2話 月と影
その帰り道、ジルダはやはり浮かない表情で歩いていた。いつもよりも歩くスピードが遅く、ヴィタリの斜め後ろを歩いている。
ヴィタリは時々ジルダを見ては、さりげなく歩調を妹に合わせる。
「どこへ行っちゃったんだろう」
ジルダの声に、ヴィタリは耳を傾ける。
言うまでもなく、先ほど先生が話していた行方不明のストルーガについてのことだろう。
「自分からいなくなったのかもしれないよ」
宥めるような口調で、ヴィタリは言う。それでもジルダの目線は下がったままだ。
ヴィタリの言うことは間違ってはいないのかもしれない。あくまで現状は「行方不明」で、誘拐とは言われていないし、はっきりとしたことも聞いていないのでジルダに真実は分からない。
「よりによって、ストルーガの子が」
そう言うジルダの頭の中には、兄が持っていたストルーガの歴史書の内容が思い出されていた。かつてその力を狙われ、大勢のストルーガが捕われたことがあったと、書の中にあった。
昔の話だが、今のジルダの頭には何度も浮かんでしまう。
「無事ならいいんだけど」
「……そうだね」
同じストルーガだからだろうか。ジルダは同情してしまう。
ふいにヴィタリが足を止めたのを、ジルダは不思議そうに見た。
「なに、立ち止まって」
「ジルダ、ちょっと」
ヴィタリはちょいちょいと妹を手招きする。
もうすぐ家に着くのにと思いながらもジルダが寄ると、ヴィタリは首にかかっていたものを取った。
それはいつも、ヴィタリが必ず身につけているペンダントだ。
金色の土台に青い石が嵌め込まれていて、かなり古そうだが一目見ただけで貴重なものだと分かる。少し錆びた土台には、細かい模様が彫られている。
ヴィタリが前からそれを持っていたのは知っているが、ジルダの目から見るとあくまで装飾品の一つだ。
しかし、いつから持っていただろうか。自分がが五歳くらいのころは、さすがにまだ付けていなかったような気もすると、ジルダは思っていた。
ヴィタリは、首から外したペンダントをジルダの手に持たせた。
ジルダが首を傾げていると、ヴィタリはにこっと笑う。
「ジルダにあげるよ」
「え、ありがとう……?」
綺麗なペンダントだとジルダも前から思っていた。中心にある濃い青色の石など、見惚れるほど美しい。
しかし、欲しいと思ったことはない。
何年か前にヴィタリに見せてもらい、ジルダが興味津々だったことは確かだが。
よく分からずにペンダントを見つめるジルダにヴィタリは言う。
「この石はね、その持ち主を守ってくれるんだよ」
その言葉を聞いた途端、ヴィタリは何か信仰していただろうかと、ジルダはまじまじと見てしまった。その視線に気がついたヴィタリはまた軽く笑う。
「疑ってるねー」
「だって、らしくないことを言うもんだから」
ジルダが疑うような目線を送っていると、ヴィタリは首を横に振った。
その目線が、渡したペンダントを見る。
「まあ、お守りみたいなものだよ。ジルダに幸運が訪れますように」
やはり意味不明だったが、ジルダはせっかくなのでペンダントを受け取ることにした。
信じるか信じないかは別として、そこには兄の優しさがある。
ジルダはもう一度ペンダントを見るとそれを首にかけ、ヴィタリに笑って見せた。
「大事にするよ」
「意外とすぐ、失くしたりして」
「そんなことない」
悪戯っぽく笑うヴィタリに、ジルダは少し口を尖らせる。
それから二人で、ふふっと笑った。
夜、ジルダはペンダントを首から外し、寝床に潜った。
一日が終わり、後はもう寝るだけのジルダが寝室に入ってから、意外と時間が経っていた。家の中はもうとっくに寝静まっている。
特に何かが良くなったわけではないく、行方不明事件が不吉であることに変わりはない。ただジルダにとっては、ヴィタリからの贈り物が嬉しかった。
お守りだとかいう青い石の効能については、正直ジルダにとってはどうでもよい。兄には悪いが、ジルダはあまりそういうものを信じていない。
机に置いたペンダントをもう一度見ようと、ジルダは体を起こす。
(良いものくれたなあ)
ペンダントを見て、ジルダはそんなふうに思っていた。自然と昼間に喋った兄の顔が思い浮かび、ふふっと笑ってしまう。
そしてジルダはふと、窓の方に目をやった。
ジルダの部屋は二階にあり、窓から家の前の小道が見える場所だった。夜空もまた、よく見える。
今夜の月は薄い雲がかかって少しぼんやりしていた。どことなく、遠くに感じる。
(ん?)
