インク屋ネヴァーモア・ナーサリライム 狼と大学生
鈴木洋介はカチャカチャと食器を洗いながらのんびりと鼻歌を歌っていた。
彼がアルバイトをしている店は一人暮らしのアパートと最寄り駅のほぼ中間地点にある喫茶店【沸き立つ鍋】だ。
レンガ造りの三階建ての建物で、三階部分は客室として利用もできるらしい。
らしい、というのは彼がアルバイトに来てからは一度も利用されてないからだ。一応毎日掃除はしているが、客が停まったことは見たことがない。
「洋介、もう上がっていいぞ」
「え?」
時刻は午後7時。いつも閉店の午後9時まで残ってまかないを食べていた鈴木洋介にとっては青天の霹靂だった。
店のマスターは掘りの深い顔の上に眉間にしわをのせて溜息を吐く。その様子に洋介はただならぬ気配を感じた。
「バイト代はいつも通り出す。すまん」
「いや、別にいいっすけど」
良くない、ここのまかないを楽しみにしていた洋介にとっては死活問題だ。
しかし店のマスターがもう一度すまないが帰ってくれ、と言われると帰るしかない。
推定身長が二メートル越えの、流ちょうな日本語を使うとはいえ青い目の外国人に勝てる自信など彼にはない。
エプロンを外し御座なりに挨拶をして店を出る。
晩飯どうしようかと考えていると後ろからよう、と声がかかった。
「洋介」
「健」
声をかけたのは同じゼミ生で、かつアパートも隣の部屋に住んでいる高橋健だった。
彼は人懐っこそうな笑みで洋介の肩を叩く。
「今から飯行くんだけど、お前もどう?」
「わかった」
健に連れてこられたのは駅前にある牛丼のチェーン店だ、安いし腹も溜まるのでよく利用している。
そこで牛丼を食いながら、店を追い出さたことを健に告げた。
「なんつーか、怪しいなそのマスター」
「何がだよ」
「いきなりアルバイト追い出すってのが怪しい。何かあるんじゃねーの?」
洋介があの店でアルバイトを始めて三か月たつが、確かにそんなことは一までで一度もなかった。
元々アルバイトの内容としては接客と皿洗いぐらいなのだが、時給はこのあたりで一番高いし客もまばなため、暇なときは就職活動用の履歴書を書いていてもマスターは怒らなかった。
(むしろ書き方のアドバイスをしてくれることもあった。そのかいあってか書類選考はぼちぼち通るようになったのだが)
「何かって」
「わかった、愛人が来るんだよきっと」
「はぁ~~?」
「だって、そのマスターってあの不愛想なオッサンだろ?きっと奥さんと別居中に愛人連れ込んでるんだよ!!」
健の突拍子もない話に洋介は二の句が継げなかった。
マスターが結婚しているかは知らないが、そういうことをするようなタイプには見えない。
いつも寡黙で、失敗すると二言三言怒られるが基本的には穏やかなで優しい人だ。そんな人が愛人を連れ込んでるとも思えない。
そもそも愛人やなくて彼女っていう可能性もあるだろう。というと健はにいーっと笑って。
「なぁ、確かめに行こうぜ」
「何言ってんだよ」
「その店にいったい誰が来るのか、お前だって知りたいだろう?面白そうじゃん」
「いや。あのな」
「もしも愛人だったら、証拠写真撮ってちょっと脅かせばただ飯食べ放題じゃね?」
最低な健の言葉だったが、洋介はただ飯の所に食いついた。
就職活動であちこち行っているせいか、最近財布はカツカツだ。そんな中でただ飯が食えるとしたら。
それに、少しだけ好奇心も疼くし、理由なく店を追い出された怒りもほんのちょぴりと会った。
「…………行くか」
二人は店を出て【湧き立つ鍋】の近くの電信柱に身を隠す。
電灯もあまりないせいか道は暗く、二人の姿は遠めからは見えない。
スマートフォンで確認した時間は午後9時。すると向こうから誰かが走ってくるのが見えた。
その人影は見せの扉の前までくると、息を整えて店の中に入っていく。
二人はそれを見て顔を見合わせた。
やってきたのは小柄な青年だった。暖かいを通り越して暑い時期にもかからわず黒い大判のストールを体に巻き、手に大きな革製のトランクを持っている。
それよりも驚いたのはその顔だ、店に取り付けてある明りが映し出したその顔。
鼻から上を、銀の仮面――そうとしか形容のできないもの――を付けていたからだ。
「なんだ、コスプレか?」
「いや」
青年が入ってしばらくしたのち、店に明かりが付いて何やら騒がしくなっていく。
二人はこそこそと移動して窓から店の中をのぞいた。
件の青年は仮面を取り外しており、マスターがトランクの中からラベルの付いた瓶と、ガラスの漏斗のようなものを取り出す。
「!!!」
