第百七十二話 森が染まる
森での戦いは白猿が終始優勢であった。術師ならば話が別だが、魔素を扱えない人間が白猿に敵うはずがない。やはり人間は弱い生き物だ。特別な力もなければ、身体的な優位があるわけでもないくせに、何故か森を侵そうとする。不届き者には白猿の天罰を。一人も生きて帰すつもりはなかった。
であるならば、白猿はなぜ戦士団の戦いから退いたのか。その答えは目の前にあった。
森が燃えている。
白猿の長は木々が燃え落ちる光景を呆然と眺めていた。微睡みの森において炎が生まれることはあり得ない。火が生まれたとしても樹木に燃え移る前に霧が消してしまうからだ。しかし、彼らの守るべき森が目の前で燃えている。人の生み出した炎が森を燃やしている。
「キィィィイイー!!」
猿は森中に響き渡るほどの大きな鳴き声を上げた。呼応するように他の白猿も鳴き声を上げる。それは合図だ。彼らの更に上位者である管理者を呼ぶための声だ。白猿たちの鳴き声は森から帰還しようとしていた戦士団にまで届いたという。
○
鳴き声が聞こえた方角をエルカルトは睨んだ。同時に彼は確信する。
(やはり推測は間違っていなかったか)
白猿が理由もなく退くはずがない。エルカルトは指示を出せるよう見渡しの良い場所で戦っていた。故に、白猿の群れが去った方向がジルベールのいる場所だと気付くことができた。恐らく、退かざるを得ない何かが起きたのだ。天才の考えることは理解できないが魔物の動きならば予想ができる。伊達に防人の隊長を名乗っているわけではない。
戦士団はジルベールがいる調査隊よりも後方で戦っていた。つまり、このままでは調査隊が後方から襲われることになる。ジルベールとカルブラットがいるのだから大丈夫かと思われるが、エルカルトは無意識のうちに走り出していた。
「なっ、これは!?」
やがて、彼は炎を目にした。森が赤く染め上がり、熱風がエルカルトの頬を駆け抜ける。彼には何が起きているのか理解ができなかった。正確にいうならば、この光景を生んだのが誰かは予想できるが意図が読めないのだ。困惑を浮かべながらも、エルカルトは燃える炎の中へ足を踏み出した。炎の先にいるであろう天才の元へ。
○
炎を放った張本人たるジルベールとカルブラットは、突如響き渡った鳴き声に警戒を強めた。明らかに異常な鳴き声だ。生物が危険を察知した時に発するような警戒音。彼らの第六感が警鐘を鳴らす。
「ジルベールはいつでも戦える用意に準備を。傀儡兵は念のために退路を確保しておけ」
調査隊の傀儡兵は大きく数を減らしていた。当然、戦士団に支援として送った傀儡兵は帰っている。それでも当初の半数ほどしか残されていなかった。
戦士団が白猿と戦っている間、調査隊も別の魔物に襲われていたからだ。彼らを襲った魔物は樹木の葉に擬態をした蜂だ。ブーンという羽音を合図に小石ほどもある蜂の大群が押し寄せた。
その物量はさる事ながら、何よりも毒が厄介だった。蜂に刺された傀儡兵はビクンと大きく跳ねた後に他の傀儡兵へ襲いかかったのである。カルブラットの洗脳を上書きしてしまう強力な毒に苦戦し、ついには戦士団から傀儡兵を帰還せざるを得なかった。それでも足りないが故に、森を焼くという強行手段に出たのだ。ジルベールの魔法で風向きを調節しつつ、毒蜂の群れを一掃せんと大きな炎がうねりを上げた。
その結果が今も眼前で広がる山火事だ。
「火を放ったのは止むなしだったが、後の事を考えれば悪くない手だったかもしれないな。ジルベールがいれば街に炎が広がる心配もないだろう」
