第百七十七話 変貌
炭化した草木の匂いが鼻腔をくすぐり、カルブラットは爆心地の中央でゆっくりと目を開けた。地面を大きく抉るほどの爆発が起きたにも関わらず五体満足である。周囲には焼け焦げた跡が扇状に広がっていた。森を赤く染める炎は、ジルベールが放った魔法か、それとも爆発によるものか。
周囲を囲っていた魔物の気配は爆発と同時に消えた。代わりにむせ返えるほどの煙と異臭が充満する。神秘的な美しさを持った森の姿はもうない。煙越しの世界を赤く染めているのは抑制の効かなくなった炎だ。一本、また一本と古い樹木が灰となって消えていく。
視界が霞む中で青白い影が目に入った。爆発の直前にジルベールが障壁を張ったのだ。森の濃密な魔素を練り込んだ障壁は強靭な耐久力を誇り、先の爆発を持ってしても僅かにヒビが入る程度である。
「ぐっ……ゲホッ……助かったか。流石はジルベールだな」
咳き込んだ拍子に肉の焦げた匂いがした。周囲を見渡したカルブラットは、少なからず残っていた傀儡兵が全滅したこと察する。地面に散らばった黒い物体の正体は追及しない方がいいだろう。かつて人だった何かがそこら中に転がっている。
魔物はやはり理不尽な存在だ。カルブラットは瞬時に現状の戦力差を計算し、事態が予想以上に悪化していることを理解した。傀儡兵を失うということは魔素の吸収ができなくなり、森をこれ以上進むことが不可能であることを意味する。
(奴を倒さねば活路は生まれぬか。戦士団は……駄目だな、傀儡兵との繋がりが切れている)
じんわりと焦りが広がった。現在は森の表層部分を抜けた所だ、進行状況としては悪くない。初の遠征にしては充分と言えるだろう。足りていないのは番人を倒し得るほどの戦力。煙が晴れぬうちにカルブラットは早口で命令を伝えた。
「ジルベール、少しづつ後退しながら立て直すぞ。最悪、街に一度帰還する必要もあるな」
「……後退?」
「ジルベール?」
返事を聞いたカルブラットは眉をひそめた。あくまでも命令を口にしただけであり、傀儡兵が返事をするはずはない。それほど彼らにかけた洗脳は強力である。
魔法省の二大魔導士であるジルベールとフィズが生み出した薬は、人体に流れる魔素へ直接作用するものだ。魔素を介して主人の言葉に従うよう命令が下される。たとえ製作者であるジルベールであっても、一度洗脳にかかれば自力で解く手段はない。
なのに、目の前の男はじっとカルブラットを見つめた。虚ろだった瞳に光が戻り、口元は堪え切れぬと言わんばかりに笑っていた。カルブラットの背筋に悪寒が走る。一瞬の時間がどこまでも引き伸ばされたような感覚。時間が止まった世界の中で、三日月のように弧を描いた瞳が怒りに震える。
ゆっくりと伸ばされた腕を、カルブラットは避けることが出来なかった。自らの頭を掴んだ手は火傷しそうなほど熱い。よく見れば障壁を張った腕がボロボロになっていた。正面から爆発を受けたからであろう。焼け落ちた皮膚。その下から見えるは人成らざる体。腕の付け根辺りから先が灰黒く変色していた。
「貴様っ、意識を……それに、その体は――!」
「フィズの肉体改造術は凄いだろう? こと人体に関しては僕でも敵わないよ。これはアディ君に施した実験の応用でね、人でありながら魔物の体を有することを可能にした結果だ。まだ肉体の全てを魔物化させることは出来なかったけれど、アディ君とは比較にならないほどの適合率だよ」
一部が炭化した腕を自慢げに語るジルベール。想像を絶する痛みを感じているはずだが、天才は笑顔を崩さない。腕に込められた力が強くなり、カルブラットの体が僅かに浮かび始めた。
「ふふっ、これはもはや人間とは異なる種族だよ! この偉大さが君に分かるかい? 森の獣は魔素に適応するべく魔物へと進化した。ならば、魔素によって変質した僕らは魔人とでも呼ぶべきだろう!」
「離せジルベール!! 貴様には俺が必要だろう!?」
「あぁ……そうだねぇ、君は僕にとって大切な友人でありパトロンだった。君がいなければ僕の研究はもっと時間がかかっていただろう。それに関しては感謝しているよ」
「ならばっ――」
「でもね」
