第百二十四話 躍動する地上と花人の地下街
街は一夜にして成らず、されどファルメールの怪物はたった一代で街を飛躍的に発展させた。今や有数の貿易都市として名を馳せるこの街には多くの思惑が渦巻いている。街の裏で暗躍するのはどこの組織か。未知の探求を掲げる探求者か、それとも古来より住まう管理者か、もしくは人の世に迷い込んだ化け物か。
「始まったか」
怪物は自らの街を見下ろす。視線の先にはまるで目印のように煙が昇っていた。あれは歓楽街の少し北、下層部とスラムの境目あたりであろう。煙の下では一体何が起きているのか、知っている者は数えるほどもいない。
「俺も動かねばな。街のためにも、妻のためにも」
カルブラットは独り言のように呟いた。答える者はおらず、うわ言のような呟きはトーカスの空へ消える。怪物はただ独り、王はただ独りである。
○
視界を遮るほどの土煙が路地に充満する。二人の化け物によって路地は様相を変え、そこかしこに歪な土のオブジェが形成された。抉るように空いた地面の穴が二人の戦闘の激しさを物語っている。
「どこだ化け物!」
アディの苛立ったような声が反響した。路地に立ち込めているのは土煙だけではない。森のものとは似て非なる真っ白な霧だ。
(助かったよ、ララ)
(オレの力は本来、森で使うものダ。あまり長くは持たないゾ)
ララの力によってティア達は姿を隠していた。流石に三人も隠すほどの力はないため、土煙と霧によってなんとか気配を隠している状況だ。それも土煙が晴れるまでの時間稼ぎにしかならない。
(当たり前のように話していますけど、そのお猿さんは何者です?)
(アンバーと同じ仲間だよ)
(あぁ、下僕ですか)
(オレは下僕じゃないゾ!)
(しっ、二人とも静かに!)
崩れた瓦礫の中でコツコツと硬い靴の音が木霊した。彼が歩く度に霧が揺れて土煙が薄くなる。アディの体からは貫くような殺気が漏れでていた。敢えて殺気を出すことでティアの気配を探っているのだ。ティアはそれを分かっているからこそ、自らの気配を圧し殺した。
瓦礫の山に囲まれて三人は息を殺す。アンバーは煩さそうだからという理由でティアに口を塞がれていた。彼女の肌が冬の真水のように冷たかったのは別の話だ。
(……まずくないですか?)
(動けば見つかるよ。今は耐えて)
アンバーは我知らずティアの袖を握っていた。アンバーにとってアディが絶対に敵わない相手だと分かっているのだ。小刻みに震える手は袖を握られたティアにも伝わった。
――もしも見つかった時は自分が。
そう思った時である。
「アディ君、作戦変更よ」
不意にかけられた声によってアディの歩みは止まった。粉塵の奥から現れたのは金髪の女性だ。長いローブを羽織った彼女はアディに躊躇なく近寄った。アディが刺すように目を鋭く細めるが、女性は全く意に介さない様子だ。
「何故だ?」
「標的が変わったの。あなたは中層部に向かってもらうわ」
「……奴を何故見逃せというのか?」
「新しい標的の方がティアである可能性が高いのよ。諦めなさい」
「そいつは偽物だ。奴はこの近くにまだ潜んでいる。何故かは知らないが、奴が全力を出せない今こそチャンスなんだ」
「ジルは中層部の標的を優先しろって言ってるの。あなたの意見は求めていないわ」
「……俺の判断が信用ならないと?」
「信用出来るほどの材料をあなたは持ち合わせていないじゃない」
「……チッ」
言い返せなくなったアディは苛立たしげに舌打ちをした。槍剣を一振、空を切ってから彼は構えを解く。市街地に充満していた濃密な殺気が霧散し、後に残ったのは無残に破壊された路地の残骸のみ。きっとこの報告書は哀れな防人長の元へ提出されるのだろう。彼の絶望する顔が目に浮かぶようだった。
フィズに連れられて崩壊した路地を去る際に、彼は一度だけティアがいる方向を振り向いた。霧越しに二人の視線が交差し、どうしようもない因果が絡み合った。
また近いうちに相見える時がくるだろう。それは未来と呼ぶほど遠い話ではなく、むしろずっと近い将来の話である。明日かもしれないし明後日かもしれない。剣を交えるはずだった今日が先延ばしになっただけなのだ。
○
ティアが黒鋼の男と奮闘する一方、ミリィ達は霧の花道を抜けて遂に最下層へ到達した。彼女らを待っていたのは地下ということを忘れるほどの広大な空間だ。街一つ入りそうなほどの地下空間には文字通り街が形成されていた。
――アースガルタ地下街。ここが最下層と呼ばれる地底の街である。
「こんなところに街があるなんて……」
ミリィが立っている天井付近の横穴からは街の様相を見渡すことができた。もっとも、街と呼ぶには些か語弊があるかもしれない。
広大な地下空間の天井から巨大な土の柱が何本も垂れ下がっており、それらをくり貫いて人々の住居が作られている。柱と柱の間は今にも落ちそうな橋で繋がれ、ミリィが立っている横穴からも幾つもの橋が土柱へ伸びていた。
天井からは地上を流れる川が細い滝のように落ち、あちらこちらに水溜まりを形成している。恐らくこの水がアースガルタの暮らしを支えているのだろう。燐螢花と住居の光によって照らされる街は想像していたほど暗くなかった。
「ヒッヒッ、上からのお客さんとは珍しいねぇ」
「きゃっ!」
しわがれた声がすぐ隣から聞こえた。街に目を奪われていたミリィが可愛らしい悲鳴を上げて後ずさる。
「ここはアースガルタ地下街だよ。地上から隔絶されたはみ出し者の街さね。あんた達みたいな真っ当な人間はいつぶりだろうか……ヒッヒッ、もう忘れてしまったよ」
いつからそこにいたのだろうか。暗がりから聞こえた声の主は老婆であった。ぼろぼろの外套を羽織った彼女は気味の悪い杖をつき、嘲笑うような笑みを浮かべている。それだけでも眉を潜めたくなるような風貌だが、それ以上に目を惹くものが老婆の体から生えていた。
「おや、これが気になるかい? ワタシも歳だからね、花の一つや二つ生えてくるものだよ。私の花は綺麗だろう?」
老婆の肩からは小さな花が無数に生えていた。よく見れば肩だけじゃなく、外套の袖口や襟元からも花が溢れている。仄かに光を纏った花は地下の暗がりを薄く照らした。ゆらゆらと、ふわふわと。
色とりどりの、綺麗な花だ。