ジルダが空から目線をずらして家の前の小道を見ると、そこには人影があった。
今は真夜中であるはずだ。
一瞬寒気がしつつも、ジルダはじっと目を凝らす。
月の光が雲に遮られているためか、顔がよく見えなかった。しかしジルダには、その人影が一瞬、こちらの方を見上げた気がした。
ジルダがぼんやりとそれを見ていると、その人は家に背を向け、向こうへと歩いて行く。
歩き出して数秒後に少し先の街灯に照らされ、その後ろ姿がはっきりと映った。
「っ!」
ジルダは目を見開き、そのまま走って部屋を飛び出す。
二階から玄関につながる階段を駆け下りて、そのまま急いで扉を開けた。
家の外へ出たジルダはぶるっと身震いする。
日中は上着がなくてもいける気温だが、夜はまだ冷える。
しかし、そんなことを気にしている場合ではない。ジルダは寝巻きのまま、先ほどの人影が歩いていた道を辿った。
ジルダが走っていると、ゆったりと歩いていたその人影にすぐ追いついた。
「ヴィタリ!」
ジルダが部屋の窓から見たのは、紛れもなくこの兄だった。
ジルダが呼ぶと、その後ろ姿は止まり、ぱっと振り向いた。ヴィタリは慌てるような表情もなく、ジルダを見ていた。
ジルダは立ち止まるヴィタリの目の前まで来て、息が上がったままの状態で声をかける。
「ねえ、どこに行くの?こんな時間に」
ジルダが聞いても、ヴィタリは答えない。ただ黙ったまま、目の前の妹を見つめるだけだ。
いつも爽快に笑っていることが多い兄が、真顔で黙っている。
ジルダはそれが不安で、とっさに頭に浮かんだことを言った。
「また、研究しに行くの?夜行性の動物?」
それならありえると思った。研究のためなら自分の睡眠時間を削ってもいいと言うような兄だ。むしろ今は、そうであってほしい。
「……ジルダ」
ようやく聞こえたヴィタリの声の調子が、いつもより低く感じられた。
ジルダは落ち着かない気持ちで、ただただヴィタリを見上げる。
「あのペンダントも、貰ったものなんだ」
何を言っているのか、ジルダには分からなかった。言葉の意味はさすがに分かる。ただ、なぜそれを今言うのだろう。
「だから、大切にしてほしい」
「分かってる。それよりも、この時間は寒いよ?」
ジルダが若干震えながら言う。低い気温による寒気なのか、どこか様子のおかしい兄への恐怖なのか。どうして震えてしまうのか、ジルダ自身にも分からない。
ヴィタリの表情は、相変わらず読み取れなかった。
「まだ夜は冷えるから。風邪ひかないように、ジルダは家に入った方がいい」
笑ってはいないが、気遣うような柔らかい口調だった。
ようやくいつもの兄らしさが見えた気がして、ジルダはほっと息をつく。
「うん、入るよ。ヴィタリもこんな夜中に外に出てないで、早くお家に」
「ごめん、ジルダ」
ジルダの言葉を遮ったヴィタリの声は、少し強くて大きかった。目線を下げ、顔を歪ませている。
申し訳ない、と言いたげな目をしていた。
「ごめんって、何が?」
これは夢だろうか。
ジルダはそう思い始める。月も自分の視界もはっきりしない気がするのは、そのためじゃないのか。
しかし、ジルダの肩に触れたヴィタリの手の感触が、夢ではないといっていた。
「……どうして謝るの」
「どうか、寂しいなんて思わないでほしい」
ジルダの問いかけには答えず、ヴィタリは小さな妹をそっと抱きしめた。
(わからない……)
何が何だか理解できずに腕の中でぼんやりとするジルダの目を、ヴィタリはすぐ近くから見た。
そして ━━
「さようなら、ジルダ」
ジルダから離れると、ヴィタリは背を向けて素早く走り去った。
ジルダがようやくヴィタリの言葉を咀嚼したときには、その姿は道の向こうに見えなくなっていた。
「ま、待って!」
ジルダが走り出した時にはもう遅かった。
━━翌朝、ヴィタリが現れることはもちろんなかった。