第百十話 幕間:名も無き男は苦労する
ナナシと呼ばれる男。彼は決して名前が無いわけではない。特異な環境で生まれ育った彼には、自らの名前を教えるという習慣がなかったのだ。
彼はトーカスを夢のような街だと思っていた。大人は“弱者を食い物にする街”と揶揄したが、ナナシにとっては憧れの街だった。
つまるところ、故郷の閉塞とした世界から逃げ出したかったのだ。逃げることは悪ではない。しかし、逃げた先に今よりも良い世界があるなんて事は滅多にない。
大抵の場合はくそだ。くそったれだ。夢を打ち砕かれてどん底に落ちるか、もしくは墨が滲むように色を失うか。過程は違えど着地地点は変わらない。
『俺はこの街で成り上がるぜ!』
そう豪語したかつての友人。共にトーカスを目指した彼はスラムの隅っこで朽ち果てた。友人だった何かを見ながら溢したため息は、この世の何よりも重かったと思う。
せめて自分の意志で死に場所を決めようと、ナイフを首にあてがった時だ。
彼を呼び止める者がいた。
『なにをしているの?』
それが彼女との出会いだった。最悪な出会い方をしたとナナシは思う。投げやりな感情でナイフをふるい、明確な殺意をぶつけた。
どうしようもない八つ当たりである。全ての苛立ちを一人の少女に向けたのだ。
なのに、彼女は何事もなかったように笑った。
『勿体ないよー。こんなに面白い街なのに』
こんな街のどこが面白いと言うのか。しかし、彼女は何の悩みも無いほど明るく言い放った。あまりに自信満々な態度をするものだから、確かに悪くないかもしれない、と毒されてしまった。
彼は忘れない。あの時に見た輝くような瞳を。憎たらしい笑顔を。世界が色を取り戻した瞬間を。
あれは、世界が輝かしいと信じていたかつての自分だ。
○
「……ふぅ」
確かに悪くなかった。彼女と共にいれば退屈をしなかったし、人生で最も楽しい一時を過ごしたと思っている。
しかし――。
「こんな書類の山と戦うつもりはなかったのだがな……」
ナナシはうず高く積まれた紙の山を見て、深いため息を溢した。全く減る気配が感じられない書類は、見ているだけで頭が痛くなる。
学園の講師となって早三年、仕事にも慣れてきた頃合いだ。初めは庶民を雇うのに反対する者が多かったが、彼の有能さが知れ渡ると態度は一変。あれよこれよと仕事が舞い込んでくるわけである。
講師の仕事も思っていたほど悪くない。ミリィを見守るよう頼まれた時は耳を疑ったが、以前の生活に比べれば充実していると言えよう。
「あっ、ロスヘルト先生。これもお願いします~」
「……多くないか?」
「これ全部、切り裂き魔の報告書ですよ。あなたも関わっているのですから、ちゃんと最後まで責任持って下さいね」
また仕事が増えた。
「……ピルエットの分も混じっているのだが?」
「彼女って防人の仕事もあるじゃないですか。だから報告書を書く時間が無いらしくて、先生に回すよう言われましたよ」
「俺に? 誰が?」
「ピルエットさんが」
彼の眉間がピクピクと震えた。雑用を押し付けるとは良い度胸である。次の講義では人一倍厳しくしてやろう。
渡すものだけ渡すと、同僚の女教師は去っていった。また少し高くなった書類の塔。もはや一種の芸術作品に思えてくる。
いっそこのまま放置してしまおうかと悩み始めた頃、また別の客が訪れた。
「先生ひま~?」
「……クリスか。暇ではないし、むしろ忙しい。学生はさっさと帰れ」
「そんなこと言わずに相手してよー。私は暇なんだよー?」
「暇なら剣を振ってこい。その貧弱な体も少しはマシになるぞ」
「私は修道女見習いなので剣は必要ないんですぅ」
クリスはえっへんと胸を張った。威張ることではないが、敢えて彼は指摘しない。
「冗談はさておき本題! 最下層の噂が話題になってるでしょ? ティアさんの予想だと、ミリィが恐らく興味を示すだろうって言ってたよ」
「遊びに来たわけではなかったのか」
「違うよ! 取り敢えず伝えたからねー」
そう言ってクリスは去っていった。抜けていそうで計算高いのが彼女の怖いところ。クリスの後ろ姿を見送りながら彼は呟いた。
「最下層、か」
それは下層の人々が怯える不安の種。曰く、地下には別世界が存在する。曰く、最下層に踏み入った者は体から花が生える。曰く、最下層には未知の技術が眠っている。
根も葉もない噂が街に広まっているが、ナナシは知っているのだ。その噂が当たらずとも遠からずであること。
彼は知っている。よく、知っている。地下に広がるもう一つの街の名を。
「……思い出したくもないな」
二度と戻らぬと決めた故郷にもう一度帰るか否か、彼は迷っていた。




