第百七十四話 眠れるジルベール
エルカルトは閃光を見た。避けようとか隠れようとか、そのような次元の話ではない。走馬灯すらも置き去りにする極大の爆発だ。自分の腕にはそれなりの自信があった。腐っても防人の隊長だ、そこらの魔物に遅れを取ることはない。そう思っていたのは森に入る前までのこと。この森に人の常識は当てはまらない。
進むべきではなかった。自分程度が天才や怪物の役に立てると自惚れたのが全ての間違い。人には人の領分というものが存在する。つまるところ、自分は彼らに肩を並べるような器ではなかったということ。
生まれたところで咲きなさい。
そういわれて頷ける人間はきっと少ない。咲き方を知らない者だって多いだろう。エルカルトは自らの咲き方を測り損ねた。それ故に微睡みの森という生物の枠組みを超えた地に足を踏み入れ、怪物たちの争いに巻き込まれてしまった。
エルカルトが最後に見たのは極光の世界。何も聞こえない、何も存在しない白の世界。それが爆発の光だと脳が認識した瞬間、彼の意識は閃光と共に吹き飛んだ。
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ジルベールの意識は、目覚める前の緩やかな倦怠感のように霞がかっていた。何をするにも億劫だ。この夢のような空間にいつまでも浸っていたい。探求者たる自分が非生産的な思考を持つことに驚いたが、次の瞬間には何を考えていたか忘れてしまった。
頭の片隅に残った僅かな理性が外の状況を教えてくれる。悲願であった微睡みの森へついに足を踏み入れたのに、自分は一体何をしているのだろうか。暴れ狂うほどの探究心が無理やり抑えられているような嫌悪感を感じた。
(あれは、何だ?)
見たことのない鎧の魔物が目の前にいるのに、現実世界の自分は黙々と剣を振るっている。意味が分からない。未知の魔物を前にして剣を構えるなど探求者の名折れである。しかし、どれほど憤っても意識が鮮明になることはない。今見えている風景すらも夢ではないかと思える。
やがて、目を覆うような閃光と共に彼の意識はゆっくりと沈んでいった。思い出すのは過去。天才の起源がフラッシュバックする。
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西の果てにお伽の街と呼ばれる都市がある。その名をローベンスタッド。ジルベールの故郷だ。
ローベンスタッドは周囲を山に囲まれた盆地状の土地である。中心部分には『ローベンスタッドの星見塔』と呼ばれる巨大な塔がそびえ、塔から波紋のように広がる大きな輪が街の頭上を覆っていた。この巨大な星見魔具こそローベンスタッドの象徴であり、ジルベールが幼少期の頃から半ば強制されるように研究していたものである。
街に暮らす人ですら、空に浮かぶ星見魔具がいつから存在するのかを知らない。人の手で作られたとは到底思えない巨大な輪である。だが、ある種の信仰に近い情熱を持って街の人々は星と暮らした。
「ジルベール、研究の成果はどうだ?」
「そこにまとめて置いていますよ。星見魔具の謎を紐解くには至らないですが、魔素の流れ程度ならわかります。そこから観測周期を特定しました」
「おおっ、流石はジルベールだ! 早速読ませてもらおう」
溢れかえるような本に囲まれた研究室で、ジルベールは年長の研究者に簡単な説明をした。この頃のジルベールは齢が十を超えた程度。少年と呼んで差し支えのない年齢である。そんな彼が自分の研究室を既に持っているのだから可笑しな光景だ。
「ふむ、なるほど――うむ、素晴らしい出来栄えだ。参考になったよ」
「参考に、ですか。資料は適当に置いておいて下さい」
「……それにしても酷い荒れ様だな。片付けようとは思わんのか?」