明確な境界が二人の間に生まれた。完全に地面から離れたカルブラットは苦悶の表情を浮かべながらジルベールを見下ろす。魔物特有の真っ赤な瞳をした男は、カルブラットが知る友人ではない。未知への探求に肉体を、心すらも売った天才・ジルベール。絶望の果てに残ったのは研究者としての矜持のみ。彼はもう後戻り出来ない。彼の心に愛はない。
男は血の涙をこぼした。一瞬だけ彼の瞳が震えたが、すぐに溢れ出した魔素がジルベールの体を隠してしまう。ジルベールの魔素は碧。全てを焦がさんとする青き炎が怒りを糧に燃え上がった。やがてカルブラットを掴む腕に魔素が収束し、哀れな魔人はただ一言だけ呟く。
「カルブラット――きみは僕を利用しただろう?」
瞬間、青白い炎がカルブラットを包んだ。獣のような叫び声が微睡みの森に響き渡る。かの炎は骨すらも残さないだろう。カルブラットの断末魔は長く、長く残響した。積もりに積もったファルメール家の恨みを全て燃やすように、黒い煙が空を昇る。
やがて、全てが灰になったとき、周囲の煙が晴れた。景色は相変わらず火の海だ。既に全方位が赤く染まっている。立っているのは魔人と番人のみ。二体の魔物は剣を構えた。
番人は煙の中での出来事を見ていない。しかし、先ほどの断末魔で大方を察する。
「仲間割れか?」
「そんなところさ。さぁ、仕切り直しの合図といこうか」
ジルベールは魔法を一つ、天高く打ち上げた。一拍、上空で花が咲いたように弾けた後、地上に火の粉が降りかかる。この程度の炎では互いに火傷一つ負わないのだが、ジルベールにとっては意味のある行為だ。
「後退なんてありえない。僕は、まだ世界を知り足りていないのだから……知る? 一体何のために……」
ジルベールは不思議そうに首を傾げた。未知を追い求める理由を探したが、ぼんやりとした頭では思い出せない。考えるだけで刺すような痛みが頭に走る。何か大切なことを忘れてしまったような――。
ジルベールは些事と切り捨てた。思い出せぬならば構わない。今はただ、目の前の戦いに集中するのみである。彼は無邪気な笑みを浮かべて力強く地を蹴った。
○
「っ、あの光は!!」
ジルベールが打ち上げた火球の光は遠く離れた魔法省にまで届いた。彼と同郷であり、幼馴染みでもあるフィズは、研究塔の窓から身を乗り出して火球を見つめる。舞い散った火の粉がゆっくりと森に降り注いだ。
あれは合図だ。ジルベールとフィズ、二人の間で交わした秘密の約束だ。青は援軍を、赤は撤退を意味する。先ほど昇ったのは赤、つまりジルベールの身に何かしらの危機が迫ったということだ。
「もしも、赤が昇った場合は研究内容を全て破棄し、すぐに街から逃げる……」
フィズは約束の内容を呟いた。ジルベールは自らの研究が非人道的であることを自覚し、もしもの時はフィズだけでも逃げられるように準備していたのだ。逃亡先はローベンスタッドか、それとも別の都市か。名の知れた魔導士であるフィズならどこでも歓迎されるだろう。
事態を把握したフィズは直ぐに荷物をまとめた。研究資料を分類し、不必要なものは次々に焼却する。焼いて、焼いて、少し焦げて、焼いて……結局残ったのは、二人で研究した唯一の資料のみ。それらを大事に保管すると、フィズは研究塔の奥へ進んだ。
ズラリと並ぶは無骨な鉄格子。本来は鍵穴があるはずの場所には複雑な紋章が刻まれている。その一つ一つに手をかざすと、数多の鉄格子が軋みながら開いた。
「あなた達、仕事よ。私をジルベールの元へ連れていって頂戴」
フィズは逃走を選ばない。当たり前のようにジルベールの元へ向かう選択を選ぶ。
檻の中から一匹、また一匹と醜悪な獣が顔を出す。彼らは身の毛もよだつ声を上げた。黒ずんだ分厚い体毛が身を包んでいるが、体毛の薄い顔を部分からは爛れた肌が見え隠れする。鋭利な爪は人の顔ほどもありそうな大きさだ。胸には見覚えのある核が埋め込まれ、心臓のように脈打っていた。
どうか、ジルベールの手助けになりますように。フィズの祈りに応えるように、獣達の歩みはより一層強くなる。彼らに知能はない。まるで同族喰らいの土くれのように、目につく全てを襲うだろう。
最後に一匹、ひときわ大きな獣が姿を現した。