その後に起きた光景を、二人は思わず写真に撮っていた。
漏斗を刺した瓶が机の上に置かれた瞬間。青年は自分の目に手をかざしたかと思えばそこから目玉をえぐり抜く。そしてそれを漏斗の中に入れると、目玉から瓶の中に鮮やかな赤い色が落ちたのだった。その光景に本能的な恐怖を覚えたのか撮った写真を確認することなく、二人はその場から逃げ出す。
なにか、自分たちはとんでもないものに触れてしまった気がする。
そしてその考えは、ある意味では間違いではなかったと知るのは、これから半月後のことだった。
「ふぅん。仮面をつけた謎の旅人ねぇー」
あくる日。ゼミは卒論に向けての簡単な説明で終わった。
そのまま昼食を取ろうと学食に向かう途中、健と洋介は同じゼミ生の神崎愛華に声をかけた。
愛華は既に内定をいくつもとっているらしく、その話を聞こうと思っていたのだ。
そこで健が昨日見た喫茶店の仮面人の話をし始め、先ほどの言葉が出たのだった。
「いやーなんだったんだろうな。あれ」
「さぁ、マスターと知り合いみたいだけど」
「写真あるんでしょ?見せてよ」
「これです!!」
ゼミでもきっちりと発言しはきはきと場を取りまとめる愛華はまさにマドンナのような存在で、健は好意を隠そうともせずに写真を見せる。
洋介は今日のバイトは休みだからどうしようかと考えてたのだが、写真を見た愛華が悲鳴を上げた。
「ウソ」
「どうかしたんですか?神崎さん」
「ここに写ってるラベル。……もしかしてネヴァーモア・ナーサリーライム?」
「ねばーもあ?」
「もしかして、幸運を運ぶブルーバードインクのっすか?」
疑問符を浮かべる洋介をしり目に、健と愛華は盛り上がる。
健は洋介の方を振り向くと、小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「なんだよお前そんなのも知らねーのか?流行追えてないんじゃないの?」
「まぁまぁ、洋介君バイトと学業で忙しいんだから。仕方がないんじゃないの?」
生活費や学費をバイトで補っている洋介と違い、健はかなりの仕送りを貰っているらしく、愛華に至っては実家だ。
当然金銭の余裕の差なのか。洋介は乾いた笑いをこぼす。
「悪い。全く知らないんだ。インクって……万年筆とかに使うインクか?」
「そうよ」
インク売りのネヴァーモア・ナーサリーライム
その名前が最初に出たのはSNSのとある投稿からだった。
『面白いインク 売ります』
というプロフィールで淡々と投稿されるのは、ある文具店に卸しているというインクの情報だった。
『天空の落とし物』という名の、色鮮やかな空色。『絶望』というなの黒い色。
季節が変わるごとに追加される色もあり、中には『パンプキンの笑い声』という名のオレンジ色もあったらしい。
その中で一番有名なのが『青い鳥の旅行記』というなの、青いインクだった。
最初に話題になったのは、ある賞を取った小説家が投稿した、自分の仕事道具という写真だった。
そこに写ってあったのは原稿用紙と万年筆、そしてその青いインク瓶で、小説家曰くこのインクで書いた小説が賞を取ったのだという。
次に話題になったのは人気上昇中のあるアーティストのミュージックビデオにそれと同じインク瓶が使われていたのだ。
二つの事例から、その『青い鳥の旅行記』は持ち主に幸せを運ぶんじゃないかとネット上で噂になり、インクを求める人が急増した。
……のだが。
「そのインクを売ってるお店がどこにもないらしいのよ」
「どこにもない?そのSNSには載ってないのか?」
SNSを見せてもらえば、ネヴァーモアが商品を卸している文房具店は「九雫月文房具店」という名前らしい。
そこのHP飛ぶときちんと場所も書いてある。すると二人は首を横に振った。
「いけないのよ。なぜか知らないけど、行こうと思っても別の場所に出てしまうらしいわ」
「俺も何度か行ったんだけど路地裏の突き当りにあるのに行ったら壁になってたんだわ」
「ふうん」
たどり着けぬ文房具店に売っているインク。そんな話題がネットで盛り上がり、今ではネヴァーモアのインクはある種のステータスとなっていた。
そんな人物が自分の働いている喫茶店にいる、洋介は感慨深い気分になった。
と、二人が立ち上がる。そして未だ座っている洋介を健がねめつけた。
「何やったんだよ、いくぞ」
「どこに?」
「決まってるじゃない、貴女のアルバイト先の喫茶店よ。ネヴァーモアに直にあいにくの」
言ったとしても会えるかどうかはわからないのに、二人は確実に会えると思っているらしい。
