第百七十八話 大暴走が始まる
その日、人々は南の空を見上げた。悠久の間、霧によって一度も全容を見せたことのなかった森が今、うねりを上げながら燃えている。異変を察した鳥が一斉に羽ばたき、赤い空を黒く覆った。
あの空の下で何かが起きている。数刻前、森に向かった戦士団が疲弊仕切った様子で帰還したのが話題になったのだが、既に街の人々の関心は燃え上がる森へ向けられていた。
言い知れぬ不安が住人の心を煽る。仲睦まじい夫婦が固く手を握り合い、普段は賑わいを見せる表街道も閑散とした様子だ。元気な声が溢れるはずの孤児院は波が引いたように静けさを見せ、街全体が寒気立つようである。
最初に異変に気がついたのは炎が上がって間もない頃のことだ。街の外壁で監視していた防人隊員が揺れを感じた。一瞬、緊張のあまりに心臓の鼓動が大きく聞こえたのかと錯覚した。だが、違う。
石造りの外壁が揺れるほどの物量。遠く離れた地にまで届く異形の声。ある者は霧をまとい、ある者は自身の体を燃やしながら猛然と走る。木々の間から白い体毛が見え隠れした。地面が不自然に盛り上がったかと思えば、次々と現れる土人形の群れ。
防人の青年が呆然とする中、大暴走が始まった。
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街の南側に位置する下層部は阿鼻叫喚といった様子だ。魔物から逃げようとする住民と、外壁に向かおうとする防人がぶつかり合った。統制を失った集団のなんと脆いことか。躓いた子供に手を貸す者はおらず、弾き出されて川に落ちる者もいる。
「おい! 誰か住民を誘導しろ!」
「避難場所はどこにしますか!?」
「防人本部だ! この人数ではすぐに溢れ返るだろうが、本部の人間がどうにかする!」
声を張り上げて兵に命令をしているのはモーリン分隊長だ。小太りな体を上下に揺らしながら奔走している。伝達がまともに機能していない中、モーリンは必死に状況を把握しようとした。下層部といっても幅広く、森側に位置する巨大スラムの人間は特に数が多い。彼らが全員逃げ出せば街は地獄と化すだろう。
(くそっ、人が多すぎる!)
人の波は止まることを知らない。恐慌状態となった市民が我先にと逃げ惑う姿は一種の暴動のようだ。モーリンの顔が殴られること、いくたびか。その度に彼の怒号が飛んだ。
それほどに魔物という存在は人々にとって恐怖の対象なのだ。街と森が隔たれていたからこそ謎に包まれている。決して生きて出られないことから罪人が森に送られることも珍しくない。トーカスに生まれた者は誰もが森に恐れを抱く。
「モーリン分隊長! 魔物の軍勢を抑えきれず外壁が突破されそうです!」
「何!? あとどれくらいだ!」
「街の外は森の魔物に埋め尽くされており、一刻の猶予もございません! 新興都市から仕入れた新型の弩弓によって持ち堪えておりますが、時間の問題かと!」
「ぬぅ……我々も急ぎ向かうぞ! 住民の避難を任せるよう、誰か本部に伝えてこい!」
モーリンは周囲の隊員を率いて外壁へ向かった。近づくほどに壁の向こうで昇る黒い煙が大きくなる。ふと路地に目を向ければ、逃げる気力も失った下層スラムの人間が見えた。
(あぁは成りたくないものだな。気を引き締めなければ……)
モーリンは現実から目をそらすように上を見上げれば、不吉な黒い鳥が街の空を旋回する。残念、本日の天気は終末の模様だ。赤い空、人々の悲鳴、揺れる大地、燃え盛る森林。どこを見たって最悪な現実しかない。
「モーリン分隊長、どうして魔物が街を襲っているのですか?」
隣を走る一等兵が疑問を投げ掛けた。今まで森からはぐれた魔物が街に近づくことはあれど、群れとなって襲うことはなかったのだ。しかし、今回の大暴走は訳が違う。
「森の炎から逃げてきたのだろう。どうも奥の方で燃えているからな、炎に煽られた魔物が街を襲っているわけだ」
「なるほど……まさか、魔法省の奴らが……?」
「詮索は無駄だろうが……まぁ、それしかあるまい。彼らが森に向かってから炎が発生したのだからな。全く、何が起きたら森に火を放つような愚行に走るのだ?」
正直にいえば、モーリンは今にも逃げ出したかった。面倒事は優秀な部下に任せて、自分は安全な後方支援に回る。大抵の問題はシュルベルク班長やアストレア一等兵が解決してくれるだろう。
