あとから分かった。ジェドの部屋に形跡があったのだ。
あのとき、母がどれだけ傷つけられたことだろうか。交際を諦めたふりをした息子に騙されて、駆け落ちまでされたのだ。
ただでさえ夫がいない心細い母は、こればかりは許せなかったのだろう。ジェドとは一切の縁を切り、息子として扱うことをやめた。
ジルダにとっても同じだ。家族を謀り、母を悲しませてまで出奔した男など、兄ではない。
もうあれから六年経つが、どうしているかなど気にしたことはない。勝手にすればいい、ただそう思うばかりだ。
母と同じくらいジルダがジェドの話をしたがらないのにも理由があった。
ジルダは幼い頃、くどいほどこの男に可愛がられていた。それはもう、べったりだった。
長子と末子。一番歳が離れていたから、ジェドにとってはなおさら愛らしかったのだろう。
だからこそというべきか、ジェドの例の行いにジルダは腹が立っている。今でも名前を出されると、頭に血がのぼりそうになる。
それを面白がって、テオはわざとジルダの前でジェドの名を出すのだ。
ジルダは顔を険しくしていた。
そんなジルダを見て、ジェドのことをそこまで気にしていない姉もさすがに放っておけない。
「テオ」
とりあえず謝れという表情で、姉がじっと見つめた。
テオは軽食を平らげると、皿を持って椅子から立ち上がる。
「知るもんか」
ジルダに向かってべーっと舌を出すと、とっとと行ってしまった。
姉は疲れた表情でその様子を見過ごし、それからジルダに顔を向ける。
栗色の髪の妹は、むすっと黙りこくって頬杖をついていた。
姉はぽんぽんとジルダの背中を叩くと、もうひと眠りしに、部屋へ戻っていった。
<(`^´)> ムスッ