洋介も昨日のことが気になったので二人についていくことに。
【湧き立つ鍋】を一目見た愛華は、貧乏くさい喫茶店ね。とこぼした。
健もそれに同意して、飯は上手いのにマスターは隠キャっぽくて雰囲気悪いんですよと付け加える。
洋介は流石に言いすぎだと抗議する者の、二人には馬耳東風だった。
扉を開けるとカウンターにはいつものマスターと、スツールに座っている青年がいた。
肩の辺りで切りそろえられた黒髪に濃い緑色のロングカーディガンを羽織り、マスターと談笑しているのか肩が少し震える。
「あのぉ、ネヴァーモア・ナーサリーライムさんですよねぇ?」
そこに愛華が青年の肩を叩き、驚いたのか見上げて彼女を見つめる。そこで初めて洋介はその青年が女性だと思い当たった。
オレンジ色の瞳に、片方の目は眼帯を嵌めていて灰色のサングラスをかけた顔は予想以上に若く、自分たちと同じ年ぐらいに見えた。
全体的に細身でカーディガンの下が白いシャツに黒いスキニージーンズのせいか余計に細く見える。健はその姿を見て一言。
「……なんか、隠キャっぽい」
「健」
男二人の言葉は聞こえてなかったのか女性――ネヴァーモアは訝し気に愛華を見上げている。
マスターは洋介をチラ見し、洋介はバツが悪そうな目で首をすくめた。
「私に何か用ですか?」
愛華は自分たちが大学生で経済学部であること、ネヴァーモアのインクがネットでかなり影響が出ていることを告げる。
その後ろで健はスマホを操作する振りをしながらこのやりとりを動画で撮影していた。洋介は健の腕をつかむがやめる気配がない。
「ネットでバズったアイテムはどのようにして生まれたのか。よければインタビューさせてもらえませんか?」
「それは、何かのレポートに使用するもの?」
「え?ええ、そうですよ」
「(本当か?)」
「(まさか、SNSで上げるんだよ。俺達一躍有名人になれるぜ?そうなりゃ、就活だって楽になるだろうよ)」
どうやらネヴァーモアをダシにするつもりらしい。しかし彼女はいいよ、と二つ返事をした。
そしてここだと邪魔だからとスツールを降り、窓側のボックス席にコーヒーを持っていく。
カーディガンの胸元には掌ほどの大きさの、鳥のレリーフがくっついたリース状のブローチを身に着けていて、それが光を反射している。
その鳥のレリーフが自分達を監視しているようで、洋介は居心地が悪かった。
ネヴァーモアの対面に愛華が座り、健と洋介はその近くのカウンターに座る。
「それで、何がききたいの?」
「ズバリ、新しいインクを見せてほしんです!!もちろん他の人には口外しませんから!!」
「ああ」
ネヴァーモアが取り出したのは真新しいラベルの貼った、空の瓶だった。
ラベルには【君に餞を】と印字されている。愛華は思いっきり目を見開く。
「あの。これ」
「最近海賊版が出てて困ってるんだ。だから自分のSNSで発信するまで伏せてるんだよ」
「中身は見せてくれないんですか?」
「本当はラベル見せるのも嫌なんだけど。大盤振る舞い。どんな色のインクか、あてて見せてよ」
「いやー。あの、話聞いてました?私は、インクを見せてほしいんですけど」
「ん?」
「だから、インクの中身を見せてって言ってるんですよ!!」
「……君、経済学部なら早バレがどんな痛手になるか。分かってるよね?」
じろりとネヴァーモアが愛華をねめつける。愛華はぶすくれた表情で瓶を見つめていた。
健は面白くなさそうに見つめているし、洋介はどうしたらいいものか思案している。
そんな空気はお構いなしにネヴァーモアは珈琲を啜っていた。
「……他に何か質問ある?」
「あの、『青い鳥の旅行記』っていうインクの事ですけど、再版とか予定はありますか?」
「ん?あれはもう廃盤になったはずだけど」
「廃盤!!あんなに人気なのに?!フリマのアプリだと使用済みでも五万円はするんですよ?!」
愛華の言葉に、ネヴァーモアはきょとんとした表情で彼女を見つめている。そこに健が助け舟を出した。
「ふつう、人気の物って再版とかするんじゃないんですか?」
「いや。元々私はインクは50本ぐらいしか作れないんだ。売り切ったらそれで終わり。
青い鳥シリーズは今まで三つぐらい作ったけど。どれも廃盤だよ」
「え?三つもシリーズがあるんですか?」
思わず洋介が口をはさむ。ネヴァーモアはうん、と頷いた。
「旅行記、手記、その前は日記だったかな。色合いがそれぞれ違うけど……。多分また新しい青い鳥のインクは出すから。
欲しいならそれを――」
「【青い鳥の旅行記】が欲しいんですよ。あれがネットでどれだけ評判なのかご存じないんですか?
