第百二十七話 常連客は夢の跡
ジルベール・レーベンは滅多に怒ることがない。それは彼自身が怒りという感情を無駄だと考え、また怒りを感じる前に自らの手で解決してしまうからだ。正常な判断を失って感情のままに行動する行為、それは研究者たる彼にとって受け入れられないことである。
そんな彼が魔法省の自室で苛立たしげに頬杖をついていた。彼の前にはボロボロになったアディが申し訳なさそうに頭を下げている。黒鋼の鎧に刻まれた無数の傷は激戦だった証拠だ。
「下層部にてアストレアを取り逃がし、中層部でティアの関係者と思われる人物も取り逃がすとは……アディ君、何か弁明はあるかい?」
「……申し訳ございません」
「全く、君には期待しているんだけどねぇ」
憂い気な表情で彼はため息を吐いた。無駄に長い睫毛まつげが揺れたが、彼の瞳には失望の念がこもっている。
「君は僕の叡知の結晶だ。魔物の一部を体に移植するのではなく、魂そのものを魔素に変換することで新たな可能性を見出だした成功例だ。そんな君が二度も失敗するとは、一体何があったんだい?」
「謎の男に邪魔をされました……恐らく学園の講師と思われます」
「学園の講師というと思い当たるのはロスヘルトかな? 彼にそれほどの力があったとは思えないけどね」
ジルベールは知らない。ティアが街を離れていた三年間、彼女が抜けた穴を塞ぐために学園へ潜伏した者がいたことを。その者は彼女の守護者であり、ずっと息を潜めながら役目を果たしていた。
「まぁいいか。それで……どっちだと思う?」
「アストレア一等兵が“赤目のゴーレム”である可能性が高い……いや、奴だと確信しています」
「中層部はハズレか。なら仕方ない」
「動きますか?」
「本当は実験を進めたかったんだけど、どうやら彼女を放っておけなくなったからね。何とか実験も間に合ったから、そろそろ動き出そうと思うんだ」
ジルベールは重々しく立ち上がった。包帯姿の天才は一本の磨き上げられた剣を携える。見据えるは未来、望むは未知。満たされぬ欲を抱えた天才は自らの衝動を抑えることができない。
「準備が整い次第、最下層へ出発だ」
ジルベール・レーベン。愛すべき未知に囚われた探求者が往く。
○
下層部の隠れた名店、ラパセ・デラメッテの前で相対するティアとマリエッタ。雑踏の中で二人の視線が交差する。店の前で向かい合う二人の姿は、周りからすれば不思議な光景だっただろう。行き交う人々は立ち止まった彼女たちを訝しげに避けた。
「久しぶり、マリエッタさん!」
「どうしてここに……」
「帰ってきたんだ。多分、一年半ぐらい前かな?」
強い風が二人を煽った。マリエッタは初めてティアの素顔を直視する。どこからどう見ても可愛らしい少女であるはずなのに、彼女の瞳は魔物であることを主張するかのように赤く光っていた。
ティアは久しぶりの再会に顔が綻んでいた。彼女のオーラが嬉しい嬉しいと言っている。話したいこと、謝りたいことが沢山あるのだ。彼女の髪が嬉しそうに揺れていた。
「その……元気だったかしら?」
「もちろん! ゴーレムは頑丈なのさ」
「そう、そうよね、あなたはゴーレムなのよね」
マリエッタの声は雑音にまみれて聞こえにくかった。吹き抜ける風がマリエッタの髪を巻き上げ、彼女の顔に影を落とす。人の想いが魔素となって現れるならば、それはまさにオーラとでも呼ぶべきものだ。マリエッタの魔素は錆びついた金属のように冷たく感じられた。
ティアはこの冷たさを知っている。これは孤独に耐えられなくなった者の色だ。
「人と魔物の違いなんて見た目の差ぐらいだよ。私は私のまま、何も変わっていない」
「そう……私は、変わったわよ。ティアちゃんがいない間に料理の腕を上げたんだから」
マリエッタが冗談っぽく言ったが、ティアは彼女の笑顔に違和感を感じた。マリエッタはもっと明るく笑う女性ではなかっただろうか。少し影があるというか、底が見えない隔たりのようなものが存在した。
――はて、マリエッタはこんな女性だっただろうか。
じわりと滲むような違和感が広がった。
三年という月日が違和感となって牙を向いているだけだろうか。久しぶりに会ったマリエッタは以前よりも大人びた様子で、おしゃべりだった性格も少しおとなしくなっていた。ゴーレムと人では時間の流れが異なる。ティアは友人と過ごした日々を昨日のように感じられるが、マリエッタはどう思っているのだろうか。
「街に帰っていたなんて知らなかったわ」
「会いに行こうと思っていたんだけど忙しくって……マリエッタさんは元気にしていた?」
