第六十六話 異変
不死者の異変に最初に気付いたのは防人達だ。
「おら!」
中層部のとある路地にて、景気良く不死者を倒す一人の防人がいた。特に名が知れているわけでもなければ、階級が高いわけでもない、ただの兵士だ。まだ年若い彼は“魔物に勝てる”という事実に高揚していた。悪く言えば調子に乗っていたのだ。仲間の防人を置き去りにして一人で先走ってしまう。
「おい! 待てよ!」
「安心しろ! 俺が全部倒してやるよ!」
仲間の忠告なんて聞きやしない。距離が離れるなんてお構い無しだ。それどころか、手柄を独占することが出来て丁度良いと考えている。
そんな彼の前に一体の不死者がいた。路地裏でうずくまっており、まさに格好の獲物だ。青年は大きく剣を振りかぶった。
「楽勝!」
そのまま勢いを乗せて剣を振り下ろす。彼は殺ったと思った。自分なら出来る、若き新星に追いつけると。称賛の未来を勝手に妄想しながら。
どこかの猿がいれば「浅はかだナ」と笑われるだろう。魔物とは自然そのものであり、簡単には倒せない。倒せないから脅威なのだ。それが理解出来ぬ者は浅はかで傲慢、笑われたって仕方無い。
ブワッと黒い瘴気が広がった。若き防人の何倍にも膨れ上がった瘴気の中には、まるで人の顔のような塊が蠢いている。青年は動けなかった。負の感情が形となって迫り来る光景に足がすくんだのだ。夜より暗い色をした瘴気は今にも彼を飲み込もうとした。
「あ……」
人は突然窮地に立つと言葉を失うのだろう。視界全てが黒く染まる中、瘴気に蠢く顔と目があったような気がした。そもそもあれは顔なのだろうか。思考だけがぐるぐると回る。そして、逃げもせずそんなことを考えている自分が滑稽であった。
「なにボーッとしてるのよ」
「ウグッ!」
急に後ろ首を捕まれて情けない声が出た。そのまま放り投げられた男は無様に路地を転がる。ハッと顔を上げれば一人の女性が剣を構えて立っていた。
ユノベーラだ。
目を覚ますような一閃、黒い瘴気は真っ二つに両断される。鬼気迫る顔の彼女に思わず青年は後ずさった。魔物の返り血を浴びた彼女はまさに鬼のようだったからだ。赤黒い血は月明かりに反射して妖艶に光った。
「血が出るってことは、こいつ復讐霊ね。厄介だわ」
「れ、復讐霊?」
「あら、知らない? 不死者なんて比にならない、生身の肉体を持った魔物よ」
瘴気が収縮して人の形に戻った。否、元の形とは少し違う。瘴気によって形成された剣を握っており、黒い剣は金属をも切れそうなほど鋭利であった。体には細い瘴気がまとわりついている。ゆらゆらと、もしくはぐるぐると体の周りを回る瘴気は刃のように鋭い。
だらんと垂れ下がった腕が掴む真っ黒の剣。それが僅かに揺れた。
――来る。
ユノベーラが剣を構えた次の瞬間、復讐霊は周りの瘴気を鋭い槍へと変えて突っ込んできた。
「ふん、当たらないわよ」
螺旋状の槍を受け流しながら彼女は余裕そうに言う。返し刃で亡霊の首を狙うも、それは瘴気によって阻まれた。
復讐霊の瘴気は実体を持つかのように硬かった。死した人間の恨みが強ければ強いほど、瘴気の力も強くなる。一体この魔物は、どれほどの恨みを抱きながら死んだのだろうか。
黒い瘴気は幾重にも重なった刃となって襲いかかる。視界を多い尽くすほどの量の刃だ。一般的な魔物とは一線を画す力、尋常ではない。
そして、それらを冷静に、的確に弾くユノベーラもまた尋常ではない。傍らで見守る青年には何が起きているのか分からなかった。分かるのはただ一つ、ユノベーラのおかげで自分は助かったということだ。
「すっげぇ……」
「おい! 大丈夫か!」
呆けた顔をする彼の元へ仲間が駆け寄った。青年の無事を確認すると、安堵したように息を吐く。
「全く、心配したぜ」
「……すまん」
「無事ならいいさ。それよりこいつは……復讐霊か?」
「知っているのか?」
「生きた悪夢だなんて言われてる魔物だ。あいつを見た者はたとえ生きて逃げられても、死ぬまで悪夢にうなされる。少なくとも俺達みたいなただの防人が相手になるやつじゃねぇよ」
悪夢、という言葉を聞いてユノベーラの様子が変わった。
(悪夢……?)