あのインクを使ってある作家さんは賞を取ったりしたんですよ?!あのインクは幸せを呼ぶインクって言われてるんです!!」
「あー。まぁ確かに出どころは……そうか。それでか」
ネヴァーモアは納得したように頷いた後、愛華を見つめる。
「悪いけど。あれは君たちには買えないと思うよ」
「え?」
「話はもういいかな?申し訳ないけど眠たくてね。私はここの三階に泊まってるから、また何かあったら呼んでほしい」
「あ、ちょっと!!」
ネヴァーモアはそういうと珈琲を飲み干して荷物を持って立ち上がり。カウンターにカップを戻してそのまま階段を上がっていった。
残された三人はそれを唖然とした表情で見送る。
「なに、あれ。頭おかしいんじゃないの?!私一万人ぐらいフォロワーいるんだから、馬鹿にして!!」
愛華は机をたたき、我関せずと言った様子でカップを洗い出したマスターの顔を写真で撮ると店を足早に出て行った。
健と洋介もその後を追う。
「信じられない!!こうなったら炎上させてやる」
「は?」
「ネヴァーモアの顔も撮ったし、あのマスターも気に食わないから全部顔出し付きで炎上させるわ。
そのあとで旅行記のインクと引き換えに記事を下げるって脅すのよ」
「何言ってんだよ」
常軌を逸した愛華の言葉に洋介は驚いた表情で立ち止まる。健はにやにやとした顔で頷いていた。
「俺も手伝うよ、愛華。その代わりインクは山分けな」
「勿論よ。貴方も手伝ってくれるでしょう?じゃないと貴方もあそこのアルバイトとして晒すわよ」
「やってみれば?もしも晒されたら警察に届ける」
洋介は吐き捨ててその場から立ち去った。その後、ネットにあるインク屋と喫茶店を酷評する記事が出され、案の定炎上した。洋介は怖くて喫茶店にも大学にも行けず、部屋に閉じこもってしまった、
……数日後、洋介が意を決して【湧き立つ鍋】に行くとその店は空だった。
「なんで……」
何がどうなってるんだろう。洋介は呆然としながら店を後にする。椅子やテーブル、食器の類も何もなく本当にがらんどうとなっていた。
慌ててネットで検索し炎上記事を見つけたものの、既に飽きられたのかさほど話題に上ってなかった
ただし、記事のコメント欄に、喫茶店に救急車と警察が来ていたという野次馬の情報が書き込んであった。
愛華と健に話を聞くために大学に向かうと、中庭に見覚えのあるカーディガンが目に移った。
「まさか……」
中庭にはいくつかベンチが置いてあり、そのうちの一つにネヴァーモアが座っていた。
「やぁ」
「どうして」
「君を待ってたんだ」
彼女はカーディガンと同じ色の丸いレンズのサングラスをかけているが、眼帯は嵌めたままだ。
洋介は躊躇したが、彼女の隣に座る。すっと珈琲が手渡され、それを受け取った。
珈琲はとてもいい香りがするものの、正直その香りに癒されるような空間ではなかった。
「どうして俺を?」
「実は、ネットに私や喫茶店の炎上記事が上がっていてね。……弁護士を通したんだ」
ネヴァーモアの言葉に洋介は目を見開いた。
ネットは本当の意味で匿名の場ではない、弁護士に依頼すればだれが何を書いたか特定することが出来る。そして下手をすれば警察だって動き出す。洋介は青ざめた顔でネヴァーモアを見つめていた。
「……なんで」
「あの記事が上がった後に、喫茶店に強盗が入ったんだよ。私はたまたまでかけていたからよかったものの、店長が大怪我をしてね、入院中。それで調べたんだ」
「……」
「ああそれと、私のインクが盗まれている」
ネヴァーモアはなんてことないように呟いて珈琲を啜る。洋介は聞いていて生きた心地がしなかった。
と、彼女の片目の眼帯がちらちらと目に入る。出会った時からずっと彼女は眼帯を嵌めている。
「……あのインク」
「ん?」
「あのインクに……、貴女の眼が」
