第百七十三話 霧の番人
霧の番人。そう呼ばれるようになったのは、いつからだろうか。打ち捨てられた鎧に霧の聖霊が宿って生まれたのが森の番人だ。彼はある意味でティアと似ていた。本来は意思を持たぬ聖霊が偶然にも寄り集まって生まれた存在。目的もなければ矜持も持たぬ。ただ意思があるだけ。
何のために生まれたのか。鎧の聖霊は長年の間考え続けて、それでも分からず途方に暮れていた。龍を名乗る魔物から「管理者になりませんか」と誘われたのはそんなある日のことだ。
当然ながら訝しんだが、それ以上に彼は嬉しかったのだろう。目的が欲しかった彼は一も二もなく了承した。これで自分にも役目が生まれる。彼は歓喜に震えた。いや、鎧の体では震えることも出来ないか。しかし、鎧の精霊は確かに喜びを感じたのだ。
広々とした森に一体の管理者が生まれた。彼は与えられた役目を遂行するために、来る日も来る日も霧の奥を守り続けた。かつて名を馳せた剣豪の鎧も無惨に錆び付き、龍を名乗る魔物もあの日以来姿を現さない。
それでも彼は守り続けた。それだけが彼の使命である。
カルブラットと相対した番人は二人組の騒がしい魔物を思い出した。街に向かった彼女らは元気に暮らしているのだろうか。事あるごとに問題を起こしていた二人だから、うまく街で暮らせているか心配だ。同じ森の馴染みとして、無事であれば喜ばしい。
(あぁ、そういうことか)
番人は理解した。
つまるところ、奇妙なゴーレムと生意気な白猿が選んだ「人間」という種族に期待をしていたのだ。しかし、蓋を開けてみれば森を侵す野蛮な生き物でしかなかった。そのくせに自らが優れていると信じて疑わないのだからどうしようもない。
この感情は失望か。それとも怒りか。否、人間という種族に対してそれほどの情を持っていない。番人はただ悲しかった。
○
カルブラットは苦渋の表情を浮かべた。この森はつくづく理不尽である。トーカスの隣が普通の森であればと何度思ったことだろうか。今も一人の傀儡兵が大剣の錆に変えられた。その光景を目の当たりにした彼は奥歯を噛み締める。
トーカスという土地は土壌に恵まれていた。交易も盛んで他都市との距離も悪くない。しかし、それでも新興都市などの名だたる街に劣ってしまうのは全て微睡みの森が原因である。広がらぬ街。増え続ける民。他の街を攻めるには兵力が足りず、学園を設立したのは良いが、学のある者は新興都市へ行ってしまい教えられる者がいない。
「ジルベール! これ以上傀儡兵を失わせるな!」
長い苦悩の道のりであった。繁栄の裏側で崩壊の予兆が見え、そのたびに頭を悩ませる日々。常に思考の片隅には発展という文字が浮かび、慣れぬ間は夜も眠れなかったという。
(もう少しだ。ゼクトーアの手腕か知らぬが防人は大きくなり、少しずつだが若い世代も育ってきている。後、少しで大きく変わるのだ)
霧の番人とジルベールの戦いはまさに激戦であった。魔法省の見知った顔が、旋風に飛ばされる落ち葉の如く命を散らしていく。傀儡兵はあと何人残っているだろうか。数える余裕もないほど戦場は目まぐるしく変化する。
天才が燃やした炎を背後にして彼らは死闘を繰り広げた。人をより良き世界へ導くための道。立ち塞がるは一体の魔物。勝つのは人か。それとも魔物か。森か。街か。捧げるのは平穏だ。苦難の道を外れることはできない。
「人の王よ。そなたを駆り立てるのは一体何だ? 栄光だけではないだろう?」
「栄光なんてものは手段に過ぎん。俺が欲しいのはその先だ。富も、名声も、力も要らぬ。ただ、最愛が生きた証を人の歴史に刻みたい」
「……やはり、理解に苦しむ」
「その程度ということだ」
ジルベールの刺突を眼前で受け流し、番人たる騎士は大剣を担いだまま体を捻った。想像以上に俊敏な動きを見せる古の鎧騎士。剣を振ったとは思えない音を立てながら大剣がジルベールに迫る。
さりとて相手はレーベン卿。図抜けた判断力を有する彼は即座に光球を番人に放ち、彼の大剣を僅かに反らした。それだけで充分。鎧騎士の大剣はジルベールに届くことなく宙を切った。腕一本と侮ることなかれ。ジルベールは魔法こそが真骨頂。渦巻くような光の剣が彼の周囲を浮遊した。並の魔物なら一本で消滅するような光剣を無数に操り、ジルベールは悠然と剣を構える。
「貴様はどうだ、番人。なぜ森を守る?」
「それが管理者の役目」
「それだけか?」
肯定の返事は刃で返された。カルブラットは鼻で笑う。他者から与えられた役目に満足するという考えが理解できない。そんなものは妥協された幸せだ。ある程度は約束されるだろうが、その先へは進めない。自分で選ばなければ始まらないのだ。
「停滞とはすなわち後退だ。考え続けなければ前に進まない。考えたつもりになっているのではないか、番人!」
番人の動きが一瞬だけ止まった。天才がその隙を見逃さない。青き瞳が正確に番人を捉え、鋭い一太刀を番人に与える。番人は大剣を間に挟むことで何とか耐えたが、鎧の軋む嫌な音が聞こえた。
しかし、お互いに決定打を入れられぬ状況である。つまり、体力という概念を持たぬ霧の番人が有利であるということだ。長引けば長引くほどジルベールの体力が削られる。天才の敗北はカルブラットの敗北。やはり理不尽である。
「埒があかぬ。人よ、森を渡せと言うならば耐えてみせろ」
番人の様子が一変した。彼の周囲に魔素が集まっていく。術師ではないカルブラットにも分かるほど、明らかに異常な雰囲気だ。微睡みの森に充満する魔素が、番人という一点に集中した。溢れんんばかりの魔素が炎を揺らす。
あれはまずい。
「奴を抑えろジルベール!」
「させぬ!」
ジルベールが、傀儡兵が、番人に殺到した。何としてでも番人を止めようと剣を振るった。しかし、管理者とは数で抑えられるような存在ではない。有象無象を純粋な力のみで叩き潰すのが管理者だ。傀儡兵が紙切れの如く散っていく。天才がいようとも関係ない。
「管理者は朽ちぬ」
番人の放った一言を最後。戦場が爆ぜた。