ずん、と彼女の剣が重くなる。
「一度こいつを見た者は、何百回と殺される夢を永遠と見続けるらしいぜ」
「ヒェッ……俺達もこれから先、悪夢にうなされるって言うのか?」
「そうならないために彼女が戦ってくれているんだ」
背後の会話がユノベーラの心を揺さぶる。
ただ死にかけた光景を見る夢が悪夢というのか。自分が何回も、何百回も殺され続ける夢を悪夢というのか。所詮はただの夢なのだ。起きたいと思える夢は、きっと幸せな人間が見る夢である。
(そんなものが悪夢……?)
ずん、と彼女の剣が速くなる。
復讐霊が生み出す瘴気の刃、その全てを叩き斬ってしまうほどの強く重い剣。彼女が剣を振るう度に空気が揺れた。復讐霊もユノベーラの変化に気付き、少し距離を取ろうとする。
「逃がさない、お前らは絶対に逃がさないわよ」
食らいつくように攻めるユノベーラ。防人の青年は、ユノベーラの背後から悪鬼の如し覇気が昇るのを幻視した。互角の戦いなんて嘘だ。ユノベーラが優勢となり、戦況は少しずつ彼女の方へと傾いていく。
復讐霊は瘴気を槍に変え、刃に変え、自らも剣を用いて戦う。だらんと垂れ下がる前傾姿勢もどこか余裕がないように思えた。
「はぁ!」
まずは一本。ユノベーラが復讐霊の左腕を斬り飛ばした。左腕を失った亡霊は一瞬バランスを崩すも、瞬時に体勢を立て直す。
再び剣を構えて向かい合う二人。復讐霊は剣を前に構えていた。前傾姿勢のまま、しかし隙の無い構え。片腕の亡霊は劣勢の状況でなお勝とうとしている。
どこまでも足掻く亡霊の姿は、まるで死にたくないと叫んでいるようだった。まだ死ねないと、死ぬわけにはいかないと足掻いていた。それを見つめるユノベーラの瞳は対極のように冷たい。
「来るなら来なさいよ。全部叩き斬ってやるわ」
ユノベーラの言葉に呼応するように、復讐霊は全ての瘴気を剣に凝縮させた。瘴気が渦巻く剣を構え、亡霊は地を駆ける。
「ふん!」
一瞬の鍔迫り合い、ユノベーラの鬼気迫る気迫に押し負けた復讐霊が剣を弾かれた。ユノベーラはその隙を当然逃さない。返す刃で一閃、天高く飛んだ剣を追いかけるように亡霊の右腕が空を舞った。
「やった!」
防人の青年は思わずガッツポーズをする。誰もが確信するユノベーラの勝利。しかし、復讐霊の体は倒れなかった。両腕を失った亡霊、なおもその瞳は光を放つ。
まだ、終われない――
復讐霊はユノベーラに噛みつこうと、自らの口を限界まで開いた。頬の肉が裂けるほどに開かれた口にはボロボロの歯が並んでいる。
「しつこいわよ」
そんな捨て身が彼女に通用するわけがない。ユノベーラの回し蹴りが亡霊の体をとらえ、路地の壁へと弾き飛ばした。脆くなった壁はガラガラと音を立てながら崩れる。瓦礫の山に乗る腕なしの亡霊。ユノベーラはその体にまたがると、逆手に持った剣を振り落とした。
――ドスッ。
彼女は復讐霊の頭に剣を突き立てた。両手で力強く、二度と起き上がらないように。今度こそ動かなくなったのを確認し、彼女は立ち上がる。
「悪夢ってのは自分が何百回も殺される夢なんかじゃないわ。愛した人と笑い合う夢からハッと目を覚まして、冷たい天井を見上げることを言うのよ」
動かなくなった亡霊の頭に片足を乗せ、自らの剣を突き立てたまま彼女は言い放った。真っ赤に充血した瞳はまるで魔物のようだ。赤い瞳で彼女は夜空を見上げる。
「全部……不死者も復讐霊も、全部私が……」
空に浮かぶは細い三日月。彼女は笑っていた。三日月のように細く、三日月のように孤独に。