彼女は一瞬目を大きく見開いた後、目を細めた。その目がまるで肉食獣のような鋭さを伴って洋介を射抜く。心臓を鷲掴みにされたような恐ろしいプレッシャーに洋介は涙目になり、椅子から降りてその場で土下座した。
「すみません!!俺見たんです健と……この間あったあいつと一緒に。……貴女が目をくりぬいて……、瓶の中に入れるのを」
「……そう」
ネヴァーモアは深い溜息を吐いた後、珈琲を飲み干す。そして彼に立ち上がるように諭す。
「そうだよ、盗まれたのはその目玉入りの瓶なんだ」
「あの。貴女の眼は」
「ん?ああ、両方とも義眼だよ。だから取り外しができるんだ」
義眼。しかし洋介から見れば彼女の眼は本当の眼球と何らそん色はない。
世の中にはそんな精巧な物が作れるのだろうか、それとも……。そこで考えて洋介はネヴァーモアを見つめる。
「あの」
「ん?」
「ああ!!!居た!!」
そこにやってきたのは愛華と健だった、二人とも怒りの形相でネヴァーモアを睨みつけていた。
その様子が尋常ではなく、洋介は軽く腰を浮かした。睨まれているはずの彼女は素知らぬ顔でどうかしましたか?と尋ねる。
「貴女でしょう!!学生課と先生に言いつけたの!!」
「だから、何のことですか」
「俺達がリア充だからって嫉妬してんじゃねーよこの隠キャ女が!!」
健がネヴァーモアの胸ぐらをつかんで無理やり立たせようとするが洋介がそれを止める。健は不機嫌そうに洋介を見て唾を吐きかけてきた。洋介は健のその態度に唖然としたものの、吐かれた唾をハンカチで拭う。
愛華は鞄からインク瓶を取り出すと、ネヴァーモアはそれを見て顔色を変えた。
「やはり、君が持ってたんですね」
「なによ。ちょっとぐらいいいじゃない。儲かってるんでしょう?」
「……は?」
愛華はネヴァーモアの態度が変わったことに気が付く。健もその場から離れた。
洋介をかばうように前に出た彼女は腕を組んで二人を睨みつける。
「人の物を盗んではいけませんって、その年になるまで教えられなかったのかな?」
ネヴァーモアの子供を諭すような、半ば嘲るような言葉に愛華は顔を赤らめて思いっきり地面に瓶を叩きつける。
瓶は粉々に砕け、地面にインクと中に入っていた丸い球体が転がった。
愛華は勝ち誇ったような顔でネヴァーモアを睨む。彼女は一瞬インクに視線を落とした後。
「君、本当にバカなんだな」
そう言い放つと、近くにいた洋介の胴体を掴んで後ろに飛ぶ。
女とは思えないその力強さに一瞬洋介が目を見張った瞬間。インクがまるで噴水のように湧きあがった。湧きあがったインクは愛華と健を飲み込み、徐々に質量を増して巨大な狼のような姿に変貌していく。額にはあの球体――ネヴァーモアの眼球が埋め込まれていた。
「なんだよ、あれ」
「インクだよ。……人の感情にあてられた。ただのインクさ」
彼女はめんどくさそうに後ろ手に腰を回し、ナイフを取り出す。食器のナイフのような成形型で、尻の部分にカラビナと鎖のようなものが付いている。
そしてブローチをおもむろにつかむと、それを空中に放った。ブローチが大きく膨らみ、巨大な鳥となって狼を襲う。
洋介は腰が抜けたようにその場から動けず、ただネヴァーモアが起こした奇跡を黙ってみているほかがなかった。狼の前足をネヴァーモアがナイフで切り裂く、狼が呻くように唸り声をあげもう片方の前足で彼女を叩こうと振り上げた。その前足をかすめるように何かが彼女に近づく。
鳥――いや巨大なカラスが彼女の手にぶつかると同時に、カーディガンが黒に染まり、腰から黒い翼が生まれ、大きく羽ばたいた。地面をけって飛び上がった彼女は、オレンジ色の瞳を輝かせてナイフを狼にめがけて放つ。
銀の鎖が狼の体を締め付け、自由を奪われたそれはのたうつように蠢く。その鎖を引っ張って、インク屋は吠えた。