生まれた場所で咲くのが分相応というものだ。凡人たる自分は影で慎ましく生きるしかない。人の前にはいつだって秀でた者が立ってきた。
ならば、何故モーリンは外壁へ向かうのか。死地と分かっている場所へ自ら進むのか。
何てことはない、そこしか居場所がないからだ。彼は自らの部隊を愛していた。アンバーが問題を起こし、アストレアが呆れた顔で報告をし、シュルベルクの怒号が飛ぶ。それがモーリンの日常であり、守りたかった部隊である。
「おい、外の様子はどうなっている! 誰か説明せよ――」
丁度、モーリンが声を上げたと同時に、前方から激しい爆発音が聞こえた。彼はすぐに爆発の原因を察する。そして、生気の薄い顔を更に青くして呟くのだ。急がねば手遅れになる。
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トーカスの周囲を囲む重厚な造りの外壁、その南側に備え付けられた門が勢いよく砕かれた。本来であればありえない光景だ。暴力的な数の魔物によって押し潰され、ひしゃげた門の破片が宙を舞う。
扉が粉砕されると同時に波が押し寄せ、近くで警備をしていた哀れな兵士が飲み込まれた。門だけではない。いつの間にか外壁にも魔物がよじ登っている。トーカス防衛の最前線は一瞬で混乱に陥った。
「ヒィッ、何だあの化け物!」
新兵であるユリアもこの地獄の最中にいた。もちろん初めての実戦だ。街を守りたい一心で、ろくに経験を積まぬまま最前線へ駆けつけた。
ユリアの視線の先で巨大な昆虫のような魔物が顔見知りの隊員を食っている。全長はユリアの二倍はあるだろう。銀色の腹部が弓状に膨れ、大きな鎌のような前足が獲物を掴んで放さない。
知り合いの隊員を片手間に頬張りながら、あの魔物はじっとユリアを見つめている。次はお前だと宣言するように。それだけでユリアの両手が服の上から分かるほどに震えた。
「ユリア二等兵、何故ここに!? 新兵は中層部の本部へ集まるように指示したはずだ!」
「自己判断です!」
「この馬鹿ッ!」
訓練の代理教官であるパスカルは、自身の教え子が最前線に立っているのを見て愕然とした。死にに来たようなものである。パスカルですら未曾有の危機に右往左往している状況で、新兵が一体何の役に立つだろうか。
二人が押し問答をする間にも、門に押し寄せる魔物の数は刻一刻と増加した。舌打ちをしたパスカルが自らの得物を引き抜くと、ユリア二等兵を守るように前へ立つ。思わず不満を口にしかけたユリア、しかし、かの後姿から溢れる闘気は有無を言わさぬ覇気があった。
「せめて死なぬように立ち回れ! 私が防人を守るから、お前は民を守るのだ! 魔物を相手するよりは楽な仕事だろう? お前達は私とアストレア一等兵が鍛えた者だ。もし不甲斐ない姿を見せるようならば、もう一度訓練兵に逆戻りだぞ!」
「えっ……温情は?」
「あるか!」
パスカルの言葉に喚起され、隊員の士気が僅かばかり向上した。ほんの小さな勇気だ。状況は最悪なまま、魔物の数は増える一方。しかし、ユリアのような力無き者が剣を握るには充分な言葉だ。
背を向けたパスカルは無垢の鋼を取り出した。巨躯の体によく似合う、武骨な鉄の塊のような剣である。かつて父であるマスカル隊長が愛用した剣を構えると、パスカルは何とも言えぬ安心感を覚えた。それだけではない。ようやく全力を振るうことができる高揚感。新兵への期待。力への渇望、そして、魔物への恐怖。
ずっと頬が震えている。無理に笑みを作ろうとしたせいで筋肉が緊張したのだ。パスカルは今更ながら後悔した。随分と大きな見栄を張ったせいで、後戻りができなくなってしまった。彼だって魔物と戦うのは初めてだ。常識的に考えれば人の丈以上もある化け物に勝てる訳がない。策を弄するには時間が足りず、されど賽は投げられた。
「全く……ユリアに発破をかけた手前、易々と死ぬわけにはいかないな。見ていてくださいアストレア一等兵。あなたの後姿を追いかけてきた私が……たとえあなたに追い付けずとも、近付くことぐらいは出来たかどうか」
パスカルは誰に言うでもなく呟いた。自己暗示。気休めのようなものである。
彼の問いかけに答えたのは、不快な鳴き声を上げる銀鎌の魔物だ。忙しなく動いていた複眼がパスカルを捉えた。互いに油断できぬ敵だと理解し、空気が急速に冷えていく。
「来たまえよ、魔物! 私が最前線だ!!」
鎌と鋼、人と魔が激突した。