やがてここもトーカスの一部として開拓する予定だ。前準備として魔物を追い出すのに丁度いい。燃え上がる樹木の熱気を頬に感じながら、カルブラットの脳内には未来予想図が広がっていた。この遠征がうまくいったとして、トーカスの人口増加を鑑みればそう長くは持たない。限界がきて、街を広げて、限界がきて、森を燃やして。やがて、溢れ帰った人々は上を目指して高めあうのではなく、下に落ちぬための争いを繰り返すだろう。
(やはり他の都市に手を伸ばすしかないか。それか、微睡みの森を管理下に置くことが出来れば、或いは……)
戦いの予感がした。もう少し先の未来、都市と都市が争い合う時代が訪れるかもしれない。否、カルブラットは半ば確信めいたものを持っていた。既に不穏な気配を見せる新興都市をはじめ、表面下で戦いの炎が燻っている。
「む?」
カルブラットの熟考は突如遮られた。新たな脅威が迫るのを感じたからだ。燃え上がる森の奥から何かが近づいてくる。金属が擦れるような硬い音が次第に大きくなり、それにつれて言い知れぬ恐怖が心の内から湧いた。
がしゃん、がしゃん、と重厚な音が森に響く。白猿の鳴き声はいつの間にか止み、聞こえるのは木々の弾ける音と金属音。カルブラットの背中を嫌な汗が流れる。彼の体感したことのない雰囲気だ。
やがて、姿を表したのは錆びた鎧の騎士だった。古い年月を感じさせる鎧には見たことのない紋章が刻まれ、本来は盾を持つべきであろう左腕には何もない。代わりに、騎士が持つには大きすぎる剣を携えて深い闘気を宿している。
騎士は言葉を発した。ただそれだけで、目の前の魔物が長き年月を生きた個体なのだと理解できた。何重にも反響したような声はまるで空洞の鎧を叩いているようだ。
「――去れ、人間よ。ここから先は龍の御前。人が立ち入って良い場所ではない」
「何も得ずには立ち去れん。立ち入って良いかは俺が決める」
「……愚かな。このような種族に興味を持つ、彼女らの考えが理解し難い」
騎士は独り言のように呟いた後、大剣を構えた。彼の名は霧の番人。深き森の管理者だ。彼が構えると同時に溢れんばかりの魔素が奔流した。鉄のように重い魔素が彼らの周りを囲う。逃がさない、と言っているように。
「なぜ森を侵す?」
「新たなる土地を求めて。トーカスは、人の街はあまりにも狭すぎた。人が人として暮らすために、森を拓く必要がある」
「順応出来ぬならば切り捨てるのが自然の摂理だろう。弱者を受け入れた先に待つのは、強き者の足を引っ張る無益な集団だけだ。帰るがよい」
「拒否は当然か……まぁいいだろう。いつの世も変革を恐れた長は歴史に淘汰されてきた」
カルブラットは手を上げた。ジルベールがゆっくりと剣を抜き、いつでも魔法を放てるように光球が旋回する。傀儡兵も臨戦体制に入った。主人であるカルブラットを守るように展開し、曇った瞳を霧の番人へ向ける。
「もはやリスクを恐れては生き残れぬ時代になったのだ。周辺都市がうなりを上げ、既に各地で都市同士の争いが生まれている。一体いくつの街が名を消したか、森に引きこもる貴様には分からんだろう?」
「それもまた摂理。外の出来事なぞ些事に過ぎぬ」
「所詮は世界を知らぬただの魔物か。時間の無駄だな」
話は終わりということだろう。霧の番人も諦めたように剣を構えた。悠久を生きた管理者。対するはトーカスが誇る天才と怪物。燃える木々に囲まれながら両者が睨み合った。
「――再度問う。退く気はないか?」
「退けぬ」
「……難儀」
大樹が一つ、焼け落ちた。それを合図に戦いが始まる。長き戦いの最初の火蓋が切られた。