「災いの杖よ、焼き滅ぼせ」
鎖が赤く輝いた瞬間、どんと狼を巻き込むような火柱が立ち上る。段々それが収縮していき、狼の中から二人の体と、オレンジ色の義眼が零れ落ちる。
ネヴァーモアは地に下りたと鎖を引っ張ってナイフを回収し。地面に転がっていた義眼を無造作に片目に嵌め込んだ。
「…………二人は?」
「大丈夫だよ、命には別条ない」
振り返った彼女は両目ともオレンジ色の光をともし、苦笑いを浮かべていた。
それを見た洋介はなぜか安心し、その場で気絶したのだった。
後日。洋介はまた大学の中庭で珈琲を飲んでいるネヴァーモアを見つけた。
「こんにちは」
「やぁ。……ん?今日はスーツ着てるんだね」
「ええ。就職活動中なので」
「そっか」
また同じように隣に座ると、珈琲とビスケットが手渡された。
「あの二人、大学辞めたんだって?」
「ええ。まぁ」
あの後。教授達に呼び出された三人はこってりと絞られた。
ネヴァーモアの炎上騒ぎ以外にも愛華はいくつもの炎上騒ぎを起こしており(それのせいで休学していた生徒もいた)、健は後輩達の恥ずかしい秘密を写真にとっては小金を稼いでいたらしい。
(健が最初に写真を撮る時の言葉が手慣れていると思っていたが、そうやって盗撮して脅していたらしい)
流石に悪質ということで愛華は内定先に辞退を申し入れられた挙句揃って退学処分となった。
洋介も退学処分を受けるかと思ったが、厳重注意だけで済まされたのだ。彼女が口添えしたのかと思っていたが、言い出せなかった。
代わりに、こう尋ねることにした。
「……貴女のつくるインクは」
「私の涙。……私はね、見たものに心を動かされた時。流した涙がインクになる病気にかかっているんだ」
「珍しい、病気ですね」
聞いたこともない病気だったが先日のあのやりとりを見ていて、洋介は溜息を吐いた。
多分、世の中はきっと洋介が思っているよりもずっと、深いのだろう。
「10年ぐらい前かな。発病して。それ以来私の本来の眼球は、涙を流し続けているんだ。そのせいで生活もままならなくなってね。……それで、この義眼を作ってもらったんだ」
「そうなんですか」
「私のインクは、私の感情そのものなんだけど……目から取り出した原液はより強い感情に毒されてしまう」
負の感情に当てられた涙は時折化物の姿をとって人を襲う。ネヴァーモアはそれを討伐しなければならない。
だから盗まれた時は割と焦ったと乾いた笑いをこぼしていた、洋介からは全然焦ったようには見えなかったが。
「さて。私はそろそろ行くよ」
「そうですか」
「そういや、もうすぐマスターが病院から帰ってくるから、気が向いたらあの喫茶店に行くといいよ」
「……そう、ですね」
ネヴァーモアは立ち上がると、おもむろにポケットから何かを取り出して洋介に渡した。
それはアルファベットのYの文字に一本線が足されたような奇妙な刻印の施してある群青色のペンで、どうやら万年筆らしい。
「えっと」
「色々怖い目に合わせてしまったし。お守りみたいなもんだよ」
「いや、俺は別に」
洋介は言い淀んだ、自分は何もしていない。二人を止めることもできなかった。
しかしネヴァーモアは笑う。
「あの二人は、多分私が手を下さなくてもそのうちしっぺ返しが来てたよ。相当派手にやってたみたいだし」
「…………」
「でも。君はたぶんまだやり直せる。だから受け取ってほしい」
「…………すみません」
それだけ言うと、オレンジ色の瞳のインク屋は、風のように去っていった。残された洋介は万年筆の蓋を外し、何の気なしに手帳に線を引いてみる。
色鮮やかな青。それはまるで鳥が飛ぶような爽快さと爽やかさがあった。その色を見て、洋介は笑ってしまった。
「なんだよ。……廃盤って嘘だったのか?」
もしかしたら童話のように。青い鳥は身近にいたのかもしれない。