「もちろん、元気な看板娘が店の売りなんだから。ララちゃんも元気?」
「この通りダ」
「それなら良かった。喋れるって知っていたらもっと沢山話したかったわ」
会話をするマリエッタの瞳は無機質だ。決定的なずれが少しづつ肥大化し、目を背けようとしても頭が理解してしまう。それでも受け入れたくなくて、他の話をしようと話題を探して、ティアは気の所為だと思いたかった。
「立ち話もなんだから、中で話しましょうか。今日は貸切かしらね」
マリエッタに連れられて、ティアは数年ぶりにラパセの扉をくぐった。
○
店内は昔と変わらず落ち着いた雰囲気だ。夕食の時間よりも遅めのため客は誰もおらず、ティアとマリエッタは適当な二人席に座った。ララとアンバーは空気を読んで少し離れた席に座る。マリエッタに軽く料理を出してもらい、嬉しそうな二人の姿が視界の端に映った。
マリエッタは店自慢の珈琲を用意しようとしたが、ティアが飲めないことに気がついて悲しそうな顔をした。テーブルの上には自分の分の珈琲だけが置かれている。暗闇のように真っ黒な液体は人間の闇を映しているみたいだ。マリエッタは誤魔化すように頭を振ると、たっぷりのミルクを注ぎ込んだ。
「すぐに会いに行けなくてごめんね。少しの間街を離れていたから、伝える方法が無かったんだ」
「街を離れていた間はどうしていたの?」
「都市巡りさ。二年で色んな都市を見て回ったんだよ」
「あら、いいわねぇ。私も昔はよく都市を旅したわ。西の果てにある、お伽の国で見た星見魔具は今でも思い出すわねぇ」
「マリエッタさんも行ったことがあるんだ。あそこは最近王様が変わったらしくて――」
それからは旅の話についてあれやこれやと盛り上がった。マリエッタも料理の修行で旅をしたことがあるらしく、外都市について詳しいようだ。あそこは綺麗だ、あそこは飯が美味い、あそこは王様がダメだ、あそこも飯がうまい等々。
(なんだ、いつものマリエッタさんじゃないか。さっきのは思い過ごしだったのかな)
話しているうちに彼女の表情は段々と柔らかくなった。もしかしたら久しぶりの再会に緊張していたのかもしれない。窓の外では初冬の冷たい風が街を吹き鳴らし、今にも降り出しそうな曇り空が薄暗く覆っていた。よく見ればマリエッタの体も小さく震えている。よほど喉が渇いていたのか、それとも寒さに震えているのか、カップに口をつける頻度が少し多く感じられた。
「そういえばよく気がついたね。私の仮面姿しか知らなかったはずだけど」
「そりゃあ白い猿を連れた女の子なんて一人しかいないわよ」
「……ララのせいか」
「ララちゃんの“おかげ”よ」
ふふんと笑うマリエッタ。ああ、やはり彼女はマリエッタだ。昔と変わらない笑顔を見てティアは安心した。そろそろ適齢期の折り返しになるマリエッタと見た目だけは幼いティア、他人からは姉妹のように見えるかもしれない。昔は街の人にもよく間違われたりしたものだ。
「ララは食いしん坊だから気をつけてね。あんまり甘やかすとこのお店の食材が全部無くなっちゃうよ」
「あらあら、それは大変だわ。食べすぎないように見張っておかないといけないわね。丸くなったララちゃんなんて見たくないもの」
まんまるララを想像したティアは小さく笑った。
「懐かしいよね、昔はよくミリィの屋敷で遊んだり、このお店でお喋りをしたりして……街の広がる根も葉もない噂とか、それぞれの昔話とか」
あの時はテーブルに落楼草が飾られていた。とても良い香りだと喜んでいたのが懐かしい。
「あとは、シェルミーの恋愛事情について話したりとか、今でも覚えているんだ。確かマリエッタさんはジルベール様が好みなんだっけ? 良い人見つかった? 個人的にジルベール様はおすすめしないよー、あのひとは絶対に仕事を優先するタイプだもん」
昔話をするティアは優しい目をしていた。嬉しそうで、でも少し悲しそうで、壊れやすい宝物を慈しむような優しい目だ。そこに込められた感情をマリエッタは知らない。アンバーやロスヘルトですら真に理解していない。本当に理解しているのは同じ魔物であるララだけであろう。それは友人に対する親愛であり、再会の喜びであり、そして秘密を打ち明けなかった自責でもある。
ティアが嬉しそうに話すたびに、マリエッタの顔には影が落ちていった。綿毛のようにふんわりとしていた髪の毛も、心無しか傷んでいるように見える。光と影、そこに生まれる歪みは、照らしている側からは分からないのだ。
「……そう」
崩壊の合図はポツリと呟いた彼女の言葉。何かが崩れ落ちていく。