「僕なりの合理に基づいた配置です。大事なものは手の届く場所に置いているので、むしろ片付いていると思いますよ」
「私には何を言っているのかさっぱりだ。やはり天才というわけだな」
後日、ジルベールの研究とそっくりな論文が提出された。後を追うようにジルベールも研究を発表したが、見向きもされなかったのは言うまでもない。被った相手は研究を見せた年長者の男である。
ジルベールはまたかと怒りをあらわにし、年齢に似合わぬ冷めた瞳をしながら、論文を壁に叩きつけた。研究成果を盗まれたのはこれが初めてではない。ジルベールの幼さを利用しようとする大人を沢山見てきた。
「ジル! 一体どういうことよ!!」
「いつものあれだ、放っておけ」
「はぁ!? 何でジルはそんなに落ち着いているの!」
「一周回って呆れたんだ。屑どもに僕の時間を使いたくないし、腹を立てれば集中力が乱れる。無視した方がよほど有意義だ」
「そういうことじゃなくて、これは誇りの問題よ! ジルが平気でも私が悔しいの!」
湯気が上りそうな勢いで怒りを露わにしているのは幼馴染のフィズだ。彼女はぷりぷりと怒りながらジルベールに詰め寄った。
「ローベンスタッドの大長老に直接言ってやりましょう」
「そんなの無駄だよ。俺たちみたいな子供の言葉なんて聞くわけがない」
「でも、私もジルベールも結果を出しているわ。一人の研究者として認められているはずじゃないかしら?」
「良くも悪くもローベンスタッドは、というよりも、この街の歴史は深い。彼らは伝統やしきたりを尊重する。要するに俺たちがいくら結果を出しても若いうちは無駄なのさ」
「……納得がいかないわ」
「嫌なら街を出るしかない」
言葉を口にしてから、ジルベールは自らの言葉に不思議と納得した。胸に残っていたしこりが消えるような爽快感だ。
「そうか、僕は街を出たかったのか」
「? ローベンスタッドを出るの?」
「それもいいかもなって話。どこか面白い街はあるかな?」
「あっ、それなら水の都はどうかしら?」
「水の都……トーカスか。噂を聞く限りでは名前ほど綺麗な場所ではなさそうだがな」
「だからこそ面白そうじゃない? 大陸中の文化と知識が集まる混沌の街、きっとジルベールの知らないものが溢れているわよ」
「しかし――いや」
これは言い訳か、とジルベールは口をつぐんだ。現状を変えるのが怖いから、変えなくて済む言い訳を探しているだけなのだ。これでは街の人間と同じではないか。このままでは駄目だとジルベールは頭を振った。いつまでもローベンスタッドで暮らしていれば、自分も遠からず腐ってしまう。
「そうだな……フィズ、近いうちに俺はトーカスに行ってみる」
「即決ね。もしかして、そのまま帰ってこないつもり?」
「先のことなんて分からないさ。実際にトーカスの街並みを見てから決めるよ」
「今回が下見っていうなら構わないわ。でも、もしローベンスタッドを出るときは教えてね。私も付いていく」
「フィズも? 君まで一緒に来る必要はないぞ?」
「絶対に付いていくわ。絶対に、よ」
あまりの気迫にジルベールは少し気圧された。だが、これで面白くなりそうだ。研究成果を盗まれた鬱憤はいつの間にか消え、まだ見ぬ未来に胸がときめいた。混沌の街は自分に何を見せてくれるのだろうか。想像しただけで彼の頬は自然と弛んだ。
○
ジルベールは約一ヶ月後、単身でトーカスに訪れた。行くと決めてからは居ても立ってもいられなくなり、途中だった研究を大急ぎで終わらせてローベンスタッドを飛び出したのだ。遠路はるばる到着したのは水の都、またの名を混沌の街。彼はトーカスという街に衝撃を受けた。下層部は好き勝手に家を建てられ、中層部は整っているように見えて多種多様な人種と信仰が混じり合う。しかし、合理性の欠片もない街並みに、ジルベールは何故か胸をときめかした。
「すごい、これが噂に聞く水の都・トーカスか! 聞いていた以上にクソッタレな街だな!」
彼は好奇心の赴くままにトーカスを駆け巡った。表街道から外れた場所にある花壇の広場、下層部の路地裏に建てられた寂しげな銅像、もしくは歓楽街へ続く秘密の裏道。
彼の故郷であるお伽の国はどこもかしこも、空すらもが整備された街だ。それを窮屈でつまらないと思っていたジルベールにとって、人の知恵と欲望がむき出しになった街並みは心躍らせるに十分である。
「あれは何だ? まさか聖都の護り鈴を模倣しているのか? ハハッ、奴らに見つかったら異教徒として罰せられるぞ。あっちの魔道具は見たことがないな。ガラクタにしか思えないが……いや、あの店主は中々の風格がある。きっと名のある逸品に違いない」
良くも悪くも多種多様な表街道の露店を巡るジルベール。やがて一組の家族と出会った。裕福な身なりをし、幸せが形になったような家族だ。
「お父様、この指輪が欲しいです」
「……高いな」
「まぁ、綺麗な宝石ね。真っ赤でとても力強いわ」
「欲しいです!」
三十歳手前ぐらいと思われる若い夫婦が娘に駄々をこねられていた。困ったように眉を下げる男、なおも説得を続ける娘、そして彼女達を笑いながら見つめる女性。彼女は大きなお腹を愛おしそうに撫でながら、「ユースティアに買ってあげたら?」と夫に提言した。二対一になったものだから夫の眉は下がる一方だ。
遠目に眺めていたジルベールだが、流石に見かねて声をかけた。
「……やめておけ、偽物だぞ」
「何? どういうことだ?」
父親の男性が振り返ったが、彼はジルベールを見て訝しげな表情を浮かべた。声の主は予想以上に若かったようだ。ジルベールは気にせずに話を続けた。
「確かに見た目は深紅の宝石に見えるが、あれはローベンスタッドでしか産出されない。そして、ローベンスタッドの宝石はそんな安っぽい色をしていない」
「おい坊主、何をでたらめ言ってやがる! ガキの悪戯じゃ済まねーぞ!」
「詐欺野郎は黙ってろ。そもそも純度の高い宝石は特有の魔素を含んでいるはずだが、その宝石からは何も感じられないんだよ。大方、適当な安い宝石を無理やり魔素で変質させたんだろ」
ジルベールの言葉に、文句を言おうとした店主の肩が跳ねた。父親の男性はそれを見逃さなかったようだ。鋭い目つきで指輪を店主に返すと、ただ一言残した。
「……この街でどう生きるかは自由だが、秩序が曖昧だからこそ信用で成り立つ社会だ。くだらん商売では破滅するぞ」
「……」
店主は何も言い返せずにジルベールを睨んだ。ふん、と鼻で笑って返せば、みるみる顔を赤くする。逆恨みも甚だしいものだ。
(トーカスにもローベンスタッドと似たような屑がいるもんだな)
興味を失ったジルベールが立ち去ろうとする。そんな彼を男性は引き止めた。
「待て少年、礼を言わせてくれ」
「礼なんぞ不要だ。俺はもっと色々な場所を見たいんでな、時間が惜しい」
「ふむ、そういうことなら俺が案内しようか。礼が要らんと言うなら代わりに面白いものを見せてやろう」
「……あんた、名前は?」
良くみれば随分と仕立ての良い服を着ており、二人の所作は洗練された美しいものであった。銀髪の娘も庶民とは明らかに異なるオーラを発し、ジルベールを興味深そうに見つめる。長く見つめると引き込まれそうな錯覚を覚えたジルベールは目を逸らした。
「俺はカルブラット。ファルメール家の当主だ」
「妻のアイリスです。トーカスは初めてかしら。楽しんで下さいね」
「ほら、お前も挨拶をしなさい」
「……ユースティアです」
カルブラットの影に隠れた少女が恥ずかしそうに名乗った。後に長い付き合いとなるジルベールとファルメール家の出会い、これは少女が忌み子と呼ばれる前の話である。




